「患者さんには絶対言えない 大学病院の掟」(中原英臣/青春新書)

→暴露本は好きだから、どれほど唖然とすることが暴かれているかと思いきや。
そもそもおのれの医師国家資格をキープしたままで書かれた本だから、そんなもんか。
医師資格を持ってない人がなにを言おうと大して聞こうとしないのが大衆。
だから、医師の資格は手放すことはできない。
しかし、自分も医師の群れのなかにいると村八分にされるような暴露は書けない。
「医師なんてやーめた」と資格を捨てたハグレものが暴露をしたらおもしろいのだろう。
それはいままでの人間関係(師弟同僚関係)をすべて捨てるということだから、
たいがいの医者には無理な注文なのだろう。

一般的に町医者よりも大学病院のほうが権威がある。
もっと言えば、町医者よりも大学病院の医師のほうが医療の腕は高いと思われている。
わたしはそうは思わないが(町医者への蔑視はないつもりだが)、
そもそも町医者自身が難しそうな病気や怪我にめぐりあうと大学病院をすすめてくる。
医者業界における、この大学病院偏重主義はどういう理由によるのか。

「この国では、医学生を教育するのも、若い医者を養成するのも、
医学の研究をするのも、新薬の効果をチェックするのも、新薬の認可を審査するのも、
大学病院の権威ある医者に任されています。
さらに、最新の医療機器を導入するのも、いろいろな検査の正常値を決めるのも、
すべて大学病院が中心となって行なっているのです」(P4)


そうは言っても、これはどうしようもないのである。
いくら民間で治療者を育成しても、彼(女)らは祈祷師、占い師あつかいだろう。
わたしは医者も正体は祈祷師や占い師のたぐいだと思っているが、
世間的評価はお医者さまのほうが民間治療者よりも桁違いに偉いことになっている。
では、どうして医者にかかるかといったら、国民皆保険のおかげだろう。
ケチな話をすると3割負担ではなく、全額負担ならかなりの病人が減るはずである。
よく知らないが高齢者は1割負担なんでしょ?
そりゃあ、計算高いばあさんは高い占い師のところに行くよりも、
安い医者に通って病気なのかなんなのかわからない愚痴をぶちまけるだろうよ。

庶民の名医信仰というのもいまのわかしにはわからない。
医者なんてみんなおんなじじゃないかという思いがある。
名医は混むから新米のフレッシュ医師(女医ならなお可)に診てもらい、
そのビキナーズラックのようなものにあやかりたいと思っている。
どうして老いた庶民って肩書信仰、名医信仰のようなものが激しいのだろう。
うちの父の口癖は、「おれは大学病院の教授に診てもらっているから絶対大丈夫」。
息子からしたら、わけがわからない。
「おまえはな、ものを知らない。大学病院の教授だぞ。
その教授先生が結果を見て、土屋さん、これは大丈夫。安心できますと言ったんだ」
定期的に大学病院教授の健康お墨付きをもらっている父は、
にもかかわらずどうしてか今年の2月に脳内出血で倒れた。
病室で父にさんざん嫌味を言ったものだが、
先日聞いたらあのころのことは覚えていないらしい。
教授先生医師に定期的に診てもらっていても、病気は事前にわからないのである。
祈祷師や新興宗教でさえ「教授」のようなポストがあり、
そのほうが信用を集められるというのはふしぎ極まりない。
「みんなの名医」にすがるより「わたしの名医」に賭けるほうがおもしろいし、
実効的だ(現実に効果がある)と思うけれども、世間は肩書依存症である。
マスコミ医者、タレント医者の著者は言う。

「……教授というポストと臨床医としての腕の間はほとんど相関がありません。
大学病院のなかで内科や外科といった診療科目の最高の地位である教授という
ポストについた医者は、腕がいいことよりも
学内政治や調整能力にたけているというこtが少なくありません。
それこそ『白い巨塔』の財前五郎ではありませんが、
一癖も二癖もある医者がたくさんいる医学部の教授会で
多くのライバルたちに勝たなくては教授にもなれないのです。
腕よりも政治力と経済力ということになるわけです。
そして、もう一つの問題が、
医学部の教授になるには腕よりも大切なものがあります。
それは「業績」という名前の論文です。
しかも、論文の中身ではなく、論文の数がなによりも重要な評価の対象になるのです。
教授というポストと臨床医としての腕の間はほとんど相関がないといったのは、
医学部の教授選では、臨床の腕がいい候補よりも
論文の数が多い候補のほうが有利になることが多いからなのです」(P185)


著者はまさか自分のことを「腕がいい」医者だと思っているのだろうか?
いやいや、そもそもの話、
医者で自分のことを「腕がいい」と思っていない人のほうが少ないだろう。
「腕のいい」医者とは、ヤブ医者の反意語だろう。
わたしはたとえ世間ではヤブ医者とされる評判の悪い医者でも、
わたしの病気を治してくれるのならば彼(女)を名医だと思う。
いくら世間から名医と名高い教授先生でも、
当方の苦しみを軽減させてくれなかったらそいつはヤブ。
名医としての評価の基準をどこにおくかである。
世間(多数派)の評価を気にするか、
自分との相性や実利性を重んじるかの違いといってよい。
どれだけヤブ医者と後ろ指をさされる人でも、少数の患者ならきっと救っているのである。
自戒を込めて最後に書くが、「みんなの名医」を探すよりも「わたしの名医」と出逢いたい。

「地域リハビリテーション」(長谷川幹/岩波アクティブ新書)

→パンダ的視線で言わせていただくと、
人間ってどうして人様の役に立ちたがるんだろう。
パンダなんて放っておけば自然消滅するくらい無能なのに、
みんなから愛されて役に立っているじゃないですか?
リハビリ病院に入るような患者さんは、
自分が役に立たなくなったことに最大のショックを受けることが多いらしい。
たしかにそれまで人を「役に立つ/役に立たない」でしか見てこなかった、
いわゆる有能な企業人が要介護状態になったときの動揺を想像すると笑え、
いやいやいや、笑うなど、と、と、とんでもなく同情いたします。
どうしてかと言うと、そういう人がいちばん嫌いなのは人から同情されることだからね、
なんちゃって、アハハ、ジョークっすよ。
べつに役に立たなくてもいいって思うけどなあ。
だれかが自力で用を足せなくなるから介助するものが必要となり、
その相手の人の役に立つことができる――そう考えるならば。わかりますか?
役に立たない存在が、人の役に立ちたがるだれかの役に立っている。
「ご迷惑をおかけして」は人の役に立ちたい人の役に立っているとも言えるわけ。
これは屁理屈で開き直りが過ぎるかもしれない。

ふたたびパンダ目線でものを言うと、
どうして人間って一般的に人の世話にはなりたくないのに人の世話を焼きたがるの?
わたしはパンダなので、けっこう人のお世話になっても平気な野獣メンタルがある。
おかげさまで生きているようなところがあり、
かといって人間様にお辞儀するわけでもなく、
パンダのようにのほほんとナチュラルにテンネンに生きているけれど。
それでも人間の部分が残っており、いろいろ考える。
どうして人は人の役に立つことを善だと考えるようになったのだろう。
この考えのせいで、人の役に立たないリハビリ病院患者は悪となってしまう。
もちろん、これは理念のうえの話で、実務介護なんて当方には想像も及ばぬ世界。
リハビリ病院に勤務している人はただただ尊敬するし、給料を上げてやれと思う。
みなみなとても美しい彼(女)らの心中に人の役に立つ喜びがあるのなら、
金の話にしてしまうのはよくないのかもしれない。
ペットの犬や猫って飼い主の役に立っていないのに(高額品ならブログで自慢できるか)、
しかしその役に立っていない無能性が役に立っているところがあるように思う。
わたしは犬も猫も嫌いだけれど。
要介護患者は犬や猫ではなく、わがままを言う人間だから話は別次元なのはわかる。

どうして人間って人に役に立ちたがり、自分がいかに役立つかを誇るのだろう。
その思考で突き進めば、要介護状態のやつは死ねっていう理屈になる。
でも、現代日本は(むかしは姥捨て山の)役に立たない老人が多く生かされている。
いまの日本って奇跡的な助け合い社会なんじゃないかなあ。
いったい役に立つ社会的有能な人はそんなに偉いのだろうか?
役に立たない人も「役に立たない人」の役をすることで
人様の役に立っているのではないか?
「おまえは役立たずだ」と言われたときに、こんな言い訳をしたら殴られるからご注意あれ。
「ぼくはパンダなんだも~ん」という回答のほうがまだましだろう(いや蹴られるぞ)。
リハビリとは役立たずを少しでも役立つように変える医療行為。
でもさ、ヤクザが悪人の役をやっているように
患者も被介護者という役を演じていると考えたら、それほど役立たずでもあるまい。
「役立たず」は「役立たず」の役を演じているのかもしれない。
わたしはどうしてかあまり人の役に立ちたいという願望がないことの
言い訳をだらだらしてみました。
全国の医療従事者のみなさん、とくにリハビリ病院ご勤務者、ご苦労様であります。
あなたたちは偉い。
――うん? 人の役に立つことが偉いのか? という堂々巡り。

さて、本書を読んで知ったがリハビリは医者のすることがほとんどないらしい。
リハビリ医療では医者が役立たずなのがおもしろい。
権威として存在しているだけでいいんじゃないですか?

「かつて結核などの感染症には薬が効果を発揮して
治癒することができた時代に中心的な役割を担ってきた医師は、
診断、治療(治癒)は得意な分野であるが、
治癒せず障害が残った場合にどうするのかという方法論は、
残念ながら未だ未整備である。
そのため、リハビリテーションに関わる医師は少ないのが実情である」(P16)


「リハビリテーション 新しい生き方を創る医学」(上田敏/講談社ブルーバックス)

→明日だれが倒れて半身麻痺(まひ)になるかわからないのである。
健康診断の結果がぜんぶOKでも脳卒中で半身麻痺になる人はいくらだっている。
そこで入るのがリハビリ病院というやつである
果たしてリハビリって医学なんだろうか?
だって行った人ならわかるでしょうが、リハビリ病院に医者はほとんどいないでしょう。
リハビリってどこか宗教めいたところがある。
まあ、そもそも医学がそうだから、だとしたらリハビリも医学になるんだろうなあ。
本書でリハビリの権威がばらしていた。
脳卒中で半身麻痺になっても数ヶ月で急速に回復することがある。
本人は自分ががんばったからと言うものだが、
医学的にはそれはそれだけ脳の故障個所が少なかったというだけであると。
たしかに身体をいくらリハビリしたって結局は脳なんだから……。

知人が脳神経外科の先生に聞いたことがあるという。
脳がダメージを受けた場合、本人は病識(病気だという自覚)があるんですか?
「そこらへんが境い目なんですよね」と言われたという。
リハビリしても完全回復はしないが、しかし機能がかなり回復することもある。
それはリハビリの成果なのか、それとも脳のダメージが少なかったからなのか?
でも、リハビリしたらよくなるというのは病者の希望である。
無理だって言われたら絶望しちゃうもんねえ。
結局、医学ってそういうことじゃないのかしら。
患者にとりあえず当面の行動規範を示すというか、まあ時を待ちましょうというか。
リハビリ病院でよくなったらそれはリハビリの効果のような気がするけれど、
もともと脳がそこまでダメージを受けていなかったという解釈もできるわけで。
そりゃあ、なにもしてないよりはリハビリをしているほうが精神衛生上いいだろう。
以上、人生リハビリ中の脳に欠陥があるという病識を持つ、
国家非公認の自称障害者のメモでした。
障害を持つ子どもには引っぱたいてリハビリさせるのが愛なのか、
やさしく見守っているのが愛なのかは自己愛ともからむ問題で難しい。
わたしが子どもだったら後者の親のほうがいいなあ。

医者はどれだけ自然にさらりと嘘=希望を言えるかが手腕である。
著者はけっこうな名医ではないかと思う。

「私はこれまで、障害による深刻な心の悩みから立ち直った人をたくさん見ているが、
そのような苦しみから立ち直った人は、
人間的に実に立派な、尊敬すべき人になる。
ベートーヴェンではないけれども、「苦難を突き抜けて歓喜へ」
というのはリハビリテーションでも真実だと思うことがある」(P193)


おいおい、あんた名医だなあ。

「医学部の大罪」(和田秀樹/ディスカヴァー携書)

→いちおうは医師の国家資格をお持ちの東大の和田さんの医療批判本を読む。
東大ならぬ早稲田のほうのスーパーフリーな和田さん(性犯罪者)は、
まだ出所していないのかなあ。
東大の和田さんも早稲田同様、発言がスーパーフリーでよろしい。
本書で知ったが、スーパーフリーな発言をするとたいがい干されるらしい。
独特なガン治療理論で有名な近藤誠医師っているじゃないですか。
本書で知ったが、あの医師は慶應の医学部を首席で卒業。若くして留学。
スーパーエリートコースを歩んでいたらしい。
それが88年「文藝春秋」に「乳ガンは切らずに治る」を発表したことで大転落。
医学部教授たちににらまれ、結局ずっと講師のまま出世できずに終わったらしい。
当時の教授たちが引退した15年後、
近藤誠医師の乳ガンへの考えは「正しい」ことが認められ、
医療現場でも乳房を切らない手術が主流になったという。
どうしてこういうことが起こるのか?

「五〇歳で教授になった人は、その時点では知識も技術も一流なのでしょう。
その一流の知識と技術を認められて教授になったのでしょう。
ところが、年々医学は進歩する。一五年もたてば、当然古くなります。
それまでの常識が覆されたり、
自分が名を上げた技術が否定されたりすることもあるでしょう。
ところが、教授になった人のほとんどは、それを認めないのです。
そりゃそうでしょう、自分の医療、自分の手術の正当性が覆されたりしたら、
おまんまの食い上げ、メンツも潰れます」(P79)


若かりし近藤誠医師は「もてない男」の小谷野敦塾長とおなじで、
世間というものを知らなかったんだなあ。
でもまあ、後年「正しい」ことが証明されたのだから恵まれているとも言えよう。
近藤誠氏のようなケースもあることを考えると、
著述家としては売れっ子だが、
医者としての腕は定かならぬ東大の和田さんの主張も「正しい」のかもしれない。
なるほど、と思ったところがある。
血液検査でわかるコレステロールというものがあって、
さらに善玉コレステロール(LDL)と悪玉コレステロール(HDL)に分かれる。
善玉が低くて悪玉が高いと
動脈硬化になりやすいというエビデンス(統計結果)も出ている。
しかし、最近になって悪玉コレステロールにも別の価値が見いだされるようになる。
悪玉コレステロールが高い人は動脈硬化になりやすいがガンにはなりにくい。
著者の専門の精神科領域でも、
悪玉コレステロールが多いとセロトニンが脳に運ばれやすく
「うつ」になりにくい傾向があることがわかってきた。

「つまり、LDLコレステロールは、血管とか心臓にとっては「悪玉」でも、
免疫とか脳には「善玉」らしいのです。
これは、じつは非常に示唆に富んだ発見です。
すなわち、総合診療医の発想から言えば、これは本当に悪玉か善玉かという判断は、
全部プラスマイナスしたときにはじめて決まるわけであって、
循環器の医者だけに決めさせることはできない、ということだからです。
コレステロールに限ったことではありません。
どの臓器の検査データも、じつは、一筋縄でいくものではありません。
たとえば、GOTは、一般には、肝機能を見るために用いられるわけですが、
心筋梗塞のときも値は上がります。
肝臓の専門医が、「このデータがこんな値だから、まずい」と、
肝臓だけに限って言うべきことではないのです。ひょっとしたら、
この値が高いほうがよい別の身体の部分もあるかもしれないのですから」(P56)


これはものすごい革新的な「正しい」ことのような気がしてならない。
なにかの数値が悪い(?=標準値から逸脱している)おかげで、
身体の別の部分がよくなっていて、全体としてうまくいっていることは多いのではないか。
変に一部を治療する(=標準値に戻す)とかえって全体が狂ってしまうというか。
作家の三浦哲郎はものすごい高血圧だったらしいけれど、
そのおかげでハイテンションで創作ができたかもしれないわけだから。
最新の薬で血圧を下げていたら、フラフラしてなにも書けなくなっていたかもしれない。
わたしも薬で血圧を下げているけれど、
エビデンスとしては脳卒中になる確率が10%から6%になるくらいらしい(132頁)。
薬で血圧を下げていても脳卒中になる人は6%なる。
痛風と関係しているとされる尿酸値を下げる薬は絶対に服用したほうがいいが、
降圧剤は人それぞれでいいのだろう。
わたしは塩辛いものを気にせずがんがん食べたいし、
薬をたくさん飲むとかえって早死にできるっていうから(これはマジみたいよ)、
それにせっかく国保も払っているので血圧を下げるジェネリック薬品をのんでいる。
けっこう長く血圧とはつきあってきたが、血圧管理は意味がないのひと言。
塩分をたくさん取っても低いときは低いし、
どんな運動を日々していても高いときは高く、
そしてこれが重要なのだが血圧が高くても低くても自覚症状も痛みもなにもない。
三浦哲郎くらいの高血圧(200近い)になると頭痛が出るらしいけれど。
しっかしさあ標準血圧の基準だって年々、根拠もなく変わっているんだ。
まあ、高血圧(基準値以上)を増やせば薬が多く売れるから、そのへんはゴニョゴニョ。

治せば(標準=平均に戻せば)いいってもんではないのだろう。
うつ病なんかも下手をすると、
治したらかえって動脈硬化を起こし心筋梗塞になってしまうかもしれないわけで。
脳梗塞で半身不随になるのとうつ病はどちらがいいのかわからない。
うつ病を治しても心筋梗塞で死んでしまったら、どちらがいいのかって話。
部分と全体という話をすれば、うつ病というのは全体としてどうなのだろう。
だれかがうつ病になって社会から落ちこぼれるから、
その空いた枠に出世できた人もいるわけでしょう。
いままで夫が仕事中毒でうんざりしていた妻が、
配偶者のうつ病のおかげでいっしょにいる時間が増えて嬉しいということもありうる。
説教が好きながんばり屋のお父さんのことを大嫌いだった息子が、
父のうつ病をきっかけに発奮することだって絶対にないとは言えない。
これまでふんぞり返っていた父親がうつ病で寝たきりになったら笑っちゃうよねえ。
子どもの人格障害とか迷惑きわまりないけれど、
それで夫婦仲がうまくいっている可能性もある。
東大の和田さんの意見を拡大化してまとめると、
悪玉といわれる要素があるからよくなっている部分もあり、
そして悪玉が存在するおかげで全体としてプラスマイナスがゼロになっている、
という見方もできなくはないということだ。
先日、近藤誠医師のいた慶應大学病院で血液検査をしてもらった。
GOT(肝機能)が基準値よりもちょっと高かったけれど、
どうしろとも慶應大学病院の医師は言わなかった。
GOTが高いせいでもしかしたら全体としてバランスが取れているのかもしれない。
まさかお医者さんがそこまで当方のことを考えてくださったわけではないでしょうが、
あるいはあの先生は相当の名医ということもありうる。
前回の投薬のおかげかどうか悩んでいた異様な吐き気も取れたし。
そのぶん悪くなっているところもあるんだろうけれど(それがGOTとは言わないが)。

東大の和田さんのみならず、いろんな医者がぶっちゃけトークで言っているが、
長生きしたいなら医者にかかるなっていうのは真実のような気がしてならない。
わたしは長生きしたくないから医者にかかっているところがある。
それともうひとつの通院している理由は、苦しみがいやだから。
痛いとか吐き気がするとか眠れないとか、
そういう生活レベルの苦痛を除去するために医者にかかるのはいいのではないか?
本当のことを言えば、そういう苦痛も放置しておけばどうにかなる。
そこで軟弱にも医者にかかって薬を飲むと早死にする確率が高まる。
しかし、当方にとって早死には望むところなのでお医者さんもお薬も大好き。
苦痛なんかさ人生修行とか思わないで、さっさと薬で取っちゃえばいいじゃん。
20代のころ頭痛で心底苦しんでいたが
ロキソニン(痛み止め)をのんだらその瞬間に痛みが消えたのには悲しくなった。
おれの頭痛ってもっと重いものであってほしかった、みたいなさあ。
いまは頭痛は治ったが、ほかに悪いところが出てしまっている。
きっと本当のところ、そういうものなんだろうな。
パーフェクトはありえないというか、パーフェクトを目指したら死ぬっていうか。
健康のことなどいっさい考えないのがいちばん健康なのだと思う。
「そういうことですよね?」と東大の和田さんに聞いたら、イエスと答えてくれるはず。
身もふたもない実験結果を著者は本書で公開している。
なんでも「フィンランド症候群」とかいう名前がついているらしい。

「「フィンランド症候群」についても同様です。
これは、一九七四年から一九八九年までの一五年間にわたって、
フィンランド保険局が行った大規模な調査研究のことで、
循環器系の弱い四〇歳から四五歳の男性一二〇〇人を選び、
しっかり健康管理をする介入群と何もしない放置群に、
六〇〇人ずつ分けて、健康状態の追跡調査を行ったものです。
最初の五年間、介入群は四ヵ月ごとに健康診断を受け、
数値が高い者にはさまざまな薬剤が与えられ、
アルコール、砂糖、塩分の節制をはじめとする食事指導も行われましたが、
一方、放置群のほうは、定期的に健康調査票に記入するだけで、
調査の目標も知らされず、まさに放置されました。
そして、六年目から一二年目は、両グループとも健康管理を自己責任に任せ、
一五年後に、健康診断を行いました。
その結果は衝撃的なもので、
ガンなどの死亡率、自殺者数、心血管性系の病気の疾病率や死亡率などにおいて、
介入群のほうが放置群より高かったのです。
とくに介入群には何人かいた自殺者が、
放置群にはほぼ皆無に等しかったそうです」(P129)


いま書き写していて気づいたが、どうして自殺者はゼロと書けないのだろう。
「皆無に等しかった」というのは文学的表現で統計的数値ではない。
「何人かいた」というのも文学的表現で、
医者なら何人という数値を明らかにしたほうがいいのでは?
このあたりが「フィンランド症候群」の怪しさだが、
真実はそうであってほしいとわれわれが願うことなのだから、
この調査結果はおそらく真実に違いない。
結局さあ、よほどのことがないかぎり医者になんかかからず
「知らぬが仏」を決め込むのがいちばんなのかもしれない。
ある数値が悪いと知っても放置しておいたら自然によくなることもある。
だったら、そんな数値のことは知らなかったほうがよかったとなるわけで。
日本人がいまもっとも恐れているのはガンでしょう。
ガンに対して最適な態度は、和田さんもこれだと賛成している。

「というわけで、結局、ガン検診ではガンが減らせません。
少なくとも、ガンの死亡者は減らせない。
見つけたところで助からないガンを検診で見つけても、
あまり意味がないわけですから。
それどころか、かえってよくない結果になるかもしれません。
ひょっとしたら知らぬが仏の人生を送っていたほうがよかった、
ということになるかもしれません」(P86)


まあ、確率1%でガンが治る人がいれば、
おなじ1%で難病にかかる人もいるってこと。
そこはもう毎年ころころ変わる医学ごときの分け入られる領域ではないのだろう。
南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無釈迦牟尼仏、南無南無な~む。

「どうせ死ぬなら「がん」がいい」(中村仁一・近藤誠/宝島社新書)

→日本人のふたりにひとりはガンで死ぬ。だが、ガンにならない方法がひとつだけある。
ガン検診を受けなければガンにはならない。
末期ガンで発見されたら、残りの寿命を楽しめばいい。
なぜなら抗ガン剤を使ったガン治療は死ぬほど苦しいし、寿命も延びないからである。
データはじつのところごまかしがあると近藤医師は指摘する。
患者が医者をかえるなんてよくあることでしょう?
このとき抗ガン剤使用グループは、データに消息不明とカウントする。
しかし、抗ガン剤不使用グループが消息不明になったら、
消息不明ではなく死亡としてデータにカウントするらしい。
このためデータ(医療用語でエビデンスという)のうえでは
抗ガン剤を使用したほうが長生きできるような錯覚を医者も患者も持つにいたる。
長生きできたといっても抗ガン剤の副作用で
ボロボロになりながらではあるが、そこは隠す。
ガン治療を必要としているのはガン患者ではなく、
医療サイドではないかというのが本書の斬新な指摘である。
近藤医師は「本当のこと」を言い放つ。

「実は彼ら[専門医]も[ガンの]外科手術の価値を疑っているんだけど、
単に仕事を失うのがこわいのかもしれません。
「メスを握ってこその外科医、手術がなくなったらなにをすればいいんだ」と。
医者の世界には「自分の治療を生き延びさせたい」
「いま握っている利権、役得を手放したくない」という、
土建業界みたいなところがあります」(P69)


「経済的利益に裏打ちされた偏見が、一番正しにくいと言われています。
コペルニクスやガリレオの地動説も、
教会は教義が崩れるから絶対に認めなかったでしょう。
「抗がん剤は9割いらない」となったら、
世界中の医者の仕事が一気に減りますよ」(P89)


勤行(ごんぎょう)と功徳(現世利益)や仏罰は関係ないと「本当のこと」を言ったら、
創価学会の本部職員や幹部が食い詰めてしまうが、
それとは関係なく人間は「本当のこと」を知ればいいのかという問題もある。
抗ガン剤治療は身体的にはきついのだろうが、医者やナース、家族、
みんなでいっしょに連帯して闘病しているという昂揚感覚は、
あんがいなにも治療をしない孤独な不安感よりもいいのかもしれない。
しかし、また「本当のこと」を書くと、ガン治療を患者に熱心にすすめている医者も、
いざ自分の家族がガンになるとがらりと態度を変えると近藤医師が証言している。
まあ親類や親友に医者がいない一般人はいまのままでいいのではないか。
いまの健康保険制度がつぶれるまでは――。

「病院は手術や抗がん剤治療・放射線治療を、すればするほど利潤があがります。
患者・家族には、主治医の治療方針に従わないと
診察してもらえなくなるなるのではないか、という恐怖がある。
一方でマスコミが「がん難民」などと言って
患者の恐怖心をあおって販売部数を上げようとする。
また患者やその家族は、外科手術、抗がん剤治療、放射線治療を
受けることでがん保険金の支払いを受ける。
そして保険会社にとって、がん保険はドル箱です」(P118)


ああ、そっかあ。民間のガン保険に入っていたら、治療を受けなきゃ損だって思うわ。
なーんかガン保険に入るとガンになる確率が高まるような気がするけれど、
だれか果敢にも調査した人はいないのだろうか?
いままで慶應大学の近藤医師の言葉ばかり採録してきたが、
これでは権威主義のように思われかねないので、
町医者以下の老人ホーム医師の中村先生の名言を紹介させていただく。
これはガンのみならず医療全般、人生全般にいえることだろう。

「エビデンス[データ]があるといったって統計上のことであって、
個人がどうなるかということとは別問題ですよね。
医療は「不確実性」のものですから、結果はやってみてのお楽しみなんですよね。
前にも言ったように、医療は一種の〝賭け”〝命を担保にした博打”とも言える。
人事を尽くすのはいいけれど、最後はやっぱり「天命にお任せ」です」(P169)


けれど、天命にお任せすることができず、
最後の最後になると新興宗教にすがるものもいるのだろう。
創価学会に入って功徳(財務5百万)を積んだらガンくらい治るかもしれないわけだし。
まあ治らなかったら、そこは信心が足りなかったということで。
あんがいガン治療に大金をつぎ込むのって、
新興宗教に高額納金するとのあまり変わらない行動なのかもしれない。
みんな死にたくないんだなあ。
きっとネクストがあるから、そんなに怖がらなくてもいいのにと個人的には思う。

「スーパー名医が医療を壊す」(村田幸生/祥伝社新書)

→内科医の先生が書いた悲鳴が聞こえてくるような告発書。
やたら世間体はいい医者という職業だが、裏では地獄のような現実があるという。
いっぽう医療ドラマは建前のきれいごとだけで作っているわけである。
テレビドラマは本当のことよりもいかに大衆に気に入ってもらえるかを考えるものだ。
で、実際に医者の著者が医療ドラマに突っ込みを入れるという本だ。

ひとつ、まったくそうだよなと思ったのは、医療ミスをした医師は悪人かという問題。
ミスはだれでもするものである。ミスをしない人はいない。
この場合、ミスをしたことの責任はともかく、善悪は論じてはいけないのではないか。
なぜなら、悪人だからミスをしたわけではない。
ならば、ミスをしたから悪だと裁くのはおかしいことにならないか。
こういうケースもあるそうだ。新米医者が当直のとき急患がやって来る。
診てみたら専門外で、しかし近くに専門病院がない。
このようなときは放置したらどうせ死んでしまうのだから新米医師が一か八かでやるしかない。
むかしはこのケースは「緊急避難」とおなじと考えられ一か八かの治療が許された。
だが、最近の判決ではこの新米医師がミスをしたら有罪になってしまうという。
あんまりじゃないのかというのが著者の主張で、まったく同意する。

ミスを善悪で裁いていいのかという問題は広がりがあるような気がする。
交通事故だってあれは確率的にかならずだれかが起こすと決まっている現象だ。
ことさら交通事故というミスをしたものが悪人だったわけではない。
にもかかわらず、交通死亡事故など起こしてしまうと大悪人のような裁きが下る。
あれは車を運転しているかぎり、だれもが防げない確率的現象だと思う。
結果の善悪から行為者の善悪を裁くのはなんだかおかしい気がする。
もちろん、被害者遺族の感情の矛先として適当な存在が不可欠であるという事情はわかるが。
しかし、どちらかが5分遅れていたらその事故は起こっていなかったわけで、
そうだとするとこのたまたま起こった交通死亡事故は確率的現象としか言えないだろう。
結果の善悪から行為者の善悪を決められるものでもないと思う。
話は戻って、著者は交通事故についてはどう思っているのかお聞きしたい。
交通事故の刑罰が妥当だと言うならば、医療ミス事件の医者への仕打ちも仕方がないだろう。
交通事故加害者も悪意などまったくないのにたまたまミスをした結果、
まさかなるとは思っていなかった罪人になってしまうのだから。

大前提として、人はだれでもミスをする。
人生全般、どこでミスをするかが勝負の分かれ目なのだろう。
家の掃除や料理でいくらミスをしてもいい。買い物のミスもちょっとした損に過ぎない。
しかし、運転中や医療中にミスをしてしまうと取り返しのつかないことになってしまう。
かといって、いくら注意してもミスは完全には防げないものである。
そうだとしたら、結論はやっぱり人生万事が運次第ということになるような気がする。
そういえば春日武彦氏という精神科のお医者も、いちばん大事なのは運だと主張していた。

「医療否定は患者にとって幸せか」(村田幸生/祥伝社新書)

→ネットではえらくヒステリックに叩かれているが、とてもいい本だと思う。
内科医の著者の書いた「お医者は辛いよ」である。
ほとんどの医者が青年時代、善きことを目指してこの仕事に就いたのに、
なぜか患者からは悪者としか見られない現状を嘆く。
いまの人は病院で死ぬことが多いから、遺族はつい最後の医者を悪者のように見てしまう。
医者がもう少しなにかしてくれていたら、
いささかでも長生きさせてあげたのではないかと思う遺族心理を著者はよく理解している。
著者は書いていないが、遺族はたぶんこう思えばいいのだろう。
このお医者のおかげで本当はもっと早く死ぬところをここまで生かしてもらえた、と。
わたしもむかし親を亡くしたとき、かなり強く当時の主治医を恨んだものである。
しかし、もしかしたらあの医者だからこそ、あそこまで生きられたのかもしれない。
あの医師でなかったらもっと早く死んでいたのかもしれないではないか。

読みやすい文体ながら、かなり鋭いことを著者はいろいろ指摘している。
この人は非常にあたまがいいと思う。
たとえば民間の健康食品や「○○を食べたら病気にならない」をどうとらえるか。
ふつうの医師ならたぶんあたまからバカにしてかかるだろうが、著者は誠実である。
肯定も否定もしない、つまり、わからないと言うのだから。
なぜかと言う説明がとてもわかりやすかった。
健康にいいAというものを毎日摂取したとする。たしかにそれで元気になった。
おかげで血液検査の結果がよくなった。だとしたら、効果があったのか。
答えは、わからない。なぜならばAを摂取していない自分と比較できないからである。
著者の体験として養毛剤をあげている。
長年ある養毛剤(医薬部外品)を使っていたが、
薄くなったことを同僚に指摘され別の医薬品の発毛剤に変更したという。
ところが、1か月後よけい髪が薄くなっている気がする。不安である。
しかし、発毛剤が自分に合わないのか、それとは関係なく脱毛が進行しているのかわからない。
なぜなら、いまの発毛剤を使っていない自分と比較できないからである。
結局、著者は元の養毛剤に戻したら脱毛の進行はストップしたが、
発毛剤が自分に本当に合わなかったかどうかはわからないと正直に白状している。

これは降圧剤などでもおなじだと著者は指摘する。
降圧剤をのんでいても脳梗塞になることはある。
だから、のんでも意味がなかったとは言い切れない。
もしかしたらのんでいなかったら、もっと早く脳梗塞になっていたかもしれないし、
そうでないかもしれないし、個人のケースではそれはわからない。
が、いちおう血圧に関しては大規模な統計が取れているから、
(統計のない)民間の健康食品とは異なり、まあ服用しておいたほうがいいとは言える。
わたしの実体験を書く。病名は伏せるが、ある薬の服用を開始した。
1ヶ月後に効果があったか血液検査をするという。わたしは医者に質問した。
「薬をのんでいるから、数値を悪化させる食品を口にしてもいいですか?」
医者は口ごもった。再度問う。答えは「なるべく食べないほうがいいような」――。
結局どうしたか。薬の効き目を調べるんだから、医者に逆らっていつも通り食べようと決めた。
1ヶ月後、血液検査をしてみると、たしかに数値が下がっていたのである。
西洋医学というのはすごいものだと感激したものである。
しかし、もし食生活を変えていたら薬品の効果かあったのかどうかわからないことになる。
本書を読んでわたしのやったことは、それほど間違っていなかったのだと確認できた。
(生意気にもお医者さんのご指示に逆らってごめんなさいです)

原因と結果のあやふやさにも優秀な医師である著者は敏感である。
テレビで百歳を超えた老人がばりばりフライドチキンをむさぼるのを見たという。
あぶらぎった老人は好物だからフライドチキンを毎日食べているとのこと。
ゲストが、「好きなものを食べていると長生きするんですね」というコメントを出した。
それはおかしいぞ、と著者は突っ込みを入れる。
フライドチキンを食べていたから長生きしたのではない。
丈夫な胃腸と歯を持っていたから長生きして、
結果としていまもフライドチキンが食べられるのではないか。著者は主張する。

結果から原因を後付けしない!

これはまったくそうだと同感する。いかに我われは結果から原因を作っているか。
ほかにも著者は「高僧は長寿」という説を否定している。
長生きしないと位が上がらない。若くして死んだら、高僧の地位には行かない。
高僧は長寿の原因ではなく、結果を言葉を変えて言ったに過ぎないのではないか。
「日光暴露が心筋梗塞を減らす」という論文もそうではないかと著者は言う。
日光のあたらない室内でコーヒー、タバコをのみながら
デスクワークしている運動不足のサラリーマンは心筋梗塞になりやすいというだけ。
つまり「原因→結果」のように見えて「結果→結果」を言っているだけではないか。
これは別の本で読んだが(中島義道「後悔と自責の哲学」)、
ダーウィンの適者生存説も似たようなものである。
適者が生存したというのは生存しているのが適者なのだから、
別に新しい学説ではなく単なるトートロジー(同語反復)に過ぎない。
こうして考えてみたら、世にはびこる成功法則なんぞもその最たるものである。
成功者が成功という結果から原因を告白しても、それは成功の原因ではないことになる。
さらりといま書いているが、みなさん、おわかりいただけましたか?
著者のあたまのよさには驚く。
我われはけっこう「結果→結果」を「原因→結果」と錯覚しているのではないだろうか。

さて、たいへん優秀な著者は説明責任を重んじる最近の医療風潮に疑問を呈する。
「治りますか?」と患者から聞かれる。
医師としては「かならず治りますよ」と言いたいし、そのほうが治療効果も上がる。
だが、それをやってしまったら訴えられてしまうのだという。
「治る確率は60%です」などと正確に情報を伝えることが義務づけられている。
患者の気持はどうか。「60%のためにがんばるぞ!」というのは滑稽ではないか。
患者の主観では治るか治らないかは100%か0%かである。
ならば「100%治る」と思って闘病したほうがいいのではないか。
このために患者は「60%」などという医者を敵と思ってしまうのだと著者は言う。
医者はあんなことを言っているが絶対に治してみせる、と主治医を信じられなくなる。
本当は医者だって「絶対に治りますよ」と力強く言いたいのである。

これに関係する米国の「セクレチン騒動」を本書から引用させていただく。
とてもおもしろい。

「一九九六年四月、米国の三歳の自閉症児が、セクレチンの注射とともに
しゃべれるようになったことにより「自閉症児にはセクレチン!」という報道が、
瞬(またた)く間に全米中に広がった。
そして現実に、多くの病院でセクレチンの注射により、
自閉症児が会話できるようになったり、IQの上昇がみられたのだ。
医学誌への論文報告もされている。
ところがその後のRCT[無作為化比較試験]では、驚くべき予想外の結果が出た。
セクレチンの注射と生理的食塩水の注射との比較で、改善度は同程度であったのだ。
これは多くの教訓を医者に与えた。つまり病気の種類によっては、
「非特異的エピソードが(プラスであれマイナスであれ)状態を変容させ得る」
ということだ。
右の内容は、かつて『メディカル朝日』に掲載された伊地知信二、奈緒美医師の
文章をわたしが要約したものだ」(P71)


だとしたら、現世利益をうたう新興宗教もかなり有効ということではないか。
新興宗教の集会や会報では、いわゆる奇跡めいた報告例が多数あろう。
「かならずよくなる」と周囲や本人が強く信じたら「状態を変容させ得る」のではないか。
周囲が自閉症児への見方を変えたら、自閉症児がしゃべれるようになったのである。
このときの新薬がお題目でもツボでもパワーストーンでもいいことにならないか。
我われの見方しだいで「状態を変容させ得る」というのは衝撃的なことだと思う。
自閉症児だからどうせダメだろうとあきらめていたらしゃべることはなかったのである。
希望という偽薬の効き目がいかにすごいか、である。
一見すると薄手の軽めの本だが、内容はわかりやすいうえに深い。いい本を読んだ。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ」(中村仁一/幻冬舎新書)

→こういう本がベストセラーになるのは非常にいいことである。
だって、これ以上医療費がふくれあがると国民皆保険を維持できないじゃありませんか。
国民皆保険があることから、日本人のやさしさがわかるような気がする。
ほんとうにわが国に生まれたということは恵まれていると思う。
本書の内容を忙しい方のために要約したら、ガンにならないためにはどうしたらいいかだ。
答えは、ガンになりたくなかったらガン検診を受けるな、である。
これはむかしから宗教評論家のひろさちや氏が言っていたことだけれど、
京都大学卒のモノホンの医者が言うと迫力があるぜ。
いろいろ批判はあるだろうが、売れていい本だったと思う。
かるーく批判すると、死ぬときには脳内モルヒネが出るからガンによる自然死は怖くない、
と書いてあるけれど、あなた、自然死したことがあるんですか?
それから、繁殖、繁殖、うるさい!
もう繁殖が終わった人間は死んでもいいと繰り返しているが、
いまの世の中には畜生でも可能な繁殖さえできない人間がごまんとおりますぞ。

とはいえ、いい本である。
お医者の著者に代わって大声で復唱するが、ガン検診を受けなかったらガンにならない。
みなさん、この本を読んでもなんだかんだガン検診を受けているのでしょう?
わたしはついに踏ん切りがついた。
区がしてくださる健康診断で今年は大腸ガン検診を受けなかった。
腹が据わったということだ。
どうせガンが見つかってもガン保険なんか入っていないし高額の治療費も払えない。
ならば、著者の言うように「手遅れの幸せ」をニヤニヤしながら待ちたい。
はっきり言って、自殺願望がどこかにある人には余命宣告は福音である。
なんで自殺願望を持つものにかぎって末期ガンにならないのだろう。
あんがい余命宣告されたら「生きたい」なんてハツラツとして思うものなのかもしれない。
本書で知っていちばん驚いたのは医学情報ではなく、
いまの90歳代で年に4~500万円の年金をもらっている人がいるということ。
やはりそうだったのか。高級料理店で働いてる人に聞くと、客は老人ばかりとか。
銀行員もいろいろ詳しそうだが、なぜか表には出てこない裏である。

「医療とかかわるな」の部分は人それぞれだろう。
いまはほんとうにいい時代だと思う。
激しい痛みがあっても医者に行けばよく効く痛み止めを出してくれる。
不安が強い人には精神安定剤、眠れない人には睡眠薬を処方してくれ、
どちらもむかしより効き目がよく依存度も少ないのだから。
かつては痛風になったらあん肝や白子を食べられなかったのだが、
いまは尿酸値を下げる薬が安いジェネリックで購入できるのである。
著者は医者だから医療批判をしてもいいが、
我われがおいそれとはしてはいけないような気がする。
これは被差別者ならばおのれの擁護団体を批判してもいいのとおなじ理屈である。
名著から名言を引用させていただく。

「これまで、70前後の何人もの有名人が、よせばいいのに、
健康であることの証明欲しさに「人間ドック」を受けてがんが見つかり、
目一杯の血みどろの闘いを挑んだ末、見事に玉砕し、果てています。
自覚症状は、全くなかったでしょうから、「人間ドック」など受けさえしなければ、
まだ一線で活躍していたと思うと、残念のひとことに尽きます」(P106)


「一般に、医者は医学の勉強をして医師免許を持っています。
しかし、特別に人生勉強をしてきたわけではありませんし、人生修行もしていません。
また、さしたる人生経験もありません。
そんな医者に、いかに死ぬかという、
むずかしい人生問題をつきつけるのは可哀相すぎます。
医者には荷が重すぎて、逃げ回るしかありません」(P123)


「検査の数値は、実は微妙なことで変動するといわれています。
同じ血液検体を複数の検査施設に依頼すると、
異なった測定結果がもたらされるそうです。
検査機器や検査試薬が違うためともいわれます。
同一施設でも検査技師が交替すると、測定値が変化することもあるそうです」(P179)


「偽善の医療」(里見清一/新潮新書)

→医者の本音が書かれた本ゆえペンネームだが調べればすぐに本名が出てくる。
国立がんセンターに長らく勤務していた医師である。
本音だから、医師なんて割に合わないと最初からぶちまける。
子どもや身内から医者や看護職に就きたいと相談されたら、即刻やめろと著者は言うそうだ。
なぜなら医者の場合、開業医はそうではないが、勤務医は給料が安い。
そのくせ理不尽な要求にさらされ、感謝もされず、ミスをしたら刑事罰を問われる。
どのみち就いてもモチベーションが長く続かないからやめたほうがいい。
がん専門医としていちばん困るのが、もはや打つ手がないときだという。
このような際、多くの患者はなにもしないよりもなにかしていたほうがいいに決まっている、
という誤った思考におちいりやすいので説得するのに骨が折れる。
ダメでもともとでいいから、なにかしたがる患者や家族が多い。
しかし、金はかかるし、副作用で苦しむのは患者自身なのである。
失うものはないというが、下手をしたら家族と話す時間までなくなってしまうことになる。
それでもなにか治療法があるのではないか、と食ってかかる患者や家族がいる。
あきらめないことが肝腎だ。希望をくじくようなことを言うな。
余命3ヶ月と言われて奇跡的によくなった人もいるではないか。
どうしてあんたはネガティブなことを言うんだ。もっとポジティブな医師がいい。
ネガティブはやめろ! ポジティブが健康にいいんだ! おまえは本当に医者か?
アメリカの科学でもポジティブの正しさは証明されている。もっとポジティブになれよ!
こういう患者や家族が怪しげな民間療法でぼったくられているようだ。

「野暮を承知で、また繰り返しになって恐縮だが、これは覚えていただきたい。
医者にとっては「もう無理だ、やめよう」というよりも、
「駄目でもともとだろう、やってみよう」という方がはるかに楽である」(P167)


しかし、やっても患者の苦しみと医療費が増すだけらしい。
それから著者は病名の告知はすることにしているという。
どうせ隠しても、待合室で別の患者が教えてしまうのだという。
がん患者は自分の体験から、それなら本当はこのレベルよ、と親切(?)をするのが常だ。
患者同士の会話で誤った知識を持つくらいなら(自殺騒動まであったとのこと)、
最初から本当のことを言ったほうがいいと著者は考える。
なお、著者はタバコは吸わないが、
がん病棟にも喫煙室はあってもいいのではないか、と指摘する。
タバコも酒も健康には悪いが、まあいいのではないか。

「健康や生命はそれ自体貴重なものであるが、他のすべてに優先するものか、
これを第一義的に尊重するのが唯一の正義なのか、私には確信がない。
私には、今の禁煙運動の正義は、愛国婦人会の正義と重なるのではないか
という疑念がどうしても拭えない」(P120)


「名医のウソ」(児玉知之/新潮新書)

→そもそも名医にかかりたいという人の気持がわからない。
たとえ99%の患者をよくする名医にかかっても、
自分が1%になってしまったら意味がないではないか。
反対によしんば悪評が高いヤブ医者でも自分が痛苦から解放されたらそれで大満足。
医師の国家資格をお持ちの著者の指摘するように、
たしかにいまは名医にかかるのもヤブにかかるのも同金額で不公平とも言えるが、
名医で悪化する人、ヤブで治る人もいることを考えると、
名医などしょせんは確率統計の問題に過ぎないことがわかり、どうでもよくなる。
むろん本書がダメというのではなく、いい本だからいろいろ考えさせられたということだ。

本書からすると、いまの医者はふたつに分かれるのではないか。
自分の経験を重んじる医師と、エビデンス(統計データ=多数派情報)に従う医師だ。
よく読み込むと著者はどちらもそれぞれいいという立場のようだが、
やはり若いこともあり(わたしと同年齢)エビデンス重視の医師を評価している。
これは意地の悪い見方をすれば、
目のまえの患者よりデータ(統計)を見る医者がいい、と言っているのに近い。
言うまでもなく、優秀な著者は、
現実の患者というものは生ものでエビデンス通りにはいかないことも熟知しているのである。
通常用法とは違うが実際効果のある薬を処方する医師の存在も著者から教わったことだ。
わたしが医者にかかるのならば、エビデンスに盲目的に従うよりも、
多数派はどうでもいいから、こちらの苦痛を取り除いてくれそうな人がいい。
明らかに自分勝手だが、他の99人が治ってもわたしひとりが苦しいままの医者は敬遠する。
医師選択の基準は、好きか嫌いか、ウマが合うかどうかを最上に置こうと思う。
しつこいが、これもまた本書から学んだことである。

「実際の医学は、紋切型に、こうしたら必ずこうなるという世界ではなくて、
個体差、ばらつきをはらむ学問です。確かにどんな病気にもスタンダードな診断、
検査とそれに基づくスタンダードな治療は存在するのですが、確実に、
ある一定の割合でスタンダードからはずれる個人差、個体差が必ず存在します。
経験のある医者ほど、その個人差を目の当たりにしていて、
人間は千差万別なのだと肌身で感じています。
だからいくら自分の診断や、診療がよいものだと信じていても、
ある一定の割合で自分とはウマが合わない患者が出てくるということを、
やはり肌身で知っています」(P120)