「青が散る」(宮本輝/文春文庫)*再読
→読むのは何度目になるのだろう。
宮本輝の作品でいちばん好きである。
もっとも読み返した回数の多い小説だと記憶している。
宮本輝は物語作家である。宿命を描く作家とも言われる。
このへんのところを愚直に一歩一歩整理していきたい。
物語とはなにか。学問的解釈はすっ飛ばして、人間の栄枯盛衰としてしまおう。
源氏物語も平家物語も、言ってしまえば人間の浮き沈みを描写したまで。
人間が幸福になったり反対に不幸になったりするさまを描くのが物語であるならば――。
なにゆえ人間はぶざまにも右往左往するのか。
ままならぬからである。欲望かなわぬからである。自由ではないからだ。
これはいったいどうしてだろうとさらにホワイ(why)を重ねてゆく。
ここにおいてようやく宿命が登場する。
人間はおのおの持って生まれるものが異なる。宿命の思想である。
平等ではないということだ。
人間は生まれ落ちるにおよんで、
国籍、時代、身分、性別、容姿、知力、貧富を選ぶことができない。
にもかかわらず、選びもせぬものを無理やり持たされる。
この捨てられぬ重荷こそ宿命にほかならぬ。
作家は意識的、無意識的を問わず、宿命を描き分け物語を創作する。
さらに物語を展開させるうえで作家の活用するのが運である。
運がいい運が悪いの運であり、人生全体から見れば運命もそのひとつである。
この運は偶然とも呼ばれうる。
宿命と運(=偶然)を巧みに用い人気作家になったのが井上靖である。
ちなみに井上靖は宮本輝の敬慕していた作家のひとり。
宮本輝の宿命観は井上靖のそれとは異なる。
なぜなら宮本は先輩作家の持たぬ信仰を持っているからである。
かれは人によって好き嫌いの大きくわかれる創価学会の信者だ。
宮本輝の宗教意識は、井上が宿命から切り離した運をも宿命に組み入れた。
人間はありとあらゆるものを持って生まれてくるという残酷かつ荘厳な宿命認識である。
目に見えぬ運不運まで宿命に取り入れるとはどのようなことか。
偶然などないとする。偶然に見えるものも、その実すべて必然である。
以上に整理してみた宮本輝の宿命観を「青が散る」から引いてみよう。
「みんな、それぞれ、なにか持ってるのよ」(P48)
「あいつ、どことなく、運の悪いようなところがあるやろ?
頭はええし、とことん勉強しよるけど、大事なとこにくると
不運な星まわりみたいなもんが巡ってくるような気がするんや」(P77)
「夏子もまた、人妻となり母親となっても、
いまのままいっこうに変わらずにいてほしかったが、
どこかに滅びてしまうもの、
喪(うしな)われてしまうものを持っているような気がするのだった。
それは若さでも美貌でもなかった。
もっと夏子そのものを作っている一点であった」(P239)
「祖父がカミソリで手首を切って自裁し、長兄が首を吊って死に、
次兄が自殺とも事故とも判別出来ない形で明石の海に浮いていたという、
安西克己の一族の忌(いま)わしい歴史は、
そのとき遼平にはもはや偶然などではない、
この世にひそんでいる空恐ろしい、
避けることの出来ない必然による道筋であるように思えた」(P422)宮本輝は宿命のみならず宿命転換をも描く作家である。
宿命転換とは、創価学会用語で、持って生まれた悪しき生命状態を、
仏法修行により改善することの意(……で正しいですか学会員さん?)。
乱暴にいうと不幸な人間が努力して幸福になることである。
宮本輝のほとんどの小説がハッピーエンドなのは小説内で宿命転換が起こるからだ。
どうしてこうも都合よくぽんぽんと幸運が舞い込むのだろうと嫌う読者も多かろう。
わたしも宿命転換小説はあまり好きになれない。
あれは小説に登場する人物が実は学会員だからではないかと揶揄したくもなる。
「青が散る」に話を戻そう。
「青が散る」は新設大学のテニス部を舞台にした物語である。
この青春小説では、初期作品だからか宿命転換は起きない。
登場人物はみなみな宿命に敗れ去る。
おのおの持って生まれたどうしようもないものに操られなにものかを喪う。
登場人物のほとんどが失恋を経験する。だれの恋もうまくゆかぬ。
しかし、青年が恋に破れ泣くすがたのなんと美しく描かれていることか。
このころの宮本輝は敗北の美に抵抗がなかったようである。
「青が散る」は井上靖
「あすなろ物語」を思わせる哀切にあふれている。
「青が散る」で宿命に破れ自殺する青年の名は安西克己。
克己(こっき)は「あすなろ物語」の主題であったことを考えると、
あるいは宮本輝の意識に先輩作家の青春小説があったのかもしれない。
安西克己とおなじテニス部員だった貝谷は葬式のあとでこんなことを言う。
「俺、焼香の順番を待ってるとき、
なんでテニスの試合には引き分けがないのかなァて考えたんや。
ボクシングでも野球でもラグビーやサッカーでも、引き分けがあるのに、
テニスには引き分けがない。そう思たとき、
人生にも引き分けというもんはないんやろなァという気がしたんや。
勝つか負けるか、ふたつにひとつや。なァ、そう思えへんか?」(P425)この発言で気づくものもいよう。
「青が散る」において、みな負けてばかりである。だが、それは人生での話だ。
テニスでは勝っているものがいるのである。
持って生まれたもの、すなわち自分の実力以上の選手に勝利したものがふたりいる。
貝谷と主人公の遼平である。
前者は覇道のテニスで、後者は王道のテニスで、
本来なら勝てぬ相手から星を取っている。
両者のテニスプレイシーンは迫真に迫る。弱いものが強いものに勝つ。
これは持って生まれたものに勝利する――宿命転換とおなじではないだろうか。
覇道と王道、道は違えど勝ったふたりのテニスはこうであった。
「粘るんなら、とことん粘るんだよ。
テニスなんて、途中でどう流れが変わるか判らないよ。
ある瞬間、突然ボールが入らなくなる。
どんな選手でも、そんなときが必ず来るんだ。
ひとつの試合で、一回か二回はそんな状態になる。それを待つんだ。
待っている間に、強くなっていくんだよ」(P151)これはテニスだけの話なのだろうか。もしかしたら人生もおなじではなかろうか。
だとしたら、創価学会へ入信せずとも宿命転換はなしうるのか。
だが、この宗教団体は信者以外にことさら厳しいので知られている。
念仏など唱えたら地獄に落ちると断言しているのが創価学会である。
ならば、やはり学会以外の人間は宿命に敗れ去るしかないのか。
せめて「青が散る」で散ってゆく青年たちのように一途に物怖じせず退場したいと思う。
「花の回廊」(宮本輝/新潮社)
→宮本輝はふしぎな作家である。
まだ中年にも達せぬ年若いころ、信じられぬほど成熟した世界を描いた。
と思えば、年老いた今になって、あきれるしかないような幼稚な世界観を露呈する。
これは作者の信仰する創価学会思想との関係から説明できるように思う。
青年・宮本輝は燃えるような熱き信仰を胸に秘めていた。
日蓮から牧口、戸田を経て池田大作へ継承された仏法に、
宮本は生命を根底から鼓舞されたのである。
とは言いながらも文学者としては、いまだ足場固まらぬ新人作家の身。
安定収入や社会的地位を得たとは言い切れぬ。
つまり、日蓮仏法、創価学会思想への疑念を完全には払拭できない境涯にいたわけだ。
この信仰の面でのマイナスが、皮肉なことに文学作品にはプラスに作用した。
宮本輝は日蓮の生命思想を信奉するものの、そこは人間で、魔が忍び寄る瞬間が訪れる。
作家は闇を払いのけふたたび光へおもむかんとする。
たとえれば地獄の門番との命がけの鬼ごっこである。
この信心定まらぬ宮本輝の危うい精神が、反面、作品に奇跡的な輝きをもたらした。
現代日本において至上の仏教文学が生まれたゆえんである。
今現在の宮本輝は日本の文学者としておよそ最高峰の地位に到達した。
収入も身分も申し分ない。子育ても成功。完璧な人生の勝利者である。
どうしてこの成功を手に入れることができたのか。
日蓮仏法のおかげである。学会員として闘い抜いてきた成果である。
今の宮本輝にまさか学会思想への疑いが生じるはずがない。
微塵(みじん)もないと思われる。
作家は長年の仏法修行で人生のからくりを悟ってしまった(と思っている)。
作品の輝きが失われるのは必然である。
信心と不信のせめぎあいから生じる荒々しい物語はもう終わったのだ。
宮本輝は、言うなれば、疑問形の志士から断言(説教)する師匠へ変化した。
学会から見たら進化、文学から見たら退化であろう。
かつて若き闘士・宮本輝は、物語を武器に日蓮仏法を世に問うた。
獅子吼(ししく)したわけである。
ところが万物みな老いる。獅子の吼(ほ)える敵もいなくなった。
年少者に吼えかかるのは大人気ない。説教が始まるのはこのためである。
「花の回廊」の説教くささもひどいものである。
俗な言いかたを許してもらえれば「オレわかっちゃってるもんね〜」の連発である。
子供が水戸黄門の印籠を振り回しているような滑稽(こっけい)さが随所に見られる。
作中に登場する亀井周一郎は、宮本文学のいかがわしさの象徴である。
この作家の小説において、なぜか人格者は成功者なのである。
資産家や事業家といった富裕層が、もっともらしい教えをたれる。
この秘密は創価学会の説く「仏法は勝負」という思想によるところが大きい。
創価学会は勝利至上主義なのである。
わかりやすく言い換えるならば、とにかく勝ったものが偉いということだ。
仏法は勝負だ。勝ち負けだ。断じて勝たねばならぬ。
この思想は、負けたものを不当におとしめることに通じる。
信心が足らぬから負けるのだという論理である。
宮本輝の小説において、
わかったような説教をたれるのが成功者ばかりなのはこのためではないか。
正義は勝者にあり。ゆえに人生は勝利せねばならぬ。勝つために弱者は強くなれ。
いかようにして強者たるか。宿命を転換せよ。これ人間革命なり。
池田大作は自伝的小説「人間革命」で山本伸一にふんする。
宮本輝は自伝的小説「花の回廊」で松坂伸仁にふんする。
伸一に伸仁である。伸びろ、伸びろ、みんな伸びろ。続いて伸びろ。
創価学会思想の根幹である。
言うまでもなく青年の宗教だ。
この団体は枯れるという思想を持ち合わせぬ。
諦念や断念がないのである。しかし、老人の行き着く先はひとつしかない。
創価学会を始点とする宮本輝文学の行く末もここから推し量られよう。
細々とした点をひとつだけ指摘したい。
「花の回廊」で、作者の父をモデルとしたのが松坂熊吾である。
宮本輝は、豪放磊落な器の大きな傑物として熊吾を描きたいのだと思われる。
そうだとすると、おかしくはないだろうか。
物語の後半、駐車場の管理人におさまった松坂熊吾。
熊吾は経営の便宜をはかるために警察官に賄賂(わいろ)を贈る(P359)。
のみならず近所の商店の営業妨害をゴロツキに依頼する(P367)。
これは清濁併せ呑む豪傑の証なのだろうか。
社会の裏表を知り尽くした大人物のなす行為だろうか。
どうやら作者の宮本輝はそう思いながら描写しているふしが見られる。
賄賂、コネ、不正。勝つためにだったらなにをしてもいい――。
宮本輝の創価学会精神をかいま見た思いがする。
「にぎやかな天地(上下)」(宮本輝/中央公論新社)
→わんわん泣きながら読んでおいて、批評も感想もないわけである。
宮本輝。古今東西の作家で、唯一の作家である。
どのような距離をとって向きあえばいいのかさっぱりわからない。
この作家について書くとなると、支離滅裂を避けられない。
いちばん身近な場所にいると思うときがあれば、
決して手の届かない天空に鎮座しているようにも思える。
人気作家である。いまは教科書にも登場するらしい。ファンも幅広い層にわたる。
だが、と思うのだ。あなたたちのどれだけが宮本輝の怖さを知っているか。
この作家は愛や優しさを描くだけの作家ではないんだぞ。
日本でただひとり地獄を克明に描写することができる文学者なんだぞ。
そう叫びたくなる。
宮本輝の小説はあたまではなく、こころに食い込んでくる。
私事を書く。
こういうかたちでしか、わたしはこの作家と対峙することができないのだ。
6年前の梅雨、母親が自殺をした。
目の前で飛び降り自殺。下にいた。母が上から落ちてきて、血まみれになり死んだ。
母はわたしが下にいることを知ったうえで、自殺を敢行したのである。
最後に口にしたことばはわたしの名前であった。
名前を呼ばれ、上を向いた。母はつかまっていたベランダから手を離した。
日記が遺されていた。そこにはわたしの悪口がこれでもかと書かれていた。
何年にもわたる怨恨がである。母は精神病だった。大好きな母だった。
宮本輝の小説「にぎやかな天地」を読みながら慟哭(どうこく)する。
ああ、と思う。ため息まじりに確信する。
きっとわたしも、いつかはわからぬが、自殺するのだろう。
それも確実に飛び降り自殺である。
だれのまえで飛び降りるかはわからない。
だが、かならずわたしは飛び降り自殺で生を終えるであろう。
そうしてはじめてある宿命が完結するのだ。
ひとめぐりして円が閉じるためには、わたしが飛び降り自殺で絶命するほかない。
これは遠いむかしから決められていたもので、人智の及ばぬ不変の法則なのだ。
母があのようにわたしのまえで飛び降りることが決まっていたように、
わたしが飛び降り自殺で死ぬことも遥かむかしから何ものかによって定められている。
宿命である。デビュー時から宮本輝が一貫して描きつづけてきたものである。
宿命は、悲劇のかたちをとってあらわれる。
宿命ということばからイメージするのは、死や不幸の連鎖であろう。
ところが、宮本輝の小説はすべてハッピーエンドである。
かれの小説のなかで何が起こっているというのか。
宿命転換である。
宿命を描く作家ならほかにもいるだろう。
水上勉や井上靖といった名が思い浮かぶ。
だが、宿命転換を小説で展開できるのは宮本輝だけなのだ。
宿命転換。聞きなれぬ用語だと思う。
これは宮本輝が所属する、日本最大の宗教団体・創価学会の思想である。
創価学会は日蓮を大聖人とあがめる宗教団体。
どういう団体か簡単に説明する。宮本文学とも深く関係すると思うからだ。
病人や貧乏人に創価学会員は接近する。
子どもが障害をもって生まれた若夫婦なども絶好のカモ。
不幸な人間の悩みを学会員は真心を込めて聞いてやる。
どうして不幸なんでしょうという問いには、確信をもってこう答える。
それは宿命です。
宿命なので過去の不幸はあきらめるしかない(ステップ1)。
けれども宿命を転換することのできる教えがある(ステップ2)。
創価学会へ入信して、勤行すれば幸福を勝ち取ることができる。
浄土真宗などのいうあの世の幸福ではない。現世利益が得られる(ステップ3)。
完全な教説だと思う。妙なる教えである。南無妙法蓮華経である。
宮本輝は、宿命と、宿命転換を描く作家である。
宿命にもてあそばれ死ぬもの。宿命転換を遂げ蓮華の大輪を咲かせるもの。
幸不幸、運不運のはざまで、花開き枯死する人間の綾なす物語。
生死を見極める宮本文学の魅力である。信仰が生みだす文学である。
「そのときは理不尽な不幸や死やと思うしかなかったものが、
十年二十年たって、残されたものたちに大きな意味を運んでくる……。
いや、大きな意味があったのやと、わかる瞬間をもたらすのやとしたら、
死というものは、生きている者が息をせんようになって、消えていってしまう、
という程度の小さな浅いもんではないんやなァ」(下巻 P259)
この部分は「にぎやかな天地」全体を要約している。
ぶすいを承知で、あとがきからも引用する。
「大きな災厄が起こったとする。
そのときの悲嘆、絶望、慟哭というものは、未来を断ち切ってしまうかに思われる。
だが、その大きな悲しみが、五年後、十年後、二十年後に、
思いもよらない幸福や人間的成長や福徳へと転換されていったとき、
私たちは過去の不幸の意味について改ためて深く思いを傾けるであろう」
母を思う。
宮本輝の小説を支えに生き抜いた数年間というものがわたしにはあった。
あれから6年である。
宮本文学では、ふしぎと都合よく主人公に幸運が舞い込む。
ところが、わたしにはこの6年というもの、ろくなことが起こらない。
南無妙法蓮華経というつもりはない。つまり、創価学会に入信する意思はない。
とすると、母とおなじ道を歩むほかないのか。
このまま不運のうちに死んでいくのか。それとも待っていたら幸運もあるのか。
南無妙法蓮華経を唱えぬわたしである。
「運て、確かに存在するもんなァ。
運ていう言葉でしか説明でけへんことが、ぼくらの人生には多すぎる。
そやけど、なんで運のええ人と悪い人がいてるねん?
運て、どこからどうやってその人にまとわりついてくるねん?
どうやったら、運のええ人間になれるねん?
いったい運て何やねん? 」(上巻 P345)
04/07/29 07:59
「海岸列車(上・下)」(宮本輝/文春文庫)*再読
→ふと思った。タクシーが宮本輝の小説をダメにしたのではないか。
宮本輝はこれを書く数作前から、小説の質が哀しくなるほど落ちはじめた。
その原因はタクシーにあるのではないか。
登場人物がやたらタクシーに乗る。そのくらいなら歩け。電車を使え。
そう怒鳴りつけたくなるくらい小説内人物が頻繁にタクシーを利用する。
タクシー。安易な交通手段。
金を払っても楽をしたいがためにひとはタクシーに乗る。
宮本文学本来の魅力とは異質の(小説内)道具であるように思うのはわたしだけか。
「春の夢」で金のない哲也は陽子に会うため雨にぬれながら隣駅まで歩いた。
「青が散る」で二日酔いの燎平は夏子がいるホテルまでタクシーに乗らず歩いた。
「海岸列車」では歩くことをやめてタクシーに乗る――。
「海岸列車」上巻を読み始めてすぐ投げ出したくなった。
偶然を簡単に使いすぎるんだもん。そんなことあるわけないじゃん。
無理して読みつづけても、偶然の一致の連続。シンクロニシティ大安売り。
それとやめてください宮本輝先生。創価学会思想の抜書きは。
「因果倶時」(創価学会用語)とかいわれても一般読者は興ざめです。
あと日蓮が二箇所、言及されているのにもげんなり。
やたら長いけどページ数を食っているのはグルメ自慢、日本の悪口、若者への説教。
この後に宮本輝が連綿と書きつづける長編小説の欠点(上記3点)、
その萌芽がすべてこの「海岸列車」にあるといっても過言ではありません。
04/07/29 07:19
「五千回の生死」(宮本輝/新潮文庫)*再読
→近松門左衛門の有名なことばがある。
「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。
……虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也」
宮本輝が作家として目指した境界はここにあるのではないか。
虚にして虚にあらず、実にして実にあらず。
その間にある感動を宮本輝は書こうとする。
かれは信じているのである。
その感動を与える以外に芸というものの存在理由はあるものかと。
「五千回の生死」は短編小説集。
ここに収録されている「アルコール兄弟」は
宮本輝が全集に入れるのを拒んだという逸話がある。
読んでみるとたしかに失敗作。なにを書いているのかさっぱりわからない。
「避暑地の猫」(宮本輝/講談社文庫)*再読
→宮本輝作品としては異色作。悪人しか出てこない小説を書こうとしたらしい。
この悪人路線は「避暑地の猫」一作でやめてしまったようです。
天才にしか書けない小説。
うーん。天才とは書きましたが、再読した今回は裏の設計図が見えてきたのも事実。
創価学会の思想から、ある程度までは絵解きすることができる。
といっても、所詮「ある程度まで」。
そこから先は天才にしか見えない「光と闇」があるのだと畏怖するほかありません。
04/07/25 10:50
「道行く人たちと」(宮本輝/文春文庫)*再読
「メインテーマ」(宮本輝/文春文庫)*再読
→どちらも宮本輝の対談集。
対談相手は作家、評論家、映画監督と多様。
なんであれ、いろんな分野におけるひとかどの人物たちである。
なんなんでしょう、成功する人と、失敗する人の差というのは。
成功した落語家なんてすごいこと言うもん。自画自賛の極み。
貧乏自慢からはじまり、自らが発見した成功方程式を喜色満面に語ること、語ること。
あーあ。わたしも成功したいな。どうすればいいのでしょう。
宮本輝は小説でよく「天分」とか「星まわり」という言葉を使う。
わたしの「星まわり」ってよほど悪いのかな。
どんな「天分」を与えられているのでしょうか。
なんか元気のない読了報告でごめんなさい。こんな日もあります。
04/07/20 11:36
「星々の悲しみ」(宮本輝/文春文庫)*再読
「二十歳の火影」(宮本輝/講談社文庫)*再読
「命の器」(宮本輝/講談社文庫)*再読
→宮本輝は天才である。
現代小説を何か読む。たいがいの小説は底を察することがまあできる。
しかし宮本輝の小説はあまたある現代小説と根本から異なっている。
底が見えない深みがある。
あるいはいくらハシゴをのぼっても、とうていたどりつけない高みに氏の小説はある。
わたしごときがどれだけ人生経験をつもうが書けないものがそこに書かれているのである。
なんであんなすごい小説を宮本輝は書けるのだろうか。
その秘密はどこにあるのかと宮本輝個人に興味を持つ。
すると宮本輝の裏側に2500年の歴史を持つ仏教が見えてくる。
仏法、日蓮、創価学会――。
宮本輝は作家になりたくて創価学会に入信したのではないという。
創価学会に入ってしばらくしてから、この教えを小説で広めたいと思ったとのこと。
共産党には共産主義の作家がいる、キリスト教もそう、なら創価学会からは自分が、と。
かなわないなと思う。
宮本輝の小説には何か壮大なもの――宇宙的な広がりのある何ものか――
を信じている人間でなければ書けないものが描かれている。
信じることから生じる力強さがある。
04/07/04 07:14
「春の夢」(宮本輝/文春文庫)*再読
→まえにこれを読んだのは大学に入ったばかりのころだったか。
だからだと思う。上質な青春小説として記憶に残っている。
今回再読してみて、あららと思った。うわっと。
よく言えば荒削り、わるく言えばへたくそな小説。
大学で東洋哲学を受講しただけの(たいして頭も良くないという設定の)主人公、
哲也がおかしい。
「歎異抄」否定の仏法議論を友人とする。輪廻転生に思いをよせる。
いくらなんでも不自然だって!
一言、「哲也は創価学会員であった」と書けたらすべて解決するんだけど(笑)。
そして初期小説だからだと思う。
読んでいて恥ずかしくなるくらいに宮本輝の(しいては創価学会の)仏教観がでている。
デビュー作の「螢川」「泥の河」で書くまいと自制していたものを
すべて放り出したかのようである。
登場人物のひとり、磯貝は哲也に本を投げつけた後に言う。
「俺が投げたから、その本は井領(哲也)のところに飛んで行ったんや。
本が勝手に飛んで行ったんやないで。結果の前には、必ずその原因があるんや。
それが物理学の基本やろ。
原因のない結果なんて、この宇宙にひとつとしてあるか?
あったら教えてくれ。(……)
この世のいっさいの出来事は原因があるから結果があるんや」
両親をどちらもふしぎな鉄道事故で亡くし、自らも重い心臓病を患う磯貝はつづける。
「 なんで人間は、
生まれながらに差がついているんや。
それにも原因があるはずや。
そしたら、生まれる前に、その原因を作ったとしか考えられへんやないか。
そう考えるのが、一番理にかなってると思えへんか?
ある人は金持の家に生まれる。ある人は貧乏な家に生まれる。
ある人は五体満足で生まれる。ある人は不具で生まれる。
あらゆる事柄に原因と結果があるのに、人間だけが、
持って生まれたそんな差別に何の原因もないと考える方がおかしいやないか。
人間は覚えてないだけで、
この世以外の人生を、以前に確かに経験してるはずや。
それで、いろんな借金をかかえて死んだんや。
それから眠って目を醒ますみたいに、また生まれてきた。
そやけど借金は消えていない……」(P106)
ここに宮本文学の原点を、見る。
宗教と文学のぎりぎりの接点を、見る。物語を生む豊かな土壌を、見る。
前世の因縁うんぬんと高額のツボをうっかり買ってしまう危険性まで、見る。
このツボと池田大作氏が同じかどうかはまだわからない。
04/07/02 11:19
「錦繍」(宮本輝/新潮文庫)*再読
→宮本輝の小説でいちばん再読の回数が多いのがこれです。
どれだけ感銘を受けた小説でも5回も6回も読めばおのずと仕掛けが見えてくるもの。
エピソードもストーリー展開もほとんど記憶してしまっている。
実はそうとうにきわどい小説だと思う。信仰告白というのか、なんというのか。
たとえば犯罪被害者というものがいる。
この小説はその人たちに、あなたは自分のせいでそうなったのだと
罵倒しているようにも読めるわけである。
それはあなたの業(ごう)だ、あなたが悪かったからそうなったのだと。
宮本輝はこの小説で「因果」(仏教用語)を展開させている。
悪い「(結)果」(犯罪被害や障害児誕生)が出たということは、
必ず悪い「(原)因」があったに違いない。
ふつうはこんなこと言えないでしょ?
不幸な人に向かって、あなたが悪い、自業自得だ、なんて言えますか?
でも宮本輝は言えるんです。なぜなら信仰があるから。創価学会への。
そこが宮本輝を天才たらしめている根本だと思う。
宮本輝は「因」が「果」になるゆえんの「縁」を小説に書くわけです。
そして主張する、現在の重視を。今刻々と流れていると「時」を見よ。
これらも「因」である、
だから良い「因」をなせば必ず良い「果」(功徳)が得られる(=創価学会思想の根本)。
わたしが冒頭にこの「錦繍」を「きわどい」と形容した理由を
わかっていただけましたか。
おそらく宮本輝の小説の中でこれはもっとも宗教的な小説でしょう。
表層的な「感動」の底をじっと見つめていると恐ろしい「地獄」が見えてくる、
そういう小説です。
亜紀母子が満天の星空を見ていたとき、有馬はネズミを食い殺す猫を見ていた。
この場面に「錦繍」の魅力が象徴されている。
04/07/02 10:55
「幻の光」(宮本輝/新潮文庫)*再読
→最愛の夫が原因不明の自殺、そこからどう主人公の女性は立ち直っていくか。
できすぎていると思った。そりゃ、そう書いちゃ、そのとおりだけど、うーん。
ふつうの小説家がスタート地点から小説を書き始めるとすれば、
宮本輝はゴール地点から書いているようなところがある。
宮本輝自身は中上健次との対談では次のような言い方をしているけれども。
「だから人間は、反対のことをやっていると思うのね。
心から花が生じるとか、心から月が生じるとか。
僕は、違うと思っている。『花こそ心よ、月こそ心よ』
そういう気持ちですね。
おそらく多分、いまの作家たちは、自分の心から花をつくろうとか、
自分の心から月をつくろうとしていると思う。
だから、小説がおもしろくないんです」(「道行く人たちと」)