「波濤」

「波濤」(井上靖/角川文庫)絶版

→お酒をのみながらでも安心して読むとのできる中間小説。

まえにおなじ井上靖の感想でこんなことを書いたことがある。
小説というのは、だれが書いているのか。
作者というのが一般的な見解であろう。作中人物は作者に支配されているからだ。
だが、こう考えてみたらどうだろう。
作者も実人生では、人間を超えるものに糸であやつられているのではないか。
そうだとすると、ある小説を創造しているのは、
人間を超越するものということにならないか。こんなことを書いた。
今回、もういくらかこの論点を進展させてみる。

物語を作るのは小説家である。
物語とはなにかといえば、始まりと終わりがある。
そのあいだを人間が喜怒哀楽する。
人生は物語である。なぜなら、始まりと終わりがある。生で始まり、死で終わる。
生死のあいだを人間は喜怒哀楽する。
小説と作者の関係のように、人生もなにか大きなものに監視されている。
ずっとわからなかったことがあるのだ。
小説家というのは、どのようにして物語を造形するのか。
小説家は人間である。万能の神とはことなる、ちっぽけな存在だ。
そんな人間が、どうして神のごとく物語を作れるのか。
これまで疑問に思っていたことである。

このたびヒントのようなものを発見する。
言われたら当たり前のように思うだろうが、わたしにとっては結構な発見であった。
小説家は、私的な人生経験から物語を生みだしていく。
あることで喜怒哀楽した。その感情をなめつくす。
その味わいを伝えようとしたら、物語がいちばん適当な形式なのではないか。
ここで最初の問題提起へ戻る。だれが小説を書いているのか。
作家の個人的体験が小説の基盤としてあるのなら、この作家の私的な経験を、
別人ではなく、まさしくこの作家へ与えたもうた巨大なものが、
ある小説を書かせた真犯人と考えられはしないか。
偉大な作家ならば、物語を記すとき、だれもがこの巨大なものへ目を向けざるをえない。
なぜじぶんはいまのじぶんであるのか。
与えられたものを噛み締める。何度も咀嚼(そしゃく)する。
ある段階で作家は噛み砕いたものを吐きだすであろう。
もしこれを物語というのなら、この吐瀉物(としゃぶつ)は、
母のごときあたたかな手に背中をさすられて吐かされたものか、
それとも、おのが指をのど元へ押し込み強引にちからまかせに吐きだしたものなのか。
他力か、自力かを問うているのである。どこまで他力で、どこまで自力か。
まさかぜんぶ自力と考えるものはいないだろう。
生も死もじぶんでは決められない人間が、自力とはおこがましい。
どの程度まで他力なのか。わずかでも自力の入り込む隙間があるのか。
これは小説創作のみならず、井上靖の文学のテーマでもあるように思う。

井上靖のプライベートに踏み込む。
どうやら打ちのめされるほかない手ひどい失恋経験があったようである。
井上靖がただひとつ書いていない時期がある。
新聞社へ入ったころのことである。「あすなろ物語」でわずかに触れているのみ。
この時期ではないか。ある大事件が起こったのは。
井上靖の小説を読んでいて、切実だと胸を打つ箇所は、決まって失恋のシーンだ。
大衆小説でも、いわゆる文学作品でも、それは変わらない。
この「波濤」では133ページがそうである。
どうしようもないことが人生にはある。
それを酷熱の炎のなかで身もだえしながら井上靖は味わったのではないか。
どうにかしようとあらゆる方途を試したが、それでもどうしようもなかった。
そんな失恋体験が井上靖にあったと思うのは、いたらぬ人間の邪推だろうか。

「まあ、過ぎたことは諦(あきら)めることですね。
人の運命なんていうものはわからない。
人は人、自分は自分、それぞれの運命がある。
自分を大切にすることですよ」(P153)

COMMENT

駄目酒 URL @
12/06 19:17
. comment
>どこまで他力で、どこまで自力か。
私はどういうわけか書いている間の記憶がありません。いや、記憶が残っている場合もありますが、「書いている時の自分が何を考えていたか」をうまく思い出せないのです。文章を書くという行為は、まるでどこかへ飛んでいく儀式みたいですね。

>手ひどい失恋経験があったようである。
モテたことがないので失恋はもっぱら映画などで間に合わせています。省エネです。人は人、うちはうち──子供の頃、何かほしいものがある時など、よくそう言われて諦めました。おかげですっかり貧乏性です。自分を大切にしすぎていまでは100%自分を所有していることに幸せを感じるほどです。世間的には負け組ですが、人は人、自分は自分、ですね。
Yonda? URL @
12/06 21:22
駄目酒さんへ. 

いえそのあのえと……。
そうですか、と申し上げるほかありません。
自己紹介、ありがとうございます。
まえにも書きましたが、駄目酒さんは、ブログと相性がいいと思います。

>自分を大切にしすぎて

自己愛をもてあましていらっしゃるのがわかります。
失礼しました。
ぜひ小説へその巨大なエネルギーをぶつけてください。








 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/997-4fb0467d