「書物との出会い」

「書物との出会い 読書テクノロジー」(紀田順一郎/玉川選書)絶版

→紀田順一郎は書籍論、読書論の第一人者。初版は30年前。
いまではこういう読書論は貴重だと思う。なんというのかな。
書物へ決して足を乗せないという精神がある。
切支丹時代の踏み絵のようなものである。
本がある。踏めといわれる。踏まなければ拷問だとおどされる。
それでも、最後の最後まで書物を踏まないという根性がある世代。
あるいは、ひょっとしたらだが、書物を足蹴にしたくないという理由だけで、
拷問を受けることもよしとする。
殉教とまではさすがにいかないけれども、死をも辞せじというくらいの気概がある。
書物はなによりも尊いと信じている。ステーキを食べるくらいなら本を買う。
書物のなかになにかが、だれかがひそんでいるという確信に支えられた狂熱である。
書に淫すどころか、書に狂っている。
本書に見られる紀田順一郎の精神である。とても親しいものに感じられる。

それにしても現代は本好きにとって決して恵まれているとはいえぬ。
いや、恵まれてはいるのである。だが、その恵みを享楽すると書物は輝きを失う。
本の愉しみにはいくつかある。
出会う昂揚。読む陶酔。語る連帯。探求する情熱。入手する達成感。
まず書物と出会う感動がいまはない。
書物というのがこれほど軽んじられている時代はないのではないか。
書物が人生への突破口になるという共通認識が全体的に薄れている。
書物インフレの影響である。
また書籍を読む悦楽をどれほど味わえようか。
だれもが常に携帯電話でどこかとつながっているのが現代である。
現実から書物の世界への逃亡など、もはやかなわぬ夢なのだ。
本について語り合う興奮というのもいまはない。
現代は共通の古典というものがない。みなみな読んでいる本がことなる。
なにか読書の連帯を感じたいとなったら、あの汚らわしいベストセラーを読むほかない。
探求する情熱もいまは薄れているのではないか。
たいがいの本がネットで検索すればでてくる。日本各地から取り寄せが可能。
畢竟(ひっきょう)、書物を入手したときの達成感も弱まる。

本書を読むと、30年前から時代はそういう風潮であったようである。
愛書家、紀田順一郎は怖ろしいことを言っている。あながち軽口とは思えぬ。
大正時代の末期に関東大震災で何千万冊という本がマル焼けになったという。
それをふまえての発言である。

「読者は恵まれているというべきだろうが、
あまり恵まれすぎて有難味を感じなくなっている。
豊富の中の貧困といおうか、考えてみれば不幸な時代で、
これで噂の東京大震災でもやってきて、
また何千万冊かの本がマル焼けにでもなれば、
また本の有難味がわかってくるのではないかとも思う」(P94)


幸か不幸か(幸ですよね?)この提言から30年、いまだ東京大震災はない。
だが、愛書家、いな狂書家というのは、ものすごい発想をするものである。
見習いたい。ううう……。見習っていいのか?

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