FC2ブログ

「無常」

「無常」(唐木順三/筑摩叢書)

→いまから55年まえに書かれた古典的名著である。
著者は日本精神史を「あわれ」「はかなし」「無常」という3つの用語で追っていく。
ことさら解説もいらないだろうし、くだらぬ感想を書くのも野暮というもの。
黙々と心の琴線に触れたところを抜粋していく。
原文は旧仮名、旧漢字だが読者の便宜を考え新仮名、新漢字に変換する。

「『源氏物語』においては、「はかなし」は人と世のいわば存在的性格となっている。
はかなくないものはなにもない。
私は、この「はかなき存在」への同感、感情移入が、「あわれ」ではないかと思う。
それは美的同感といってもよい」(P59)


「男、女の間柄をふくめて世の中のはかなさ、頼りなさ、ひとの計り、計量、推理を
超えた計りなさの情緒的認知は、一方では「すく世」「宿世」という考え方へ誘う。
(中略) 「宿世」はおおよそ、人智を超えた事象の理由づけとして
使われているわけである。然(しか)しそれは単に理由づけとしてではなく、
その理に従うべきであるという一種の諦観、宿命観をもともなっている。
現世を現世内の原因結果の推論だけでは始末することができない、という意味で、
超現世的なものがそこにある。人の世の「はかりがたさ」を、
超現世によって規定しようとするところがあるわけである。
はかりがたき人の世、はかなき命の認知はおのずから超現世的なものを求めさせる。
頼みがたく、常なく、定めなき世を超えて、なにか恒常的なものをあこがれる」(P67)


仏教的無常観まであと一歩である。

「「はかなし」が王朝の宮廷という停滞社会における
女性の心理、情緒であったのに対し、
「無常」は、興亡、いや生死常ない戦いの世における男児、
「兵(つわもの)」の実存的体験といってよい。
そこでは、人も世もともどもに無常を露呈している」(P108)


ここで本書は「はかなし」から「無常」へ章を変える。
法然は9歳のときに父を仇(かたき)の兵から殺害される。
父の遺言はこうであった。
「敵人(あだびと)をうらむ事なかれ、これ偏(ひとえ)に千世の宿業也(なり)。
もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。
しかじかはやく俗をのがれいゑを出て、我(わが)菩提をとぶらひ、
みづからが解脱を求(もとむ)には」(「法然上人絵伝」)
父の遺命にしたがって出家したのが法然である。

「法然の選んだ道は、どうすれば、うらむことなきところへ出られるか、
うらむことのないことはどうして可能であるか、の追求の道であった。
うらみは単純には消すことができない。
うらみを超えるといっても、単純に、一重に超えたのでは、うらみは何等かの形で残る。
うらみは、うらみを超えて、更に還って、うらみの対象をあわれむところにおいて、
初めて、「うらむことなき」ところへ出られる。
法然の一生はそれを実践的に示している。仇、敵をあわれむという慈悲によって、
仇、敵をも、衆生の一人として救済の相手に化しうる。
自己救済は他の救済なくしては全からず、自覚は覚他なくしては完成しない。
法然は求道者から救済者になった。
自力においてではなく、弥陀の本願を深信することにおいて、
自分一人ではなく、衆生をもその救済にあずからしめうることを証した。
これは日本宗教史において時代を画する事態である」(P140)


とはいえ、法然や親鸞は重いと唐木順三は言う。
そこで唐木は踊り念仏の一遍に着目する。
55年まえはまだよく知られていない存在であった。

「一遍によって鎌倉新仏教は初めて「軽み」をもつにいたった。
芭蕉が晩年にいいだした意味での「軽み」である。
無一物で、無念で、外へ出ていく自由である。構えのない表現である。
なにか存在の全体、宇宙にリズムというべきものがあって、
そのリズムに乗って行い、それに調べを合すといった生き方である」(P176)


以下は本書の絶唱であろう。

「……一遍が無常をいうとき、そこにはなにか浮々としたもの、喜々としたものがあり、
無常をいうことについて、格別に美文調に、雄弁になる傾向があるのはなぜか。
そういう問題が私の頭の中にある。「苦」とか「無常」とかいう場合に、
格別に美文調になるということは、変なことである。奇妙といってもよい。
その変で奇妙なことが、ふりかえってみれば、日本では当り前のこととなっている。
「はかなし」「はかなき」「はかなびたる」という王朝女流文芸に頻々と出てくる言葉も、
横か裏から見れば、「はかなきものは美しきかな」というような、
美的理念とさえ思われる場合が多い。それは「あわれ」の場合と同様に、
日本人の心情の深いところに関係していることである。
無常の場合も、古くから「無常美感」などといわれているように、無常をいうとき、
日本人の心の琴線は、かなしくあやしき音を立てる。
我々のセンチメントは無常において、
最もふさわしくみずからの在り所に在るという観を呈している」(P196)


わたしは感傷的で好きな作品はセンチメンタルなものが多いが、
たしかにそれらの基底にあるのは
「あわれ」であり「はかなし」であり「無常」である。
唐木順三は最終章で道元の「無常の形而上学」にいたるのだが、
感傷家に過ぎぬわたしには形而上学的なことはいささか難しすぎた。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/6296-ae572387