「わが文学の軌跡」(井上靖/中央公論社)絶版
→今年なぜか敦煌くんだりまで行くことができ、
砂漠のなかにある映画のセットへ入ったときは感動したものである。
井上靖原作の映画「敦煌」のセットがそのままテーマパークになっている。
映画撮影時の写真とともに、原作者の近影がはられていた。
井上靖先生――。この作家とのふしぎな縁を感じずにはいられなかった。
そもそも小説を読み始めたのがこの著者の「しろばんば」であった。
井上靖に小説を読む愉(たの)しみを教わったといってもよい。
どうしてかいまになってまた井上靖なのである。
本を読み始めてからこんなわたしにも人生でいろいろなことがあった。
けれども、根本は変わらないということか。やはり井上靖が好きなのである。
本書は座談会形式。
篠田一士と辻邦生が聞き手となり、作者自身から井上文学の内実が語られる。
宮本輝の文学観との相似に驚かされる。
ほとんどおなじことを井上靖が言っているのである。
言うまでもなく先行作家は井上靖。
宮本輝はただならぬ影響を先輩の物語作家から受けたのであろう。
だが、唯一の、しかし根本的な相違がふたりの物語作家にはある。
井上靖はこの本のなかでいつか親鸞を書きたいと述べている(P123)。
いっぽうの宮本輝は創価学会。日蓮なわけである。
日蓮は浄土真宗を手ひどく攻撃した。南無阿弥陀仏を愚弄した。
宮本輝も親鸞には否定的なようである(「春の夢」の歎異抄批判)。
梅原猛によると、親鸞と日蓮の違いはこうである。
親鸞は死を見すえている。いっぽうで日蓮は生に拘泥(こうでい)する。
日蓮を、いかに生きるべきかしか問題にしない底の浅い思想と批判することも可能。
親鸞を、現世否定の、支配者にのみ都合のいいあきらめの思想と断罪することも可能。
日蓮と親鸞。宮本輝と井上靖。ふたりの物語作家のこの相違は興味深い。
これまた梅原猛の言だが、日本のインテリはがいして親鸞びいきなのだという。
比較的無知な民衆が日蓮思想に深いかかわりをもつ傾向にある。
井上靖は言う。
「(デビュー当時は)がまんして読むような小説ばかりが
評価されていた時代ですね」(P94)
「私小説は私小説で読んでいておもしろいですが、小説を書きだしたころは、
私小説は書くなといった気持がありましたね。
でないと、いいものは書けても、大きいものは書けない。
どうせ小説を書きだしたんだから、書けても、書けなくても、
おもしろいもの、大きいものを書いていこう、こういう気持でしたね」(P92)
井上靖も宮本輝も、「おもしろいもの、大きいもの」を書く物語作家である。
両者の根底に仏教があることはなにか「おもしろくて大きな」物語と関係しているのか。
そのとき親鸞と日蓮の相違はどのように影響するのか。
あるいは、物語の技術は作家それぞれの資質の問題で、仏教とは関係ないことなのか。
深い関心をいだいている問題である。
「わが一期一会」(井上靖/毎日新聞社)
→だいぶまえに母から買ってもらった本である。
一度も読まないで、いまになってようやくなのだから、まったく恥ずかしい。
おおむかしの中学生のころの話。
高校受験の入試は、当時このエッセイから多く出題されたのだったか。
いや、塾の教材でこの本からの抜粋を読んだのかもしれない。
抽象的なことを書く。井上靖の生きかたについてである。
この文学者は、追い求めることを生きる基本姿勢としているようなところがないか。
なにかを追い求める。手に入らないものを得ようと努力する。
決して入手できないものを、それが得がたいものだからという理由で、
結局はものにできないことをなかば知りながら、あきらめながら、それでも追求する。
たとえば「あすなろ物語」に克己という言葉が出てくる。
己に克つことなのできるはずがない。
だが、この物語のあすなろたちはがむしゃらに克己をめざす。
物語が終わったあとに読者は気づく。
だれひとりとして克己をなしえなかったことをである。
では、なにゆえ克己かなわなかったか。努力が足らなかったからではない。
星回りや運命というほかない大きなものにちっぽけな人間は勝ちようがないのである。
人間はいくら努力しようとできないものがある。哀しいが運命はあるのである。
ひとは思うがままに人生を生きられぬ。運命に左右される。
人間は巨大なものの影響力を偶然といったかたちでしか感知できない。
これを偶然と見るべきではないと井上靖は言いたいのではないか。
たしかに偶然だ。
しかし、それはこちらの気持の持ちようしだいで一期一会になりはしないか。
運命論というものがある。すべて運命に決められているという思想だ。
井上靖は運命論者に限りなく近い。けれども井上靖本人は否定する。
「運命というものに非常に興味を持ちますけどね、わたしは運命論者じゃない。
でも運命というものはおもしろいと思いますね。
歴史を振り返ってみると、人間が運命をつくっている。
乱世における武人の生死など運命的というほかないんですが、
それぞれがその運命を招んでいる」(井上靖「わが文学の軌跡」P86)
わかりやすく稚拙な換言をすると、こういうことではないか。
偶然のひとつひとつを一期一会と見ていくことでかれの運命が完成する。
ささいな出会いや事件への向き合いかたである。
受け流すのではなく一期一会をあたまの片隅にでも置いておく。
といっても、井上靖は説教をしているわけではない。
大会社の社長がにこやかに一期一会を成功の秘訣として語っているのとは訳が違う。
一期一会を重んじることで、
あるいは悲劇としかいいようがない運命が成就されるかもしれぬ。
だが、それもやはり運命だ。それが良かれ悪しかれ人間は運命を欲するものだ。
人間と運命は切り離せぬ。だが、運命はあまりにも巨大である。。
この日が差さぬ暗黒の大山にわけいるには一期一会を灯火(ともしび)にするほかない。
「憂愁平野」(井上靖/新潮文庫)絶版→母の墓参りへ行く日に、電車のなかで読んだ本。
昭和36年に連載された新聞小説である。
思うのね。井上靖、いいじゃないか。きれいで美しいものを読みたいじゃないか。
精神的にきつい日がある。そんな日には井上靖の中間小説を読むにかぎる。
文学的には取るに足らないものなのかもしれない。
けれども、それで励まされる人間がいる。
この読者を愚民と見くだすインテリとは生涯縁を切りたいと思っている。
井上靖はもてない男をえがくのがうまい。正確を期すと、もてないではない。
井上靖は、たとえば小谷野敦のようなゆがんだ小物(こもの)を描写したりはしない。
ふられた男である。ふられた男をえがく筆致が冴えわたる。
この「憂愁平野」では彫刻家である。かれは遠縁にあたる娘をずっと想っていた。
大いなる片想いである。そうとは知らぬ娘が兄のように慕う彫刻家のもとへ相談に来る。
娘は妻のある男性に恋をしている。告白をしたという。
女房もちの男へ愛を告白してきたというのである。
じぶんを長いこと愛している彫刻家へ向かって、こんな残酷な報告をする。
彫刻家は待てという。
「待て。――ウイスキーを飲みながら聞く」(P469)酒でものみながらでなければ、好きな娘の恋愛相談などのれるはずがない。
女にはこういう残酷なところがある。しかしこれは短所ではない。女の魅力だ。
邪推しすぎの感もあるが、これが井上靖の女性観ではあるまいか。
娘は彫刻家の気持を逆なでするように、みずからの愛を披露する。
妻のある年長の男性に愛を告白した。
「ずっと前から、何年も何年も前から、
わたしひとりだけで考えていたことを、みんな話しちゃいました」(P471)彫刻家は叫ぶ。「ばか……」
「口に出さないで仕舞っておけばいいんだ。
それを口に出したとあっては、もう駄目だ。救えん。
泥沼に落ちるだけの話だ。また薄汚いことをしたもんだ」
「薄汚いでしょうか」
「薄汚いに決っている。
愛だの恋だのというものは、死んでも口に出すもんじゃないんだ。
映画を見て、自分も一つあんなことをしてみようと思ったんだろう」(P472)のちに彫刻家は娘が恋敵と関係を持ったことを知るにいたる――。
いいね。片想いはよろしい。片想いにこそ純粋で誠実なものがある。
恋愛は相手がいることだから、ひとりではどうにもならない。
向こうが好いてくれないと恋愛は成立しない。
けれども片想いなら、相手がどう思おうが一向にかまわない。
相手に配偶者がいようが恋人がいようが片想いならば迷惑をかけない。
片想いをしたいと思った。
墓参りの日はたいがい雨なのだが、この日はめずらしく晴れた。
墓のまえで寿司を食べた。酒をのんだ。
(参考)「大きな片想い」
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/ookina_kataomoi.htm
「魔の季節」(井上靖/文春文庫)絶版
→お酒をのみながら読んだ娯楽長編小説。
ストーリーのかなめになっているのは、
大学教授の伊吹貞二と映画女優の桂伸子との不倫である。
この主軸に貞二の妻と、伸子の元恋人がからむ。
井上靖の小説は物語性が高い。
では、なにが物語を動かしめるか。
この小説から物語の動因をぬきだすならここである。
貞二は、わがまま放題の伸子にいう。
「図々しい考え方だな」
「ええ、でもこれ生まれつき」
「厄介なもの持って生まれて来たんだね」
「厄介なものばかり持ってますの。
お金はほしいし、有名にもなりたいし、時々嘘つきたくなる。
それから、もっとほしいものがある!」(P92)
ここで美貌の女優、伸子のいう「もっとほしいもの」とは、
妻のいる伊吹貞二のこころにほかならない。
のちのちみごと貞二をものにすることになるのだが、肝心なのはそこではない。
生まれつき、である。持って生まれたもの。
これが井上文学の物語を展開させる。
生まれつきとは、別のいいかたをすれば諦念である。
人間は生まれるにあたって、
性別、国籍、美醜、性格、知能水準を選んだわけではない。
すべてが生まれつきである。持って生まれたもので、
死ぬまでの期間を(これも生まれつき同様に自由ではないが)やりすごすほかない。
これが物語である。井上靖がえがいているのは、生まれつきである。
健康状態も生まれつきならば、生まれ落ちた段階で、
死期も決まっているといえなくはない。
人間に可能なことは、持って生まれたものを知ることぐらいである。
だが、それは死ぬほんの寸前まで、わからないこともある――。
「三ノ宮炎上」(井上靖/集英社文庫)絶版
→短編小説集。やってはならないことをしてみよう。
解説からの引用である。
たいがい学童の読書感想文とやらは、解説文を水で薄めることに終始する。
水とは、その学童自身である。
おろかな教員は児童がみな個性をもっていると信じているようだが、
実際の学童とは水である。水だから、退屈な教科を学べるのだ。
関係のない話をした。文庫の解説から引用する。
書き手は尾崎秀樹。文芸評論家のようである。
「彼(=井上靖)はある対談で、小説を書き出した頃、私小説は書くまいと思い、
どうせ書きはじめたのだから、おもしろいもの、
大きいものを書いていこうと考えたと語っていた。
そして一つの物語の世界を設定し、その中で人間と人間の関係を描く場合、
単なるつくりごとでなく、
読者を最後までひっぱってゆくようなおもしろさをもりこむには、
それなりの配慮が必要であり、
そこに小説を書く上での苦心と同時にたのしさがあるとも言っている」(P274)
この短編集を説明するのに、これ以上、うまいものはない。
わざわざわたしがなにかを論じるのがアホらしくなるくらい簡潔かつ明瞭である。
井上靖の小説はおもしろい。また、大きなものが描かれている。
だから、平成を生きるわたしも絶版書を求めて読んでしまうのである。
読書感想文なら「自分の考え」がないと教員から叱責されそうだが、
ここはそういう場ではないので、このへんで失礼させていただく。
「波濤」(井上靖/角川文庫)絶版
→お酒をのみながらでも安心して読むとのできる中間小説。
まえにおなじ井上靖の感想でこんなことを書いたことがある。
小説というのは、だれが書いているのか。
作者というのが一般的な見解であろう。作中人物は作者に支配されているからだ。
だが、こう考えてみたらどうだろう。
作者も実人生では、人間を超えるものに糸であやつられているのではないか。
そうだとすると、ある小説を創造しているのは、
人間を超越するものということにならないか。こんなことを書いた。
今回、もういくらかこの論点を進展させてみる。
物語を作るのは小説家である。
物語とはなにかといえば、始まりと終わりがある。
そのあいだを人間が喜怒哀楽する。
人生は物語である。なぜなら、始まりと終わりがある。生で始まり、死で終わる。
生死のあいだを人間は喜怒哀楽する。
小説と作者の関係のように、人生もなにか大きなものに監視されている。
ずっとわからなかったことがあるのだ。
小説家というのは、どのようにして物語を造形するのか。
小説家は人間である。万能の神とはことなる、ちっぽけな存在だ。
そんな人間が、どうして神のごとく物語を作れるのか。
これまで疑問に思っていたことである。
このたびヒントのようなものを発見する。
言われたら当たり前のように思うだろうが、わたしにとっては結構な発見であった。
小説家は、私的な人生経験から物語を生みだしていく。
あることで喜怒哀楽した。その感情をなめつくす。
その味わいを伝えようとしたら、物語がいちばん適当な形式なのではないか。
ここで最初の問題提起へ戻る。だれが小説を書いているのか。
作家の個人的体験が小説の基盤としてあるのなら、この作家の私的な経験を、
別人ではなく、まさしくこの作家へ与えたもうた巨大なものが、
ある小説を書かせた真犯人と考えられはしないか。
偉大な作家ならば、物語を記すとき、だれもがこの巨大なものへ目を向けざるをえない。
なぜじぶんはいまのじぶんであるのか。
与えられたものを噛み締める。何度も咀嚼(そしゃく)する。
ある段階で作家は噛み砕いたものを吐きだすであろう。
もしこれを物語というのなら、この吐瀉物(としゃぶつ)は、
母のごときあたたかな手に背中をさすられて吐かされたものか、
それとも、おのが指をのど元へ押し込み強引にちからまかせに吐きだしたものなのか。
他力か、自力かを問うているのである。どこまで他力で、どこまで自力か。
まさかぜんぶ自力と考えるものはいないだろう。
生も死もじぶんでは決められない人間が、自力とはおこがましい。
どの程度まで他力なのか。わずかでも自力の入り込む隙間があるのか。
これは小説創作のみならず、井上靖の文学のテーマでもあるように思う。
井上靖のプライベートに踏み込む。
どうやら打ちのめされるほかない手ひどい失恋経験があったようである。
井上靖がただひとつ書いていない時期がある。
新聞社へ入ったころのことである。「あすなろ物語」でわずかに触れているのみ。
この時期ではないか。ある大事件が起こったのは。
井上靖の小説を読んでいて、切実だと胸を打つ箇所は、決まって失恋のシーンだ。
大衆小説でも、いわゆる文学作品でも、それは変わらない。
この「波濤」では133ページがそうである。
どうしようもないことが人生にはある。
それを酷熱の炎のなかで身もだえしながら井上靖は味わったのではないか。
どうにかしようとあらゆる方途を試したが、それでもどうしようもなかった。
そんな失恋体験が井上靖にあったと思うのは、いたらぬ人間の邪推だろうか。
「まあ、過ぎたことは諦(あきら)めることですね。
人の運命なんていうものはわからない。
人は人、自分は自分、それぞれの運命がある。
自分を大切にすることですよ」(P153)
「暗い平原」(井上靖/中公文庫)絶版
→井上靖の初期小説。「猟銃」「闘牛」に続くものとされる。
軽い気持でお酒をのみながらページをめくると、すぐさま失敗したことに気づく。
よくいえば純文学的。わるくいえば、まあ、読みにくいわけである。
井上靖がこんなものを書いていたのかという驚きに打ちのめされた。
この作家のイメージといえば、よくもわるくも教科書的。
子どもに読ませても大丈夫な読み物を書く作家と思われている。
しかし「暗い平原」は――。
主人公は一人称で「私」。この「私」はあるきっかけで狂ってしまう。
本人に自覚はない。だが、読んでいると、「私」が狂っているとしか思えない。
とにかく他人を愚弄する。冷たく観察して、欠点を当人のまえであげつらう。
当然、嫌われる。「私」はバカめとやりかえす。二度と会うもんかと絶交する。
この絶交が何度、この物語で繰り返されたことか。
井上文学の特徴とされる人間へのあたたかさはみじんも見られない。
その正反対を書いたといった感じである。人間不信。独善主義。厭世的人生観。
井上靖が立っている。天から日がさす。地に影ができる。
この影の書いたのが「暗い平原」とでもいえばわかってもらえるか。
陰鬱かつ狂的な描写はストリンドベリを思わせる。
ストリンドベリといえば現在ではすっかり忘れられたスウェーデンの文豪である。
日本で唯一知られている文脈は、山本周五郎が敬愛していたという事実。
人情ものを多作した大衆小説家が愛好していたのがストリンドベリ。
ならストリンドベリも人情物語を書いていたかというと、そうではないのだ。
ストリンドベリの書くものは、どれも狂人の憤懣(ふんまん)のはけ口といっていい。
人間不信。女性蔑視(ゆえの女性崇拝)。人生への呪詛。
被害妄想。周囲への復讐感情。個人への一方的な攻撃。
あまりに激烈なそれは、ある面、とても文学的ともいえる。
山本周五郎の作品世界とは、相容れないものだということはご理解いただけよう。
ところが、このストリンドベリを山本周五郎は生きるよすがにしていた青年期があった。
人間の、作家の、ふしぎがそこにはある。
井上靖は、どちらかといえば、山本周五郎に通じる作家である。
インテリではなく、庶民に喜ばれる娯楽性の高い小説を濫作した物語作家だ。
その井上靖が初期にストリンドベリを思わせる作品を書いていたということは、
山本周五郎の例と比較してみると、小説家のある秘密が垣間見えるように思う。
大衆を感動させるような作品は、
狂的ともいうべき人間不信、厭世観に裏打ちされなければ書けないのではないか。
あくまでも仮説である。
だが、充分に考えてみる価値のあるものだと、いまのところ思っている。
「暗い平原」のほかに収録されているのは「美也と六人の恋人」「その日そんな時間」。
他の二作品は「暗い平原」ほど強烈ではないので個別の紹介は割愛する。
のちの井上文学の萌芽と見られる文章をいくつか引用するにとどめる。
「小津は美也に最初会った時からひかれていた。
彼女の持っている欠点と言えるものが、
同性のだれからも嫉妬されるような種類のものであると思ったし、
そうしたものが、美貌で才気のある若い女性にとっては、
とうぜん持つべき権利のように思われた」(P129)
井上靖のタイプの女性(笑)。ほんと好きなんだなとわかる。
井上靖の小説に登場する女性像の典型である。
「人間はどんな境遇に居ても、
明るい方に顔を向けていなければなりませんよ」(P160)
国語教科書および教員から井上靖が好かれるゆえん。
作中人物や読者はそれでもいいが(明るいほうへ!)、
書くがわは人生の暗所へ鬱々と顔を向けなければならなかったのではないか。
「結婚なんて、君、運賦天賦だよ。
知らんものが二つ合わさるんだからね、
嫁ってみないことには判りはしないよ」(P171)
人間の不自由、不公平を井上靖は見すえる。
運賦天賦。星廻り。宿命。運命。天命。
以上の人間を超えるものを井上靖は直視する。
あるいは、直視しようと努める。少なくとも、無視はすまいとする。
「猟銃・闘牛」(井上靖/新潮文庫)
→井上靖の初期小説集。昭和24年、「闘牛」で芥川賞を受賞。
読者はなぜ小説を読むかといえば、ひとつには人生のからくりを知りたいということがある。
我われの生きているこの人生はそれぞれ唯一無比のものだが、
頭から足先まで、どっぷりそのただ中へ浸かっているので、全体像が見えない。
客観視することができないのである。主観から離れられぬ。
小説ならば、他人の人生をいささかは客観的に見ることができるのかと期待する。
かくして小説は読まれるわけである。
小説の動因というのは、どこから生じるのか。
小説を動かしているものは、我われの人生を左右するものとおなじなのか。
小説は作家によって書かれる。作中人物は作者に動かされるわけだ。
だとしたら、我われさえも、なにものかに糸であやつられているとはいえぬか。
作者の手から離れたいという欲望は、小説の主人公の比ではない。
実人生を生きる我われの深刻な問題である。
果たして我われは小説を読むとき、そこに主人公の自由を見るのか。
それとも作中人物の作者への屈服を確認するだけなのか。
一瞬でもいいから、小説内の無形の男女は、作者の監視から逃れることはないのか。
入れ子構造である。
小説の登場人物は作者に支配される。
作者の人生は、たとえれば神のようなものに支配されている。
読者の人生も、作者同様にあるものの監視下にある。
ここで問題が生じる。読者は疑問に思う。
小説はだれが書いているのだろうか。
作者個人か。それとも個人の背後に存在する全体が作者の手を動かしているのか。
もし後者だとすれば、作中人物も、作者も、読者も、みないちように等しいことになる。
だれもかれもお釈迦さまの手のうえで転がされているという思想だ。
この地点まで到達して、そこから物語が開幕するのだと思う。
井上靖は、おそらくその高みにいる。
だが、どうやって個人がその高所へたどりつけるのか。
方法はないのかもしれない。個人がいくら努力しても、どうなるものではない。
登山許可証の発行されていない人間は、どうあがいたところで山頂へ登れぬ。
天賦の才能がないものは、いかなる手を講じても物語を作れぬ。
そういうことなのかもしれない。
「これもまあ星廻りとでも言いますか、
私の持って生れた不運でございました」(P40)
「人間の持っている蛇とは何でありましょうか。
我執、嫉妬、宿命、恐らくそうしたもの全部を呑み込んだ、
もう自分の力ではどうする事も出来ない業(ごう)のようなものでありましょうか」(P74)
「幸運が常にその為すとこについて廻る、
いわば三浦の持って生れた星廻りのようなものこそ、
津上の持っている、ともすれば破局へ突き進もうとする全く対蹠的なそれと、
根本的に相容れないのであった」(P174)
「冬の月」(井上靖/集英社文庫)絶版
→人間は生まれるまえから絶対的に定められたものがあって、
それを他人はひょんなことから見てしまうことがあるが、
本人は決して気がつかない性質のもので、
だから変えようと思ってもどうにもならないわけであり、
むしろそのどうしようもない不変の部分が持ち主の人生を決定していく。
井上靖や宮本輝の人間観である。物語の母胎でもある。
宿命論と断じてしまうには、あまりに重い思想だ。
わたしは中学時代に井上靖の小説を読むことで、文学の世界へわけいった。
「しろばんば」「夏草冬涛」「北の海」「氷壁」――。
あれから15年である。ふたたび井上靖へもどる。お酒をのむと、である。
酔っぱらうと贅沢になる。ほんとうに欲することしかやる気にならない。
酩酊を十全に味わいつくそうと思うわけである。
すると、どうしてか井上靖の大衆小説へ行き着いた。
テレビを見てもつまらない。ネットをしても味気ない。現代小説を読むとむかむかしてくる。
結果が15年前とおなじ井上靖なのだ。
人間にはなにがあっても変わらない部分がある。
傾向性というのか、習癖というのか。
好き嫌いといったら大雑把すぎるが、宿命というのはいささか大袈裟である。
この短編小説集を読みながら、おのが不可視の部分へ思いを馳せた。
「白い炎」(井上靖/文春文庫)絶版
→例によってお酒をのみながら井上靖の中間小説を読む。
氏の大衆向け小説は絶版が多いとはいえ、数限りなく出版されているので頼もしい。
昭和31年に「週刊新潮」へ連載されたものである。
簡単な筋を書くが、なんとも時代を感じさせる。
主人公の那津子にはいいなずけともいうべき男性、木津俊太郎がいる。
だが、親友も木津に恋をしてしまう。三角関係である。
那津子は親友から接吻をしたことを聞かされる。
たかが口づけなのだが、そこは時代。那津子は木津に幻滅する。
そのすきに親友が強引に木津と結婚してしまう。
悲恋というやつである。
那津子と木津は愛しあっているのに、ちょっとしたボタンのかけちがいから人生が狂う。
そのうち那津子も請われるがまま結婚するが夫に愛情を感じることができない。
木津の結婚は失敗だった。夫婦関係はうまくいかず、事業も失敗。大きな借金を背負う。
いっぽうで那津子の夫の商売は大成功。対照的である。物語である。
文学のテーマを問われて「人間の幸福とは何か」と答えたのは宮本輝である。
井上靖ならなんと答えたか。
きっと自分を尊敬する後輩作家と似たような応答をしたはずである。
あるいは本文から引用するならばこんなところか。
「何か知らんが、人間一生のうちにはいろいろなことがあるさ。
死のうと思うこともあるだろうし、恋愛することだってあるだろう。
なにしろ人間というのは生身(いきみ)だから始末が悪いよ」(P285)
井上靖の中間小説を読んでいて思うのは、幸福がはっきりと定まっていることである。
これを井上靖の鈍感と見るむきもあろうが、氏が活躍したのはそういう時代なのである。
恋愛をして結ばれるのが幸福。お金持になるのが幸福。その反対が不幸。
幸福と不幸のあいだを、あっちこっちと動きまわるのが井上文学の登場人物である。
現代には、明確な幸福と不幸の定点がない。平成の井上靖が現われぬゆえんである。
「白い炎」の終わりで、那津子のかつてのいいなずけである木津は自殺をする。
それを那津子が知るときの描写に注意したい。新興事業家の夫から新聞を渡される。
「的場は夕刊を那津子の手に渡した。
記事はほんの十行ほどの短いものであった。
見出しは『事業に失敗して自殺』となっている。
那津子は短い記事の初めの方に、木津俊太郎という活字を見出したとき、
その新聞を伏せて的場の顔を見詰めた。
予想はしていたことだったが、いざそのことが現実の事件となってみると、
そうした行動をとらねばならなかった木津という人間の悲しみが
やはり心にしみてくる気持だった」(P309)
ぞっとするほど宮本輝の小説に似ている。
いうまでもなく、井上靖のほうが先輩である。どちらも一流の物語作家。
宮本輝は創価学会への信仰から物語をつづっている。
だが、井上靖は――。なんの信仰も持たずにどうしてこのようなことが書けるのか。
「そうした行動をとらねばならなかった木津という人間の悲しみ」。
この一文である。しかし、この一文はよほどの覚悟がないと書けないものだ。
井上靖にこの達観をもたらしたものはなんだろうか。
あたかも天空から地上の人間を見下ろしているかのような視線である。