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「南無阿弥陀仏」

「南無阿弥陀仏 付 心偈」(柳宗悦/岩波文庫)

→ある人から踊り念仏の一遍が絶賛されているよと教えてもらい、
それをきっかけにして長らく積ん読していた65年まえの本書を手に取る。
仏教入門書というあつかいのようだが、それは違う。
これは法然、親鸞、一遍、そして浄土三部経くらい最低でも読んでいないとわからない。
大学生が前提知識なしにいきなりこんなものを読まされても困惑するだけであろう。
名著であることはたしかだが、人を選ぶ名著と言えよう。
一遍ファンとしては柳宗悦はいわば大先輩なので、敬意を表してわかりやすく説明したい。
結論を最初に書くと一遍の南無阿弥陀仏は法然や親鸞よりも深い。
なぜなら相対(二相)を超えた絶対(不二/二ではない)にいたっているからである。

この本だけではなく他の本の影響もあるのだが、
最近わたしはよく言葉は二分法(これを柳宗悦は二相という)だと書いている。
理解する、わかるというのは、言葉で世界を分けること。
AということはBではないということ。
こんな単純なことを以下の文章で柳宗悦は格調高く述べている。
(以下「本の山」のルールで[カッコ]内の記述は引用者の意味補充)

「二つにものを分け、これを対比させて考えるのは、人間の論理の習性である。
二元の世界を出られぬ私たちにとっては、理解することは分別することである。
分別は文字通りものを二つに分け、これと比べることである。
実は一切の言葉、従って言葉による一切の判断は、
二相[相対/二分法]の分別を出ることが出来ぬ。
右か左か、上か下か、善か悪か、
ともかく凡(すべ)ては対辞[対句]となって表説される。
黒白を争うとか、是非を決するというが、凡ての判断は、
かかる反律[二分法]から逃れることが出来ぬ。
実に凡ての論理は真か偽かの問題に終始するのであって、裏からいえば、
是非の二があるために、その法則が成り立っているともいえる。
それ故主張のあるところには、必ず右か左かの批判が現れるのは止むを得ぬ。
これによって人は知的な理解を得ようとするのである。
だが悲しい哉(かな)。是非の差別であるから、
相対[二相]の判断たる性質を越えることが出来ぬ。
絶対[不二]の問題に対しては、一切の知的分別は畢竟[ひっきょう/結局]
方便の性質を出ないことがわかる。
究竟[くきょう/究極]なものはいつも言葉に余る」(P111)


我われは二相(相対)の世界を生きているが、仏の世界は不二(ふに/絶対)である。
以下の文章はかなり難しく読みづらいと思うが、どうかよろしくお願いします。
これもすべて一遍上人のためですから。

「すべて仏法は、一や多の如き相対の念に止まることを許さぬ。
本体をいつも「不二[絶対]」に見るがゆえに、
一にも多にも非(あら)ざるものを見ているのである。
一如(いちにょ)という時、それは万機[すべて]に即しての一如を指しているのである。
また即するが故の一如といってもよい。
一如は「即」の意である。
理としての法身仏[宇宙仏法]が働きとしての応身仏[釈迦]になり、
また報身仏[阿弥陀如来など]に化現する所以[ゆえん/理由]である。
一神がもし一個神の意なら、
仏教の立場からはなお二元に落ちた思想と評さねばならぬ。
一神では、多神への相対に過ぎぬではないか。
真に究竟なものは「不二」であり「即」であって、一や多ではあらぬ。
仏法でいう一如は数の一では決してない。
「不二」とは数からの解放を意味する。
「即」を離れて、多くの仏を見ているわけではない。
因(ちなみ)にいう、仏教は有神論であるか無神論であるかを尋ねる人がある。
そのいずれの範疇(はんちゅう)にも属しないと答えるのが正しい。
何故なら、仏教が建てる「法」はいつだとて有無の二を許さぬ。
無に対する有の如きは畢竟(ひっきょう)二元を出ぬではないか。
それ故無にも落ちぬ。「法」は不二を見届けてのことである。
不二は無碍[むげ/自由]であって、相対の名辞[言葉]を越える。
有神または無神というが如きは、まだ絶対の立場とはいえぬ」(P84)


[カッコ]の引用者の意味補充がかえってわかりにくくさせていたらごめんなさい。
柳宗悦が言いたいのは、法然や親鸞は二相(相対)どまりだが、
一遍は不二(絶対)にいたっているということである。
そのためには三人の念仏者の違いをよく知らねばならぬ。
柳宗悦はまことにうまく法然、親鸞、一遍の相違を表現している。

「法然上人はいう、人が仏を念ずれば、仏もまた人を念じ給うと。
親鸞聖人はいう、人が仏を念ぜずとも、仏は人を念じ給うと。
しかるに一遍上人はいう、それは仏が仏を念じているのであると」(P172)


人と仏というのはふたつ、二分化している二相でしょう?

「しかし省みると、「人から仏[法然]」と考えても、
また「仏から人へ[親鸞]」と考えるとしても、念ずる者と念ぜられる者、
即(すなわ)ち人と仏の二が残るではないか。
「帰入」するとか、「召喚」するとかいう言葉は、
ただ主客の位置を更(か)えたというまでで、主客の二は残るではないか。
その心は人と心を一つに結ぼうとするにあるとしても、
やはり南無と阿弥陀とを二語に分けるのである。
分けて後に結ぼうとするのである」(P137)


「南無」は人からの働きかけで「帰命する/お任せする」というという意味。
法然や親鸞の南無阿弥陀仏は、人が阿弥陀に南無(帰命)する。
したがって、南無と阿弥陀は分かれている。

「しかるに一遍上人の思索は二語たることを許さないのである。
それを未分の境地に見ようとするのである。
ここで[南無阿弥陀仏という]六字の意味は更に一つの飛躍を遂げる。
南無と阿弥陀とを連続の一語に解して六字を独一なる姿に仰いだ。
独一であるから、いわば六字を無字にまで結晶させた。
南無と弥陀は二つではない。二つならば浄土の相ではない。
六字とは不二(ふに)の姿を指してである。
それ故、人が仏に念仏するのではなく、また仏が人に念仏を求めるのでもなく、
念仏が自ら念仏しているのである」(P137)


「法然上人はいう、仏を念ぜよ、さらば仏はかならず人を念じ給うと。
親鸞上人は説く、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏が人を念じ給わぬ時はないと。
だが一遍上人はいう、仏も人もなく、念仏自らの念仏であると」(P138)


これはわが意を得たりの解釈なのだが、
もしかしたらそれをご理解していただくためには、最低限「一遍上人語録」、
それから法然や親鸞の本を多少は読書する必要があるのかもしれません。
この文章が雑誌に公開されたのは昭和26年とのこと。
その時点でマイナーな一遍のほうが、
法然や親鸞よりも深いと言いえた柳宗悦の眼力には恐れ入る。
しかし、たしかにそうなのである。
本書には浄土真宗の血統尊重批判や寺院批判も平気のへいさで書かれているし、
日蓮への悪口も辛らつ極まりない。
柳宗悦は民芸品(無名の職人による作品)の価値を発見した人として有名だ。
この人の「ものを見る眼」のたしかさ、おのれの美意識への信頼はどこから来るのだろう。
梅原猛が田舎坊主に過ぎないと下に見ていた一遍を、
柳宗悦は法然や親鸞よりも上であると昭和26年の時点で見破っている。
一遍という言葉は――。

「一は一如で、遍は遍満、一即多の不二の教えを暗示するともいえよう。
これは「独一なる名号、法界に周遍す」という句から得たものだともいう。
いずれにしても「一にしてしかも遍」の義[意味]を示したものであって、
仏法の理念はこれ以上にまたこれ以外にはあるまい」(P254)


本書には心偈(こころうた)というミニ説教コラム集が付されているが、
これはあまりいただけない。しかし、なるほどと思ったところもある。
「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」である。
意味は見てから知るほうがいい。知ってから見ると知識に縛られて、そのものが見えない。
知らないで見たほうが直観が働いてものの本当のありようが把握できる。
わたしもふくめ、いまはみんな見るまえにネットで調べちゃう、知っちゃうじゃないですか?
で、その知識に見方を制限される。
「見」から「知」は出てくるが、「知」から「見」が出てくることはないと柳宗悦は言う。
最後に付として一遍ファンの柳宗悦による日蓮大聖人の悪口でも抜いておくか。
日蓮大聖人は――。

「しばしば人は彼に日本的なるものを見るが、
しかし彼の思想にどれだけ固有なものを見出せるか。
史家が明らかにしているように、法華を説くことによって「天台」を継ぎ、
祈祷を重んずることによって「真言」に接し、
題目を称えることにおいて「称名」に影響をうけ、
その末法思想において、また「厭離穢土(おんりえど)」の浄土観につながる。
また安国を述ぶることにおいて、遠い「護国」の仏教を思わせる。
彼が他宗の凡てを罵(ののし)ったのは、
実はそれらに最も多く関心を持たざるを得なかったからであろう」(P56)


日蓮大聖人さま、ボロクソな言われようである。
柳宗悦の「南無阿弥陀仏」は仏教入門書でも浄土教解説書でもなく、
ただただひたすらおのれの「眼」を信じて一遍を礼賛した本である。

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