「天平の甍」(井上靖/新潮文庫)
→歴史物語である。歴史は日なたと日かげがある。
たしかに天は地を照らそう。だが、天は地上あまねく照らすわけにはいかぬ。
日なたが存するためには、かならず日かげがなければならぬ。
この小説を日なたの物語と読むか、日かげの物語と読むか。
それはこの地上における今現在の読者の位置を反映しているのかもしれない。
鑑真来日の物語と読むか、業行悲運の物語と読むか、である。
後者を取る。
業行がこの物語上にはじめて紹介されるのは、次のような言葉によってである。
「彼にもとうとう陽が当たらなかった!」(P43)
陽の当たらぬ留学層、業行は唐でおのが天分を悟ったのである。
「自分で勉強しようと思って何年か潰したのが失敗だった、
自分が幾ら学んでもたいしたことはないことに早く気づいて
写経の仕事に取りかかるべきだった」(P67)
業行の達観である。業行はそれでも捨石にはなるまいと思った。
写経を日本へ持ち込めば、故国の優秀な僧が、仏教を発展させてくれよう。
それならば、この人生、名誉名声と無縁でもかまわぬ。仏国土の到来こそ本願である。
壮絶な生きかたである。
唐の名僧である鑑真と、業行の手なる山のごとき写経は、
おなじ遣唐使船で帰国の途に着く。といっても、船は四つある。
危険極まりない日本への航路。どの船に乗るかで安否も変わろう。
命よりも大事な経典である。業行はより安全と思われる第一船へ写経もろとも乗り込む。
航海を左右するのは天である。天候である。
この大行事には、個人の運などという微小なもののあずかりしらぬ
巨大なものが関係している。
天命である。天の調和である。宇宙の運行。星廻りといってもよい。
近代学者はこれを歴史とよぶのかもしれぬ。
天命はくだる。鑑真来日。日本初の受戒壇設立である。
業行は天に見放された。
30年近くも心血をそそいできた写経が日本へ渡ることはなかった。
海の底へと沈んだのである。業行の人生はまるで無駄に終わったのである。
業行のように天与の自己と向き合い、天分を悟った知者でさえも、
天の助けがなければ海のもくずと消えゆく。これもまた天命である。
「天平の甍」。この歴史物語をどう見るかである。
歴史学者は鑑真をのみ見るであろう。
10年にわたる艱難のすえ来日した鑑真を見て、
あるいは夢はかならずかなうといった幼稚な教訓を導きだすかもしれぬ。
文学者は、井上靖は、「とうとう陽が当たらなかった」業行を見るのである。
ここで冒頭の二者択一の結論をくだす。この歴史物語は光か影か。
影だ。日かげの物語だ。「天平の甍」の真の主役を業行と見るのは間違えではあるまい。
この歴史物語で唯一人間らしいのがこの業行なのだから。
そしてまた同時に、ただひとり実在があやふやなのもこの業行である。
井上靖は業行をほれぼれと見やる。あこがれのまじった視線である。
業行。この人間嫌いの老僧は現代人が決して見られぬ天命を見たのである。
おのが人生の結晶である写経もろとも海底へ沈むとき、
業行はたしかに天命を見たであろう。たとえば漂流する深夜である。
海面から一瞬、顔をだした業行は天空にまたたく星ぼしをまざまざと見たに相違ない。
それは現代を生きるものにはプラネタリウムでしか見られぬものなのである。
「敦煌」(井上靖/新潮文庫)
→ひさびさに贅沢な読書をする。実に美味なる読書であった。
巻末に多くの注解のついているのがこの「敦煌」をともすれば難解に見せるが、
惑わされてはならない。本書は極上の娯楽小説である。
注解ごときをすべて飛ばそうが、なんら差しさわりがないことを報告しておく。
読後、天命という言葉が思い浮かぶ。
おそらく本文中には一度もこの言葉は登場していない。
ミステリーで最初から犯人の名前を書く痴(し)れものがいないのとおなじことである。
みな思う。天命を問う生きかたをしてみたい。だが、だれもができる生きかたではない。
ゆえに、井上靖はそれを小説に書く。
「敦煌」へ登場する武人、女人、みなが天命を問うているのである。
生まれるとはいったいどういうことかを天に問うものたちのすがたは美々しい。
生まれる。あとは死ぬだけである。わずか何十年かのあいだになにをすべきか。
この問題は天へ問うしかない。というのも、思うがままに人間は生きられぬ。
個人の全活力を奮起しようとも、できぬことはある。
天与のものを最大限に生かし、天の助けを請いながら、おのが天命を見届ける。
「敦煌」の生きかたである。
「敦煌」は、天のもとに生かされていると信じる武人、女人の物語である。
かりそめの天命が尽きようが、われを死なしめた天は地を見下ろしつづけるだろう。
天のもと生きる。死ぬ。
ただそれだけのことならば、なんとしてでもおのが天命へたどりつきたい。
もうダメだというところまで、天与のものを決して投げ出すものか。
天はわれになにを与え給うたのか。それを見たい。知りたい。
「敦煌」に充満する息吹である。
天命へ到達するとはいかなることか。人事を尽くすことである。
限界の、そのまた限界を、超越せんと欲望することである。
限界はどこにあるか。自己の中である。
自己は天与のものである。それを超えんとするとき、はじめて大きなものが現われる。
克己。己に克つ。井上文学のテーマである。
克己とは天与のものを飛び越えんとする挑戦。
連なる障害物を汗みどろにひとつひとつ攻略していった先にようやく見えるもの。
それが天命なのである。
行徳は、朱王礼は、尉遅光は、この物語の最後になにを見たか。
敦煌である。
滅びゆく都、炎の中の敦煌を見ながらこの三人はおのが天命をたしかに見たはずである。
最後に、主人公の行徳が天命(敦煌)へ行き着くまでの道のりを振り返りたい。
「行徳の眼には、日増しに人間というものが小さく、
その営みが無意味なものに映るようになった。
そしてその人間の小ささや無意味さに、
ある意味を持たせようとする宗教というものが、行徳には興味深く思われた」(P98)
「すべては因縁というものだ」(P108)
「別に生きるとも死ぬとも考えていない。いままで戦に臨んだ時と同じだ。
自分にどういう運命がやって来るか判らない。進んで死にたいとは思わないが、
格別生きなければならぬこともない」(P182)
「もう一度新しく人生をやり直したとしても、同じ条件が自分を取り巻く限り、
やはり自分は同じ道を歩くことだろう」(P197)
「オリーブ地帯」(井上靖/文春文庫)絶版
→お酒をのみながら、井上靖の青春小説を読了。
無趣味のわたしにとっては、飲酒時の読書が唯一の安らぎのときである。
しらふの読書ではないから、あたまを使う必要はない。
ぼんやりしながら、わかりやすい文章で記された、潔癖な物語を享受する。
井上靖独特のきれいなお話とアルコールに、うっとりとする。
ふしぎでしようがない。
信仰をもたない井上靖がどうしてこんな劇的な物語を書くことができるのか。
信じるものがある作家は、あちらから物語を造形するものだ。
けれども、井上靖に特定の宗教への信仰はなかったようである。
井上靖といえば、中国である。
「敦煌」「天平の甍」「孔子」など大陸を舞台にした代表作がある(未読ですが)。
もしや「論語」が物語の母胎なのだろうか。
いや、いわゆる儒教を宗教といってよいのか。
政治規範や人生訓といったイメージがある。
それとも老荘思想。道教から物語を生みだしたのか。
老子も荘子も読んだことがないので判断がつきかねる。
飛躍して、ギリシアのディオニュソス神(バッカス)という可能性はどうだろう。
お酒の神さまである。
井上靖は酒豪である。ウイスキーが物語を創造したのか。
この世ならぬあの世を信じていないと、ああも美しい物語は書けないと思うのだ。
信じるとは、疑わないこと。
これは近代人にとって狂気を意味する。
疑うことによって、近代の諸現象はスタートしたのだから。
だが、懐疑から物語は生まれない。
汚いものから目を背けることを逃避と愚弄する人間は、
決して井上靖の魅力がわからないであろう。
それでは人間がわかりませんよといっているのである。
「石濤」(井上靖/新潮文庫)絶版
→井上靖最晩年の短編小説集。
収録作品は「石濤」「川の畔り」「炎」「ゴー・オン・ボーイ」「生きる」。
「生きる」はボケがテーマの井上靖80歳時の作品。
自覚はあったことがわかる。
「とうとう呆(ぼ)けてしまったかと思う。
呆けてしまったなら、まあ、それはそれで押し通すしかないが、
その日一日、時折、人の名と、その名を持つ実体とを重ね併せる、
奇妙な作業を、何回か、自分に課す」(P154)
「川の畔り」「炎」「ゴー・オン・ボーイ」はボケ小説。
まったく意味が取れない。支離滅裂な心象風景が綴られている。
編集者はさぞ苦労したものと思われる。
まさか文壇の大御所である井上靖の原稿にケチをつけるわけにもいかないだろうから。
編集長も、天下の井上靖の原稿をボツにするわけにはいかない。
これは文学だ。井上靖が書いたのだから文学でなければならない。
こうして文庫化までされたということは、
あんがい簡単に文学的催眠術が成功したのであろう。
「愛」(井上靖/角川文庫)絶版
→短編小説集。
あのさ、小説ってなんなんだろうね。
精神的にきついときに芋焼酎をロックでのみながら井上靖の小説を読む。
いいなと思うわけ。いいな。小説はいいな。美しいものはいい。
酒をのむ。小説を読む。涙もろいほうだから、めそめそする。すぐ感動する。
ちょっと元気になる。小説って、これだよね。読んで元気になる。
難解な文学作品なんかついていけないもん。
なんでそんな難しいものをおカネはらって時間かけて読むのか。
ちいっともわからんね〜。
小説ってなんなんだろうね。
たとえばここに収められている「死と恋と波と」。
ほんときれいな小説よ。
破産した中年男が自殺目的であるホテルへ宿泊する。
若い女が同宿している。偶然からこの女も自殺しようとしていることに男は気づく。
まあ、この男女が結ばれるわけ。で、生きようと思う。死から生へのドラマ。
ありがちな小説だけど、それでもいいと思うのね。
現実にはこんなことはありえない。
わたしなんかも、こう6年、ずっと自殺自殺と騒いでいるけれども、
いっこうに小説のようなことは起きない(苦笑)。
だから、こういう小説を愛読するのかな。
小説ってなんだろうね。現実ってなんだろうね。あたま悪いからぜんぜんわからない。
「夏花」(井上靖/集英社文庫)絶版
→いまは社会学全盛の時代である。
昨年のベストセラー「下流社会」も根底にあるのは社会学。
統計を取る。人間を数値化する。
読者はじぶんがグラフのどこにいるのか焦燥する。
なんでこんな時代になってしまったのだろう。
大学生のわたしをひきつけたのもやはり文学ではなく社会学であった。
宮台真司を社会学といっていいかは、ここでは踏み込まない。
宮台真司のサイン会にまで行く大学生であった。
社会学は人間をバカにした学問である。
どーせこんなもんだろうと上から人間を砂のようにかきわける。
あなたこっち。きみはあっちね。人間軽視の思想である。
なんの脈絡もないがふと思いついたのは精神医学。
近年、精神科のしきいが低くなったようである。
一億総うつ時代ともいわれる。
困難が生じる。精神科医のもとへ。うつ病と分類され、お薬をもらう。
どーせこんなもんだ。つらかったら薬をのもう。楽になろう。人間は、こんなもんだ。
酒をのみながら井上靖の短編小説集「夏花」を読む。
書かれた時期は昭和26〜31年。
どの短編からも井上靖の熱い思いが伝わってくる。
人間を舐めるな!
人間はそんなもんじゃない。人間は食って寝るだけの存在じゃない。
ときには信じられないくらい美しいことだってする。それが人間だ。
思うに、文学は社会学の対極に位置するのではないか。
人間を舐めるなと訴えるのが文学の役目のひとつ。
いま文学は衰退しているといわれる。
社会学、精神医学、文学――。
きれいに勝敗がついた。いまふうに勝ち組と負け組とでもいうべきか。
最近、社会学者や精神科医がくだらぬ本を書きすぎる。
かれらはじぶんこそ人間がわかったと思っている。だから、わかったような本を書く。
文学。人間はわからないものだということを書く文学は、現代流行らないようである。
「あすなろ物語」(井上靖/新潮文庫) *再読
→読むのは三度目。今回がいちばん感動した。なみだがとまらない。
あすなろ。あすなろの木というものがあるのだそうだ。
あすはひのきになろう。あすこそは。
そう思いながらも、ついにひのきになれないのがあすなろ。
これがあすなろの木にまつわる説話である。
人間はみなあすなろか。いや、中年にもそれはいるだろうが、
あすなろはやはり青年の特権である。青春のあすなろたち――。
というのも中年にもなれば、
あすなろは決してひのきにはなれないことに感づいているだろうから。
「あすなろ物語」では、美貌の未亡人が青年たちをけしかける。
「誰が檜(ひのき)の子かしら。大沢さんかしら、鮎太さんかしら」(P113)
この未亡人に恋心をいだく青年たちはめいめい即答する。
「僕も檜ですよ。五年先を見ていて下さい」
「僕も檜さ、しかしまともな伸び方はしないがね」
「僕は翌檜(あすなろ)に見えるだろう。
ところがどうしてたいした檜なんだ。まあ、気長に見ていて貰おう」(P114-115)
井上靖の小説に頻出する言葉は克己である。
己に克つ。あすなろの思想である。あすなろは己に克ってひのきにならんとする。
なんでも国語教科書には、この小説の克己の箇所が掲載されているらしい。
誤解を招くのではないかと心配する。
学校教師は道徳上の便宜から、克己を学童に押しつけたりはしないだろうか。
井上靖の克己は、自己啓発の克己ではない。宿命の克己である。
人間は己に克たんとする。克己は人間のみに許された欲望である。
だが、この欲望は決して充足されない。人間は己には克てぬ。
生まれを選べない。貧富、性別、容姿、知能、性格は選択不可能。
死も同様。自殺以外は、人間みなおのが死期を知らない。自殺とて失敗がある。
己は絶対的なものなのである。ままならぬ生死に挟まれた己は超越できぬもの。
克己をめざすも克己かなわぬ人間。
これこそ井上靖が描いたものにほかならない。
「あすなろ物語」を見てみよう。
いったいどのあすなろがひのきになったというのだ!
みなあすなろのままなのである。あすなろのまま死んでいく――。
主人公の鮎太少年に克己を教えた大学生は、大成せずに美少女と心中する。
鮎太を育てた寺の娘は、陸上競技の日本記録をわき腹の骨折であきらめている。
華々しい戦死を遂げた金子青年(鮎太の友人)がひのきになったとでもいうのか。
鮎太の尊敬する老記者は人生で一度もスクープを取らずに死んでいく。
鮎太がほのかな友情を感じていたライバル新聞社の記者も若くして戦死。
鮎太自身だって、どうだ。最終章の鮎太は薄汚れた中年である。
妻子に隠れてこそこそ不良少女と浮気しているのが現実だ。
鮎太青年の若々しい潔癖はどこへいってしまったというのか。あの壮大な女性崇拝は?
「あすなろ物語」では、登場人物のだれひとりとして、ひのきになっていないのである。
だから、この小説を教科書へ載せる教育者は誤読していることになる。
たいがい学校ではがんばればなんでもできると教える。
「あすなろ物語」に、そんな主張は皆無である。
人間はがんばったからといって、なんでもできるわけがない。
克己など、はなから不可能な思想なのである。だが、克己をめざす人間は美しい――。
その意味で「あすなろ物語」は克己を正面から描いた小説である。
人間はだれしもあすなろである。
もっと、もっと、あすなろになりたいと思う。人間になりたいと思う。
あすは、あすこそは、ひのきになってみせる。そう絶叫しながら死んでいきたい。
「若き怒涛」(井上靖/文春文庫)絶版
→昭和28年に連載された新聞小説。大衆小説や中間小説とよばれるもの。
いくら酔っていたとはいえ、
このような小説を読んでうるうる来てしまうわたしというのはどうだか。
おそらく嘲笑の対象になるのだろうな。甘ったれたセンチメンタリスト!
物語は独身の姉妹が幸福をめざす――。
恋愛結婚がそのままなんの疑いもなく幸福と定義されている箇所など、
現代から見たら突っ込みどころが満載なのだろう。
とすると、こんな時代遅れの大衆小説を読んで感動するわたしはおかしいのか。
どうにも現代小説にはこころ動かされぬ。
時代は常に進歩している。進歩! 小説も時代にあわせて進歩しているのか。
なぜか退歩しているようにしか思えないのである。
現代の読者はこの物語を笑うのか。
登場するのは独身の姉妹。親元から離れて都会でふたり同居している。
姉は妻子ある会社社長に恋をしている。不倫である。どうしようか迷う。
潔癖な妹が姉へ意見する。「姉さんが嫌いになったわ」
「わたし、人間、何をしてもいいと思うの。
自分がどんなに不幸になっても、それはそれでいいと思うの。
でも、そのために、ほかの人を不幸にしてはいけないと思うわ。
ほかのひとを不幸にしないのなら、どんなことをしても構わないけど」(P148)
なにをとっぽいことをと現代の不倫妻はあざわらうのか。
いま主婦によるブログでの浮気告白がたいへん流行していると聞く。
「本の山」にも訪問履歴が残っていたことがあって、一度見たことがある。
なんとも汚らわしかった。インスタント食品、全自動洗濯機、食器洗い機――。
現代の主婦は家にいてもすることがないわけだ。
だから浮気をする。それを当たり前だと思っている。
それどころかブログに公開して自己陶酔にひたる。愛に引き裂かれるあたし!
現代にはどこを探しても真剣なものがない。みなが薄笑いを浮かべている。
馴れ合っているともいえる。こんなもんだろう、所詮、こんなもの。
50年まえの物語に話を戻す。姉は、ついに社長にからだを許す。
苦悶する。相手の妻子を困らせてはならない。身を引かねばと思う。
だが、社長を愛している自分をどうにもできない。
苦しむ美貌の姉へ妹はいう。
「人間は生れて死ぬまでには、辛いこと沢山あると思いますわ。
姉さんも、きっといまが辛い時よ。
その辛いことに負けたら、人間、おしまいだろうと思うの」(P307)
平成のひねくれた読者はここで失笑するのだろうか。
克己の思想とは、まるで道徳の教科書じゃないかと。
言い尽くされたことだが、現代という時代はありとあらゆる道徳的価値観を破壊した。
戦後の日本人は古いものを徹底的に破棄し、新しいものならなんでも歓迎した。
結果、なにが残ったというのか。
なーんにもなくなってしまったじゃないか。美も徳もない。
苦しかったら精神科へ行って楽になるクスリをもらいましょう!
いまは克己など消滅した。勝手な造語をすれば、脱己の時代である。
井上靖の小説を読んでいたら、笑われかねない時代なのである。
「がんばって生きてる人って何か見てて笑っちゃうし」
と芥川賞受賞後のコメントをした、ある少女作家をふと思いだした。
2005/09/14(水) 17:40:08
「緑の仲間」(井上靖/文春文庫)絶版
→昭和27年の新聞小説だから、なにもかも古くて作品世界に入り込むのが困難。
この50年での日本の変貌が、純文学ではない中間小説がゆえに強く感じられる。
お酒を飲みながら読むことにする。いいのです。
井上靖も酒豪。それも文壇酒豪番付の横綱だったというではないか。
酔ったあたまで読むとこれほどの傑作はない。
宮本輝の初期小説をちょっと古くしたようなみずみずしい青春小説。
井上靖はいいね。志というものがある。
あるいは時代か。時代が作家に志を持たせたのか。
美しいものへのそぼくな崇拝。正義感や潔癖を美徳として尊重する作風。
前記の現代小説「傷口にウォッカ」にはないものばかりがここにある。
そう、いま思い出した。この「傷口にウォッカ」というタイトル。
性器を傷口と形容して、そこにウォッカをそそぐシーンがある。
恋人に舐めさせるためである。
女性崇拝者の井上靖がこの小説を読んだらどんな感想をもらすのか。
えーと、この「緑の仲間」のストーリー?
いえね、あはは、最後のほうは酔っ払っていたから覚えてないんです。
でも、うん、おもしろかった。何度も感動で泣きそうになったから。
酔うと涙もろくなります。
2005/06/28(火) 14:40:08
「夢見る沼」(井上靖/講談社文庫)絶版
→いきなり引用。小説内の会話から。
「運命というものか。そりゃあ、あるだろうね。
人間には、各人にこうなるように初めからできていたというものがあるだろうね。
だが、しかし、それはある程度人間の力で変えられるものだと思うね」(P133)
小説家ってすごいと思う。神様でもないのに他人の人生を描ける(=わかる)んだから。
どんな根拠をもって小説の中の人物を動かしていくのでしょう。
努力と運命の配分をどうやって決めているのか。
私小説や歴史小説のメカニズムならわかるんだけれども。
つまりは実際に起こったことを書くのだから。
もしかして物語作家って神様? 井上靖は現人神(あらひとがみ)?