「猟銃・闘牛」

「猟銃・闘牛」(井上靖/新潮文庫)

→井上靖の初期小説集。昭和24年、「闘牛」で芥川賞を受賞。
読者はなぜ小説を読むかといえば、ひとつには人生のからくりを知りたいということがある。
我われの生きているこの人生はそれぞれ唯一無比のものだが、
頭から足先まで、どっぷりそのただ中へ浸かっているので、全体像が見えない。
客観視することができないのである。主観から離れられぬ。
小説ならば、他人の人生をいささかは客観的に見ることができるのかと期待する。
かくして小説は読まれるわけである。

小説の動因というのは、どこから生じるのか。
小説を動かしているものは、我われの人生を左右するものとおなじなのか。
小説は作家によって書かれる。作中人物は作者に動かされるわけだ。
だとしたら、我われさえも、なにものかに糸であやつられているとはいえぬか。
作者の手から離れたいという欲望は、小説の主人公の比ではない。
実人生を生きる我われの深刻な問題である。
果たして我われは小説を読むとき、そこに主人公の自由を見るのか。
それとも作中人物の作者への屈服を確認するだけなのか。
一瞬でもいいから、小説内の無形の男女は、作者の監視から逃れることはないのか。

入れ子構造である。
小説の登場人物は作者に支配される。
作者の人生は、たとえれば神のようなものに支配されている。
読者の人生も、作者同様にあるものの監視下にある。
ここで問題が生じる。読者は疑問に思う。
小説はだれが書いているのだろうか。
作者個人か。それとも個人の背後に存在する全体が作者の手を動かしているのか。
もし後者だとすれば、作中人物も、作者も、読者も、みないちように等しいことになる。
だれもかれもお釈迦さまの手のうえで転がされているという思想だ。
この地点まで到達して、そこから物語が開幕するのだと思う。
井上靖は、おそらくその高みにいる。
だが、どうやって個人がその高所へたどりつけるのか。
方法はないのかもしれない。個人がいくら努力しても、どうなるものではない。
登山許可証の発行されていない人間は、どうあがいたところで山頂へ登れぬ。
天賦の才能がないものは、いかなる手を講じても物語を作れぬ。
そういうことなのかもしれない。

「これもまあ星廻りとでも言いますか、
私の持って生れた不運でございました」(P40)

「人間の持っている蛇とは何でありましょうか。
我執、嫉妬、宿命、恐らくそうしたもの全部を呑み込んだ、
もう自分の力ではどうする事も出来ない業(ごう)のようなものでありましょうか」(P74)

「幸運が常にその為すとこについて廻る、
いわば三浦の持って生れた星廻りのようなものこそ、
津上の持っている、ともすれば破局へ突き進もうとする全く対蹠的なそれと、
根本的に相容れないのであった」(P174)

COMMENT

駄目酒 URL @
11/21 23:02
. こんばんは。
今なにも書けずに苦しくて
フラっとお邪魔させて頂きました。
>小説はだれが書いているのだろうか。
忘れていたことを思い出しました。
私の場合は「書かされている感」がないと駄目なようです。
まあ、素人の戯言ですが。
Yonda? URL @
11/22 20:46
駄目酒さんへ. 

そうですか。
ひとさまざまですね。
考えさせられます。
ヒントをもらったような気がします。
ありがとうございます。








 

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