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「風の誕生」

「風の誕生」(長部日出雄/福武書店)

→直木賞作家、紫綬褒章作家の長部日出雄による踊り念仏の一遍を題材にした小説。
いつか一遍の映画を撮りたいと考える助監督の思索とシナリオが同時進行で描かれる。
おなじ一遍ファンとして悪口のようなものを書きたくないのだが、
物語に起伏がなく時おり論考が始まることもあり、
一遍に興味がなかったら最後まで読めないと思われる。
聖人を書くのは難しいということもあろう。
意外と一遍はロックなやつでフリーセックスOKのキメキメな、
移動ストリップ小屋集団の主人のような存在だったのかもしれないが、
歴史考証的になかなかそういうことは書けない。
聖人というのはマイナスがない人間だから、あまりおもしろくないとも言える。
一遍時衆は男女で日本各地を旅して踊り念仏の興業を行なった。
「夢の祭り」という映画で監督を務めたこともある長部日出雄は、
時衆の旅についておもしろい考察をしている。

「集団で遊行する尼たちのあいだに、軋轢(あつれき)が生まれぬはずはないし、
とくに意識と無意識の両方において、贅肉がひとかけらもついていない痩躯に
鋭く精悍な気魄(きはく)を漲(みなぎ)らせた壮年の師に、
ほかのだれよりいちばん愛されたいと切に願う気持は、
ときに当人の尼にさえ理解できないほどの怒りや嫉妬を膨(ふく)れ上がらせ、
ほんの些細なきっかけが突き刺す針となって、それを激しく爆発させたろう。
(中略) しかし、十二光箱の境界線によって遮られながらも、
僧と尼のあいだにひそかな恋愛と競争の感情や、
微妙な心の通い合いや反撥(はんぱつ)がまじり合っていたであろう時衆の遊行は、
苦行であるのと同時に、また普通の暮らしをしている人には味わえない
楽しみでもあったのではないかとおもわれてならない。
俊彦にはそれが、男女がともに旅をして、移動と仕事と喧嘩を繰り返す映画のロケ隊と、
どこか似ているような気がするのだ」(P242)


時衆は、恋愛絶対禁止の修学旅行をえんえんとしていた先生と生徒のようだとも言える。
踊り念仏でやたら観客から受ける美少女アイドルのような尼もいたであろうし、
そういうかわいい子は先輩からいじめられただろうと考えるのが常識である。
禁止されるとよけい燃え上がるのが恋愛感情で、プラトニックなぶん、
目つきとか目配せでとても激しい火花が散っていたとも考えられる。
なかには手をつないで時衆から逃げ出した男女もいたかもしれない。
男女が朝晩一緒に毎日行動していたらなにかしら起こるものだろう。
少なくとも毎日が平坦ではなく、劇的な要素がふんだんにあった。
あるときは地方の有力者から馳走を振る舞われることもあっただろう。
べつのときには何日も食うや食わずの日々もあったはずである。
そして、踊り念仏で観客から注目され喝采を浴びる昂揚はなにものにも代えがたい。
まともなカタギの安定した生活を送れない激しいものをうちに秘めた男女が、
一遍のもとに自然に集まってきていたのかもしれない。
あまりにもかわいすぎるので12、3歳のころから村の男衆の慰みものになって、
あたまがおかしくなりかけ村を飛び出し一遍の時衆に加わった尼もいたのではないか。
そういう尼さんが生まれ持った色気を隠そう隠そうとしながら、
演台のうえで踊り念仏のダンスによっておのれの抑圧した性を解放するのである。
長部日出雄は踊り念仏の興業を以下のように描いている。

「わが国において、広く不特定の観客を集めて興行する劇場の起源は、
室町時代の勧進能あたりと推定されているから、
あるいはこれがその濫觴[らんしょう/始まり]であるのかもしれない。
板葺きや茅葺きの屋根で高床式の桟敷の他には、行器で食物を運ぶ男女や、
衝重(ついがさね)に載せた料理を提供する者たちが忙しく立ち働いており、
女性の観客の市女笠を預かる老婆が蹲(うずくま)ったりしてるので、
すでに見物に付随するさまざまな給仕の業務も生まれているのがわかる。
観客のなかで、背後に立派な屏風(びょうぶ)をめぐらして酒肴を口にしたり、
簾(すだれ)越しに見入ったりしているのは、地位の高い富裕な人たちなのであろう。
桟敷と舞台のあいだには、数えきれないほどの人と牛車が犇(ひしめ)き合って、
賑やかにさんざめいている。
板屋根の大きな踊り屋は、
これまでになく床が高く、床板もすこぶる厚い本格的な建物だ。
真剣きまわりない[原文ママ]表情で鉦鼓(しょうこ)を打つ一遍に導かれて、
称名の合唱をあたりに響かせる時衆の僧尼は、
裸足で床を強く踏み鳴らして韻律を刻み、法悦が高まって無我の境に入るにつれ、
裾の乱れも気にせず跳躍しつつ、右回りに旋回して行く――。
とうぜん舞台のかぶりつきから見上げる男たちの目は、
衣の裾からこぼれる尼衆の白い脚と、
それよりもっと奥の神秘的なあたりに惹きつけられずにはいられない」(P335)


「真剣きまわりない」って、この本は校正が入っていないのかと疑いたくなる。
実は92、3ページでも人名の誤りがあり聖戒を聖達と書き間違えている。
一遍ファン以外だれも読まないだろうし、そもそも一遍好きは少ないからこれでいいのか。
なお長部日出雄は、一遍は家督争いの際、
人を正当防衛から殺めているという説を取っている。
誤字に関しては人のことを言えないので、人間だれでもミスはあるさと微笑みたい。
この力作長編900枚を最後まで読んだのは、わたしを含めて千人もいない気がする。

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