「きづな」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕悲劇。裁判ものである。あらそうのは男爵と夫人。
いわゆる離婚訴訟である。問題になっているのは子どもの親権。
裁判のまえに男爵夫妻は話し合い協定を結ぶ。
最悪の事態だけは防ごうとの考えで両者一致するのである。
最悪の事態とは、子どもを陪審員のもとで育てる、という判決だ。
こうなったら子どもの成育環境は最悪である。
最低でもどちらかに親権が残るようにしようと夫婦協定を締結する。
ところが、いざ裁判が始まると、双方憎悪が積み重なるばかりで、
壮絶な暴露合戦が展開される。

夫人は男爵の浮気を告発する。
あたまに来た男爵は、最初に浮気をしたのは夫人だと言い放つ。
これは夫婦間のタブーになっていたらしく夫人は顔色を変える。
しかし、夫人はほくそ笑む。証拠の恋文は夫婦同意のもとで焼いてしまった。
夫人は自分は密通などしたことがないと言い張る。
裁判官に問われ神にかけての宣誓までする。ふふふ、証拠がないのだから!
これで夫人は優位に立つかと思いきや、ところがところが。
男爵は不倫の証拠の恋文を取り出す。こっそり写しを取っていたのである。
神かけての宣誓まで虚偽であったと夫人はばらされたのである。
結局、判決は夫婦がもっとも望まぬものとなる。
子どもは夫婦から取り上げられ、品性下劣な陪審員の家で育てられることが決められる。
この訴訟はなんだったのか。めいめいの言葉を引きたい。

男爵夫人「ああ、わたし達は何をしたのでせう。
腹立ちまぎれに何をやつたのでせう。
男爵と男爵夫人が裸になつて、お互に鞭打ちあふのを見たら、
世間の人はさぞ喜ぶだらう。
――おお寒い、まるで裸のままでゐたやうに」(P491)

男爵「いけない、いけない。
――わたしかお前か、どちらか一人滅びなくてはならない。
お前か、わたしか」(P492)

判事「とにかくお互に愛し合つた二人の人間が、
却つて相手を滅さうとしてゐるのは見るも恐しいことですね。
そつくり戦争でも見てゐるやうです」
牧師「これが愛ですよ、判事」
判事「では憎みといふのは」
牧師「憎みは、着物の裏ですね」(P495)


翻訳者の楠山正雄は本書の解説で実に的を射た要約をしている。
これもあわせて紹介したい。

「愛情の結合から離れ、更に法律上の関係から離れても、
夫婦はやはり「子供」といふ「きづな」に依つてつながれてゐる。
夫婦がいかに憎み合つても、憎みのどん底までつき詰めて行くと、
そこに愛の天使が悪鬼のやうな父母に笑ひかける。
けれども人情を超越した裁判の結果、子供は相争ふ二人から取り上げられて、
十二人の陪審員の中の最も愚昧な二人に預けられる。
絶望した男女は法廷の夕闇の中に恐しい空虚を見つめながら、
むだな夫婦の争ひの跡を悲しく回顧する」(P8)
「賤民」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→一幕劇。ふたりの男がいる。X氏は考古学者。
Y氏はアメリカ帰りというほか素性定かならぬ男でX氏宅に寄寓している。
ふたりの男のまえに金塊がある。
X氏が他人名義の土地から無断で掘り出してきたものである。
考古学者は迷う。研究のためにこの金塊を金銭に換えていいものだろうか。
正直に告白してしまったら、大部分を土地所有者に取られてしまうだろう。罪とはなにか。

金をまえにして人間のやることはひとつしかない。
X氏とY氏はお互いを探りあう。X氏はY氏が前科者であることを見抜く。
どうして見抜くことができたのかX氏は語る。
自分にも罪を犯した記憶があるからだという。
青年時代のことである。乗っている馬車が事故を起こした。
転倒したX氏は怒りから御者をぽかりと殴ったら、あろうことか死んでしまった。
しかし、このことは事故ということで片付いた。
死んだ御者には妻子係累ひとりもいなかったのでさほどの罪だとは思っていない。
悪気はなかった。殺すつもりなどつゆほどもなかったのである。
Y氏の罪状は手形の詐欺である。こちらは露見してアメリカで服役した。

Y氏は思うわけである。どうしておなじく罪を犯したものなのにこうも待遇が異なるのか。
いままでびくびくしていたY氏は豹変してX氏を脅迫する。
金を渡せというのである。おまえだけ得をして不公平だというのが理由である。
X氏は脅しに屈せず、逆にY氏をどやしつける。
いますぐ警察官を呼んでやろうか。私は自首をしよう。だが、おまえも捕まるのだぞ。
たしかにアメリカで服役したのだろうが、この地ではまだ裁かれていない。
おまえはもう一度刑務所暮らしをすることになる。
それが嫌ならいますぐここを出て行け!
Y氏も負けていない。手紙を書いてやろうかというのである。匿名の手紙。
X氏の妻に宛ててだ。おまえの旦那はむかし殺人を犯した卑劣漢だ!
これにはまいったX氏だが、なお負けを認めようとしない。
強がるのである。あの殺人のことなら結婚まえに妻に話してある。
手紙など送られても、ちっとも困らない。ついにX氏はY氏を屋敷からつまみだす。

ここで閉幕である。いかにもストリンドベリらしい人間不信の劇である。
ストリンドベリにとって人間関係は闘争以外のなにものでもない。
勝つか負けるかしかないのである。
人間は勝つために相手の弱みをにぎろうとする。
よしんばおのれの弱点を知られたら、
それを帳消しにするほどの傷を相手から見つけださなければならぬ。
劇作「賤民」は、ふたりの罪びとがお互いを賤しめあう、なんともやりきれぬ芝居である。
「なかま同士」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/新潮社)絶版

→劇作「なかま同士」は、おなじく自然主義戯曲の「父」と対になっている。
こう指摘するのは訳者の楠山正雄である。
また楠山はストリンドベリの女性観におもしろい表現を与えている。
ストリンドベリは女を吸血鬼だと思っている。
そして、作品に登場する女はみなみな吸血鬼的である。
見事にして的確な評言といえよう。
この見かたは引き継がれ山室静も「痴人の告白」解説で吸血鬼的と用いている。
楠山正雄の解説に戻ろう。
楠山によると、「父」では吸血鬼的な妻が夫を打ち負かす。
すなわち、妻が娘と共謀し夫を狂人に仕立て上げ家庭から追放する。
これに対して「なかま同士」は、夫が吸血鬼的な妻を打ち負かす筋立てである。
たしかにふたつの作品はおなじテーマのもと描かれている。
違うのは結果のみである。夫が勝つか妻が勝つか。男が負けるか女が負けるか。

夫は知られた画家である。妻も最近になって絵を学び始めた。
むろん夫が直々に教えてやることもある。
そればかりではなく夫が金を払って、妻を絵画教室にも行かせている。
いま夫婦はおなじコンクールに出品したところである。
夫の作品は入選確実と言われている。問題は妻である。
ずるがしこい妻は画家の夫に頼み、選者へ根回しをしてもらう。
おりしも妻は夫の絵が落選したことを知り小躍りする。
これで自分の作品が入選すれば夫婦の立場は逆転する。
妻は自作が入選確実という情報を仕入れる。
いままで自分を見下してきた夫にはこっぴどく復讐してやらなければならない。
妻は自宅でパーティーの計画を立てる。同日に落選作は送り返されてくる。
みんなの見ているまえで夫を笑いものにしてやろうというのである。
ところが、いざ落選作をあけてみると、それは妻の描いた絵であった!
夫は妻の出世を願い、出品の番号を取り替えておいたのである。
夫と絶縁して画家として独り立ちする予定だった妻は、
傷心のていで屋敷をあとにする。夫の完全勝利に終わったわけである。

読後、なんとも爽快な気分に包まれる。
こざかしい女郎(めろう)が男性の援助を受けながら男性社会に進出してくる。
そのあげく女は、女性は男性よりも優秀だと主張するのだから。
男に媚び成り上がった女が、恩をあだで返すかのごとく男の頬を張ろうとする。
こういった生意気な女をストリンドベリは劇作で糾弾したのである。

「なかま同士」における夫婦の主張を取り上げてみよう。まずは妻から。

「ええ、昔は、昔の夫婦関係では、さういふもの(=夫は妻を扶養)でしたわ、
けれどもわたし達はさうしたくないのです。
わたしたちは仲間同士でありたいと思ふのですよ」(P126)


対する夫の言い分はこうである。

「……わたし達は決して仲間ではない。
仲間としてお前達が何の頼りにもならぬといふことをわたしは痛感してゐる。
仲間といふ以上、大なり小なり信義のある競争者であるのに、
わたし達は始めつから敵同士なのだ。
わたし達(=男性)が鎬(しのぎ)を削つてゐる最中に、
お前達(=女性)は藪の陰にねころんでゐる。
そしてわたし達が食卓を用意した時分には、
お前達はもとからこの家の人のやうな顔をしてぬくぬくと座り込むのだ」(P145)
「白鳥姫」(ストリンドベリ/山室静訳/学研)絶版

→ストリンドベリはこの童話劇を3番目の妻に婚約の記念として贈呈した。
3人目の被害者は年若き女優である。
つくづく女は馬鹿だと思う。どうしてこの狂人の求婚を受けいれてしまうのだろう。
この時点でストリンドベリ52歳はバツ2(離婚歴2)である。
「痴人の告白」を読めば、この天才がいかなる男かわかるだろうに。
ストリンドベリはこの長編小説で1回目の結婚生活の詳細を暴露している。
内容は一方的な被害妄想。
作者は小説で妻を殴ったことを告白している。
それどころか元妻の性器の形状まで公開しているのだから。
2番目の妻とのいさかいの原因となったのも「痴人の告白」である。
ストリンドベリが読むなと禁じていたこの小説を夫人は読んでしまったのだ。
なぜ若く美しい女優がストリンドベリの3番目の妻になることを決意したか。
女の虚栄心というものであろう。
文名高い大作家が自分ひとりのために作品まで書いて愛を告白してくれた。
いくら地獄が待ち構えていようともこの求愛から逃れられる女はいまい。

「白鳥姫」は童話劇である。愛のすばらしさが描かれている。
白鳥姫は継母(ままはは)に意地悪されている。
実はこの継母は魔女で、あやしげな魔術を用いて白鳥姫を監視している。
父親の公爵は妻の正体を知らない。
公爵が戦地へ向かったのち、白鳥姫の教育係として他国の王子がやって来る。
ふたりは禁じられていた恋をしてしまう。
継母はふたりの仲を裂こうと悪だくみの限りをつくす(かわいそうな白鳥姫!)。
戦禍はこの屋敷に迫る。王子は他国へ戻らなくてはならない。
引き離される白鳥姫と王子である。
継母の魔の手はひとりとなった白鳥姫を抹殺せんとする。
ああ、白鳥姫が姦計にしてやられてしまう。
そのとき父の公爵が帰還して、あらゆる悪だくみが露見する。
おりしも王子の亡骸(なきがら)が運ばれてくる。
国へ戻る途中、嵐に巻き込まれ水死してしまったのである。
いまもうひとり死なんとしているものがいる。
魔女の正体がばれてしまった継母が公爵から罰せられようとしているのだ。
心優しき白鳥姫は父の公爵に継母の助命を懇願する。
かたきの命乞いである。父は娘の願いを聞き入れる。
継母は白鳥姫の愛に打たれ、改心して真人間となる。
しかし、かわいそうなのは白鳥姫である。死んだ王子はなにをしても生き返らない。
継母は白鳥姫に語りかける。

「お前は愛することができて、人を許すこともできます……そうよ、
だから、お前にはどんなこともできるのです、万能の娘よ」(P316)


お前の手をあの人の胸の上にのせるのだ。そうして恋しい人の名前をお呼び。
かならずお前の声はあの人の耳に届くはずだよ。
言われたとおりに白鳥姫は王子の胸に手をおく。
耳元で三度、愛するものの名をささやいたとき――。
もはや決して動かぬと思われたものが息を吐き目を明け白鳥姫を見たのである。
愛は死という断絶すら乗り越えることができる!

だから結婚しないかい?
男根鬼ストリンドベリは女の耳元で甘く愛をささやく。
こうして3度目の愛憎地獄が始まったのである。
「大海のほとり」(ストリントベルク/斎藤晌訳/岩波文庫)品切れ

→とある孤島に配属された漁業検察官のボルクがなにものかに亡ぼされる物語である。
ボルクは博学でなおかつ頭脳明晰の極めて優秀な30歳の男。
ただし飛びぬけた知力をもつこの男は、少年時代からだれにも理解されなかった。
むしろ、嫉妬され迫害されてきたといったほうがよい。
このため、かれのような賢人が辺鄙な片田舎に派遣されるにいたったわけである。
漁業検察官の仕事は、現地で環境を調査をして漁獲高を増加させること。
ボルクは赴任直後に自分が地元の漁民・農民から敵視されていることを知る。
無知蒙昧な田舎の人間は、このように考える。

「(ボルクのような人間は)白痴(こけ)で人民の敵だあ、
彼奴等は分別のある漁夫より物が分ると思つてやがる!
長椅子に横になつて本を読んでゐて二千クローネンも金をとつている野郎共が!
洟垂れ小僧の癖に親爺に物を教へようつて太え了見でえ!」(P84)


これは現代の日本でも見られる現象である。
みなさまもテレビでいかにも学のなさそうな赤ら顔の第一次産業従事者が、
得意気に政治(=公務員、政治家)を批判しているのをご覧になったことがあると思う。
秀才のボルクはむろん無学な田舎者たちの反応は予想していたものの、
こうまで冷遇されるとは思っていなかった。
書物でえた知識をもとにボルクは漁民や農民に助言をする。
ボルクの言うようにすればかならず収益は上がるのである。
けれども、無知蒙昧な民衆は現場を知らないインテリを嘲笑し、
まったくボルクの提言を聞き入れようとはしない。
ボルクにしてみれば、まるで敵に全方位から包囲されているようなものである。
このへんの被害妄想的な描写は、この作品を執筆した数年後、
作者ストリンドベリが精神分裂病を発症したことを考えると興味深い。
漁業検察官ボルクは、ある結論に到達する。

「賤民は威嚇しなければならない!」(P85)

漁業検察官と賤民との対立の構図が明らかになったのである。
インテリと下層階級は断じて理解しあうことがない。
それどころか、両者は戦争状態に置かれている。
どちらかが勝ち、ということは、どちらかが亡ぼされなければならない。
孤独者ボルクの頼みの綱は国家権力のみである。
双方のパワーバランスが崩れる瞬間が到来する。
というのも、愚かな漁民たちが禁止されている網を使用したからである。
この網を用いて漁業を継続していると、かならず近い将来に資源は枯渇する。
このため使用禁止になった。
ところが、目先の利益しか考えられない愚民にはこれがわからぬ。
現場に居あわせたボルクは網の没収を命ずるも、漁民は言うことを聞かない。
あきれたボルクが警察を呼ぼうとしたそのときである。
ボルクの手を取る「若い女」が現われる。マリア嬢である。
この離島には母と静養に来ている。ボルクと知り合ったのは数日前。
マリアは漁業検察官に懇願するのである。
自分に免じて、かわいそうな漁師さんを警察に引き渡すのはやめてほしい。

「アクセス・ボルクは振放さうとした。
そして女の大きい眼から脇を向いた。あの眼付には耐へられない。
しかし自分の手がだんだんときつく握りしめられて、
結局には柔らかい胸へ推しつけられるのを感じた。
悩ましげな調子の声を聞いた。
彼はすつかり征服されて、美人に向かつて囁いた。
『放して下さい、私は事件を打切りませう。』」(P106)


ここに漁業検察官ボルクの敗北が決定したわけである。
このやりとりは多数の賤民に目撃されてしまった。
美人のひと言で前言をひるがえす役人の権威など地に落ちたも同然である。
では、ボルクはなにに負けたのか。引用文をよくご覧ください。
智者ボルクはマリアの「柔らかい胸」に負けたのである。
いっぽうで勝利したマリアは以後、賤民どもから女神のようにあがめられる。
これからの物語は、ボルクとマリアの戦争が中心となる。
ストリンドベリは美しい恋愛など決して描かない。
男女間のあらゆる交流は支配するか支配されるかの闘争である。
少し長いがボルクの女性観を引用する。
これは女性嫌悪者として名高いストリンドベリその人の思想でもあろうから。

「今まで女に対して恋愛や牽引を感じたことは少くない。
しかし女子といへば男子と小児との中間形式であつて
男子はこれに優越すると云ふ彼の定まつた意識があつた。
だからいつもさう云ふ物の見方を隠してゐることは不可能になる。
それで彼の関係は極めて継続の短いものであつた。
彼を強者として仰ぎ見るやうな女に愛せられたかつた。
自分が尊敬せられたかつた。尊敬したくはなかつた。
弱い芽枝が接木される台木たることを欲した。
しかし彼は幸か不幸か女性が伝染的誇大妄想狂に
犯されてゐる精神の疫病時代に生れ合せた。
蓋し群集の投票を要する野呂間政治家や堕落した病的な男共が
その誇大妄想狂を作り出したのだ。それゆゑ、ボルクは独身でゐた。
恋愛に於て男は与へなければならない、
欺されてゐなければならない、と云ふことや、
女に近づく唯一の方法は四つん這いになることであるのを
よつく承知してゐた」(P104)


翌日、ふたりは無人の離れ小島へあいびきにおもむく。戦闘開始だ。
ボルクは女が自分より年上の34歳であること、
幾多の男性遍歴を経ていることを知る。逃げろボルク! である。
しかし美しいマリアはボルクを捕らえんと悪だくみを働かせる。
ストリンドベリは女が悪魔であることをよくよく知っていたと思われる。
悪魔ならではのこうごうしい美しさもまた!
水切りで遊んだのちマリアはとっぴな提案をする。

「『水を浴びませう』と不意に女は叫んだ、
あたかも長らくその考へを抱いてゐて、
もうどうしても云はずにはゐられないと云ふ風に。
ボルクには、それが冗談なのかそれともその申出は真面目なつもりか、
即ち着物をわづか着たままでゐたいとか、
一部分脱ぎたいとか云ふことをそれとは云はずに暗示したのか、
見当がつかなかつた」(P105)


水着も持ってきていないのにこの女はなにを考えているのだろう。
まさかすっぱだかになるとでもいうのか。
美女の裸体を想像するのは男子の常である。
ボルクは紳士らしく、自分はあっちへ行っていると伝える。だから、お浴びなさい。
それでもマリア嬢はいっしょに泳がないかとボルクを誘う。
冷たい水が恐ろしいのかと挑発までする。
ボルクが固辞すると、マリアは衣服を脱ぎにかかりながらこんなことを言う。

「でもそこから、あたしをが見えやしなくつて?」(P129)

女は悪魔である。かよわき人間たるボルクが悪魔にかなうはずはない。
悪魔は人間を支配しようとする。女は男を支配しようとする。
マリアはボルクの漁業検察官としてのプランまで批判するのである。
そのうえで自分は人民の味方であると宣言する。
虐げられた人びとを、漁業検察官から守るとまで主張するのである。
無学な女の安易かつ感傷的な同情心にボルクは辟易するが、
かといってマリア嬢の魅力から逃れることはできない。
馬鹿な女が美しき肉体を武器に浅薄な思想を押売りしてくる! 馬鹿な女め!

「彼は此の瞬間、彼女を憎んだ。彼女から離れたかつた。
再び自分で自分を所有したかつた。が、もう既に遅い!
ねばねばして目にも見えない蜘蛛の網が彼の顔に絹のように軟かく
まとひついて除けることが出来なかつた」(P139)


この日からボルクとマリアによる一進一退の攻防が繰り広げられる。
孤独者ボルクはまったく自分の時間がなくなってしまったことを感じる。
高度な思想をもつ自分が、あの程度の精神性しかもたぬ女に所有されている。
マリア嬢はなんとかしてこの漁業検察官を完全に支配しようと試みる。
おりしも離島にまたひとり新参者がやってくる。
名分は漁業検察官の助手ということである。
二十歳そこそこの長身の男である。まったく独自の思想というものがない。
マリア嬢はさっそくこの助手に色目を使うのである。
もちろん、ボルクに嫉妬を起こさせ、かの男を完全に征服するためである。
筋肉馬鹿のような助手はマリア嬢の幼稚な思想を礼賛する。
その手には乗らないと賢明なボルクはふたりを見て見ぬふりをする。
ある日のことである。ボルクは自室で仕事中である。マリアという女は!

「ボルクはこの会話の始つたとき窓際に腰を下ろして、
マリア嬢と助手が球(ボール)を遊んでゐるのを眺めてゐた。
彼女が相手の球を捕へようと後方(うしろ)に仰向くたびに
彼女の着物の前がまくれ揚がるのも見えた。
ちやうどまた着物がまくれると助手がおどけた様子で俯向いて
身振や顔付で或物(あるもの)が見えるぞと云ふやうな風をするのが目に入つた」(P218)


この時代の西欧婦人のスカートのなかの事情に詳しくないため、
「或物」がなんであったか断定することはできない(つまり下着か女陰か)。
だが、マリア嬢はそうとうな阿魔(あま)である。
この阿魔っこはふたつのことを知っているのである。
「或物」を助手に見られていることを、ふたりをボルクが上から見ていることを。
このときのボルクの心中は察するに余りある。
なんという女に捕まってしまったのか。
そう、この時点で、ボルクとマリアはかりそめの婚約までしていたのである。
ボルクは女への復讐を敢行する。
明らかに嘘とわかる口実でもって婚約の解消を通告したのである。
おまえなんか愛していないんだ! あの小僧と仲良くおやりなさいだ!
マリア嬢は振られたことを知り歯ぎしりする。
よせばいいのにボルクは元婚約者の痛手のほどを調べにマリア宅を訪問する。
ふたたびふたりは壮絶に傷つけあう。傷ついた二匹の野獣は――。

「『いまあたし達も退屈になり始めたのねえ』
マリア嬢はコップを充たしながら彼の言葉を遮つた。
『ぢや何をして気をまぎらしたらいいのかい。』
誤解することの出来ない粗野な微笑を浮べながら恋人は訊いた。
『来て私のそばにお坐り。』
この挑みに伴うた野獣的な口吻や荒々しい身震によつて厭な感じも起さず、
女はさながら或る賞賛の念をこめて男を見上げた、
これまであまり恭々しい挙動のために殆ど軽蔑していた男の方を。
(中略)
そして彼が彼女に対して激しい嵐のやうな恋を告白したとき、
彼女は最高の幸福の憶ひ出によつて彼を縛らうと云ふ希望のうちに
彼に己(おの)が身を与へた」(P245)


女を口説きたいのなら筋の通った道理を言うのは馬鹿げている。
四つん這いになって掴みかからなくてはならない。
3度結婚して3度離婚した多情多恨のストリンドベリによる恋愛指南だ。
こむずかしい理屈を女に言っても無駄である。
「来て私のそばにお坐り」
これでいいのだ。犬を相手にするように男は女を遇すればよろしい。

ふたりは結ばれたわけだが、この濡れ場もストリンドベリの手にかかると、
このような陰惨な情景になってしまう。
女が男に身体を許すのは、よりきつく男を縛らんとするためである。
ストリンドベリの小説にハッピーエンドは似合わない。
ボルクはマリア嬢の奴隷になるのを恐れて婚約を復活させない。
いわゆる食い逃げである。
これでよかったのかと煩悶するボルクのもとにマリアからの手紙が届く。
読まないで放置するが、手紙が気になってなにも手がつかない。
さんざん迷ったあげく、手紙を燃やしてしまう。
こののちなんとか手紙を読もうと燃えかすに目を凝らすボルクは哀れである。
マリアは復讐の意味もこめてであろう。助手と結婚してしまう。
自分で自分を所有せんがために女と絶縁したボルクだが、
このあたりから自分の所有があやしくなる。狂気の兆候が見られ始める。
傷心の漁業検察官を意地悪な賤民どもが見逃すはずがない。
あの手この手を用いて賤民はボルクを辞職に追い込む。
無知蒙昧な人民がインテリを駆逐したのである。
ボルクの高貴な精神は賤しきもののためにすっかり荒廃してしまった。
いまやボルクは狂人を通り越して廃人に近い。
クリスマスの夜、ボルクは憑かれたようにボートで大海原へこぎだす。
星空からヘラクレス座を発見する。
ああ、ヘラクレス! 強かな英雄よ、男のなかの男よ!

「ヘラクレス、希臘(ヘラス=ギリシャ)の道徳的理想、
レルナの百の頭を持てる怪龍(ヒドラ)を殺し
アウギアスの厩屋(うまや)を掃除し、
ヂオメデスの人喰ひ馬共を捕へ、
アマゾン女王の帯を盗み、
冥府から番犬ケルベロスを連れ出した力と智慧の神、
そして最後には一婦人の愚昧によつて倒れた男、
気が狂つて三年の間、女精(ニムフ)オムフアレへ仕へた後、
純粋の愛からして一婦人に毒害せられた……」(P283)


いまもいま、またひとりのヘラクレスが婦人の毒により昇天せんとしている。
ボルクのボートが目指しているのは大海のかなた。いざ行かん!
萬有の母、生産と愛の源泉、生の根本にしてまた生の敵なる――大海を越えて、かなたへ。
「島の農民」(ストリンドベリ/草間平作訳/岩波文庫)品切れ

→陰惨な小説を好んで書く作者にはめずらしい牧歌的な娯楽小説である。
離島のとある屋敷に奉公へおもむいた下男(男の召使)の一代記。
下男が狡知を働かせ、屋敷の老未亡人に取り入り、ついには一家の主人となる。
むろん、下男の成り上がりたいという欲望が容易にかなうものではない。
未亡人の長男と、この下男は何度もあらそう。

ストリンドベリならではと思うのは、人を侮蔑する場面の多さである。
この作家はどれほど劣等感が強かったのだろうか。
作者は人が人を愚弄する場面をことさら好んで描く。
ストリンドベリ作品を読むと、他人を小馬鹿にするのがいかにおもしろいかわかる。
それにしても作中人物が、軽侮の念を隠すことなく相手にぶつけるのには驚く。
おそらく毛唐固有の野蛮性ゆえであろう。
歯をむきだしにして嘲笑するしぐさは日本人には似合わない。
あれは毛唐がやらないと様にならない最たるものである。

嘲笑される。悔しくて歯ぎしりする。機を見て復讐する。勝ち誇る。
ストリンドベリの作中人物が愛好する行動パターンである。
言うまでもなく、復讐されたほうは因果応報なのだが、
こちらも受けた屈辱を決して忘れずいつかの復讐を誓うからエンドレスとなる。
ストリンドベリ・ワールドでは、どちらかが死ぬまで人と人は傷つけあう。
なにゆえか。簡単なことである。
人を傷つけるのは楽しいのである。反対に傷つけられると悔しいのである。

教会の牧師が、下男にコーヒーをすすめられる。牧師は冷たく言い放つのである。

「お前はここの主人か、下男奴?」
「お前は、おのれの身分を知らんのか?」(P129)


のちにこの牧師は下男から復讐される。
田舎楽士が都会の教授にへつらう場面もたまらない。
楽士は地元の仲間を「土百姓」とおとしめるのだから。

下男と別荘の料理女との交情もいかしている。
料理女はべっぴんである。
けれども、所詮は料理女だろうと下男は交際を求めるのである。
祭りの夜、田舎ではいちばんナウかった下男は料理女との青姦に成功する。
おまんこさせてもらったわけである。
シーズンが終わり別荘の一行は都会へ帰ってゆく。
下男はすっかりモボ(モダンボーイ)気取りで感傷的な恋文を送る。
後日、都会へ行く用事があったので、下男はかの屋敷を訪問する。
料理女はいなかった。女中仲間からひどいことを教えられる。
下男の書いた恋文は、みんなに廻し読みされたという。
大いに物笑いの種になったというのである。
田舎の下男ふぜいが似合わぬロマンチックなことを書きやがる。
実は、料理女は都会に身分のある婚約者がいたのである。
婚約者をふくむたくさんの人間のまえで下男の恋文は繰り返し読まれたという。
そのたびに哄笑が起こった。

下男が老いた女主人と結婚して地位を手に入れようと決意するのはこのときである。
たしかに下男は金も身分もないが、とびきりの若さがある。
女主人は美貌がないとはいえ、財産と性欲がある。
うまく釣り合いが取れるというわけである。
ストリンドベリの狂える筆は、あらゆる美しきものを地に落とし踏みにじる。
地団太を踏みながら高笑いするストリンドベリから、
愛を痛切に求める赤子めいた物悲しさを感じはしないか。
「黒旗」(ストリントベルク/大庭米治郎訳/岩波書店)絶版

→ストリンドベリ作品をひと言でまとめるならば、
「せせら嗤(わら)う」になるのではないかと思う。
前提として病的なまでに強い作者の猜疑心がある。
ストリンドベリは現実を疑ってかかるわけである。
その結果、世界はまったく新しい様相を呈してかれのまえに立ち現われる。
世界のこの断面にだれも気づいていないとストリンドベリは思う。
みんなだまされているのである。真実を知るのはおのれのみではないか。
愚かなものどもよとストリンドベリはせせら嗤う。
そののちこれは断固として告発しなければならぬと文豪は筆をとる。
では、ストリンドベリの見たものとはなにか。人生の暗黒面である。
どんなきれいなものでも、かならずマイナス面のともなうのが現実である。
美しい友情が、その実、優越感に裏打ちされていることは少なくない。
純粋な愛情だって、独占欲と紙一重といえなくもないのである。
そこのところを我われは適当に目をつむりながらごまかして生きている。
ところが、ストリンドベリはそれをよしとしない。
あたかもタマネギの皮を一枚一枚むくように、人生から虚偽を取り払っていく。
現われるのは汚らしい我欲ばかりである。
我欲と我欲の火花散る抗争をストリンドベリは嬉々としながら書くのである。
これが真実だ。ものども目を覚ませ。

ストリンドベリは狂奔する! 暴いてやる!
本当のことを言おうではないか。他人の失敗ほど嗤えるものはないよな。
同情するふりなんてやめて声高らかに嗤い飛ばそうぜ。
本当のことを認めないか。みんなが幸福になれるわけがないだろう。
だれかの幸福はだれかの不幸なんだ。
だって、他人の幸福なんて妬(ねた)ましいだけだもんな。
ならば、こうしようぜ。幸福なら喜色満面で自慢してまわるんだ。
口惜しがっている他人のまぬけ面がどれだけおのれの幸福を倍増させてくれるか。
他人の不幸は腹をかかえて嗤おう。
不幸にのたうちまわっている虫けらを見ながら乾杯しようではないか。
これ以上の美酒はなかなかないぞ。
友情なんて青臭いことをいつまで言ってるんだ。
本当のことを白状してしまえ。まわりはみんなバカばかりだろう。
とはいえ、かれが自分の価値を認めてくれるかぎりにおいて、
その何分の一ほどか、自分も相手の価値に同意する用意がないわけではない。
友人なんていっても結局は利用できるか否かではないか。
利用されたぶんはきっちり元を取って相手を利用しなくてはならない。
いい年をして恋愛だのなんだのママゴトみたいなことを言うなって。
あらゆる男女間の関係は支配するか支配されるかの戦争だろう。
支配したほうがより多く相手から搾取できるってことだ。
愛するよりも、愛されるほうがどれだけ楽しいか。
自分が重んじられているという快感に勝るものはないね。
つまり、人生とは闘争なんだ。おまえはなにか。ひとつの我欲に過ぎぬ。
欲望はかならず他人の欲望と衝突する。
このとき勝つものと負けるものにわかれる。人生は勝利と敗北しかない。
人生は戦争である。戦場は地獄である。人生は地獄である。
どうしてこうまで明々白々なことがわからないのかとストリンドベリはせせら嗤う。
わからないなら教えてやろうとストリンドベリは執筆するのである。
おまえらみんな地獄に堕ちろ! いな、ここは地獄だ!

作者最晩年の小説「黒旗」には、ストリンドベリのすべてが凝集されている。
内容は、実体験をもとにした文壇の内実の暴露といったところか。
あさましい我欲にとらわれた品性下劣な男女が繰り広げる地獄絵図である。
ストリンドベリならではの病的に荒廃した人間模様に身震いする。
ところどころで笑いがとまらなかったのもまた事実である。
訳が古いのでいやいや読み始めたのだが、思いのほか満足できる読書となった。
最後に本書からいくつか引用をしたい。
ストリンドベリへのいざないのつもりである。

「ジェニーは続けて、娼婦根性を発揮した」(P58)

ジェニーは娼婦でもなんでもない主婦である。娼婦根性ってなによ! と大笑いした。
ジェニーの夫が作家のツァハリスである。

「ツァハリスは今葉巻を噛み砕いてしまつた、
で、唇は脹れ上り、唾液と煙草のかすで鳶色になつていた。
彼は愉快さうには見えなかった、なぜなら彼は新しい復讐を考へていた、
もう一度此女(こいつ)を孕(はら)ましてやらう」(P58)


ツァハリスは妻ジェニーの美貌が失われることに深い満足を覚えるのであった。

「ツァハリスは、自分の敵の女の一人が悪い扱ひを受けたと聞いた時、
哄笑(わらひ)のあまり泣き出した」(P447)


おまえ最高だよツァハリス!

「それに女といふものは人間の屑ですからね!」(P289)

真実を暴露したストリンドベリ作品が復刊される日は来ないであろう。
ちなみに「黒旗」では男が女を殴る場面がふたつある。そのうちのひとつから。

「淑女の叫声は彼の魂に快感を与へた」(P169)

こざかしい女を殴るのは快いと世界的文豪のストリンドベリが書いている。
もしわたしがこんなことを書いたら八つ裂きに遭うかもしれない。空恐ろしい。

「階級虚偽といふものがある。下層階級は常に、
上層階級は圧制者や過酷者や吸血者から成立すると信じてゐる。
さうして上層階級は常に、下層階級は下劣な不道徳な泥棒根性の嘘吐の
人間から成立してゐると確信する」(P298)


この小説でも終盤、主要人物のひとりが死ぬ。
かれの遺書から引用する。人生とはなんぞや。

「時代の児として、儂(わし)は、
人生といふものを自分の前に横はる戦場のやうに見て来た、
生存といふものを麺飽(パン)、地位、女を獲るための闘争だと考へて来た。
儂は切り進んで往つた。儂が一人の敵をあらゆる許された手段をもつて、
いな、切迫つまつた場合には許されざる手段も辞せずに、打ち倒した時、
儂は自分を正常だと考へた。それが所謂時代精神だつたのだ。
生活は、それ自身が自らの目的であつた。
良心は一種の病的状態で、慈悲は弱さであつた。
儂はさういふ考へをもつて産まれて来たのだと信じた」(P490)


狂人ストリンドベリは「知る」と「信じる」の相違を、
おもしろい具体例で説明しているので紹介したい(P226)。
引用するよりも噛み砕いて説明するほうがわかりやすいと思う。
今日は何曜日かをあなたは知っている。金曜日だ。カレンダーに書いてある。
だが、これは知っているのではなく、信じているだけではないか。
というのも、こんな人物がいたからである。阿片を吸って36時間も寝てしまった。
かれは今日が何曜日だかわからない。
実のところ、カレンダーには今日の日付など記載されていないのである。
みんなが口をそろえて今日は金曜日というから金曜日になるのである。
つまり、どういうことか。
あなたは今日が金曜日だというのを知っているのではなく、信じているだけである。
ほかの事柄にもこれは当てはまるのではないか。
我われは多くのことを知っているつもりになっている。
しかし、それは知っているのではなく、信じているだけではないだろうか。
――いっとき錬金術やオカルトに夢中になった天才ストリンドベリの思想である。
「赤い部屋」(ストリンドベルヒ/阿部次郎・絵馬修訳/新潮社)絶版

→よみがえれストリンドベリよ!
かの大巨人の腕(かいな)もて平成のスイーツ(笑)どもを細切れにしてくれよう。
ストリンドベリはイプセンを殺すために生まれてきた。
1879年は宿命の年だった。
イプセン「人形の家」初演。ストリンドベリ「赤い部屋」出版。
小説「赤い部屋」はストリンドベリ30歳が世に知られるきっかけとなる。
イプセンは女性解放の問題を劇作で追及した。
これはただならぬことだと世界でもっとも早く気づいたのがストリンドベリである。
女をつけあがらせてはいけない。
ストリンドベリの生涯は、女(=イプセン的なるもの)との闘争だったといってもよい。
かれは敗れた。いまの日本における知名度からして両者は雲泥の差がある。

ストリンドベリはどんな世界を描いたか。まさしく2ちゃんねるである。
極度の人間不信。異常なまでの孤独。嘲笑合戦 m9(^Д^)プギャー
女性嫌悪。露悪趣味。暴露志向。復讐不忘。電波沸騰。
なんのことはない、ストリンドベリは精神障害者だったのである。
しかし、かれは壮大な宇宙的視野を有する偉大な狂人であった。

「赤い部屋」に描かれているのは「青春の埋葬」(P477)である。
役人だったファルクは職を辞し文士をめざす。
文学青年はさまざまな芸術家志望者と交わる。画家志望、役者志望。
職なし、金なし、名もなき若者たちの青春群像を、ストリンドベリは風刺する。
対照として登場するのがファルクの兄である。
兄は商売で成功を収めている俗物。年の離れた若い妻をもつ。
ここでストリンドベリの描く世界を紹介しよう。
たとえば、この兄嫁。昼近くまでベッドから出てこない。

『何故お前は正午(ひる)近くになるまで女中の取締りもしないで寝てるんだ?』
『私それが面白いから。』
『お前は私(わし)が家事を見る気のない妻と結婚したと思うのかい? え?』
『ええ、さうなのよ! あなたは何故私があなたと結婚したとお思ひになるの!
私は千遍もあなたにお話ししたわ――働かなくてもいいためにですよ』(P63)


なかなか楽しそうな夫婦生活である。
この旦那も人格面では負けていない。
かれもまた、人間の善なるものをいっさい信じていない。
友人ふたりを会食に招待して開口一番こうである。

『飲め、貧乏人ども!』(P90)

友人など自分の財産を狙っているに過ぎぬと冷笑しているのである。
素晴らしきかな、ストリンドベリ・ワールド!
「赤い部屋」では、病的なしつこさをもって、このたぐいの風刺的描写がなされる。
根本にあるストリンドベリの思想はいかなるものか。
文豪は、ある演出家に幸福について語らせている。
演出家が若手女優に説いていわく――。

「僕は君に慰藉(なぐさめ)を与へてあげよう。君も知つてゐるだらう、
君の手に入る凡ての成功はいつでも他人に代価を払わせてやつて来るのだ。
君に一つの役がつけば他の女はそれを失ふ。
さうしてその女は踏まれた虫のように足宛(もが)き廻るのだ。
さうして君はさうする気もなしに悪いことをしたことになるの(だ)から、
幸福そのものも亦毒を含んでゐる」(P325)


この演出家も悪い子ちゃんで、自分に惚れている女優を用いて悪戯をする。
女優に命令するのである。ある無名の俳優を誘惑しろと。
だまされた俳優が女優との愛を真剣に悩んでいるのを見ながら、
この演出家は悪魔的な快感を覚えるのである。バッカじゃねえの m9(^Д^)プギャー

大正5年の翻訳は常軌を逸した読みにくさである。
おそらくいま日本でこの「赤い部屋」を最後まで読めるのは筆者だけだと思う。
こんな思い上がった気持からネタバレをすると、
無職文学青年のファルクは改心して役人の職に戻る。
文士になる夢を見切る。芸術から生活に帰還するのである。
それから芸術家仲間のひとりが無名のまま自殺をする。
仲間の自殺は青春小説の定番だが、
かのストリンドベリも殺人の誘惑にあらがえなかったのだろう。
または「赤い部屋」を書いたことによって、
この文豪の心中でなにかが死んだことの象徴なのかもしれない。
「赤い部屋」を書いたストリンドベリはもはや無名ではなくなったのである。
カテゴリー(Category)欄に「ストリンドベリ」を追加しました。
これでもいろいろ考えています。

ストリンドベリは大好きな作家なのです。
現在では完全に忘れ去られたスウェーデンの近代劇作家であります。
劇作のみならず、小説、評論といろいろな分野で活躍しました。
ですから、カテゴリーにわけると分散してしまう。
かといって、「ストリンドベリ」でカテゴライズ(分類)すると、
だれも知らないから(おそらく)読んでくださるかたもいない。

葛藤がもうひとつ。
このストリンドベリ、翻訳されたときの表記がまちまちなのです。
「ストリンドベリ」「ストリンドベリィ」「ストリンドベーリ」「ストリンドベリー」
「ストリンドベルイ」「ストリンドベルク」「ストリンドベルヒ」――。
がためにブログタイトル横空欄の検索もあてになりません。
(ちなみに「ストリンドベ」で検索するとぜんぶ出ます。他の検索サイトでも同様)

もしこのブログに価値があるとしたら、
「ストリンドベリ」かもしれないと思うことがあります。
ネットで、この劇作家をこれだけストーカーのごとく追い詰めているところは、
「本の山」以外はないのではないでしょうか。
もしかしたら知らないだけかもしれません。思い上がりを笑われるかもしれません。
しかし、そのくらいの思い入れがストリンドベリにあるのです。

このたび、決心しました。
ストリンドベリを独立させます。
「演劇」のカテゴリーに入れておいたら、芝居好きのかたが読んでくださるかもしれない。
そういう甘い考えは捨てます。
むしろ、とまで思います。

ストリンドベリよ、もうだれの目にも触れるな。

墓場まで連れていってやる。
「本の山」のようなさして人気のないブログの改変にも、こんな強い意気込みがあるのです。
2005/08/09(火) 17:35:10

「債鬼」(ストリンドベルク/楠山正雄訳/「近代劇選集3」新潮社)絶版

→またまた読了最古本の記録更新。
大正11年発行の戯曲集である。
この「債鬼」は、ストリンドベリが自身の自然主義戯曲の中での最高峰とみなしたもの。
(わたしは「令嬢ジュリー」が自然主義一幕物の最高傑作と思います。
ストリンドベリだけではなく、いままで読んだ自然主義戯曲のナンバー1)。

国語辞典で調べたら、債鬼(さいき)は借金取りという意味。
その時点でまたかとため息がでる。
人生を幸福と不幸の貸借関係とのみ見るストリンドベリ……。
たしかにそうなんだけど、うーん。
たとえば現代では臓器移植なんて典型的。
だれかが死んだおかげで生き延びるものがいる。
それに、ひとりが臓器移植手術を受けるということは、
その選にもれた患者が多数いるということなのだから。

さてこの「債鬼」である。
登場するのは一組の芸術家夫妻、その妻の元夫の計3人。
女1人、男2人。
貸借関係を清算しようと激しくやりあうのはストリンドベリの他の戯曲とおなじ。
元夫のグスターフはなぜこの夫妻のもとに現れたのか。かれはいう。

「うん、おれはお前(元妻)の盗んだものをとり返しに来たのだ。
お前にやったものを取返しに来たのだ」(P326)


なぜなら――。

「男の愛するといふことは、与へることだ。女の愛するといふのは取ることだ――。
それでわたしは与へて、与へて、与へ尽くしてしまったのだ」(P293)


愛の破産者グスターフの到達した結婚観を聞け! ストリンドベリ、魂の叫びを!

「女房は亭主の子供だからなあ、
それがさうでないと、亭主が女房の子供になってしまふ」(P314)