「文章を書くこころ」(外山滋比古/PHP文庫)絶版

→そうだよなあ、と思ったことをまとめてみる。

・制限文字数が短い文章ほど書くのに時間がかかる。
長い文章は思ったよりもずっと書きやすい。短くまとめるのが難しい(P18)。

・読んでくれる人がいることで文章が上達する(P38)。

・「熟したテーマは向うからやってくる」(バルザック)
テーマが熟してくると、放っておいてもテーマが書いてほしいと呼びかけてくる(P57)。

・せっぱつまって早く書かなければならないときほど、かえっていい文章になる。
時間をかければいいというものではない(P62)。

・わかりやすい文章を書くコツは、おなじ言葉を繰り返さないこと。
400字の原稿用紙なら1枚の中におなじ語を用いない覚悟が必要(P122)。

・接続詞はなるべくカット。いきおいよく飛ぼう(P126)。

・音読しながら書くと、耳ざわりな文章を避けられる。「〜〜が〜〜が」など。
名文を音読することで耳が鍛えられる。結果として文章もうまくなる(P152)。

初めて知ったようなことはひとつもない。
どれも日ごろ文章を書きながら気にかけていることである。
初心忘れるべからずと、あえて箇条書きにしてみた。
「思考の整理学」(外山滋比古/ちくま文庫)

→思考する、考えるというのは、その実、決して楽なことではない。
たとえば、人は新しいことを知りたいと欲すると、
カルチャースクールやらなにやらに行こうとする。
だが、それはほんとうの思考ではないのではないか。
著者が本書の冒頭で指摘することである。
さらに著者は、多くの人間が学校で学んできたのは断じて思考ではないという。
あれは問いを与えられて答えるだけのこと。
ほんとうの思考とはみずから問いを設定し答えを求めることではないか。
もとより容易なことではない。
著者が自分の「思考の整理学」を紹介するのはこのためである。
独自の思考法、メモ法が多数紹介される。

ひとつ自戒として引用しておこう。

「努力をすれば、どんなことでも成就するように考えるのは思い上がりである。
努力しても、できないことがある。それには、時間をかけるしか手がない。
幸運は寝て待つのが賢明である。
ときとして、一夜漬けのようにさっとでき上がることもあれば、
何十年という沈潜ののちに、はじめて、形をととのえるということもある。
いずれにしても、こういう無意識の時間を使って、考えを生み出すということに、
われわれはもっと関心をいだくべきである」(P41)
「脳のからくり」(茂木健一郎・竹内薫/新潮文庫)

→なんかとっても、もったいぶった本なんですよ。
最先端の脳科学の知見をわかりやすく教えてあげようと張り切っている。
サイエンスライター竹内薫の文体は軽薄という形容がぴったし。
だが、決してわかりやすいわけではない。くだけて馴れ馴れしいだけである。
いまの読者はだらしない会話体で書かれた文章をわかりやすいと錯覚するのだろうか。
わたしはまるでわからなかった。

くだらない短編小説を絶賛しているのもわけがわからない。
とある稚拙な小説を、ロボトミー手術の好例として紹介している。
巻末に該当小説を付すほどのこだわりである。
なんのことはない、この小説は竹内薫が別名義で書いたものなのである。
このサイエンスライターはSF作家も兼任しているらしい。
あのう竹内さん、自分の小説をほめまくるって、あなたキチガイなんですか?
頭かち割って脳のからくりを調べたくなりましたよ。

で、脳科学の最先端がクオリア。
このカタカナは聞いたことがある。流行語みたいなもんでしょう。
ようやく意味がわかるのかと期待する。
ところが、クオリアのどこが新しいのかわからなかった。
というのも、クオリアとは計測不能な味わいのことらしい。
え、だから? 数字で表わせない味わいがあるなんて一般人に取ったら常識でしょう。
脳科学者には、そんなに驚くべき発見だったのだろうか。
クオリアは計測不能だから他人と共有できないって、
要は他人のことはわからないという当たり前のことじゃない。
なにが新発見なのだろう。

実は知らないものがいない事実をクオリアと命名して、なにをいい気になっているのか。
新しいカタカナを振りかざして得意になるものはいつの時代もいる。
そして、消えてゆく。クオリアなんてエリマキトカゲ程度に思っていればいいと思う。
「図解雑学 脳のしくみ」(岩田誠:監修/ナツメ社)

→なぬ苦しいと? 生きているのが苦しい。
それはたいへんです。なんとかしなければいけません。
苦しみとはいかなるものか科学的に検証してみましょう。
仏教は苦しみを四苦八苦だなんて分析していますが非科学的でよくありません。
現代人には科学がある。なんでも科学的にいこうではありませんか。

いきなりの回答です。
科学的に見ると、苦しみとは脳内の電気信号のひとつです。
脳には千数百個の神経細胞があります。
この細胞のあいだを電気信号がかけまわっている。
あらゆる人間の活動は、この電気信号なのですね。
いまあなたはこの文章を読んでいる。
目から文字情報が電気信号に変換されて脳内に到達したということです。
あなたはいま手で頭をかいた。
これも頭がかゆいという電気信号が脳に達し、脳から腕に動けと電気信号がいったまで。

人間は喜んだり悲しんだりするでしょう。
なんのことはない、人間の喜怒哀楽なんざ科学的には電気信号の働きに過ぎません。
難しいことはなにもないのです。すべては電気信号なのですから。
どんな苦しみもどれほどの喜びも、脳内の作用のひとつに過ぎません。
だから、あなたはジタバタしてはいけない。
いかなることが起きようとも、頭の中の電気作用だと泰然と構えていればいいのです。
科学が教える人間の生きる道ですね。

どうしても苦しいときはどうしたらいいか。
だから、電気信号なのですって。
苦痛も苦悶も電気信号なのですから、電気の野郎が暴れてらぁ、と認識すればいい。
これができないのですから、人間は厄介な生き物というほかありません。
どうしても苦しいとき、科学的な対処法はいくつかあります。
いちばんいいのはロボトミー手術ですね。
脳の配線の一部をちょん切ってしまう。苦しみも怒りも、すべて吹っ飛びます。
仏教でいう悟りとは、このことではないかと思います(笑)。
ところが、この手術は人間らしさを奪うと禁じられてしまった。
残念なことです。
我われは苦しみを消すためにキチガイ病院に行かなければならなくなりました。
医師から合法的な麻薬をもらうためです。
脳の電気信号を変える薬物がいまは開発されています。
すべては電気信号なのだから、苦しみだってなんだって薬品で変容させることが可能です。

もっとも手っ取り早いのは飲酒だと思います。酒をのんで苦しみを消そう。
脳内には異物を通さないグリア細胞というものがあります。
異物をブロックするのですね。
けれど、我らがアルコール様は、この関所を通りぬけることができる。
アルコールは脳を麻痺させる。
結果として苦しみの電気信号も働くのをやめてしまいます。苦しみが消えます。
苦しいときは、こんなものは電気信号に過ぎぬと悟ろう。それからお酒。
これが科学的に極めて正しい苦しみへの処方箋かと思われます。
「図解雑学 宇宙論」(二間瀬敏史/ナツメ社)

→なぬ苦しいと? 生きているのが苦しい。
それはたいへんです。なんとかしなければいけません。
原因を考えてみましょう。なぜあなたは苦しまなければならないのか。
苦しみの根本はどこにあるのか。
いかがわしい宗教などに頼らず科学的にいきましょう。
科学的に検証すると、あなたが苦しまなければならないのは、生まれてきたからです。
生まれてきた以上、苦しまなければならない。
味気ない回答かもしれませんが科学とはそういうものです。

ところがどっこい科学をなめちゃいけません。この先があります。
苦しみの原因をつきとめようではありませんか。
なにゆえ、あなたは生まれてきたか。お父さんとお母さんがいたからです。
じゃあ、両親はどうして誕生したのか。祖父母の存在が原因となります。
こうしてさかのぼると1億年ほどまえ、
地球上に最初の霊長類が誕生したことがあなたの苦しみの原因になりますね。
いやいや、科学はこんなもんじゃありませんよ。
まだまだ原因を追究することが可能です。
46億年まえ地球が誕生した。太陽系ですね。これがいけない。
地球なんてものが出現してしまったから、あなたは苦しまなければならないのです。
ならどうして地球は現われざるをえなかったのか。
そろそろ大ボスが登場しそうな予感がしませんか。

なぜあなたは苦しまなければならないのか。
137億年まえ宇宙の誕生したのがいけないのですね。
宇宙の誕生をビックバンといいます。大爆発のことです。
ビックバンのまえにはなにもなかった。完全な無です。

ドッカーン♪

ビックバンは起きてしまったのです。あなたは苦しまなければなりません。
ビックバン以降、宇宙は膨張をつづけています。
大きくなっているんですね。広がっている。
この先どうなるのかはまだわかっていません。
しかし、科学は偉大です。地球の将来くらいならわかるのですから。
地球は太陽の影響を大きく受けています。
いまから50億年後に太陽は燃えつきちゃうんですね。
そのとき地球は太陽にのみこまれてしまう。
さようなら地球。我われの地球はなくなってしまいます。

えーと、問題はなんでしたっけ? すっかり忘れてしまいました。
そうそう、あなたは苦しんでいたのだった。なにが苦しいんですか?
あと50億年もすれば、地球なんかなくなってしまうのだからいいではありませんか。
ふんふん、そんな長生きはできないと。
それはもっともだ。あなたの残りの寿命は何年くらいだと思いますか。
え、なんですって? もう1回お願いします。あと100年もないのですか。
だったら、そんな苦しまなくても。ほんのわずかな期間じゃないですか。
そうはいかない? ふうん、人間というのは厄介な生物ですね。
たまには夜空に光る星でもご覧になってはいかがでしょうか。
ああん、みんなこの感情を味わったのねミドルエイジ諸兄諸姉。
ふと気づけば、どのジャンルでも活躍するのは年下ばかり。
遠い遠いスポットライト。
なにものでもないわたしわたしわたし。
だれからも相手にされない。
だから新刊書店には行きたくなかった……。
人気作家の山崎オナコーラ(わざとだから)氏が源氏物語を訳したいとふかしていました。
やっぱり出世する人ってオーラが違いますね。
帰宅して鏡を見る。こりゃあメディアに出せない顔だと思う。
考えてみれば、うちのブログも負のオーラに満ちているフフフ♪
みんなこうしてオヤジになった!
みんなこうしてオバンになった!

夢を持とう。夢を見よう。夢の話をしようじゃないか。
万が一、わたしが作家になったら――。
商業出版で本を出したらの話である。
ハードカバー巻末のプロフィール欄にこう書いてやろう。
「肩書がそんなに気になりますか?」
著者近影は逃げない。顔を出そう。だが、アッカンベエをするからな。
こんばんは。みなさんは人間革命してますか〜。
えとあのその、創価学会も学会員さんも、嫌いじゃないんです。
むしろ自分は学会員的なメンタリティを持っていると思うくらいで。
たまにハイテンションなときとか、踊ってますもん。
人間革命♪ 人間革命♪ なんて。いや、まじっす。

学会員さんにありがちなこと(妄想)。
・情にもろい。涙もろい。
・ピュアである。
・人生は学問なんかでわかるわけがないと思っている。
・尊敬できる師匠を持ちたい。
・説教をされるのがさほど嫌いではない。好きかも。
・この世にはなにか不可思議な法則があると思っている。

このへん、おなじですよ、わたしわたしわたし♪
純粋で、すぐ感動して泣いちゃう。
それに学会員さんは親切な人が多いでしょう。
礼儀正しい人も多い。
インテリというよりも、人情味あふれる庶民的な人が圧倒的。
ほんと友人や恋人に持つなら学会員さんだって思う。
毎朝、学会員の恋人から、

「おはよー♪ 今日も人間革命しよう♪」

なんて電話をもらったら、
ひねくれたわたしも真人間になっちゃうかもしれませんです、はい。
けれど、仏縁がないんでしょうね。
いままで学会員さんにリアルでお逢いしたことがありません。
いえ、いざ折伏(しゃくぶく=勧誘)されても、ダメなんです、わたし。
ふむふむ、創価学会の思想はとてもすばらしいと思います。
学会員さんのお人柄は宮本輝先生から想像がつきます。

なにがいけないのか。
団結です。集団行動ができません。
「みんなで肩を組んで勝利へ向かおう!」
このテンションにどうしてもついていけないのです。
ごめん、おれひとりでいいから、となってしまう。
「いいの? いっしょに宿命転換しようよ。幸福になりたくないの?」
つむじ曲がりが出てしまいます。
ふん、不幸のまま死んだって全然OK、なんて。
ボクボクボク「歎異抄」好きだし。
「やめなさい! そんな本を読んでいると地獄に落ちるぞ!」
いいよ地獄で、バ〜イバイと手を振ってさようなら。

学会員さんとわたしの妄想問答であります。
折伏されたことはありません。
勧誘メールは一度もらったことがあります。
返事を出しませんでした。出せませんでした。
おそらく対面で折伏されても逃げ出すと思います。
わたしは「歎異抄」の世界が好きです。
かといって、学会員さんが間違っているとも思いません。
創価学会の教えもまたすばらしいと思うからです。
こんなわたしは地獄に落ちるのでしょうか。幸福にはなれないのでしょうか。
あのう折伏は未婚の二十代、女性限定で……なんて書いたら、
間違いなく地獄に落ちるとわたしも思います♪ 訂正しまっす♪ いまのなし♪
(注:折伏はどうかご勘弁くださいませ。ありがとうございます)
「青が散る」(宮本輝/文春文庫)*再読

→読むのは何度目になるのだろう。
宮本輝の作品でいちばん好きである。
もっとも読み返した回数の多い小説だと記憶している。

宮本輝は物語作家である。宿命を描く作家とも言われる。
このへんのところを愚直に一歩一歩整理していきたい。
物語とはなにか。学問的解釈はすっ飛ばして、人間の栄枯盛衰としてしまおう。
源氏物語も平家物語も、言ってしまえば人間の浮き沈みを描写したまで。
人間が幸福になったり反対に不幸になったりするさまを描くのが物語であるならば――。
なにゆえ人間はぶざまにも右往左往するのか。
ままならぬからである。欲望かなわぬからである。自由ではないからだ。
これはいったいどうしてだろうとさらにホワイ(why)を重ねてゆく。
ここにおいてようやく宿命が登場する。
人間はおのおの持って生まれるものが異なる。宿命の思想である。
平等ではないということだ。
人間は生まれ落ちるにおよんで、
国籍、時代、身分、性別、容姿、知力、貧富を選ぶことができない。
にもかかわらず、選びもせぬものを無理やり持たされる。
この捨てられぬ重荷こそ宿命にほかならぬ。
作家は意識的、無意識的を問わず、宿命を描き分け物語を創作する。
さらに物語を展開させるうえで作家の活用するのが運である。
運がいい運が悪いの運であり、人生全体から見れば運命もそのひとつである。
この運は偶然とも呼ばれうる。
宿命と運(=偶然)を巧みに用い人気作家になったのが井上靖である。
ちなみに井上靖は宮本輝の敬慕していた作家のひとり。

宮本輝の宿命観は井上靖のそれとは異なる。
なぜなら宮本は先輩作家の持たぬ信仰を持っているからである。
かれは人によって好き嫌いの大きくわかれる創価学会の信者だ。
宮本輝の宗教意識は、井上が宿命から切り離した運をも宿命に組み入れた。
人間はありとあらゆるものを持って生まれてくるという残酷かつ荘厳な宿命認識である。
目に見えぬ運不運まで宿命に取り入れるとはどのようなことか。
偶然などないとする。偶然に見えるものも、その実すべて必然である。
以上に整理してみた宮本輝の宿命観を「青が散る」から引いてみよう。

「みんな、それぞれ、なにか持ってるのよ」(P48)

「あいつ、どことなく、運の悪いようなところがあるやろ?
頭はええし、とことん勉強しよるけど、大事なとこにくると
不運な星まわりみたいなもんが巡ってくるような気がするんや」(P77)

「夏子もまた、人妻となり母親となっても、
いまのままいっこうに変わらずにいてほしかったが、
どこかに滅びてしまうもの、
喪(うしな)われてしまうものを持っているような気がするのだった。
それは若さでも美貌でもなかった。
もっと夏子そのものを作っている一点であった」(P239)

「祖父がカミソリで手首を切って自裁し、長兄が首を吊って死に、
次兄が自殺とも事故とも判別出来ない形で明石の海に浮いていたという、
安西克己の一族の忌(いま)わしい歴史は、
そのとき遼平にはもはや偶然などではない、
この世にひそんでいる空恐ろしい、
避けることの出来ない必然による道筋であるように思えた」(P422)


宮本輝は宿命のみならず宿命転換をも描く作家である。
宿命転換とは、創価学会用語で、持って生まれた悪しき生命状態を、
仏法修行により改善することの意(……で正しいですか学会員さん?)。
乱暴にいうと不幸な人間が努力して幸福になることである。
宮本輝のほとんどの小説がハッピーエンドなのは小説内で宿命転換が起こるからだ。
どうしてこうも都合よくぽんぽんと幸運が舞い込むのだろうと嫌う読者も多かろう。
わたしも宿命転換小説はあまり好きになれない。
あれは小説に登場する人物が実は学会員だからではないかと揶揄したくもなる。

「青が散る」に話を戻そう。
「青が散る」は新設大学のテニス部を舞台にした物語である。
この青春小説では、初期作品だからか宿命転換は起きない。
登場人物はみなみな宿命に敗れ去る。
おのおの持って生まれたどうしようもないものに操られなにものかを喪う。
登場人物のほとんどが失恋を経験する。だれの恋もうまくゆかぬ。
しかし、青年が恋に破れ泣くすがたのなんと美しく描かれていることか。
このころの宮本輝は敗北の美に抵抗がなかったようである。
「青が散る」は井上靖「あすなろ物語」を思わせる哀切にあふれている。
「青が散る」で宿命に破れ自殺する青年の名は安西克己。
克己(こっき)は「あすなろ物語」の主題であったことを考えると、
あるいは宮本輝の意識に先輩作家の青春小説があったのかもしれない。
安西克己とおなじテニス部員だった貝谷は葬式のあとでこんなことを言う。

「俺、焼香の順番を待ってるとき、
なんでテニスの試合には引き分けがないのかなァて考えたんや。
ボクシングでも野球でもラグビーやサッカーでも、引き分けがあるのに、
テニスには引き分けがない。そう思たとき、
人生にも引き分けというもんはないんやろなァという気がしたんや。
勝つか負けるか、ふたつにひとつや。なァ、そう思えへんか?」(P425)


この発言で気づくものもいよう。
「青が散る」において、みな負けてばかりである。だが、それは人生での話だ。
テニスでは勝っているものがいるのである。
持って生まれたもの、すなわち自分の実力以上の選手に勝利したものがふたりいる。
貝谷と主人公の遼平である。
前者は覇道のテニスで、後者は王道のテニスで、
本来なら勝てぬ相手から星を取っている。
両者のテニスプレイシーンは迫真に迫る。弱いものが強いものに勝つ。
これは持って生まれたものに勝利する――宿命転換とおなじではないだろうか。
覇道と王道、道は違えど勝ったふたりのテニスはこうであった。

「粘るんなら、とことん粘るんだよ。
テニスなんて、途中でどう流れが変わるか判らないよ。
ある瞬間、突然ボールが入らなくなる。
どんな選手でも、そんなときが必ず来るんだ。
ひとつの試合で、一回か二回はそんな状態になる。それを待つんだ。
待っている間に、強くなっていくんだよ」(P151)


これはテニスだけの話なのだろうか。もしかしたら人生もおなじではなかろうか。
だとしたら、創価学会へ入信せずとも宿命転換はなしうるのか。
だが、この宗教団体は信者以外にことさら厳しいので知られている。
念仏など唱えたら地獄に落ちると断言しているのが創価学会である。
ならば、やはり学会以外の人間は宿命に敗れ去るしかないのか。
せめて「青が散る」で散ってゆく青年たちのように一途に物怖じせず退場したいと思う。
「花の回廊」(宮本輝/新潮社)

→宮本輝はふしぎな作家である。
まだ中年にも達せぬ年若いころ、信じられぬほど成熟した世界を描いた。
と思えば、年老いた今になって、あきれるしかないような幼稚な世界観を露呈する。
これは作者の信仰する創価学会思想との関係から説明できるように思う。
青年・宮本輝は燃えるような熱き信仰を胸に秘めていた。
日蓮から牧口、戸田を経て池田大作へ継承された仏法に、
宮本は生命を根底から鼓舞されたのである。
とは言いながらも文学者としては、いまだ足場固まらぬ新人作家の身。
安定収入や社会的地位を得たとは言い切れぬ。
つまり、日蓮仏法、創価学会思想への疑念を完全には払拭できない境涯にいたわけだ。
この信仰の面でのマイナスが、皮肉なことに文学作品にはプラスに作用した。
宮本輝は日蓮の生命思想を信奉するものの、そこは人間で、魔が忍び寄る瞬間が訪れる。
作家は闇を払いのけふたたび光へおもむかんとする。
たとえれば地獄の門番との命がけの鬼ごっこである。
この信心定まらぬ宮本輝の危うい精神が、反面、作品に奇跡的な輝きをもたらした。
現代日本において至上の仏教文学が生まれたゆえんである。

今現在の宮本輝は日本の文学者としておよそ最高峰の地位に到達した。
収入も身分も申し分ない。子育ても成功。完璧な人生の勝利者である。
どうしてこの成功を手に入れることができたのか。
日蓮仏法のおかげである。学会員として闘い抜いてきた成果である。
今の宮本輝にまさか学会思想への疑いが生じるはずがない。
微塵(みじん)もないと思われる。
作家は長年の仏法修行で人生のからくりを悟ってしまった(と思っている)。
作品の輝きが失われるのは必然である。
信心と不信のせめぎあいから生じる荒々しい物語はもう終わったのだ。
宮本輝は、言うなれば、疑問形の志士から断言(説教)する師匠へ変化した。
学会から見たら進化、文学から見たら退化であろう。
かつて若き闘士・宮本輝は、物語を武器に日蓮仏法を世に問うた。
獅子吼(ししく)したわけである。
ところが万物みな老いる。獅子の吼(ほ)える敵もいなくなった。
年少者に吼えかかるのは大人気ない。説教が始まるのはこのためである。

「花の回廊」の説教くささもひどいものである。
俗な言いかたを許してもらえれば「オレわかっちゃってるもんね〜」の連発である。
子供が水戸黄門の印籠を振り回しているような滑稽(こっけい)さが随所に見られる。
作中に登場する亀井周一郎は、宮本文学のいかがわしさの象徴である。
この作家の小説において、なぜか人格者は成功者なのである。
資産家や事業家といった富裕層が、もっともらしい教えをたれる。
この秘密は創価学会の説く「仏法は勝負」という思想によるところが大きい。
創価学会は勝利至上主義なのである。
わかりやすく言い換えるならば、とにかく勝ったものが偉いということだ。
仏法は勝負だ。勝ち負けだ。断じて勝たねばならぬ。
この思想は、負けたものを不当におとしめることに通じる。
信心が足らぬから負けるのだという論理である。
宮本輝の小説において、
わかったような説教をたれるのが成功者ばかりなのはこのためではないか。

正義は勝者にあり。ゆえに人生は勝利せねばならぬ。勝つために弱者は強くなれ。
いかようにして強者たるか。宿命を転換せよ。これ人間革命なり。
池田大作は自伝的小説「人間革命」で山本伸一にふんする。
宮本輝は自伝的小説「花の回廊」で松坂伸仁にふんする。
伸一に伸仁である。伸びろ、伸びろ、みんな伸びろ。続いて伸びろ。
創価学会思想の根幹である。
言うまでもなく青年の宗教だ。
この団体は枯れるという思想を持ち合わせぬ。
諦念や断念がないのである。しかし、老人の行き着く先はひとつしかない。
創価学会を始点とする宮本輝文学の行く末もここから推し量られよう。

細々とした点をひとつだけ指摘したい。
「花の回廊」で、作者の父をモデルとしたのが松坂熊吾である。
宮本輝は、豪放磊落な器の大きな傑物として熊吾を描きたいのだと思われる。
そうだとすると、おかしくはないだろうか。
物語の後半、駐車場の管理人におさまった松坂熊吾。
熊吾は経営の便宜をはかるために警察官に賄賂(わいろ)を贈る(P359)。
のみならず近所の商店の営業妨害をゴロツキに依頼する(P367)。
これは清濁併せ呑む豪傑の証なのだろうか。
社会の裏表を知り尽くした大人物のなす行為だろうか。
どうやら作者の宮本輝はそう思いながら描写しているふしが見られる。
賄賂、コネ、不正。勝つためにだったらなにをしてもいい――。
宮本輝の創価学会精神をかいま見た思いがする。
禁酒はわずか1週間しかつづかず、いまではすっかり元通りです。
8日目は限界でしたね。お酒の味どころではなかったです。
命の水は、わが砂漠にじんわりしみこみました。
それからわんわん泣きました。「おれはやるぞう」なんてうめきながら。
「このまま終わってたまるか」なんて。
いやあ恥ずかしい人間ですねホント。
お酒のみならず読書も昨日解禁しました。
口開けは宮本輝「花の回廊」――。
10日ぶりの読書でしたが、さしたる変化は見られなかったです。
お酒をのんで本を読んだら、あとはひとつしかありません。
本の感想をブログに書いちゃうでしょうね。
書くまいと思っていても、きっと書いてしまう。
というわけで「本の山」の再開を予告します。
またろくでもない読書感想文を書き散らすかと思うと自分でもいやになりますが、
ほかにこれといってやりたいことがないんです。
アフガニスタンで農業ボランティアをしたいけれど、専門技術がありませんから。
情けない話です。

今日から3日間、東京を離れます。
山にこもってこれからの人生をじっくり考えてみたいです。
コメント、メールのお返事は遅れますが、ご了承ください。