時給千円ちょっとの短期派遣で怪我だけはしたくない。
火曜日に職場の配置転換があり、楽なほうにまわされたかラッキーと思ったら……。
木曜から社員でもないフォークリフトのおっさんが、
重い鋼鉄のラックをたためとか指示してくるわけ。
たたみかたがわかりませんと答えたら、その場で1回きりのお手本があるのみ。
あれは危なすぎるし、ヒヤリハットどころの世界ではない。
ほかの派遣に聞いたら、あれは危ないからやりたくないって言っているもの。
本当にあれはいつ足を骨折してもおかしくない作業。
楽なところにまわされたラッキーと思っていたら、フォークがそれを許さないという(苦笑)。
社員のSさんからは、
ゆっくりやっていいからとにかく怪我をしないようにと指示が出ている。
ところが、おなじ派遣がせっついてくるのである。
「土屋さん、もっとペースアップしましょう」とか。
というか、進捗の問題をいえば、それまでも十分早いのよ。
それなのにもっと早くしましょうとか、おなじ短期派遣の若いあんちゃんがさあ。
あれを早くやって焦ってわたしが足を怪我してビッコになったら、
ミノリさんは責任を取ってくれるの?
意識高い系の若者ってうざいなあ。
「正しい」ことを言っているという正義感の昂揚に満ちた明るさはうんざり、げんなり。
どのみちあと1週間。どんなにせっつかれても、こんなところでビッコになってたまるか。
いきなり派遣に社員でもない人が新たな指示を出し、
1回きりしか手本を示さないで繰り返させるというのは、いかにもいかにもである。
物流業界にはビッコをひいた人がたまにいるけれど、
時給千円ちょっとで身体障害者になるのはまっぴらごめんである。
なんで意識が高い人は優等生ぶりたがるんだろう?

(追記)とても感じのいい青年ではあるんですよ♪
「流星に捧げる」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2006年に地人会で上演された芝居台本。
わたしは2006年の3月14日に、
このお芝居を紀伊国屋サザンシアターで観劇しているのである。
そのときの感想もブログに書いている。
読み返すと、やけにそれぞれの孤独に目がいった感想になっている。
2006年3月といえば、当方もまだ29歳で途方に暮れていた。
友人どころか知り合いさえひとりとしていないほぼ完全孤独な状態だった。
だからこそ、若者の孤独めいたものに焦点を当ててしまったのであろう。
いま台本を読むと当時観たものとぜんぜん違うのだ。
山田太一さんは芝居稽古途中に台本を書き換えることはひんぱんにあると聞くし、
明確にここはわたしの観たものと違うと指摘できるところもあるから、
あながちこちらばかりが間違っているとはいえないだろう。
しかし、結局、芝居でも映画でも本でも、
受け手はそれぞれ違う世界を自分で描いているような気がする。
いまこの上演台本を読むと認知症(ボケ)やお金の問題がやけにおもしろく感じたが、
それはわたしの父も老いたし、こちらの金銭感覚も鋭敏になったからなのだろう。

ボケの問題に言及すると忘れるのがいいことなのか悪いことなのか。
いまのわたしは17年まえの母の死をかなり忘れていることで救われている。
それがいいことなのか悪いことなのかわからない。
よく東日本大震災を忘れるなとかいうけれど、忘れたほうがいい面もあるわけでしょう?
いまさら広島、長崎の原爆を忘れるなといわれると、
従軍慰安婦の問題を決して忘れない某国のような気味の悪さがないともいえない。
しかし、やっぱり「事実」は忘れてはいけないとも思うわけで、
いまわたしがこの芝居の観劇を思い出せるのはブログに記録を残していたからである。
しかし、台本と照らし合わせるとそれが「事実」かどうかわからず、
しょせん主観だし、それぞれ主観があることを考えると当時、
いろいろな観客がそれぞれの世界を描いたわけで、「事実」は複数あることだろう。
まあ、山田太一の芝居になんか金を出せるのは、
朝日新聞好きのえせインテリおばちゃんが多いようなイメージがあり、
そういう女性が観た世界とわたしの世界はまったく違うだろう。
それぞれの世界が違うから人はわかりあえないのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎるので、
そういう孤独な世界観には耐えきれず、
人は相手の世界をわかったふりをするのだろう。
それぞれ世界(「事実」といいかえてもよい)は違うのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎる。
人は相手のためを思って行動するのは、
その人が他人に自分のために行動してもらいたいからかもしれない。
そういってしまったらあんまりにも救いがないのだけれど。

ともあれ2006年3月14日のわたしは、
あの子にもあの人にも出逢っていなかったのである。
山田太一さんだって、まさか自分が11年後に生きているとも、
脳をやって半身麻痺になっているとも、どちらも想像できなかったのだ。
あたまをやると記憶が落ちるから、作家はいまどのくらい過去のことを覚えているのか。
記録を取っていなかったら、
今回の病気で消えてしまった「事実」めいたものがだいぶあるはずだ。
この劇を観てからだいぶ氏の講演会に行ったなあ。
思い出すのは、どこかで山田太一さんがいった(紹介した)、
人の為と書いたら「偽(人+為)」になるという話である。
人の為は偽であり、偽物であり、偽善のようなところがある。

芝居「流星に捧げる」は、
金持っぽい車椅子の老人が孤独をにおわせるようなことをネットの掲示板に書いたら、
「なにかお力になれることはないか」と複数の男女が集まってくる物語である。
かつては人間嫌いだった孤独な老人はそれを歓迎する。
老人が人間嫌いになったのは過去に交通事故で
車に同乗する息子を死なせてしまったからで、
いま妙に人恋しくなって見知らぬ人を歓迎するのはボケが始まったからである。
しかし、人のためを思って孤独な老人に寄ってくる男女が、
それぞれ本当は自分のことしか考えていないのがおもしろい。
だが、それでまだらボケの老人はけっこう救われているのだから世界はわからない。
芝居中、ボケた老人は、見知らぬ男女を、
それぞれ死んだ息子や妻、愛人に見間違える。
これって「事実」ではないけれど、
当人はもう逢えないと思っていた人と再会できて
救済のようなものになっているわけでしょう。
ボケ老人からまんまと7百万せしめる詐欺師の風間杜夫が死んだ息子になりかわって、
「ぼくはお父さんのことを恨んでいません」と叫ぶけれど、
それは詐欺には違いないが、けれど、それでもいいじゃないかともいえるわけで。

人の為を思うのは偽物だけれども(詐欺師の常套句はあなたのためを思って!)、
偽物でもときによって、そのインチキで救われるものもいるのではないか?
芝居だってドラマだって人(観客)の為の偽物なわけだから。
これをいっちゃうとあれだけれど、どの宗教もたぶん「事実」ではないよねえ。
しかし、人の為の偽物もときにはいいものといえはしないか。
この芝居にも保険会社で25年も働いて仕事がいやになって辞めたた中年女性が
登場するけれど、ボケ老人をだますようなアコギなこともだいぶやったようである。
保険は加入させるときはいい顔をするが、払うときは渋るとか。
しかし、保険に加入していたら安心のようなものが得られるのだからいいともいえる。
うまい話なんかないけれど(いや、あるような気がする。ぶっちゃけ、あるよ)、
詐欺話でもそれが最後まで詐欺だとばれなければ、
被害者は被害者ではなく、幸福な幻想者とでもいうか、果報者といえなくもない。
どのみち「幸福は自己申告」(自分は幸福と思えれば幸福!)なんだから、
自分の「事実」を幸福幻想にひたる他人に押しつけることはないともいえよう。
宗教にはまってハッピーな人にこちらの「事実」(世界)を押しつけても意味がない。
甘い話にだまされている人は、そのときは幸せではないだろうか。
そして、われわれのいったいだれが甘い話にだまされていないといえよう。
本当の「事実」、「本当のこと」を見てしまったら、人間はひとたまりもないのかもしれない。
みんな明日なにが起きるかわからない(脳卒中、愛するものの死、東京大震災)。
しかし、そんな「事実」は見たくないし、自分だけは大丈夫と思っていたいものだし、
ひるがえってみると、自分は大丈夫というのがそのときの「事実」といえよう。

わたしだって客観的にはたぶんそうとうにヤバいのだろうが、
自分はまだ大丈夫と信じている。
それは違うと「本当のこと」、「事実」を告げられたら、泣きたくなってしまう。
おそらく脳出血で倒れた83歳の山田太一さんは、
もはやいまの池田大作名誉会長のようにお元気になることはないだろうけれど、
きちがいめいたファンはそういう「事実」を認めたくなくて、
そういうことを口にするものを「恩知らず」とか「裏切り者」とか「人でなし」とか
思うわけでしょう? それって宗教じゃんといいたくなるけれど、
ファンの「事実」が複数集まれば、それが「真実」になるのである。
山田太一ファンは宗教がかっている人が多くて怖い。
「事実」を白状すると、このわたしこそもっとも宗教がかっているところがある。

「世の中なんてね、
大半の事実をいわないから保(も)ってるようなもんなのよ」(2-13)


(関連記事)
「流星に捧げる」(2006年3月14日の感想)
「浅草・花岡写真館」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2005年に地人会で上演された芝居台本。
いまはもう危ういらしい山田太一先生のあまた(脳)のなかを想像することはできる。
戦争ではみんな死にたくないのに死んでいったでしょう。
山田太一さんのお兄さんも戦争で死んでいる。
お母上も戦争のさなか、ろくに栄養が取れず薬もなく死んでいった。
それなのにいま、どうして死にたいなんて思う人がいるのだろう。
ここから浅草に四代続く写真館の話を思いつくわけである。
なんでも明治時代は写真師は医者、弁護士レベルで偉かったらしい。
平成のいまは写真館で写真を撮ってもらうなんていう風習は残っていない。
それでも2005年はまだ写真館が存在していた。しかし、客は来ない。
人情の町、浅草にある花岡写真館の四代目(50~60歳)は
もう店を閉めようかと考えている。
そこに若いカップルがやって来る。
よおし、いちばんいい写真を撮ってやると主人は張り切る。
レンズをのぞいた瞬間、気づいてしまう。
このふたりは死のうとしている――。あわてて戸惑う四代目店主である。
不思議なことは続くもので、
カップルのあとにやって来た白井という老人も死のうとしている。

どうして気がついたのか? それは花岡写真館の伝統のようなものである。
明治時代、ある若いお侍さんが初代店主のもとに写真を撮りに来た。
初代(一人三役なのがおもしろい)は、
この侍が死のうとしていることにレンズをのぞいて気づく。
理由は大久保利通暗殺事件に仲間入りさせてもらえず取り残されたからである。
日本を変えたいという志をもつ青年だった。
初代写真技師は、うちは死のうとしている人間は撮らない。
侍の自殺(切腹)を身をもってとめる。
のちにこの侍は医師だかなんだかになって大成したという。
人の役に立つ人間になったという。

四代目店主は死のうとしている三人に、
父から聞いたというある美談を聞かせてやる。
三代目店主の父(一人三役)がこういう経験をしたという。戦争中の話である。
親しくしていた若い兵隊さんがやって来る。
もう終戦直前だが、もちろんそのことはだれも知らない。
南方へ言っていた兵隊さんがいま一時帰国できるくらいなのだから、
まだ日本は大丈夫なのだろうと三代目主人は思う。
この兵隊さんは出兵するまえに結婚していた。
新婚さんがお国のためを思って南方の戦地までおもむいてくれたのである。
新妻は夫が南方に出兵したあとに赤子を産んだという。
青年の兵隊が言うには、今夜ここでふたりと逢う約束をしている。
家族三人の初対面といってもよい。
ところが、主人が写真機を構えると、三人は死のうとしていることに気づいてしまう。
とりあえずいまは撮れないとごまかし、
若い夫婦と赤子を店主夫婦を二階に行ってもらい、どうしようか考える。
気づくと、三人はいなくなっていた。
後日、確かめると兵隊さんは南方でとっくのとうに戦死していたし、
妻も子も空襲で死んでいた――。

その後、東京大空襲があり、みんな焼けてしまったが、父は1枚の写真を息子に伝えた。
それは三人の写真である。
南方で死んだはずの兵隊と空襲で死んでいる母子が、
三人一緒に笑顔で撮影された写真。その写真はいまでも残っている。
平成のさえない浅草・花岡写真館の四代目主人はいう。どうだ!
この話を聞いたら、感動して死にたいなんて思う気持はなくならないか?
戦争で死んだ人のことを考えたら、死にたいなんて間違えていると思わないか?
老妻を亡くしていまはひとりで孤独な白井は、へえって思うけど、だからなに?
そもそもその写真が本物だって証拠はどこにある?
それはおまえさんのお父ちゃんがウソをついたんではないか?
そういって写真館を後にする。
死のうと思っているカップルはこのまま写真館(生きる!)にいようか、
白井についていこうが迷うが結局老人(死ぬ!)の後を追う。

そもそもの話だ。死のうとしている人のことなんてわかるのだろうか?
そこはフィクションを当方のリアリティーをもってどうこう裁くようで、
あまり追求したくもないが、
山田太一最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」も自殺がひとつのテーマだったが、
死にたい人はパッと見てわかるのだろうか?
当方のリアリティーではなんでみんな死にたくならないのっていうかさ。
いまは世直しも国防も戦争もなんにもないじゃない。
いったいなにをよりどころにしてみんな生きているのだろうか?
グルメとか大衆娯楽とか、ちょっと視点を変えたら空しいよねえ。
昌志(写真館店主)、友美(その妻/竹下景子で一人三役)、白井(孤独な老人)。
四代続いた写真館を閉めようかと主人が思った日の会話である。

「白井 ほーら、分った。分ったぞ、ご主人。
友美 なにがです?
白井 レンズを通したんじゃない。あなたを通したんだ。
   あなたを通してみたから、私が死にたいように見えたんだ。
   あの二人(広樹と夏恵/若いカップル)が、死にそうに思えたんだ。
友美 でも、あの人たちは本当に――。
白井 なぜそれが分ったか。同類だからさ。だから、二人の気持が読めたんだ。
昌志 私は、死のうなんて――。
友美 そうです。そんなこと――。
白井 思ってもなかった。そうかもしれない。
   自分の心に気がついていないということは、よくあるさ。
友美 そんな――。
白井 そんなじゃない、奥さん。(昌志を指し)希望を失くしたんだ。
   希望をなくすってのは、おっ怖(かな)いことでね。そうは思いたくないよ。
   この先、なにがある? なんにもない。なあーんにもない。
友美 なんにもないことはありませんよ。ねえ。(と昌志に)
白井 私のことだよ。ヘヘ、いわれたくなかったね。死のうとしてる?
   そうかもしれないね。そうかもしれないよ。
友美 (主人と)一緒にしないで下さい。
昌志 よせよ。
友美 なにが、よせ。こっちはね、(と白井に)希望なんていくらでもありますよ。
   仮にお店辞めたって、すぐ食べていけない訳じゃない。
   それどころか、贅沢しなきゃ、あちこち旅行くらい出来るわよ。
   温泉行ったっていいし、安くておいしいもの捜したっていいし、
   焼き物はじめたっていいし。
昌志 それが、なんだよ。
友美 なんだ? 楽しいじゃない。
昌志 (崩れるように、座りこんでしまう)
友美 なんなの、これ? みんなして、どうしたの? 冗談じゃない。
   私は死のうなんて、これっぽっちも思っていませんからね。
   希望は、いくらだってあるじゃない。
   なんだって出来るじゃない。バカみたい。

       他の四人は、黙り込んでしまったまま」(1-54)


他人は自分を映す鏡というのは、ある意味で本当のことかもしれない。
むかしは死にたい人や危ない人からけっこうメールが来たけれど、
いまはぜんぜん来ない。
むかしもいまもだれが死にたい人かなんて駅で眺めていてもわからない。
もしかして長らく自滅願望を持っているが、わたしの「死にたい」はウソなのかなあ。
写真は「真(実)を写す」って書くけれど、まさにドラマそのもの。
写真は真実っぽくて証拠にもなるけれど、「本当のこと」は被写体しかわからない。
いや、「本当のこと」は真実を生きた本人たちにさえわからないのかもしれない。
山田太一に「岸辺のアルバム」というドラマがあるけれど、アルバムは真実か?
家族そろって仲良く笑顔の写真しか撮らないでしょう?
少なくとも家族アルバムや卒業アルバムにはそういう写真しか残さないでしょう?
しかし、いまの山田太一さんはどうだがわからないけれど、
脳をやっちゃうと記憶がかなり消失するケースが多い(ボケ=認知症もそう)。
そうすると写真がいかにありがたいか! 写真しか過去は存在しないのである。
そうなると、笑顔だらけの写真が本当になり、
「本当のこと」はどこにも存在しなくなってしまう。
それでもいいのではないかというのがドラマ(写真=ウソ)であり、
しかし、「本当のこと」はたいせつだというのが山田太一ドラマである。
しかし、「本当のこと」は写真(ウソ)を通してしか知りようがないという。
なんでみんなカメラを向けられると笑うんだろう? 楽しそうにするんだろう?
本当は派閥や抗争があって梅雨のようにジメジメしているのに、
あたかもカラッとした炎天下の仲間ぶるんだろう?
いったい写真は「本当のこと」を映しているのか?
だが、写真以外に「本当のこと」はどこにあるのか?

舞台に話を戻す。果たして死んだ兵隊三人家族の幽霊写真は本物か偽物か。
白けた白井。志がある写真館主人の昌志。
その妻の、美しい友情のようなものを信じたい友美(竹下景子)。

「白井 幽霊の写真や昔話で、この子たちどう元気になるっていうんです?
昌志 少なくとも私は、こんなにも生きたかった人たちがいたってことで。
友美 そうよ。
昌志 励まされるね。
白井 そう。あなたは自分を励ましたいんだ。
   この子たち[若いカップル]は、どうだっていいんだ。
友美 そんなことよく――。
白井 励ますなら、この子たちの、いまの身の上に寄り添うべきでしょう。
   この子たちは、なんで死のうとしているんです。
友美 それは――。
昌志 来てないよ。
白井 ほーら、関心がない。
昌志 そんなことはない。
友美 ずかずか入れないでしょう。
白井 ハハ、他人の親切なんて、そんなもんさ。
   (夏恵と広樹に)ほんとは、あんたたちなんかどうでもいいんだ。
友美 どうして、そんなに意地が悪いの?
白井 きまり文句とごまかしよりいいでしょう。失礼しますよ。(と玄関へ)
昌志 ああ、どうぞ。
友美 どうぞ。
白井 どうだい? 二人、一緒に来ないか?」(2-36)


三人は美談の館(やかた)から出て行ってしまう。
これってリアリティーがあるよなあ。よく知らないが、
ほとんどの映画やドラマが幽霊写真レベルで完結してしまうわけでしょう?
そんな幽霊写真はせせら笑うというリアルな眼を作家が持っているのがいい。
そのうえ結局、自殺防止キャンペーンとかいっても現実にはなにもできないわけじゃん。
せいぜい苦労話をするとか、美談を語るとか、ありきたりな励ましをするとか。
理由は「そこまで立ち入れない」から。
というか、立ち入ってしまうと自分にもめんどうが降りかかってくるから。
6月に奈良の山田太一ファンだというお医者さんから呼ばれて、
立ち入ったことを聞かれるでもなく(というか自分から話した)、
交通費とお小遣いのようなものをいただいたけれど、あれはスマートなやり方である。
ブログになにを書いてもいいっていっていたし、本当の話。
かといって、おなじ山田太一ファンでも妙な美談や激励をして自己満足する老女もいる。
いっておくけれど、人の親切を受け入れる度量というものもある。
借りをつくりたくないと思う人と、人の親切をありがたく受け入れられる人がいるわけだ。
これは年齢や時間の変遷によっても変わるだろう。
適切な親切も難しいが、他人からの親切を上手にありがたく受け取るのも難しい。
先日、二度もある作家先生から本を送っていただいたが、
いまのわたしは素直に「ありがとうございます」と感謝することができた。
それはわたしがアマゾンの「ほしいものリスト」を公開していたからだ。
他人はなにを欲しているかってわからないじゃないですか?
わたしはある友人への誕生日プレゼントを探して池袋を朝から晩まで歩き回って、
結局のところわからなくて買えなかった経験から他人の不可解さを知った。
他人のしてもらいたいこと、ほしいものはわからない。
まあ、ある程度、普遍性のあることはいえて、
どんな苦悩者も美形の異性から求愛されたら生きる元気が出るだろう。

若いカップルはどうして死にたがっているのか?
お互い愛し合っているのだし、
どちらも俳優で美男美女(アハハ)なんだから死ぬ必要はないじゃないか。
なんでも男のほうが仙台で親友の彼女(夏恵)を奪ったらしい。
親友は恩人ともいえ、仕事を世話してくれた。
そんな親友の婚約者を奪い、どういう経緯かさらに殴って2百万を奪ってしまった。
日本全国を旅してわずかな期間で2百万もの大金を使い果たした。
いつも百円、2百円にケチケチしてきたからそういうことをしたかった。
しかし、仙台で起こしたのは刑事事件で手配されているかもしれず、もう死ぬしかない。
こういう話を孤独な白井老人は屋台かなにかでカップルから聞いたのだが、
男から殴られて3万円を奪われてしまう。しかし、交通費の2千円は残してくれた。
翌朝、白井老人は浅草にある花岡写真館を再訪する。
生きるファイトが出てきたという。カッカしてきたという。生きる目的ができた。
あいつらをかならず見つけ出して警察に突き出してやる!
しかし、すぐにたかが3万円くらいのことで大騒ぎするのがめんどうくさくなってしまう。
そこに若いカップルが現われる。
彼らにも人の親切を受け入れられる奇跡の瞬間が訪れたのである。
青年は親友を裏切ったことを激しく後悔しているという。
白井老人はむかし親友に恋人を奪われたことがあった。
あいつもこんなことを思っていたのかなと、現実認識が少しだけ変わる。
そこに友美(竹下景子)が孤独な白井老人に新たな提案をする。
あなた、どうせ暇でやることもないんでしょう?
この厄介なカップルと一緒に仙台へ行ってめんどうごとに巻き込まれてみなさいよ。
いろいろ解決は難しいこともあるでしょうが、話し合えばなんとかなるかもしれない。
そんなことをする義理はねえっていうかもしれないけれど、それが人情じゃない。
というか、自分を救えるとしたら、それは他人を救ったときではないか?
これは山田太一のメッセージを考えたうえでの内容紹介である。

友美(竹下景子)はいう。死にたい白井と死にたい若者カップル、
つごう三人が一緒に笑顔で写真に映ることを目標にしよう。
困難を乗り越えて三人でまた浅草・花岡写真館に来てください。
そして、笑顔でうちの主人に最高の写真を撮ってもらいましょう。
そうしましょう。いきいきしましょう。
そんなことあるわけないだろうといわれそうだけど、実際にあるってことを見せましょう。
ウソみたいなことを「本当のこと」にしましょう!
果たしてあの兵隊幽霊写真は本物だったのか偽物だったのか?

「白井 あれはどうなったの?
昌志 あれって、なんです。
白井 幽霊のうつった写真です。
昌志 本物ですよ。合成なんかじゃない。
白井 じゃあ、幽霊が写真にうつったっていうの?
昌志 分りません。
白井 分らないって――。
昌志 本当はあの写真がなんなのかは私にも分りません。
白井 そうなの。
昌志 でも、大事なのは、私の両親が、
   あの写真とあの話を残したということじゃないかな。
   しつこく私たちに話したんです。あの話で、なにをいいたかったのか。
友美 そうね。
昌志 時代がちがえば、こーんなに家族三人がただ一緒にいられるということが、
   嬉しくて、むずかしくて、哀しいことだったって――。
友美 沢山の人が死んだんです。
   あのくらいのことが起きても、ちっとも不思議じゃない。
   あのくらいのことが起らなければやりきれないくらい。
昌志 そう思ったのかもしれない。
友美 どっかで本当なら、本当が伝わればいいんですよ。
白井 うん。
昌志 私たちの話は、これからです。
   レンズをのそいたら死んだも同然の三人が。
白井 死んだも同然!
友美 撮るほうもそうです。死んだも同然でした。
昌志 そう。それが、どうやって元気になって、いきいきした写真を残したか。
友美 あとに残しましょう。
昌志 これが私たちの写真館のお話だった、と」(2-70)


「本当のこと」はわからない――。
「どっかで本当なら、本当が伝わればいいんですよ」――。
ウソのような本当のお話をつくろうではないか。
ウソのような本当のお話をつくりましょうよ。
山田太一はウソで現実を少しでもましにしようとした作家といえよう。
なにがましかはわからないけれど、
ぜめて集合写真の笑顔くらいは信じたいと思っていた。ウソでもいいから笑顔を!
山田太一最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」最終回ラストシーンで、
妻と子を火事で亡くした藤本誠(陣内孝則)はカメラの前で笑顔でピースをした。
ひとりではなく笑顔でピースをした。

*誤字脱字失礼。ま、わかるでしょ? 少しずつ直します。
今日は肉体労働→病院→散髪→病院→帰宅したので疲れまくっていますのでどうかお許しを。
どうして男ってスタミナを求めるのだろうか?
毎日のように女々しいことをグチグチ書いているわたしにもスタミナ信仰がある。
元気をつけなきゃ、とか、ここは高くてもうなぎを買って乗り切ろうとか。
実際、いまも明日からのパワーのために自作インドビーフカレーを食っているし。
ビーフの意味はご存じ牛。牛肉めいたものなんて口にするのはいつ以来だろう。
いやさ、先月近所のマルエツで見切り品のインドビーフカレーが売っていたのよ。
インドから輸入されたもの。
でもさ、インド人は宗教上の理由でビーフは食わないよねって思ったら、
おもに欧米に輸出され好評を得ているらしい。
料理法は簡単で牛肉を炒めて湯で溶かしたルーを入れるだけ。
これをつくるのは3回目だが、前2回はポークで代用した。
このたびスーパーカズンで国産和牛カレー用が半額だったので奮発。
はじめてのインドビーフカレー。
わたしは牛丼屋の品のなさが(ごめん!)嫌いで、
一度も牛丼を外で食ったことはないが、牛だぜビーフだぜスタミナだぜ!
明日から1週間、また肉体労働にも理不尽な要求にもスタミナで対抗する。
いいか、いまおれはビーフを食っているんだから、スタミナは万全だ。
お酒のカクヤスキター♪
まったパワーがありそうな長身のおにいちゃんで、がんがん重いものを運んでくれた。
たしかあれで時給千円かそこらでしょう。
わたしは一気に注文する派だからそのぶん重量が重くなり(重言!)迷惑な客だと思う。
むかしなぜか日経新聞の記者から、
カクヤスのお得意さんとして電話取材されたことがある。
日経新聞は読んだことがないけれど。
宝焼酎はロックで飲むこともあれば炭酸水やレモン炭酸水で割って飲むことがある。
意外と好んでいるのは、あれはキリンじゃないかなあ。
「大人のキリンレモン」(炭酸ジュース)で割って飲むこと。
キリンレモンだから製造元はキリンだって、ばかばかツッチー。
むかしは「大人のキリンレモン」に
オルニチン(肝臓をよくするとされるインチキしじみ的成分)が入っていたのよ。
いまは入っていないけれど、そのとき試したのがどうにも舌に合ってねえ。
大人のキリンレモン。大人のうなぎパイ。大人のおもちゃ。大人のアイスキャンディー。
夜のキリンレモン。夜のうなぎパイ。夜のおもちゃ。夜のアイスキャンディー。
大学1年生のとき芥川賞作家でいまはフクスマの柳美里の「水辺のゆりかご」を読んで、
かの女流作家が少女のとき、
おいしそうにアイスキャンディーを舐めていたら、
パチンコ釘師のお父さまから厳しく叱られたというエピソードがあった。
柳美里さんの子どものころって、奇跡的な美少女だよねえ。
あの暗さ、怪しさ、誘ってくるような笑い。
漫画家のサイバラが、
新書「家族の悪知恵」で若い女性が成功したかったら
その分野の男性成功者(権力者)のチンポを舐めろと指導していたが(立ち読み)、
美少女だった柳美里は10代にしてはやばやそれを実行していたのである。
作家で大学研究者の美しい坂本葵さん(小谷野敦夫人)も
さすがに柳美里ほど早熟ではなく10代ではないが、そのことに気づいている。
以上で夜の大人の話は終わります。

それにしても少女時代の柳美里ってかわいいよなあ。
薄幸そうで暗くて、そのくせこちらを駆り立てる。
フクスマの柳美里さんのお子さんが男子だったのは幸運なのか不運なのかはわからない。
83歳の山田太一さんが半年前に脳をやっちゃて半身麻痺。
その後リハビリを嫌っているのが一部で話題になっている。
ちなみにタイトルは村上龍の「愛と幻想とファシズム」にかけて「安心と希望のリハビリ」。
たぶんエビデンス(統計結果)としてはリハビリはあまり効果がないと思う。
なぜならリハビリをやっていなかった人の統計は取れないわけだから。
もしかしたらリハビリをやってもやらなくても結果は変わらないのかもしれない。
これは人生体験的なものがかかわってくるので意見は人それぞれだろう。
大病がリハビリをいっさいやらなくてもよくなった人を知っている。
その人が最初にリハビリの権威に逢ったとき、
「だいぶリハビリをやったねえ。うん、よくなっている」と言われたそうだ。
リハビリの効用は「安心」と「希望」だと思う。
人はなにも善後策を立てていない状況だと不安や絶望におしつぶされるものらしい。
だから不安対策(安心)、絶望対策(希望)としてリハビリが推奨される。
まあ、結局よくなるかどうかはその人が持って生まれた運なのだが、
それを言っちゃあおしめえよって話。83歳にリハビリさせてどうしたいの?
もう山田太一さんは83歳まで立派に生きて、いい仕事をしたんだから、
あとは好きなようにさせてあげようではありませんか? 
どうしてみんなそう思わないのだろうか?
わたしはあれだけ多作の山田太一の過去を追うので手一杯で次回作はもう必要ない。
山田太一先生、ゆっくりおやすみになってください。
父がさあ、またまたうさんくさそうな、しじみの健康食品カプセルをのんでいた。
そんなもん効かねえよ、って喉のここまで出かかっていたが言わなかった。
というのも、言ったら本当に効かなくなるから。親孝行なぼくぼくぼく♪
健康食品は「希望」と「安心」の即物的商品なのである。
これをのんでいたら先々よくなるとか(希望)、これをのんでいるから大丈夫とか(安心)。
そんなことをいえば西洋医薬品も漢方薬も体感的には8割が「希望」と「安心」。
血圧とかコレステロールとか、薬はまあ「希望」と「安心」のようなもの。
実際的に効くのは鎮痛剤と精神安定剤、睡眠薬くらいではないかしら。
しじみは酒飲みにとって幻想的な希望の香りがただよう。
実際はしじみ健康食品なんてのんでものまなくても変わらないけれど、
本人が安心して(大丈夫!)希望が持てる(まだまだこれから!)ならいいではないか?
わたしも無料サンプルで有名な「しじみ食研」を試したことがある。
よくなったような気もしたが、高いので有料バージョンは買わなかった。
そうしたら宗教のような勧誘が来る。
いきなり携帯電話にかかってくるんだから。
そのおばざんのセールストークがうまいことと言ったら!
本当にあなたのことを心配しているアピールと、
将来の不安をあおるのが天才的にうまい。
わたしは「ほかの健康食品と比較したくて」と答えて逃げた。
実際、そのとき安いいんちきくさい健康カレースープをのんでいて、
こちらは「しじみ食研」のように錠剤ではなく、味がうまかった。舌に合った。
ボケが少し入ったような老人をだますのは簡単なのだと思う。
そして、だまされていたほうが幸福なこともある。
「しじみ食研」からはその後も数度、最後のお知らせが来た。
これが最後のチャンスで安くしてやるぞと。
わたしは「希望」「安心」という健康麻薬を仏典で自家栽培しているので高額品はいらない。
マイナーな話をしたくなったのでする。「無の道程」という有名なブログがあった。
作者はわたしと同年代で、
ブログ内で自殺予告をしてカウントダウンをするという奇矯な振る舞いで評判を呼んだ。
たぶん「本の山」なんかより、よほど世に与えた衝撃は大きい。
わたしは最期のほうで知って、何度も拍手欄からコメントを送った。
「あなたは偉い」「だれもやれないことをしているあなたはすごい」
いま思うと、わからないのは匿名にこだわっていたこと。
もしブログに実名を出していたら、なにかあったかもしれないわけじゃん。
ちなみに「本の山」を実名ブログにしたのは、いま調べたら2012年の1月。

☆「錦繍」(宮本輝/新潮文庫)

もう5年以上も実名できちがいだのなんだの人権禁止用語を使っていたのか。
しかし、それを考えるとよしんば「無の道程」が実名を公表していても、
そんなことはなんでもないことで、なにも起こっていなかったのかもしれない。
先日はさらに一線を越えて、携帯電話番号をブログに公開した。
だって、「無の道程」とおなじで、あはっ、
もう人生どうなってもいいんだも~ん(JK風にかわいく)♪
異常な電話はいままでひとつもかかってきていない。
なーんかさ、クルクルパーな女から
「いまから死ぬ」とか深夜に電話が来たら楽しいんだけど。
わたしは「死にたい」人からそう言われてもわたしも「死にたい」と答えている。
過去にそういう経験は数度あったが、その後は知らないし、それは運だろう。

チクショー。電話が鳴らねえ。
朝日賞作家で現在は脳をやって半分死人の山田太一さんの名言がよみがえる。
「他人は自分なんかに関心を持ってくれません」
だから、こんな駄文を読んでくださるだけであなたに感謝したいのである。
そういう恩人にけしかけたくなる。一線を越えてみろと。

☆「無の道程」
みんなさあ、わたしの雑談につきあってよ。
焼酎が切れているのに気づいて、さっきカクヤスに注文したら21~22時枠。
それまで起きていなくちゃならないわけじゃん。
スーパーで買って来いって、あんな重いものを運ぶのはもういやだって。
むかしはカクヤスブランドの「大満足」だったが、いまは宝焼酎。
なぜかといったら勝手に兄事している芥川賞風俗作家の西村賢太氏の影響。
賢太さんが宝焼酎を飲んでいるなら、あやかっておれもおなじものを飲もうと、そうね。
だけどさ、芥川賞作家には
宝焼酎が販促感謝のお礼として無料で郵送されてくるわけでしょう?
どうしてわたしには送られてこないの? って答えは無名人だから。
きっと有名になるといやなこともいっぱいあるけれど、いいこともデカ盛りなのだろう。
くそお、いい思いをしたいぜ。特別枠に入りたい。おいしい思いがしたい。
ここは知る人ぞ知る世捨て人のAZMA風にしめておこう。チェッ、チェッ、チェッ♪
いまの中高生の性欲ってどのくらいあるんだろう?
なんか年々全体的な性欲みたいなものは低下している気がする。
たまっているのである。読書感想文を書いていない本がたまっている。
クオリティーを下げたくないんだよね。
好きな作家の本の感想をいいかげんにまとめたくない。
「感動しました。何回も読み返しました。作者に感謝です」みたいのはいやいやいんや。
ご興味はないでしょうが、「本の山」にはものすごい手間暇をかけている。
まあ、趣味ってそういうものだろうけれど。
1週間、あるホンの感想を書けなくて困るなんてこともざらざらざらり。
だれも読んでいないアクセス数最低ブログなのにね。
そしてコメント欄には匿名の罵詈雑言が並ぶという。
おれってバカでしょう、あはっ。あたまやっちゃったから。クルクルパーだから。