「二十四の瞳」

「二十四の瞳」(原作:壷井 栄/脚本:木下恵介/新潮文庫)絶版

→何年かまえ、渋谷で行なわれた山田太一の講演会へ行ったことがある。
この「二十四の瞳」について、言及していたことを思いだす。
断念ということを、山田太一は、ゆっくり話しながら考え、また考えながら話していた。
安易な断定をかたくなにこばむ誠実さに圧倒された。

こんな内容であった。
卒業式の来賓は、みないちように学童を叱咤する。
夢を持てという。無限の未来などという。がんばればなんでもできるという。
そんなことはないわけですね。すべての子どもがプロ野球選手になれるはずがない。
やはり人間には、宿命というほかない、限界がある。
人間は、断念しないと生きていくことはできない。
これはある意味、とてもネガティブな考え方だけれども、
がんばれ、がんばれではひとはかならずいきづまる。
断念をしなければならないときがある。
では、断念してそれだけかというとそうではなく、人間にもできることがある。
泣くというのが、それです。人間はどうしようもない現実をまえに泣くことができる。
これはとても貴いことだと思う。

この文脈で、山田太一は「二十四の瞳」を持ちだす。
大石先生のあるせりふに注目する。
場面は作文の授業で、テーマは「将来の夢」。
生徒のひとり、富士子は泣き声をあげる。作文が書けないのである。
家業が傾いてついに破産してしまった娘、富士子は、将来の夢など考えることもできない。
行きたかった修学旅行にも参加できなかった。

「先生、私のうちね、もう何時まで住んでいられるか分らないんです。
もう人の物になってしまって……」
「もういいの、何にも云わなくってもいいの、
先生にも、どうしていいか分らないけど、
あんたが苦しんでいるの、あんたのせいじゃないでしょう、
お父さんやお母さんのせいでもないわ、
世の中の、いろんな事から、そうなったんでしょう、
だからね、自分にがっかりしちゃ駄目、
自分だけはしっかりしていようと思わなきゃね、
先生、無理なこと云ってるようだけど、先生もう他に云いようがないのよ、
その代り、泣きたい時は、いつでも先生のところへいらっしゃい、
先生も一緒に泣いてあげる」(P132)


一緒に泣く。それくらいしかできない。
現実は断念するほかなく、人間はどうしようもなく孤独だけれども、
いな、だからこそ、この一緒に泣くということの美々しさが増す。
山田太一の主張である。

映画の最後で「泣きみそ先生」とあだ名をつけられる大石先生は、
この映画の冒頭から終末まで、たしかに泣きどおしである。それはとても美しい。
個人は巨大なものへ翻弄されるばかりである。なにもできない。
大石先生がどう行動したところで時代のうねり、戦争をとめることはかなわないのだ。
大石先生は泣く。大石先生の涙は受動ではなく、能動である。
泣かされているのではない。泣いているのである。これは大きなちがいだ。
この意味において映画「二十四の瞳」は時代ではなく、人間を描いているといえよう。

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