「河合隼雄 全対話5 人間、この不思議なるもの」(第三文明社)

→大学時代から河合隼雄は好きだったから、もう20年近くの関係になるのか。
河合隼雄はなにもしてくれない。
こっちが勝手に本を誤読して影響を受けるというイビツな関係。
どこを分け入っても河合隼雄に行き当たるので困ってしまう。
シェイクスピアを読み込んでいたときも、行き着いたのは河合隼雄。
日本古典文学を読んでいってもどうしてか河合隼雄が現われる。
仏教世界はかなり本気で分け入ったが、
河合隼雄がいちばんわかっているような気がしてならない。
精神ストリッパーの小谷野敦さんふくめ、
みんなが嫌いなノーベル賞寸前作家の村上春樹も河合隼雄とは手を組んでいるし。

河合隼雄の本職はカウンセラー。
きっといろんな成功者、有名人の秘密を聞いたのだろうな。
地元の名士みたいな開業医が、
くだらない中学生が悩むようなことを深刻に悩んでいたり。
父親にすすめられて歯科医になったけれど、自分は本当は
売れなくてもいいから好きな音楽を続けたかったとかさ(中坊っぽいっしょ?)。
地位や財産が人の満足に直接的に結びつかないことを、
カウンセラーほど聞かされる職業はないのかもしれない。
地位や財産よりももっとおもしろいものがある。それは自分という未知の世界だ。
なぜか運よく世界遺産は若いときにまわったほうだが、
どこに行ってもぶっちゃけ、ここだけの話をするとつまらないわけ。
ああ、ガイドブックとおなじだねっていつも思っていた。
おそらく世界を知るというのは名所旧跡をまわることではないのだろう。
世界を知りたかったら世界遺産よりもおのれの心に分け入れ。

「つまり、心とか世界とか分けてるということがそもそも近代的な分割法ですね。
ところが、究極の存在のほうへいきますと、心イコール世界とか、
そういうところへ近づいていくんじゃないでしょうか。
そうなってくると、心の中を探っているのか、世界を探っているのか、もう分からない。
その主客[主観/客観]の分離する以前のところですね。
それといろいろな言葉で言ってるのは、むしろ仏教でしょう、と私は思いますけれど」(P196)


地位や勲章、肩書、財産は客観的存在と言えよう。
貯金1億円は客観的存在でしょう。事故保険金100万円は客観的存在である。
和解金1千万は客観的な数字である。数字というのは客観的世界の象徴かもしれない。
札束のみならずコップひとつとっても客観存在ではあるけれども、
同時に(札束や勲章のみならず)コップもまた主観存在であると言うことができる。

「だから、そのコップの深いところまで見えたときに、それを物語る言葉を失って、
そして通常の言葉で言おうとしますね。
そうすると、私がどう言うかというと、「このコップは神さんです」とか、
あるいは「このコップは一億円で売れるんだ」とか、
そう言うよりしかたがないでしょう。そんな言い方をすると、
みんな「あいつは狂ってる」と、こういうふうになるわけです」(P196)


河合隼雄の言う「主客の分離する以前のところ」とはどこか?
そこから見たらコップが神さんにも1億円の価値を持つとも言えるわけでしょう?
もしかしたら自宅の小さな庭が世界遺産以上に美しく見えるかもしれない。
仏教修行者がたまに到達できる「主客の分離する以前のところ」とはどこか?
それは誕生以前の世界であり、死後の世界のこと、つまり「たましい」の世界である。
赤子は客観として誕生して、しだいに主観を持っていくでしょう?
ご老人は死が近づくにつれ、
しだいに主観を失い(意識もうろう)客観存在(死体)におなりになるわけでしょう?
死後の世界=誕生以前の世界=たましいの世界から見たら、
ひとつのコップを形容する言葉でさえ(具象する絵画でさえ)さまざまなものになる。
主客分離以前のたましいの世界から世間を見てみたらどうなるか?
計算できない、数字に表象できない、たましいの世界のことをときに考えたらどうだろう?
アハハ、なーんかうさんくさい宗教指導者みたいでしょう、おれおれ詐欺(笑)。
しかし、インテリのみならず、みんなたましいの眼を持っているような気がする。
まえの職場で最後までどうしてもダメだったパートのおばさんとかいたけれど、
そういう人にも旦那さんやお子さんがいらっしゃるわけでしょう?
たましいのことでも考えなければ、あのおばさんの夫や子どもは想像つかないもの(笑)。
ある程度みなさん、たましいの眼を持っているから、
そうそう美男美女ばかりでもないのにポンポン結婚する男女が現われるとも言えよう。
なんか、おれ、ひどいことを書いている気がする、やべっ。
インテリぶってまじめにユング心理学のなかでも難しいとされる元型の話をしよう。
元型(アーキタイプ)とは、物語の原初形とでも言ったらいいのか。
人間の心の内奥にひそんでいるとされる物語(ストーリー)の種類(タイプ)である。
パートの口うるさい無学なおばさんの心理的奥底にも、
難解なユングの言う元型が働いているのかもしれない。それはどういうことか?
日本ユング心理学のボスでありカウンセラーの親玉、
河合隼雄が難解な元型について遠藤周作相手にめずらしくわかりやすく語っている。

「ものすごく簡単な言い方をしますとね、
たとえば[カウンセラーの]私は、
人間としてのAさんならAさんという人に会ってますね。
ところが、Aさんの背後に、非常に単純な言い方をしますと、
女神とか神とかが立っているわけです。
それによってその人が動いているわけです。
それがユングに言わすと元型みたいなものでして。
だから、私がたとえばゼウス[ギリシアの神]ならゼウスというものに似通っておったら、
どうしてもいっちょう大きいことをやりたくなってくるし、
美しい女性がおったらふらふらと行きたくなるし、
そういうふうに動いているときに、その人だけじゃなくて、
その背後にいるものも込みで見ていこうと。
そして、その背後にいるものの働きというものがその人を癒すであろう。
私が癒すんじゃなくてね、というふうな考え方をしているわけです」(P168)


これでもわかりにくいっしょ? 間違っているかもしれないことを覚悟で、
わたしがリライトすることを許されるならば、
たとえば(いまはあるのか知らんが)ヤクザ映画。
ヤクザ映画が好きで何度も見ていると、
ついつい(実際のヤクザではなく)ヤクザ映画的な物語に飲み込まれちゃうよねってこと。
俳優の高倉健が好きだと、
ついつい(その実像ではなく)その役者ぶりを実人生で真似てしまうというか。
難解なユングの元型思想をここまで噛み砕いていいのかわからないけれど、
しかし、そんなことをできるのは学者でもなんでもない当方だけだろうから許して。
物語のパターンってあるじゃないですか? 
あれを念頭に置いていると、おもしろいってことだと思う。
カウンセラーは古今東西の物語のパターンをたくさん知っていなければならない。
なぜならクライエント(有料相談者)がどう動くか見立てのようなものがつくからである。
これは小説家が登場人物をどう動かそうかと考えるのとおなじの模様。
権威主義の西欧かぶれ作家の遠藤周作は言う。
(たとえば聖書のような)基本的物語(元型)から逃れることは容易ではない。

「だから、われわれ小説家の場合は、作中人物がひとりでに動き始めたら、
その小説が成功すると言われます。
こっちの操り人形で、右向け右って言って、作中人物が
ぼくの初めのプランどおりにいっちゃうと、これはもうだめになる。
だから、作者の意思に抗して向こうが自由に動き始めたら、
生きた人間になるとは言われますけどね」(P166)


年下の天才的世渡り上手、河合隼雄はこう返す。

「同じだと思いますね。ただそこで、
私の考え、私のアイデアというのはやっぱりあるわけですね。
だいたいこういくんじゃないかとか[元型!]、
この人はこういう解決法にいくんじゃないかと思ってるけど、
向こうの自由にしているわけでしょう。
そうすると、私の考えと向こうの流れとがぶつかるわけですね。
このぶつかりというのはものすごく大事だと思いますけど。
(遠藤「そう。そのとき、えも言われぬ快感があるでしょう。ぶつかったときに」)
そうそう。そして、ぼくの知恵を超えた答えを向こうが出すわけですから、
それはもう感動しますね。しかし、だいたいは相手の知恵のほうが深いです、
われわれよりは」(P167)


一部の人にしかわからないことを書くと、紫綬褒章作家で大勝利者の宮本輝。
宮本輝の若いころの小説は創価学会の物語(教学)に寄り添いながら、
登場人物が作者の筆に逆らっていきいきとしていた。
ところが、いまの氏の小説は「師弟不二」とか創価学会の物語をそのままなぞっている。
だから、つまらないという意見もあるだろうし、
老人富裕読者の大勝利意識を満足させる傑作になっているという見方もできなくはない。
物語というのは、偶然をどう解釈するかだと思う。
自他の人生を物語的に見ていると、小さな偶然に気づきやすくなる。
あなたやわたしがあなただけの物語(人生)をつくりたかったら、
あなたの周囲に起こっている偶然に目配りして即座に反応するしかない。
カウンセラーというのは、クライエントの物語を創作する助手のような仕事ではないか?
なんでもない事象(ささいな事件)を、
意味のある偶然と認識できる優秀な視力を持つカウンセラーが、
いわゆる河合隼雄的な心理療法をできるのだろう(それが効率的かはわからない)。
河合隼雄は自分の職業を「偶然屋さん」とべつの本で呼んでいる。
「偶然屋さん」いわく――。

「だいたい現実というものは、その人がそう思っているだけであって、
いろいろに見えるわけです。現実は偶然に満ちている。
たとえばぼくのところへ相談に来られた人の話をそのまま書いたら、
偶然だらけですよ。途方もない偶然でパーッとよくなったりするわけです。
ところが、ぼくのところへ来られた人のお話ですよということで書いたら、
みんなフーンと思うかもしらぬけれども、
それをぼくが小説にそのまま書いたら、こんな偶然はあるはずがないと言われる。
リアリズム自身ものすごく難しい問題ですね」(P146))


偶然を信じているというのは、自分は仏や神を信仰しているというのと同義だろう。
河合隼雄は元型(物語)の偶然をよく知っていたから、
元型的偶然のみならず元型ではない偶然をも直観することができた。
おそらく、氏のクライエントを癒したのは後者の偶然であっただろう。
偶然は主観的には強い意味があるけれど、客観的には確率的事象に過ぎぬ。
「主客の分離する以前のところ」=たましいの世界から偶然はやってくる。
わたしは河合隼雄にならって偶然に任せて生きていこうといまのところは思っている。
明日から5日間、近所で短期派遣バイトをさせていただくことがさっき決まった。
そこでいただくお金は4万円だが、あるいはたましいの領域では300万円かもしれない。
単純労働世界のようだが、あるいはそこで、
最前突発的におもむいた1週間の韓国旅行よりも
はるかにおもしろい経験ができるのかもしれない。
わたしは偶然を深く信じていた「偶然屋さん」の河合隼雄さんの本に、
いままでどれだけ助けられてきたことか。20年近く見守られてきたという錯覚がある。

目標は老後という人が(とくに男性に)大勢いるような気がします。
老後のために生きる。現実として、
わたしは老後のために生きている65歳の人も70歳の人も存じ上げています。
老後に好きなことをしたいなあ。
でも、実際、好きなことなどありはしない。なんにもありゃしない。
好きなことは若いうちから育てないと本物にはなりません。
75歳になって海外旅行なんて行く気になりますか?
行ったってパックツアーでしょう? お金があったら豪華ツアー?
そんなの日本にいながら海外の映写を観ているのと変わりないではないですか?
どうせ口に合うのはもう日本食だけでしょう?
いまは老いも若きも老後のために生きているような気がします。
老後にしたいことなんてなにもないのにもかかわらず。
そんなことを老後にしてもおもしろくないとわかっているのにも、それにもかかわらず。
老後に読書をしたって海外旅行をしたって、なんにもありゃせんよ。
それに老後っていつから来るんだい? 
80近くなっても老後老後と若ぶっている老権力者の多いこと、多いこと。
老後信者は、その先の死後を考えないのが特徴のひとつ。
どうせ死んでしまうのだから、いま好きなことをやれ。
死んでしまったらいまのあなたの名誉肩書地位財産はゼロだからな。
老後よりも死後のことを考えてみてはいかがですか?
いまから老後のことを考えている青年とかぞっとする。いるんだから実際。
どうして老後の先の死後をみなさま考えようとなさらないのでしょうか?
昨日でお菓子関連の派遣仕事はひと区切り。
事務所の方に来週の水、木も入りたければ、というありがたいお言葉をかけていただく。
「使える/使えない」レベルの話をすれば、まったく使えないにもかかわらず。
本当に事務所のYさんにもTさんにもお世話になったと思う。
一度辞めたいと言ったときにYさんとお話する機会があった。
この年齢の女性はこのような考え方で仕事をなさっているのかと勉強になった。
だからといって、いきなり職場放棄をしていい言い訳にはならないけれど。
最終日の帰りはいつものようにEさん(65歳)、Aさん(57歳)といっしょ。
なんでもEさんが来週も5日入れるようになったらしい。
Eさんはわたしが枠を放棄したせいだと言っていて、本当はどうかわからないが、
もしそうだとしたらわたしが辞めることで、
結果的にお世話になったEさんのお役に立てたことが嬉しい。
別れ際、Eさんからは「すぐ働いたほうがいいよ」と含み笑いをしながら言われた。
Aさんからは「しばらくぼんやりしていればいいんじゃないの。
ツッチーはツッチーでいいんだから。ツッチーがいなくなるとさみしいなあ」――。
そんなお言葉をかけていただく。
Aさんとは今月30日に再会して酒をのむ約束を交わしている。

最後までわからなかったのは、職場の人のどこまでブログがばれていたのか?
別のラインで大声でわたしのブログの話をしている声が聞こえてきたことがあるから、
だれも読んでいなかったということはありえないと思う。
しかし、文章を読むのが嫌いな人は多い。
読んでいる人はいるが当人がどのようにだれに口伝えしているかまではわからない。
そのうえ文章というものは読む人によって解釈がかなり異なるところがある。
話し言葉も書き言葉もほぼ正確には伝わらないと思っていたほうがいい。
わたしのブログを読んでいる人がいることは嬉しかった。
そりゃあ、自分たちの職場のことを書かれたら読まざるをえないのだが。
しかし、文学。たとえば、純文学。
かりにわたしが純文学作品を書いて万が一にも新人賞を取ったとしても、
あの職場にいるような人たちは読んでくれないでしょう?
そもそも新人賞作品なんて出版されなくてもおかしくないし、
たとえ書店に並んでも売れるのは2、3千部と聞く。
ブログだったら無料だからだれにも手軽に読んでいただける。
9割以上の日本人は本を読む習慣がないのだと思う。
しかし、無料のインターネットだったら、
という希望のようなものが活字世界にもあるのではないか。

かなりお若いNさんという、とても親切にしていただいた若者がいる。
「おれなんかヤンキーのようなもんだから」と別ラインから声が聞こえてきた。
そのNさんがわざわざわたしに近づいて声をかけてくれたのである。
もう仕事を辞める直前である。
そのとき当方はチョー楽勝な箱作りをけっこういいかげんにしていた。
「土屋さんはいまなにを考えているんですか?」
「いやあ、働く意味ってなんなのかなあって」
Nさんは大笑いして去っていった。わたしも笑った。
元ヤンキーだろうがなんだろうが、いましっかり働いているのなら立派だよ。
新米おじさん相手に威張ったりもしないところはとても心根がいい。
これはほかの同僚にも言えることだけれど、
私服を着ている通勤時に逢うとみんなどこか心細そうなのね(Aさん、Eさん以外は)。
しかし、いざあの変な白衣を着るとみんな別人のような凛々(りり)しい職業人の顔になる。
いちばんそれが激しかったのは、わたしと遺恨があったとされるSさんかしら。
通勤時のSさんはこう言ったら失礼だけれど、さえないおじさんといった感がある。
だが、ひとたび職場に入ったら本当に生き生きした男のなかの男という顔になる。
仕事をしているときだけ生き生きするという人がいるのだろう。
あっちゃんも食堂で顔の白衣を脱いでいるときはすごいかわいいけれど、
通勤時にすれ違ったときはどこにでもいる子という気がした。
ミッキーもとくにそういうところがあった。
職場ではとても頼りになるおねえさんだけれど、
通勤時にあいさつをするとふつうの女の子だなあっていう。
おそらくわたしは正反対だったと思う。
職場では自信がないし、どこか腰が引けた、やる気のない顔になってしまう。
一歩職場から出ると、素の自分に戻り、好き放題を言うようになる。
とくにセブンイレブンで第三のビールを買ってからは、生き生きとした本音の連発。
おとといだったか、「ツッチーはビールをのむと別の顔になるねえ」と言われた。
職場から出た瞬間に顔つきが変わるとも。Aさんからだったか、Eさんからだったか。

このあたりに「働く意味」のようなものがあるのではないか?
たとえ職場以外では、どこにでもいるような人間が、いざ働くと固有の顔を持てる。
プライベートの時間よりも、働いているほうが生き生きできる。
仕事をすると「役に立つ」というのは、むろん人の「役に立つ」こともそうだが、
自分という「役に立つ」ことができるのも「働く意味」のひとつではないか?
自分という役を職場で演じることで生き生きできる人がかなりの割合で存在する。
プライベートでは女性とろくろく会話を交わせないような男性も、
職場においてはやたら饒舌にペラペラとおしゃべりすることができる。
なぜなら、職場では役割がかなりのところまで固定しているからである。
役割においてコミュニケーションができるのだ。

調べてみたら去年の12/14から今年の4/14まで、
とあるお菓子会社で派遣として働いたことになる。
お給料はいくらもらったのか知らない(通帳を見ればわかるのだが)。
おとといだったか、
Eさんに聞いたら給与明細はネットで見(ら)れるようになっているとのこと。
わたしがいまの派遣会社に登録したのはずいぶんむかしだから、
そういうことは知らなかったし、給与明細とかどうでもいい。
基本的にそういうところでは人や会社を信じているところがある。
ちょうど4ヶ月働いたのかあ。
そのあいだにクリスマスがあり、お正月があり、バレンタイン、ホワイトデー、ひな祭り、
それからお菓子会社はそういうものらしく(事前に商品を準備する)、
一足お先に子どもの日や母の日まで経験させていただいた。
まえに何度も書いたが、この4ヶ月をひと言で要約すれば、とにかくおもしろかった――。
いやなことがなかったといえば嘘になるし、
むしろわたしのほうが周囲に迷惑をかけたケースが多いのだろうが、
そういうマイナス面がいまとなるとじつにいい想い出になっているのである。
そつなく仕事をこなしてみんなともうまくやって辞めた――だったら、
こうまでいい想い出にはなっていない気がする。

北戸田最終日の想い出。この日は朝からしんどかった。
前日にブログを大量更新して夜更かししたため。
最終日はいちばん楽な箱だし。
つぎの仕掛け品はいまだ苦手な(お菓子の袋)詰めかなと思っていたら、
それまで供給をしていたAさんがやってくれるとのことで、
またまたいちばん楽な段ボールをさせていただいた。
昼休みの話。Aさんにくっついて喫煙コーナーに行く。
天気は晴れでポッカポカ。春爛漫。
そこにいたのはHグループ長、因縁のあるSさん、Aさん、わたし、
それからむかし案内嬢で高給を取っていたという女性。
わたしはSさんとのことでHグループ長にご迷惑をおかけしたことがある。
HさんともSさんとも、ろくに話をできなかった。
わたしはHさんはむろんのこと、Sさんも独特のその味わいが好きなのである。
Hさんも、Sさんとわたしが同席していることから関係改善を見て取ったことだろう。
だれもなにもしゃべらなかった。春の日差しは暖かかった。
しかし、これはこちらの勝手な感傷だろうが春が来たという平和な幸福感に満ちていた。
わたしの勤務最終日はそういう日でありました。

この日は17:30勤務終了だったのだが終わり5分まえごろ、
おなじ派遣会社の顔なじみの女性から「お疲れさまでした」とお声をかけていただく。
まるで今日が最後だと知っているかのような口ぶりだったが、
深い意味はないのかもしれない。
きれいなお別れをできたのではないかと思う。
わたしは派遣先のお菓子会社にも同僚にも、
紹介してくださった派遣会社にも感謝している。
3回行かされた川口工場のほうではいろいろ知ってしまった面もあるが、
お世話になった以上、相手の不利益になることは書かない。
北戸田に入ったとき思ったのは、ここで自分は大量にお菓子を破損させるのではないか?
しかし、運よく最後までそういう大惨事は引き起こさなかった。
別れのどこがいかといったら再会があるからである。
いつかもう一度、北戸田のみなさまと再会したい。
たとえば今年のクリスマス付近の繁忙期(あるいは人がいない年末年始)に、
どの1日でも構いませんからスポットで入れてくださいと、
派遣会社のSさんに電話してお願いしたら、入れてくれないこともないと思う。
そのまえにどうしても人が足りない日が来ちゃうかもしれませんけれど。
ご存じでしょうが、中国語の「さようなら」は「再見」である。再び見(まみ)えよう。
北戸田よ、さようなら! ありがとう! 
「退職勧奨」されたのに失業保険をもらえないという憤懣を北戸田は消してくれた。
北戸田に救われたという面もなくはない。あばよ北戸田! 再見!

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秩序や決まり事というのはたいせつなんだなあ。
今日、職場に本社のお偉方が集まって説明会のようなものが開かれた。
これを経験するのは2回目。
スーツ姿のお偉方がわれわれ作業員と一堂に会する。いい職場ではありませんか。
ショックだったのは、作業員の同僚。
けっこう嬉しそうな顔をしていた人が多かったのである。
やっぱり全体の目標を達成するとか、
人の役に立っているという幻想みたいなものは人の生きがいなんだなあ。
というか、おれはもうダメダメ。ライン最後のGS25。これは想い出深い。
そういえばむかしこれをやったなあ。そのときの担当もお若いイケメンTさんだった。
わたし、この人のこと好きなんだけどね。
むかしもたしかGS25のあそこをやれなくてTさんに助けられたなあ。
「落ち着いて、あせらず」と言われたのをいまでもよく覚えている。
結局、成長していないのね。努力が足りないのかなあ。やる気がないのかなあ。
クッキー3枚×2とフィナンシェ2くらい入れられないダメなおれ。
いくらやっても成長しないおれおれ? おれおれ詐欺?
おれ、最後まで使えなかったな、というおのれの役立たずぶりが身に染みた。

もうラインをとめないためにメチャクチャでもとりあえず入れたから、
検品さんとあわせる顔がなかった。
できないことってあるんだなあ。努力が足らないんだろうなあ。
そこに救世主、あらわる。あせって横を見る余裕もなかったが、ちらっと見るとミッキー。
あれ? 今日はCラインの段取りではないのでは?
ああ、助けられたと思いましたですね。
むかしは困った女の子を男が助けるのが定番パターン(物語)だったけれど、
いまはいまは……。おれ、今日もまたミッキーに助けられちゃったよ。
記憶をさかのぼるといまの職場でいちばんお世話になったのはミッキー?

結局、ダメなままで終わったなあ。
でも、当日欠勤は一度もしなかったから、それでお許しください。
遅刻は1分一度して、事務所の方がお見逃しくださった。
なんかみんな偉いし、ありがとうっていうインチキくさい謙虚な気分。
一度も長時間ストップしなかった埼京線ありがとう。
北戸田の女子高生さまたち、ありがとうございます。少しだけ、やる気、出た。
みんな毎朝通学して、やりたくもないしやっても意味がない勉強をしているんだろうなあ。
きっと生きるってそういうことなんだろうなあ。
「今日からシナリオを書くという生き方」(小林幸恵/彩流社)

→わたしの本当の師匠はシナリオ・センター社長の小林幸恵先生かもしれないなあ。
この人には対面でも怒鳴られ、電話でも怒鳴られ、偉い人というものを知った。
世間というものを教えてくれたのがシナリオ・センター社長の小林幸恵先生とも言える。
この人、わたしにはものすごく偉そうなんだけれど、
肩書が上の人や社会上位者にはやたら愛想がいいんだ。
やたら人にシナリオを書け書けと言っているけれど、自分は書かない。
それを指摘したら大声で怒鳴る。あたしをなめるなよ、みたいなことを言う。
小林社長は営業経験もないのに、
営業マンに営業の仕方を教えていると本書で自慢している。
小林幸恵さんってどうしてこんなに偉いんだろう。
答えは、シナリオ・センター創設者の新井一の娘だから。
どうやら新井一とやらは三流商売脚本家でむかし売れっ子だったらしい。
で、シナリオ学校をつくった。新井一の娘は小林幸恵。
父親が死んだあと小林幸恵はシナリオ・センターの社長になる。
社長だから小林幸恵は偉い。人に説教できる。
最近、小林幸恵の息子の新井一樹が副社長になったらしい。
新井一樹もまたシナリオを書いたこともないのにシナリオを教えている。
ろくな社会人経験もないのに、ビジネスリーダーを気取って講師をしているとのこと。
わたしが小林幸恵社長を師匠ではないかと思うのは、そういう世間を教えてくれたから。
世の中、結局そういうもんじゃないですか。
天皇陛下のお子さまは天皇陛下におなりになるでしょう?
成功者のお子さまはかならずといっていいほど大企業に入社する。
小林幸恵先生の偉さがわかるのが、世間を知るってことなんだろうなあ。
いまのわたしは小林幸恵さんを人生の師匠のひとりだと思っている。
なぜなら成功者のお嬢さんで富裕層だから。
なぜなら既得権益を持つシナリオ・センターの社長さんだから。
なぜなら、なにより偉そうで、目下のものと判断すれば大声で怒鳴ってくるから。

師匠の名言をありがたく拝聴したい。

「相手の意見とか気持ちとかをきちんと聞く耳を持っている人は本当に少ないものです。
でも、これではいけないのです。
人間である限り、コミュニケーションをとる手段を持っているのですから、
それを生かさなければ、人間としての意味はないのでしょうか」(P49)


よく言うよ。あなた、わたしの声をいっさい聞かなかったでしょう?
電話しても怒鳴るばかり。
おたくの受講生がわたしの悪口を2ちゃんねるに匿名で書いているのですが、
責任者としてどうにかしてもらえませんか?
こう電話で聞いたときも無視されたなあ。
先日調べてみたら、いまも2ちゃんねるにおたくの生徒がわたしの悪口を書いている。
明日でもシナリオ・センターに電話したら社長は聞く耳を持っているの?
しかし、世の中とはそういうものなのである。
偉い人は偉い。偉い人のお子さんやお孫さんはお偉い。逆らっちゃいけない。
そういうことを師匠は教えてくれたんだなあ。

「人にはさまざまな意見や考え方、見方、感情があって、
また育ち方や環境によっても違ってきます。
そんな当たり前のことが、普段は気がつきにくいのですが、シナリオを書くことによって、
しっかり見えるようになるのです」(P82)


じゃあ、自分が書けばいいじゃん?
そんなことを言えるのはむかしのわたしくらいだが、言ったら怒鳴られる。
世の中は、本音と建前で成り立っているのである。
小林師匠からは、自分はすごいブログを毎日更新しているから読めと言われたなあ。
で、8年まえくらいに読んでみたら、すげえ金持なんだ。
食っているものが高級レストランで、桁がぜんぜん違う。
ふふふ、世の中ってさ、人間ってさ、そういうものなんだなあ。
いまのわたしは師匠の教えがよくわかる。あの人の偉さもよくわかる。
だって、地位も肩書もお金もコネもぜんぶあるんだから、そりゃあ偉いわなあ。
世の中ってそんなもんだぜ。あの人は世間をよく知っていたなあ。
師匠いわく、本音と建前をうまく使え。

「……ちょっと見方が違った人がいても。決して拒否はしない。
そういう見方もあるのねと、まず受け入れることです」(P94)


表ではきれいごとを言って、密室の裏では態度がぜんぜん異なる。
人間ってそんなものだし、そんなことも知らなかったむかしのわたしが恥ずかしい。
「あんた辞めなさい」とか社長先生から言われたもんなあ。
しかし、それが正しく、人間というにはそういうものである。裏表があるものである。
いまは小林幸恵社長を師と仰いでいるから、先生のまえで土下座もできる。
先生のほうが正しかったといまは認められる。過去を反省している。
小林幸恵先生のおっしゃることはなにもかも正しい。

「所詮、この世は男社会。
戦いの中に生きてきた男たちは、相変わらず肩書社会に生きています。(……)
女同士は井戸端会議と称しては、亭主のグチから人の噂話を、
生活の中でうまく取り入れて人間関係を築いていっています。
肩書きも何もかも取っ払い、その人自身で人の前に立つことができない男たち。
男性はきっと女が考える以上に不器用なのでしょう。
組織の中で弱みを出せず、グチもはけず、
ただ溜め込んで今に至るため、
いまだ自分を解放する方法を知らないまま来ているのです。
ですから、友達もできない」(P186)


言うことはいちいちごもっともだが、
小林さんは「新井一の娘」「社長」という肩書を取っ払ったらなにがあるの?
シナリオを書けないのに、シナリオを教えている変な人でしょう?
しかし、こういう方こそが本当の成功者で勝ち組で尊敬すべき偉人なのである。
いまのわたしはようやくそういう世間の事情に気がついた。
もしかしたらちかぢかシナリオ・センターに電話して、
尊敬している師匠先生に過去のお詫びをするかもしれない。
事務所のやつらはちゃんと取り次げよ。電話ガチャ切りはやめろ。
折り返し電話をするのが社会のルールだからな。
持つべきものは師匠である。
わたしの師匠のひとりは新井一のお嬢さんで社長の小林幸恵先生だ。
いまなら師匠の偉さがわかる。ありがとうございました。

「踏み越えるキャメラ」(原一男/フィルムアート社) *再読

→わたしの師匠といえば、
いやがおうにもドキュメンタリー映画監督の原一男先生しかいない。
師匠だなんていまは思いたくはないけれど、影響を受けすぎているのだから仕方がない。
なぜならいまわたしがこのブログでやっていることは、まるで師匠とおなじだもの。
違うものは持つもので、キャメラを持つか、ペンを持つか(キーボードを押すか)。
わたしの現実を書いていく。なぜなら、つまらないからである。
おもしろいことが起きないかなあ、
と思いながらふつうなら実名では書いてはいけないことを書く。
そうすると現実のほうから反応が返ってくる。
それがおもしろいからそのなかから書ける範囲ぎりぎりで書きたいものを書く。
そうするともっと世界もおもしろくなるというか、少なくとも退屈ではなくなる。
人の隠されたいろいろな面が見えてきて、まあ、おもしろいわけだ。
どうやら原一男先生もむかしは葛藤オタクだったようだ。
シナリオ・センターのアルバイト講師たちのようにドラマは葛藤だと思っていた。
むろん、ドラマは葛藤というのは正しい。
なんにもないよりはせめて葛藤(喧嘩)があったほうが非日常性を楽しめる。
どうしようもなくわたしは原一男の弟子なのだろう。

「アクションしていくなかで、そこで相手といろいろ葛藤が起きる。
その葛藤こそがまさに生きていく人生のドラマにほかならないだろうと。
僕らの映画はそのドラマを描きたい。
つまり、何々問題を描きたいということよりも、かかわっていくとき生じる劇的なもの、
ドラマにほかならないもの、そういうものこそ僕の求めているものなんです。
ある出会いがあって、相手に惚れて、キャメラを回したくなる。
だけど、キャメラを回す以前に、どうでもいい問題は全部処理しちゃいたい。
ここから先がおれたちわからないから、だから知りたいんだよ、
というところでキャメラを回す」(P122)


キャメラのみならず言葉で人をアジテート(刺激)することもできる。
むしろ、キャメラなんかよりも言葉のほうが人間の深層に突き刺さるであろう。
言葉の羅列――つまり文脈(=世界の見方)というのは、人から習うしかないのである。
それぞれの持ち分にしたがいそこそこうまく回転していた初期経済世界を、
労働者と資本家の対立(葛藤)と文脈づけたのはマルクスだ。
そういう文脈をおぼえると、それが影響力があればあるほど、世界が変わる。
みんなおなじような文脈で話すようになる。
だから、キャメラを回すのもいいが、
言葉をブログに公開するのも大げさなことを言えば世界革命につながっている。
オーバー過ぎてお笑いになる方が大勢いらっしゃると思いますけれど。
ネットは危ない。映画も出版も発声から公開まで時間がかかるが、
ツイッターやブログ等のSNSは現在進行形に影響を与える。

「キャメラ[言葉]を、過去がどうでしたかということじゃなくて、
現在進行形の中に過去の問題も全部ほうり込む。
現在進行形で起きるその中で何を見ていくかということでやろう、って意識。
そうすると何が起きるかわからない」(P123)


だから、おもしろい、本当におもしろい。
なにが起きるかわからないという状況は非常にとってもおもしろい。
おもしろいことはいいよなあ。
とりあえずのゴールのようなものは必要である。
原先生も映画を製作するとき、なんとなくはゴールを決めているという。

「そこ[ゴール]へ行くまでに何が起きるか、自分自身がどういうふうに変わっていくか。
自分自身がまさにそのゴールへ向けてアクションを起こしていくんだけれども、
自分自身もどういうアクションを起こしていくかわからない、
だからおもしろいんじゃないか、じゃあやってみようぜっていう、そういうノリですよ」(P124)


たとえば職場のことをブログに書く。
ブログに書きたいと思うと、なんらかのアクションを起こさざるえをえない。
そうするとアクションが返ってくる。それにどうアクションしていくか。
それは自分でもわからない。
とりあえず自分から出てきたアクションをたいせつにしよう。
アクションしないと世界の仕組みのようなものはわからないじゃないですか。
こういうアクションをすると会社では多くのものは上に告げ口するとわかる。
そういうことで女性社会は告げ口のようなもので回っているとわかるわけ。
告げ口されると上が飛んでくる。上のアクションでさらに世間というものがわかる。
目が点になっている上司とか見ると不謹慎だが、ごめんなさい。おもしろいっす。
女性労働者は告げ口が好きなんていうのも、
アクションを起こさないとわからないわけだ。
そういうことで世界や世間を知っていくことで、わくわくするっていうかなあ。
ああ、本当はこの人とこの人は仲が悪いとわかる。
そういうのっておもしろいじゃないですか。
それをおもしろいと思うのは、生活者としてどうかという問題は当然あるけれど。

原一男先生の本をひさびさに再読して、むかし(70年代)はよかったなあと思う。
むかしは世界を自分たちで変えられるという幻想がまだ濃厚に生きていた。
だからかどうかわからないが、人が人に逢いに行く時代であった。
原さんの若者時代というのは、おもしろそうだと思ったら、
すぐその人に逢いに行くのね。逢うというドラマがむかしはかなり強く存在した。
いまはなかなか人と人が逢わない。つまり、ドラマがない。
わたしが働くのは小金がほしいのもそうだけれど、
人との出逢いを求めているところがある。
いまは左翼活動みたいなものがないから、そうそう強烈な宗教活動もないし、
したがって人と出逢いたかったら働くしかない。
けれど、生活者ならぬ表現者は働くのがめんどうくさい。
わたしは原一男さんと学生と教授という立場で邂逅(かいこう)したが、
早稲田大学は度量が大きいというか、
よくこんな定時制高校卒のグウタラを雇ったものだと思う。
でも、わたしが人生で師と言えるのは原一男先生だけだから、
長らく早稲田は校歌もふくめて好きではなかったが、いいところもあるじゃないか。
働くのってめんどうくさいよねえ。早稲田新卒カードといえばかなり強いでしょう?
「就職なんかしないでフリーターでもして好きなことをしていけばいいんじゃないか?」
そんなことを言う教授も教授だが、真に受ける学生もクルクルパーだ。
わたしは原一男先生のアジテーション(扇動)に心底から揺り動かされたなあ。
いまは国家権力の象徴ともいうべき大学教授を
長らくお続けになっている原一男先生はいいかげんな若者だったのである。
なんでこんな人を師匠にしてしまったのかと、かなしゅうなるわい。

「働きに行くのもいやでね、とにかく金がなくなるまで働かない。
金がなくなったらまず質屋に行く。
キャメラがあったから、キャメラを質に入れるんです。
その金もなくなったらしょうがないから働きに行く。
それで二、三日働くと、現金でお金くれるから、
そのお金を使い果たすまでは働きに行かない。
それでも家賃を払わなきゃいけないとかなって、しょうがないからじゃあ働きに行くか、
ってな状態でまた働きに行く。お金もなるべく使わない。
下高井戸ってけっこう物価が安かったんだけど、
安いなかでもいちばん安い魚屋さんへ行ってアラか何か買ってきて、
ひっそりと食事をして、
それで暇なときには乳母車を押しながら近くをとことこ散歩していく、
そういう生活を数年してた。
小林[奥さま]も基本的には働いてなかったんだけど、
さすがに僕が働くのをいやがるもんだから、
「じゃあ私、アルバイトに」なんて、ときどき行ってた。
そういう生活をするなかで、やっぱり映画人の知り合いができた。
年齢的には僕とそんなに変わらない人、一つか二つぐらいしか。
そういう人がピンク映画をやってると。
そこで、「撮影助手を探してるけど、やるか」ってなもんで、
じゃあ生活費稼ぎもあるし、
まあ、映画の技術もやっぱり勉強したほうがいいかというふうに思ってたから、
声がかかれば仕事をする、というような感じでぽつぽつ仕事を始めたんです」(P145)


知り合いができるかどうかって運だよなあ。
むかしは知らない人からメールがけっこうひんぱんに来たけれど、いまはまったく。
自分からもっとアクションを起こしたほうがいいのはわかっているのだけれど、
そこはそれで、まあ、そういうわけで。
わたしなんかもうすぐちょーヒマになるからメールを1本くれれば、だれとでも逢う。
最近、メール来ないなあ。
だから、アクション。おもしろそうなところで働く。知ったことをブログに書く。
書かれたほうはたまったもんじゃないかと思うが、
こちらは基本的におもしろかったことしか書かないから、
基本的には書く行為には原さんとおなじように「愛」めいたものがある。
書かれたほうもおもしろいことをしはじめてくれるのである。
人から期待されると期待に応えたいとどこかで思うところってないかなあ。
悪役だったらもっと悪役に徹しようみたいな。
正義のヒーローは正義をアピールしたくなるというかさ。
実名ブログ表現はとても危険だが、しかしおもしろい。
むかしの原さんのドキュメンタリー映画のようにである。
どこかにキャメラ(視点)があると、敏感な人はオーバーアクションをするようになる。
先生の代表作「ゆきゆきて、神軍」の主役は奥崎謙三という犯罪者である。

「だから、奥崎さんも、最初は僕のキャメラワークをそんなに意識しなかった。
だんだん、どこでどういうふうに撮っているかというのを、
撮られる側が判断することはそんなに難しくない。
いまキャメラがどこにいて、どういうアクションを、
自分にキャメラを向けてねらっているかというのは、撮られてる側もわかってくる。
ああ、こういう場面をねらってるのかと、
それをずっと続けていくと、どういうふうに演じればこの人は回す、
というのもだいたいわかってくるんです。そういうもんですよ。
そんなに難しくない、隠し撮りしてるわけじゃなくて。
で、撮られる側がそれを計算できるようになる。
それはでも、そのことをいいとか悪いとかって、
そういうふうにいい・悪いのレベルで論じるんじゃなくて、
わかってくるもんだよということなんです。
で、わかってきちゃったらそのキャメラの前の人間はどうするかと。
わかてなおアクションを続けるんだから、やっぱりね、
演技しちゃうというのはこれはもう理の当然というか当たり前のことなんですよ」(P190)


そのようにして撮ったドキュメンタリー映画はすべてフィクションだと原さんは言う。
だって、日常風景を撮影してもつまらないじゃない?
会社の日常なんてどこも退屈でしょう。
「プロジェクトX」みたいなことなんてどこにもない。
毎日、毎日おなじことを繰り返して、つまらないなあ、
というのが本当のドキュメンタリー(記録映画)。
でも、それでは撮影しているほうも観客もつまらない。
このため、人はフィクションを志向する。
現実だけではたまらなくなった。嘘でもいいからドラマのようなものを希求したい。
これが原一男のアクションドキュメンタリーである。
映像作家も文章作家も現実がいやでフィクションを創造するのだろう。
原一男が奥崎謙三のつぎにキャメラを向けたのは作家の井上光晴である。

「奥崎謙三の場合はナマの部分はいくら出てもかまわない。
ところが、井上さんはやっぱり作家だからねえ。
これはあとで気づくんだけど、やっぱり虚構の人だから、
ナマの自分は絶対出したくないんですよ。
必ず虚構というフィルターを通さないと、
井上さんという人はナマの自分を出せない人なんですよ。
やっぱり作家なんですよ」(P233)


わたしは作家でもなんでもないが、ナマの自分は文章には出せない。
文章はぜんぶかくありたいというフィクションを求めてしまう。
いったい表現とはなにか?
大学時代、原一男ゼミの課題は「私にとって表現とは何か?」であった。
当方は課題を出せなかった。
いつか出そうと思っているうちに、あれから18年が経過してしまった。
原一男にとって表現するとは――生きること。
なんのために表現するかといえば、自由になるため。
おそらく本当の自分を出すことが表現することで、
本当に生きるということなのかもしれないなあ。
むろん、生活者はそんな悠長なことを言っていられないけれど。
自分を知りたい。自分を変えたい。表現をすると――。

「自分自身が変容する、変わったというふうに言っていいかどうか。
結局のところ、つまり、解放ということ、
自由であるということはどういうことかというふうになるけど、
やっぱり、何かを超えたから
それ以後はずっと自由でいられるということでは決してなくて、
非常に劇的な何かを通過して、通過した直後のある感覚っていうのかな、
そういう感覚というのは時間の軸からも、えらくこだわっていた空間の軸からも、
フッ、と解き放たれる瞬間というのがあるような実感がします。
(……) 人生において、そういうことが不断にあればいいんだけど、
不断になんか絶対にないからね。絶対にないんですよ、日常の中では。
だからより劇的なものを求めて、
じゃあ次の映画をつくろうかというようになっていくのであってね、
ないですよ、日常的には、そんなものは」(P283)


映画監督の原一男さんが日常にはないとおっしゃる、
日常における小さな劇をおもしろおかしく、
しかし真剣に描いたのがテレビライターの山田太一さんで、
わたしは氏のドラマが大好きなのだから困っちゃう。
原一男先生は人間としてとても魅力的で影響を受けたが、
師匠の映像作品は何度観てもどこがおもしろいのか弟子には理解できない。
大衆的な山田太一ドラマのほうがおもしろいよなあ。
突き抜けていない、もっと言えば不自由な、
市井(しせい)を生きる小市民の喜びや悲しみのほうがおもしろい。
しかし、山田太一ドラマにもそんなものはくだらんじゃないかという視点もあるから、
自分というものが中年になっても定まらない。
いつか原一男先生に課題を提出しなければならないとはいまでも思っている。
むろん、直接手渡しするとか、そういう形式ではなく。
表現とは自分の生き方ならば、とりあえず生きていくしかあるまい。

(関連記事)↓「原点回帰」←原先生との想い出を書いた10年以上まえの記事。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-541.html

あと2回、北戸田に行けば終わりかあ。
いましみじみ思うのは、別離のよろしさ。
もうあの人ともこの人とも逢うことはないと思うと、
どの人にもいまから懐かしい思いを抱ける。
この生別からわかるのは、死別も決してマイナスだけではないということ。
いつか死ぬんだと思うと、世界の小さな美しさに気づくよねえ。
なんかガンで余命を告知された患者のようなことを言っているけれど。
いままで自分のことを善人だと思ったことはない。
しかし、「土屋さんは人がいいから」と今年に入ってから何度か複数の人から言われた。
たしかに今後、電話で「北戸田に行ってください」と派遣の人からお願いされたら、
わたくしごときに(お願いなんて)という思いから断れない変な人のよさがある。
あさってからは自由の身。さて、なにをしよう。
長らくできなかった好きなことをしばらくしたいなあ。好きなことがあって本当によかった。
ああ、別れっていいなあ。そういえば卒業式の歌には好きなものが多い。
人が出逢う理由って別れるためかもね。人は死ぬために生まれてくる。
あはっ、日雇い派遣が哲学をしてみました。あと2日かあ。いいなあ、この感じ。
長いあいだおなじ職場で働いているとヌシになるわけだ。
一部のヌシにとってはヌシという身分が重要なのである(全員ではない)。
ほかに給料や待遇のいい仕事があっても、ヌシといういまの身分を手ばなしがたい。
ヌシにはかなりのことが許される。ヌシの特徴はヌシアピールである。
もうひとつの特徴は「人のミスには厳しく、自分のミスには甘い」。
わたしはいま現在は「人のミスにも甘く、自分のミスにも甘い」。
わたしがスポット派遣さんに厳しい注意をした報告例なんて一度もないでしょう?
なぜなら自分もミスをするから。このため人のミスにも甘い。
ヌシのミスもかなり見てきたが、みなさんご自分のミスには非常にお甘くいらっしゃる。
しかし、ヌシのなかには人のミスに異常なほど厳しく当たる人がいる。
ヌシたちだってほかの職場へ行けば、そこの(一部の)ヌシたちから総攻撃される。
それを無意識的にわかっているから、
経験年数から仕事に慣れたヌシさまはいわば給料外報酬として新米のミスを
見た瞬間に喜々としておのがアイデンティティの叫び声として偉ぶるのだろう。
世の中そんなもんだ。まったくまったくめんどうくさい。
今日は「目つきが悪い」とお叱りを受けたが、
ヌシさまはさぞかしいいお目をしていらっしゃるのでしょう。
このヌシからはもう4、5回からまれているので、
あさってが最後でわたしは消えるのでさぞかしお喜びのことでしょう。
いきなりぶつかってきて「女に暴力を振るうの!」と言われたのが最初だった。
もう疲れました。あとはお好きなようになさってください。
いちおうあと3日働いて、いまの職場はフィニッシュと聞いている。
12日(水)、13日(木)、14日(金)でお菓子倉庫は終わりと
いまはスポット派遣なのでシフト表をもらっていない。
このため、いつだれと最後のお別れとなるか当方にはわからない。
あんがい、そのほうが湿っぽくならないでいいのかもしれない。
去年の12月末に急に入れていただけると派遣会社からご連絡があり、
年末年始だけかと思っていたらいろいろなことがあり、
3月で終わりという話だったが、4月14日まで伸びた。
いま振り返ると、おもしろかったなあ。
まえの仕事より給与も待遇もダウンしたけれど、おもしろさはこちらのほうが上。
いま振り返ればまえの仕事の給与とか待遇(有給等)とか奇跡的ホワイトだったんだなあ。
いまの職場がブラックというわけでは断じてないけれど。
ちなみに疲労度も前職よりも、
なぜか軽作業しかしていないのにいまのほうが高い(疲れる)。
あと3日だからいえるのだが、
この3ヶ月強は金銭的にどうだかはわからないが(もらいすぎか安すぎか)、
とにかくいろいろな発見がありおもしろかった。
ここに10年勤めろと言われたら、うーん、だから(早起き辛いよ……)、
期間限定というのがよかったのだろう。
いやなこともあったけれど、そういうこともふくめて、新たな人生体験が増えてよかった。
パート女性の思考法、発話形式、行動様式などいくら本を読んでもわかるはずがない。

終わりだからいえることだが、本当にいまの職場で働いた期間はおもしろかった。
18歳男女とおしゃべりしたり、そのほかいろいろもろもろ。
あと3日かあ。わたしを嫌いな人もいただろうけれど、そこは消えるから許してよ。
わたしはいまの北戸田の職場には現在、なんの不満もない。
よくしてもらったと思うし、じつにいいタイミングでフィニッシュを迎えたと思う。
これは派遣切りとかではなくて、
単に職場の仕事量が時期によって変わるため、どうしようもないこと。
派遣会社さんにも派遣先会社さんにも不満はない。
ちょうどこのあたりで去りたかったという当方の事情もあり、
しかしそれを申し上げたわけではなく、自然に成り行きでそうなったのである。
かなり自然にうまくいったなあ、という感慨がある。
わたしみたいのといっしょに働くのがいやな人でも期間限定だったら許せるでしょう?
わたしだって聖者ではないから苦手な人もいるけれど、
それも終わりがあるならばむしろそのマイナスがいとおしくなるといえなくもない。
カウントダウン。あと3日かあ。みんな元気でね。
まだまだこの3日のうちにいろいろあるのかもしれないけれど。
とにかくおもしろかった。プランタニエでありました。
15日(土)からのことはまったく決めていない。完全な白紙。そのとき考える。
というか、母の突然の自殺以降ずっとそうなのだが、
わたしは明日自分が生きているという実感が希薄だ。
老後どころか1年後、3日後に生きている自分というのも想像できない。
本当に終わりの14日が来るのかおそらく当日まで信じられないだろう。

*まさかとは思うがスポットでまた呼ばれたら、どうするのかはわからない。
別れって劇的ですてきなところがございませんか?
すぐに再会するのもどうかなあと。いや、べつにそれでもいいのですが。
というか、15日以降、自分がなにをするかはいまのわたしにはわからない。
おなじ職場のAさん男性57歳はおもしろすぎる。
ほら、あのサイゼリヤでふたりでワイン3リットルをのんだというAさん。
彼女を紹介してくれるという。なんのことだかわからなかった。
これは以前にも書いたから書いてもいいと思うが、
Aさん57歳にはなぜか23、4歳の婚約者がいるというのである。
わたしは人生体験からどんな不思議なことでも起こりうることは知っている。
だから、そういうこともありうると思っている。
しかし、今年に入ってから一度も逢っていないという。
おなじ街に住んでいるのに、今年になってから一度も逢わない婚約者ってなんだ?
写真を見せてくださいとお願いしたら、
携帯電話で撮った隠し撮り動画のようなもので、顔が映っていない。
しかし、そういうこともありうると思うのである。
なぜなら、わたしは醜形恐怖症気味なところがあり、
写真を撮られるのがなにより嫌いだし、
当方以外にも写真撮影を異常なほど嫌う人を幾人か知っている。
果たしてAさんに20代前半の婚約者はいるのか?
わたしは本人がそう言っているのだから、それは真実だと思っている。
好奇心からその彼女と逢わせてください、ひと目見たいとずっと言っていた。
わざわざそのために大宮に行ってもいいくらい興味があります。

Aさんが彼女を紹介してくれるという。
てっきりその婚約者をひと目でも拝ませてくれるのかと思った。
昼休み中の話である。どうやらそうではないらしい。
喫煙所でAさんはしきりに携帯電話をいじっている。これがそうだという。
「飲みにいきませんか 笑」
と書かれたスパムメール(無差別大量送信迷惑メール)である。
この女性にメールをしてつきあえばいいのではないかと57歳のAさんはおっしゃるのだ。

わたし「だって、それは……」
Aさん「女性だよ」
わたし「え?」
Aさん「よくメールが来るんだよ」
わたし「変なアダルトサイトかなんかに登録したんじゃないんですか?」
Aさん「一度、アダルトサイトみたいのを見ちゃったけれど、それで?」
わたし「いえ、そのくらいで(携帯電話の)メールアドレスはばれないと思いますが」
Aさん「ものはためし。彼女とメールしてみたら?」
わたし「だって女じゃないかもしれないじゃないですか?」
Aさん「うん?」
わたし「どうせこの口座にお金を振り込んでくれとか言われるんでしょう」
Aさん「そんなことやってみなければ、わからないじゃないですか」
わたし「それはちょっと……」
Aさん「彼女は女性ですよ」
わたし「どうして?」
Aさん「まえに絵文字を使っていたから」
わたし「だから女だって?」
Aさん「うん」
わたし「わたし、むかしネットで女を装っていたことがありますよ」
Aさん「ツッチーが?」
わたし「はい。引っかかった男もいましたね」
Aさん「悪いなあ」
わたし「……はい(テヘヘ、舌ペロ♪)」

むかしネカマをやっていたというのは、ディープな「本の山」ファンならご存じでしょうが、
2ちゃんねる文学板の伝説くそコテハン「美香」のことである。
ちなみにネットにはデマが書き込まれているが、文学板以外の「美香」は別人である。
何度か情報を修正しようとしたが、即座に編集しなおされるのであきらめた。
それと文学板の「美香」は偽物も複数いたことを書いておく。
どれがわたしの書き込みかはライブでいた人しか識別できないだろう。
たしかに「美香」はわたしだったが、だれかに経済的損害を与えたことはない。
最後の最後まで「美香」は実在すると信じていたある関西大富豪の御曹司もいた。
わたしとしては、みんなの心のなかに「美香」はいるんだよ♪ と言うしかなかった。
「美香」は女よりも女らしいと、ある「美香」経由で逢った女性から言われたこともある。

ネカマ経験があるわたしは「飲みにいきませんか 笑」なんて書かれた、
自称女性からのメールはとてもとても信じられないのである。
わたし「なんで見ず知らずの人がAさんにそんなメールを送ってくるんですか?」
Aさん「……」
わたし「それ詐欺ですよ」
Aさん「やってみなくちゃわからないと思うんですが」
たしかにそれはそうだが、それは常識的にリスクが大きすぎる。
そこまで女に飢えているわけではないと強がった(のかしら?)。
これは非常におもしろい問題でAさんの婚約者は実在するのか、とおなじだ。
Aさんがいるという以上、本人のなかでは23、4際の美しい彼女は存在するのだ。
そのことが生きる励みになっているのなら、とてもいいことだと思う。
客観的に実在するかどうかではなく、主観的に存在すると思っているものは存在する。
57歳と20代前半の美しい婚約者は想像しにくいが、
現実にはどういうことも起こりうることを本当にわたしは人生体験から深く知っているのだ。
どうせ書いても信じてもらえないだろうから書かないけれど。

もう時効だと思ってひとつ書いちゃおうかな。
3年まえさあ、うちのブログの熱心なファンだという18、9歳の女子からメールが来た。
名前どころか顔写真も添付されていて、それがまたかわいいの。
友だちになってみてくださいみたいな感じ。
そんなことありえないって思うでしょう。わたしもありえないと思う。
その子の顔写真は去年のパソコン崩壊のときに消えてしまったから証拠はない。
わたしもあれは嘘ではないかと思っている。
このレベルでも本当だと信じてもらえないでしょう?
わたしはもっとレベルの高い嘘としか思えない本当のことをいくつも味わっている。
Aさんとは携帯番号も交換したから(おなじAUだからCメールが使える)、
今後どんなことが起こるのだろう。いちおうもう一度酒を飲む約束を交わしたけれど。
読者のみなさまとしたら、
そもそもこの話が本当かどうか信じられないのではありませんか?
わたしが本当にそういう職場で働いているのか?
Aさんのような57歳の男性が実在するのか? 
そのような方とわたくしごときが本当に仲良くペラペラしゃべっているのか?
Aさんいわく、「ぼくは本当のことしか言ったことがありません」。
ううう、それはかぎりなく詐欺師の発言に近い。
なんでこういうおもしろい人に人生で逢えるのだろう。運がいいとしか思えない。

※あれ、あの子の写真はどっかにあるから証明可能かな? べつに嘘でもいいけれど。
ちなみにその子がいちばん気に入ってくれたのがこの↓記事とのこと。
「方丈記」(鴨長明/浅見和彦 校訂・訳/ちくま学芸文庫)
クリックしたらお読みになれますから、どうかひと勉強なさってくださいよ。
これが若い女の子に顔写真を送る気にさせた読書感想文であります。