「運は実力を超える」(植島啓司/角川新書)

→人生は運なんだよ、とかたくなに信じている植島啓司が好きだ。
わたしも「運・ツキ・偶然」の在野の研究家である。
学者やインテリはいろいろ難しいことを言うが、
人生とは結局以下の構図で説明されうるのではないか。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

人生とは行為(選択)の連続であり、遅かれ早かれその結果が現われる。
プラスと言われている行為(選択)をしたのに、マイナス結果が出ることもあろう。
マイナスとしか思えない選択をした結果、どうしてかプラスの事態が舞い込むこともある。
宗教的に突っ込むと、なにがプラスでなにがマイナスかはわからない。
選択のプラスマイナスもわからないし、結果のプラスマイナスもわからない。
いちおう世間上の善悪や損得といったプラスマイナスはあるが、
そんなものはころころ変わりうる。
家族の自殺や障害児誕生といったマイナスが出た場合、
人は本当にわからない気持になる。
自分はそこまで悪い行為(選択)をしたのだろうかと人によっては発狂しかねない。
いまの医者はエビデンス(統計データ)で治療方針を決めることが多いようだが、
エビデンスにしたがった「正しい」医療行為を選択してもマイナスの結果が出ることがある。
このへんが究極の問題で、
果たして「死」はプラスマイナスで測定できるのかという問題もある。
何度でも書きたいが人生は突き詰めれば以下の構図である。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

努力すれば報われる、報われていない人は努力していないから、
と信じている人の人生観はどうなっているかというと――。

☆人生=行為(選択)→「努力の質量」→結果(善悪/損得)

しかし、いくら努力をしても報われないことはございますでしょう?
わたしは自分よりも努力しているがんばり屋さんが不遇なケースをいくつも知っている。
あきらかに自分よりも怠けていそうなやつがキラキラしているのも知っている。
あれ? 人生って努力(自力)よりも運の力(他力)のほうが大きいのではないか?
もしかしたらかなりのところが運で決まっているのではないか?
そうだとしたら運をよくするためにはどうしたらいいか?
宗教人類学者の植島啓司や当方が関心を持つのはここの領域である。

人生=行為(選択)→「運」→結果(善悪/損得)

どうしたら運がよくなるかは本当にわからない神仏の領域である。
だから、わたしは人生はかなり運であると認めながら、
「運」という言葉の弱さを嫌って、
たとえば(一遍上人の)南無阿弥陀仏(念仏)にまかせたくなる。
南無阿弥陀仏の意味は、人間には「わからない」である

人生=行為(念仏)→「自然」→結果(念仏)

結果のプラスマイナスなんかじつはわからないわけ。
交通事故に遭って病院にかつぎこまれたら、
そこで運命の女性たるナースとの出逢いを果たすかもしれないわけだから。
株で10億稼いでも、うつ病になったらなにも楽しめない地獄になる。
わたしは個人的に一遍の南無阿弥陀仏に興味を持って独学しているが、
一般の人は「行為選択→(?)→結果」の「?」は運にしておいたほうがいいと思う。
どうしたら運がよくなるのか。
わたしが20年近く考えてきたことであり、
植島啓司氏にいたっては40年以上賭場という実地で試行実験してきたことではないか。
いままでわが国において「運・ツキ・偶然」を、
実地で学問してきたのは植島啓司と河合隼雄だけだと思う。

みなさまが知りたいのは、どうしたら運がよくなるかだけでしょう?
わたしだって学問なんかどうでもよく、運命の女神との勝負に興味があるのだ。
果たしていま勝ったと言えるのかわからない(←意地悪)、
植島の答えを先に箇条書きにしておこう。

1.人に「お願い」をしない。
2.チャンスが来るのを待つ。
3.手の内を明かさない。
4.相手がミスをするのを待つ。
5.損得や善悪など、どうでもいい境地にまでいたる。
6.忘我・無我・恍惚こそ勝負の醍醐味よ。
7.いつも旅しているように生きよう。

1の他人にお願いをしないようにしようというのは間違いだろう。
だって、だれもが植島のようにひっきりなしに美女が寄ってくるわけではない。
デートをお願いしなかったらつきあってくれない女性がいる。
以下は、まあ正しいと思うので、
本書を購入するのがめんどうな読者のために原文で紹介します。

「人間の思考はすぐ頑(かたく)なで硬直したものになってしまうので、
負けが続いたときには、よく盤面を見直してみよう。
何か新しいヒントが見つかるまでは大きく賭けないことである。
負けているのに一発で取り戻そうとすれば、だいたい傷を深くすることになるだろう。
わざわざ言うまでもないが、
ここぞというときに大きく賭けられるのがギャンブラーであり、
普段は金額を抑えて様子をうかがい、時が来るのを待つのだ。
ギャンブルというのはそうやって決着をつけるものなのである」(P62)


植島は待てと言う。それから隠せと言う。
話は飛ぶが、AVに出てしまうと女性は運がひどく落ちるのではないか?
おまんこクパァとか見せてしまったら、それだけで運は激減すると思う。
手の内は見せるな。隠すべきものは隠せ。秘密は口にするな。

「もしあなたが大きな勝負をするとしたら、そのときは誰にもしゃべってはいけない。
運はしゃべることによって逃げていってしまうからである。
もちろん大した勝負ではないと思えば、みんなにしゃべってもよろしい。
そのほうが、結果がいいことも多いかもしれない。
しかし、ちょっと手のひらに汗をかくような勝負となれば、
誰にも話さないほうが賢明である」(P65)


人間の器量って、どれだけ自他の秘密を守れるかにあるような気がする。
その意味で、河合隼雄は偉大で、みんなから怖がられ、おそらく孤独だったと思う。
耳にした真実をペラペラ拡散するようなものはいざという勝負で勝てない。
しかし、秘密を守るのはつらいわなあ。
麻雀やパチンコで裏で見ている人がいると負けるというのは、
下品だがうまいたとえではないか。
勝負というのは勝ち負けである。どっちも勝ってなかよしこよしなんてありえない。
相手を負かすのが勝負であり、ギャンブルであり、おそらく人生なのである。

「よく先手必勝というが、[ギャンブルの]名人クラスになると、
相手のミスを導き出して、それを咎(とが)めるというのが本来の形であって、
それも相手に「自分がミスをした」と印象づけることが必要となってくる。
そうした結果、相手が動揺して悪手を打ったり、
まちがったりしてくれるというわけである。
運を自分の手で直接につかむことは想像以上に難しい。
すべてを相手側に委(ゆだ)ねることが大切だと知るべきだ」(P72)


結局のところ著者とわたしの共通認識としてあるのは、
勝敗なんかどうだっていいじゃないか? 勝負そのものが楽しいだろう?
勝敗を決める絶対者(運、神、仏)と対峙している昂揚ほどの悦楽が人生にあろうか?
勝ちや負けがどうでもよくなったものが勝つのである。
負けたってなんだよ。勝ったってそれがなんだって言うんだ。
勝負にはもっと危ないあの忘我の陶酔があるではないか?

「社会がどうだとか、なにが合法だとかいうことなど、どうだっていい。
ちゃんちゃらおかしい。善悪など関係ない。人はいつか死ぬし、馬も死ぬ」(P84)


植島啓司は東大の宗教学科の出身らしいが、当時は食えないことで有名だったらしい。
わかりやすく言うと東大の宗教学科を出ても就職先がない。
そうまでして植島が入った東大の宗教学科にはろくな学者がいなかったという。
いまだから言えるのだろうが、植島は東大の宗教学者はクソばかりだとシャウトしている。
そして、それはおそらく正しいとわたしも思う。
植島啓司青年がなぜ宗教学の門徒になったか本書に書かれており、
この箇所にいちばん感銘を受けた。植島はなぜ宗教学を志したのか?

「人間の心が通常とは違ってとんでもない歓喜に満ちた瞬間であるとか、
自分が自分じゃないように思える瞬間とか、
自分の心が相手に乗り移ってしまう瞬間とか、
どうしようもなくやりきれない瞬間とか、
いわゆる「神がかり」と呼ばれる状態についても、できるだけ
宗教のヴォキャブラリー[専門用語]をつかわずに説明したいと思ったのだ」(P112)


ちまちま善悪や損得を考えるのは我執に過ぎず、
そんな我執では勝負に勝つどころか、勝負の本質さえ見えないのではないか?
善悪や損得を越えた超我・無我の視点から大勝負をしてみてえぜ!

「ぼくらはギャンブルにおいてはつねに暴君のように振る舞わなければならない。
別に清廉潔白であってもいいが、
そんなふうにしていても誰にも褒められることはない。
だから、ギャンブルにおいては、
ただ合理的な判断力にすぐれているというのではダメで、
あえて「飽きっぽかったり」、「気分に左右されたり」、「一貫性がなかったり」、
「奇抜だったり」する必要があったりする。
ときには自分でも自分の行動が理解できないという方法を選択するかもしれない。
それほど自由でなければならないということである」(P173)


わたしはむかし(美香時代)から「人生は3G」と主張している。
人生なんて、ギャンブル、ゲーム、ギャグだから笑っちゃおうぜ。
いま当方は安酒をのみながら駄文を書いているが、
2017年の自分がこうなっているなんてまさかまさかで、ぜんぜんわからなかった。
その「わからない」が「運」であり、人によっては神仏になるのだろう。
どこまで旅のように人生を生きられるか。
いままで逢った人、別れた人、再会した人、この歳になるとみんな懐かしい。
そして、これからだれと出逢うのだろう。

「考えるべきはただひとつ。
いま自分がどういう状態にあるかをぼんやりと理解しておくべきだろう。
そして、他人にわかられないように生きること。
それによって起こることの意味も変わってくる。
いつも旅しているような生き方こそが必要なのだ。
明日はどこにいるのかわからない。
それなのに勝負となれば相手を一撃で仕留めてしまう」(P163)


わたしは植島啓司とおなじように「運」の存在を信じている。

おれだってそこらへんの社会常識はあるつもりよ。
おれごとき蛆虫が携帯の番号をさらしたってなにも起きないことくらいさ。
いたずら電話でも来たら、それだけでも感謝感激に値するって。
だって、人は他人に関心を持たないもの。
昨日23時に着信があって、就寝していたため出られなかった。
なんだよ、この着信は、おいおい、とかドキドキもんよ。
このくらいなら常識時間かなと思って、今朝9時過ぎに見知らぬ電話番号にこわごわ。
どこまで相手のことを書いてもいいのかわからないので最小限。
奈良のお医者さん。どうやら夜勤明けのようで(?)声が聞き取りにくい。
山田太一ドラマのファンのようで、当方なんかとその話をしたいとのこと。
こちら今月はヒューマントラストの都議選期日前投票受付バイトに落とされて暇、暇、暇。
28日が休みらしく奈良に来てくれないかとのこと。
うん、目標ができた。その日までに一遍研究と並行して、
録画してある未視聴の山田太一ドラマを可能なかぎり消化しよう。
なんか奈良の地名とかよくわからんのでメールお願いします。
ニートとかひきこもりとか自死遺族とか、
そういうマイナス分野では、
おれは実体験込みの日本唯一のプロフェッショナルだと思う。
お金持の方でご子息、お嬢さんのニートひきこもりに悩んでいる方は多いでしょう。
なかには権威のある「先生」さまのご治療に何百万と費やした方もおられるかと。
当方も耳目を引く程度の(やべえっしょ!)のニートひきこもり経験がございます。
自死遺族という面でもこれでもかと厳しい立場に追い込まれました。
もしかしたらお客さまのご家族のニートやひきこもりを改善するきっかけを、
せんえつながら当方が提供できる可能性があります。
料金は初回交通費のみ。継続の場合は「言い値」でけっこうでございます。
当方はニートやひきこもりのベテランでございますから、奇跡が起きないとも限りません。
ご依頼はメールあるいは携帯電話からお願いします。匿名でのご依頼も可能です。
ニートとかひきこもりなんて病気じゃないっしょ?
という当方の非常識的価値観がございます。
お客さまからのメールをお待ち申し上げております。

土屋顕史
yondance1976@gmail.com
080-5188‐7357
東京都板橋区在住
ヤマギシ会をあつかった自主映画に「アヒルの子」がある。
ドキュメンタリー映画の先達、原一男先生の門下生の作品だった気がする。
作者はきれいな小野さやかという女性らしい。
じつのところ、わたしは小野さやかさんと逢ったような逢っていないような記憶がある。
むかし池袋のジュンク堂書店で行なわれた山田太一トークショーで、
うん? あれはあれは小野さやかさんではないかという顔を目撃した。
原一男教授はおもしろい人だったけれど、もう権力サイドの人でしょう?
わたしもふくめて原一男門下で一丁なにかぶっ放せないか。
ここで問題なのが、わたしこそ原一男の非公認一番弟子という矜持があることなのだが。
もう原先生とは15年近く年賀状も交わしていない。
しかし、原一男門下生としてなにかできないだろうか? 
いきいきできないだろうか? かりそめの自由を味わえないだろうか?
どうせは聞いてもらえないだろうが、バカヤロウと世間に向かって叫びたくないか?
3年単純作業系の仕事をやったでしょう。
もうあっち系はここらでいいかというね。
ああいうのはわたしよりうまい人がたくさんいるし、
身もふたもないことを言えば、50歳でも60歳でも就業可能だから。
赤羽のおねえちゃんがいる店のキャッチの仕事とかどうしたらなれるんだろう。
最初は無報酬からでいいから、ああいう仕事に就いてみたい。
じつのところ、おれはさ、人と話すのが嫌いじゃないんだよね。
偶然の一発性の強さみたいなものにも強い自信がある。
いまだに見知らぬ人から
話しかけられる頻度の高い好人物いんちきカウンセラータイプだし。
言っとくけど、こちら、運は聞いたらびっくりするくらいいいからね。
そういうプラスの話は書かないだけで。
周囲でわたしと逢ってから運が上がった人が大勢いるから。
そりゃあ収入はほしいけれど、収入は最初はなくてもいい。
だれかそういう新しい道に、未知の世界に手引きしてくれないかなあ。
長所→運がいい。偶然性に強い。人の真贋をパッと見破れる。
短所→恨み深い。ケチ。肩書で威張っているやつが大嫌い。まあバカ。
だれか新しい世界に誘ってくださいよ~。
長らくもう引退したプロレスラー天龍源一郎の大ファンだった。
天龍は負けるのがうまいのよ。負けっぷりがいい。
それはレスラーだって人間だから、勝っていいポーズをしたいに決まっている。
人一倍そういう負けん気が強い人がプロレスラーになると言っても過言ではなかろう。
プロレスは勝敗のあらかじめ決まった即興演劇(ジャズ的エンターテイメントショー)。
東スポで年間ベスト試合というものが年末発表されるが、
天龍が負け役になったベスト試合はかなり多いのではないか?
天龍源一郎は本当に強いから、いざとなったら負け役ものめるのである。
プロレスでは強いやつが勝つとはかぎらず、
本当に強いこころを持った漢(おとこ)が相手を光らす負け役を正々堂々演じるのである。
人生負けてばっかりなのは10歳のころから天龍源一郎のファンだったせいだろうか?
大敗はシナリオ・センターであろう。
いまひさびさに2ちゃんねるのスレッドを見てみたら実名個人攻撃がすごい。
既得権益団体、新井三代シナリオ・センター集団に大敗していたことに気づいた。
寄らば大樹の陰。そう考えるのが常識というものだろう。
願わくば、わたしの負けっぷりのよさをご評価くださるかたがひとりでもいらしたら。
思えば人生で大勝利(@創価学会)どころか小さな勝利でさえおさめたことはない。
大勝利したシナリオ・センター経営陣はいまなにを思うか。
小さな勝利さえ知らぬ男には想像もできぬことだ。
シナセンはもう8年もむかしのことなのに、
いまだに負け役、悪役を無償で引き受けている。
わたしは正義のシナリオ・センターを引き立てるブラック・レジェンドと
言えなくもないのだろう。
「あんたはなにをしても絶対にダメよ」
そう言って高笑いしたシナリオ・センター二代目社長のお言葉の正しいことと言ったら!
儲け話でも宗教でもおんなでも、なんでもいいからだまされたい。
というのも、そういうだましにはファンタジーめいたものがあるじゃないですか。
あやしげな塾とか主催している自称塾長にだまされてうっとりしたかばってん。
悪いおなごにだまされて闇金にまで手を出して銀行強盗とかできたらサイコー。
身もこころもボロボロになるくらいだまされたい。つまり、夢を見たい。
現実だけでは味気なくて、だから夢を見たくて、もう散ってしまった桜をいま見たくて。
だまされてこの世ならぬものを見られるのなら明日東京湾に沈んでもいい。
夢がほしくて、夢を見たくて、だまされたくて、梅雨。

*以上は法華経の精髄であるぞよ。
むかしは議論は嫌いと表明していたが、
いまならリアルでなら一対一の折伏合戦をしてもいい。
そのくらい退屈。顔の見えないネットのコメント欄ではやめてね。
きのう月曜日はまいったよなあ。
前日の20時半にいきなり派遣会社のSさんから電話があり、
あすコージーコーナーの川口工場へ行ってくれないかと。
派遣仲間に聞いたら同意見が多かったけれど、川口コージーコーナーの評判は悪い。
わたしも3度行かされて、そのたびになんだこの会社はと思った。
もう川口へは行きません、と派遣のぶんざいでありながらSさんに伝えたものである。
もう川口へは行かないと申し上げているのに、
前日の夜8時過ぎにあす早朝川口に行ってくれませんかという電話が。
いま一遍の独自研究をしていて、
それを早く終わらせて、つぎに行きたいという思いが強い。
結局、リアルのわたしは「いい人」なんだろうなあ。
「いままでたくさんの人にお世話になってきたから、(それを返すという思いで)いいです」
OKしちゃうんだなあ。
で、きのう。約束時間に遅れたら申し訳ないと朝6時に起床。
9時から仕事に入る。14時半に仕事が終わったから帰れと言われる。
交通費を抜いたら4千円よ。日給4千円。ふざけるんじゃねえよ。
そこまでおれは安いのか。
わたしは基本、ものすごくケチなのだが怒りのあまり某所で1万円近く散財してしまう。
リアルのケチなわたしを知っている人が1万円の散財内容を知ったら驚くだろう。
帰宅したらヒューマントラストからの連絡はなし。
じつは都議選の期日前投票の受付に応募していた。
ネットで募集が始まった瞬間に応募したから(早い者勝ちみたいな記載もあり)、
落とされる理由がわからない。
都議選期日前投票受付とかやってみたいじゃないですか。
なんか政治の裏がわかりそうだし。だけんどヒューマントラストに落とされたよ、けっ。

基本的にどこの会社にもアラはあるのよ(ヒューマンもねえ)。
川口コージーコーナーのアラはひどく、しかし最後の良心が書くことを許さない。
あれで生計を立てている人もいるわけだから。
インド帰りとしてはあの程度の不衛生ならば、今後もあそこでケーキを買える。
N本部長がわざわざメールを送ってきてくださったこともあり、
いま来月初旬のDNP短期派遣に応募した。
あの会社は応募者全員採用だから、少々こころの安定を取り戻した。
踊り念仏の一遍の南無阿弥陀仏で損得や善悪を捨てたと思っていたが、
まだまだだなあ。それは絶望ではなく、希望かもしれない。
いま違う方向に行きたいという願望が強い。
どうしたら行けるのかもわからないが、
その「わからない」こそが南無阿弥陀仏なわけで――。
本当に最近、知らない人からのメールが来ない。
唯一来たのが派遣先で知り合ったN本部長という従来とは逆パターン。
こだわりがないのが一遍の南無阿弥陀仏だから、
わたしは南無妙法蓮華経の人にもエルカンターレの人にも偏見はない。
むしろ同志よ、と思うくらいである。
「学ぶ力」(河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤佐千夫/岩波書店)

→いま鎌倉時代の踊り念仏の開祖、一遍のことを独自に学んでいる。
学ぶとはどういうことか? 河合隼雄によると、学ぶとは知りたいと思うこと。
対象を好きになること。そして、これが肝心らしく、楽しむこと。
河合隼雄いわく、以上は孔子の「論語」に書いてあることらしい。

「学ぶということで、まず私が思い浮かべるのは孔子の言葉で、
『論語』の中にある僕の非常に好きな言葉です。
「之(こ)れを知る者は、之れを好む者に如かず。
之れを好む者は、之れを楽しむ者に如かず」。
学んでいる者よりも、好きだと思っている者がいい。
好きだと思っている者より楽しむ者が一番上だということを、
孔子さんが言っておられるんです」(P3)


わたしなんかとくにそうだけれども、
興味がないことを学べと言われてもあたまに入ってこないでしょう?
派遣同僚の爺さんから資格の勉強をしろとしきりに言われていた時期があったけれど、
そんな好きでもないことを学ぶことはできません。
ブルセラ学者・宮台真司の岳父(妻の父)である東大名誉教授の佐伯胖も言っている。

「自分が好きでのめり込んでいたときの学び方と
「さあ、これを覚えなさい、勉強しなさい」と言われたときのギャップはすごく大きい。
別世界みたいな感じで、これはちょっとやってられないなという気がして、
それははっきり言ってだめでしたね。
それを我慢してやろうという気はしませんでしたね」(P60)


踊り念仏の一遍がしていた布教というのは賦算(ふさん)と呼ばれ、
遊行(旅)をしながら対面したものに(有縁者に)ただ念仏札を配るというものだった。
なんでそれが布教なのかわからない時期もあったが、こういう解釈もできよう。
念仏は易行というけれど、歴史的学問背景をふくめるとかなり難解なのである。
熱心に教えてもわかってもらえるかどうかわからない世界なのである。
河合隼雄の出発点は数学高校教師で、
最初は全力で教えたがあまり効果がなかったという。
そして、晩年は「無為」の境地に行き着いた氏は青年期にはやばやと悟る。

「なるほど、先生が必死になって教えまくっても、生徒はそう伸びないんだ。
教えない先生がいると、生徒は自分でものすごく勉強するんです。
あんなもの頼りにならんというので、その子たちは必死になって勉強している」(P15)


一遍もおなじように思ったのではないか?
とりあえず最高真理の南無阿弥陀仏だけ教えておいて、
あとは相手の機根やら学習能力やら自然(他力=南無阿弥陀仏)にまかせよう。
自分が相手に伝えるのは南無阿弥陀仏の一語でいい。
あとは相手が興味を持ったら勉強するだろうし、
ことさら学ばなくても救われるのが念仏の教えの特徴である。
あるがままでどうしようもなく、いまある状態はあるがまま善でも悪でもなく、
しかしそれでも自然として
すべてがうまくいっているというのが南無阿弥陀仏の世界観である。
自分もあるがままの自然と一体でいよう、
自然体でいようという決意表明が南無阿弥陀仏だ。
これはいくら説得しても相手にNOと言われたら終わりで、
相手が自然に南無阿弥陀仏を納得するまで
こちらは無為と言われようが自然にまかせ「待つ」しかない。
南無阿弥陀仏は説得できるものではなく、相手が自然に納得するまで待つのみである。
数学者の森毅に河合隼雄はからかわれている。
お互い老人だから許されるゆるやかな関係性ゆえだろう。
「河合さんは納得の修業をしているわけで、説得の修業なんかしてない。
ええ加減なことを言いながら納得さすのがうまい。
うそつきクラブ会長やからね(笑)」――。
相手を説得しても意味がない。相手が納得してくれることが重要である。
ユングの伝道師(@小谷野敦)である河合隼雄は言う。

「おっしゃるとおりで、僕らは来られた人[クライエント/有料相談者]を
説得しても何の意味もないですよ。そうでしょう。
森さんに「たばこは不健康だからやめなさい」と言うたら、
説得されるけど、絶対に納得しないから。なんぼでも吸うからね。
だから、やめよかという納得が起こることが一番大事なことなんです」(P79)


あることを納得しようと思ったら自分で学ぶしかない。
たとえば一遍仏法を学ぶのなら、一遍を好きになるしかない。
そして、鎌倉時代に存在したという一遍の存在を
楽しむ境地にまでいたらなければならない。
そこまで行くには苦しむようなこともたくさんあるが、
それは学ぶためには必須だと河合隼雄は言う。
一遍の南無阿弥陀仏は要約すれば「死=絶対」である。人は絶対に死ぬ。
絶対たる死者の目から見たら、
相対(言語)世界のあらゆるもの(美醜・貧富・賢愚・善悪)が空(むな)しい。
本書が発刊されたのは河合隼雄が亡くなる3年まえである。
以下は河合隼雄の最後の説法とも信者には解釈できる。
ユング心理学の河合隼雄と踊り念仏の一遍の見ていたものはおなじであった。
最晩年の河合隼雄の見ていたもの――。

「最後に孔子の言葉を読んでいて気がついたのですが、
いろいろなことを学んできたし、いまでも学ぶつもりですが、
考えたら、死ぬということをあまり学んでいないという気がして、
このごろだいぶ学んでいます。
死ぬことをずっと学んでいるうちに、
死ぬことを好むほうになってきて、
最後に死ぬを楽しむところまでいったら最高じゃないかと思いますが、
これはそうはいかんのじゃないかなと思っています。
私の学びの最後の目標はそのへんにあるというところで、
[講演を]終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました」(P17)


「最後に死ぬを楽しむところまでいった」のが踊り念仏の一遍上人であった。
男は仏法を問われたら答えもしたが、布教は基本は念仏札を配るだけであった。
最高真理、絶対真理の死=南無阿弥陀仏を相対世界を生きる衆生にさりげなく伝えた。
聞かれたら答えたが、自分から教えたがるタイプではなかったと思われる。
いま踊り念仏の一遍を学んでいるが予想以上に難物で終わりが見えないので苦しい。
苦しいが、楽しい。いま一遍を苦しみながら、楽しみながら踊るように学んでいる。

「心に突き刺さるショーペンハウアーの言葉 人生、孤独、悩み、恋愛ほか」(金森誠也:編訳)

→金と時間がたっぷり使われたショーペンハウアー好きの書いたいい本を読んだ。
わかりやすい解説のついたショーペンハウアーのアフォリズム(箴言集/名言集)。
結局、金と時間なんだよなあ。
莫大な金と膨大な時間をつぎ込まないと商品から作品、
思想、哲学まで本当にいいものはできない。結局、人生とは金と時間なのではないか?
多くの人びとは金と時間に追われてあくせくしている。苦しんでいる。
しかし、それは本当の恐怖である退屈と孤独を
見ないための最良の方策なのかもしれない。
金と時間がごまんとあったショーペンハウアーは、
そういう真実を直視し表現する強さがあった。
彼は生活苦にさいなむ庶民から八つ裂きにされかねないことを口にしているが、
彼の言葉の真実性を切実に身をもって感じうるのは庶民のほかにはいないだろう。

「すべての苦しみを地獄のなかに移し替えたあとでは、天国には退屈しか残らなくなる。
このことは私たちの生は苦しみと退屈以外のものからは
成り立っていないことを証明している」(P90)


仏教では天国を天界というが、
すべてにおいて不足や苦労のない金も時間もあるこの境涯は、
退屈という地獄界に落とされているとも言いうる。
いつも「忙しい」が口癖のおじさんやおばさんに大金を与え職を奪って暇にしたら、
かなりのパーセンテージで彼(女)らは発狂するだろう。
ニートなんて病気でもなんでもなく、できるほうが天才なのである。
ニートはニート状態に苦しむらしいが、
これで苦しまず平穏でいられるものがむかしは悟った坊さんとされていたのだ。
時間がない、金がない、と口走っているうちが華で、
いざ生活苦から解放されたら人間は退屈と孤独につぶされ発狂しかねない。
ニートの神さまショーペンハウアーは言う。

「富豪や貴族の生活は実際には退屈に対し、持続的で、
しかも絶望的な戦(いくさ)をいどんでいるだけのことである。
他方下層階級の民衆の生活は困窮に対する絶えざる戦いである。
幸福な中産階級よ!」(P91)


適度に金がなく時間もなく、
しかしそこそこは金も時間もある中産階級がもっとも幸福なのである。
金持は退屈と孤独に苦しみ、
貧乏人は貧窮困窮に苦しみながらも借金等で濃密な絆に縛られる。
ならば、いちばんいいのは中産階級ということになろう。
まったく本当にショーペンハウアーの言うように人生は、
苦しみか退屈かのどちらかである。

「人間の幸福の二つの敵は苦しみと退屈だということは明らかである。
これにつけ加えて注目すべきなのは、
私たちが二つの敵の一つから遠ざかることに成功すると、
もう一つの敵が近づいてくることだ。そしてその逆もまた正しい。
したがって私たちの生活は、この両者の間を強さ弱さの違いはあれ、
振動している状況にほかならない」(P111)


貧乏人が宝くじを高額当選したって、困るだけでしょう?
仕事をしないでいいとなったら、やることがなくなってしまうんだから。
朝から酒を飲んでテレビを見ていても、さほどおもしろいとは思えない。
高額当選が貧乏仲間にばれないか冷や冷やドキドキである。
投資をしようと思っても仕組みがわからないし、
銀座で豪遊しようと思い立っても慣れていないからうまく楽しめない。
結局、孤独になり退屈な時間を持て余すようになる。
金があるやつに寄ってくるのは宗教の連中である。
(どうでもいいが、わたしは人生で一度でさえ宗教勧誘されたことがないってどんだけ?)
ショーペンハウアーは宗教もまた暇つぶしとして悪くないといった不穏なことを書く。
宗教は退屈対策のいい暇つぶしである。

「神々や霊への奉仕はいたるところで現実の生活と入り交じっているばかりか、
現実の生活を曖昧(あいまい)なものにしてしまう。
さらに生活のなかに現れるすべての事件は、
実は神々や霊の作用であると見なされる。
これらの超地上的存在との交渉は生活のなかの重要な要素であり、
絶えず希望を抱かせる。そして幻想の魅力によって
現実世界の事物以上に関心と興味の的となることもしばしばである。
これらの存在は一方で援助と救いを求め、
他方では雑事とひまつぶしを求める人間の二重の欲求の現れである」(P43)


なーんか、とんでもなく身もふたもないことを、
ショーペンハウアーとかいうおっさんは言っているなあ。
お金持とかで変な宗教にはまる人ってたまにいるよねえ。
あの資産家もあの政治家も(……ごにょごにょ)。
そして退屈や孤独に苦しむと、人は幸福アピールを始めるようになる。
いまならフェイスブックやツイッターに、
高級グルメ写真や有名人と一緒写真をあげるようなものか?
しかし、それは本当に幸福かしらとショーペンハウアーは問う。

「自分が他人の目にどのように映っているということではなく、
自分自身に内蔵されているものの価値を正しく評価することこそ、
私たちの幸福に大いに寄与するのだ」(P139)


まあ、それは金も時間もあり、そして才能にも恵まれた男だから言えることなのだが。
一見すると、孤独は苦しみのように思われがちだが、
孤独は自分という宝庫へ分け入る抜け穴ではないか。
すべてが自身のうちに詰まっているのではないか。
宝物や宝石は外にあるのではなく、ほかならぬ自身のうちにひそんでいるのではないか。

「だれしもおのれ自身の本性を維持し、
おのれ自身のために物事を行うのが最善のすぐれた道である。
人はおのれ自身であればあるほど、
したがっておのれの楽しみの源泉を
おのれ自身のなかに見出すことが多ければ多いほど、
それだけますます幸福になる」(P120)


乱交するよりも孤独な自慰行為のほうは豊かではないかという主張であろう。
変態的なことを書くと、
女性の自慰中の妄想こそエロの源泉のような気がしてほかならない。
どんな過激なプレイよりも、おとなしい女性の自慰妄想の中身のほうがエロいと思う。
こういう発想をできるのは、男たる自分のなかに少女も熟女もいるからなのだが。
自分のなかにすべてが詰まっているのではないかというのは、
大乗仏教とショーペンハウアーに共通する思想である。
いまいちばん金がかかるのは交際費でしょう?
このまえバーミヤンのまえで若い男女がワリカンにするかどうかで喧嘩をしていた。
顔面偏差値40程度の醜い男の言い分はバーミヤンでワリカン。
顔面偏差値50程度の女の言い分はワリカンなら帰る。すごい修羅場を見た気がした。
しかし、これが現実で交際費ほど金のかかるものはなく比して孤独は金がかからない。

「おのれのなかに多くの富をたくわえ、
おのれの本質保持のために外部からごく少量の財貨の流入しか必要としない者、
あるいは何の流入も必要としない者は最も幸福である。
なぜなら外部から何物かを受け入れることは費用もたくさんかかるし、
束縛されいやな気持ちになる危険もあるからだ」(P119)


「考えるな!」というのは、おそらく正しい。
踊り念仏の一遍上人もしきりに「考えるな!」と言っている。考えるより念仏せよ。
金と時間を持て余した人間が考えることと言ったら、
他人との比較や孤独感、そして死への不安と相場が決まっている。
ショーペンハウアーのような哲人にしか金と時間を与えるな。
考える人はショーペンハウアーのような天才だけでいい。
凡人は金がない、時間がない、といつもあくせくしているのがむしろさいわいなのだ。
あり余る金と時間ほど怖いものはないことをショーペンハウアーは知っていた。
しかし、彼は金と時間がもたらす退屈にも孤独にも打ち克ったと自称する。

「親ゆずりの財産はそれが高尚な種類の精神的能力を備え、
金儲けとはおよそ縁がないような物事に取り組んでいる人々の手に渡ったとき、
はじめて最高の価値をもつようになる。
なぜならそうなるとこの種の人々ははじめて運命によって二重に恵まれることになり、
おのれの素質を十分に発揮できるようになるからである。
彼らは他人のできないことをなしとげ、人類全体の利益となり、
名誉となるような何物かをつくり出すことによって、
おのれの人類への債務を何百倍にもしてお返しすることができよう」(P129)


ショーペンハウアーは学者を自称していたが、
大学に所属していたのは32歳からの13年間だけである。
それもずっと講師という身分で、彼を慕う学生はほとんどいなかったという。
ショーペンハウアーが世間から認められたのは還暦(60歳)を過ぎてからである。
それを見越したかのように男は皮肉めいたことをそれ以前に書いている。

「名声は長つづきするものであればあるほどそれだけ遅くやってくる。
なぜならすべてすぐれたものは、
ゆっくりと育ってゆくのと同じ事情にあるからだ。
後世までとどろくような名声は、
種子から始まってゆっくりと成長してゆく樫の木に似ている。
一方、はかない名声は一年間ですぐ成長する植物であり、
誤った名声にいたってはすばやく伸びて見せるものの、
いち早くほろび去る雑草のたぐいである」(P154)


名声っていったいどんなものなのだろう?
手弁当で書いた記事をアップすれば毎回のごとく批判愚弄嘲笑コメントが舞い込み、
ネットのみならずプライベートでも
孤独や寂寥感、倦怠感にさいなまされている当方には想像もつかない。
こんな長文記事、だれも最後まで読んでいないだろうから書くけれど、
書籍購入費と労賃(都最低時給換算)だけでも、
ブログ「本の山」には1千万どころではない投資金額がかかっている。
広告報酬なんて月々数百円だから、
なんのためにこんなブログを10年以上しているか自分でもわからない。
ショーペンハウアーの本を読むといつかわかる日が来るような錯覚にとらわれてしまう。