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「全文現代語訳 浄土三部経」

「全文現代語訳 浄土三部経」(大角修=訳・解説/角川ソフィア文庫)

→浄土三部経とは、「(大)無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」のこと。
ブログを調べてみたら浄土三部経はいろいろな訳で4回読んでいるので5回目か。
大角修さんの角川ソフィア版の特徴はとにかくマイルドなところ。
「無量寿経」なんかけっこうむごい汚らしい表現があるのだが、きれいに解釈している。
訳注は読みづらいだろうと読者の便宜をはかり、すべて訳文自体に込めている。
しかし、これが現代語訳なのかと聞かれたら複雑で、
大角修さんの創作に近くなっているところもあり、
そうは言っても独自な解釈とはそういうことだろうと言われたらそれも否定できなく、
いい仕事であることは間違いない。
浄土三部経なんか読まなくてもいいと思うけれども、
発心したのなら角川ソフィア版が、
いちばん新しいしマイルドだしわかりやすいからおすすめ。

本書の「観無量寿経」で両親を殺した阿闍世(あじゃせ)の救いや、
悪役の提婆達多(だいばだった)の救いの話が出てくるが、
それは「観無量寿経」には書かれていないのではないか?
たしかに「観無量寿経」の終わり方はまったく救いがなく、
このような説話を付け加えたほうが物語としてはカタルシスがあるが、いいのか?
「観無量寿経」はその救いのなさがある種の魅力という見方もできると思うが、しかし。
このお経で自分の息子がいままさに父親を殺そうとしているとき、
その息子の母親の韋提希(いだいけ)夫人が嘆くところがある。

「わたくしはなぜ、阿闍世のような悪しき子を生むことになったのでございましょうか。
わたくしは前世に、どのような罪をおかし、
この報いを受けているのでございましょうか」(P66)


この問いに世尊(釈尊/釈迦)は答えず、西方浄土を観想する方法を教えるのみだ。
しかし、これは見方によっては答えとも言えて、
仏教を知るために韋提希夫人はこのような苦しみを受けているという解釈もあろう。
ブログに仏教本の記事を書き出すとアクセス数が顕著に下がるのだが、
それは仕方がない。現代日本を生きるお忙しいみなさまが、
非科学的な仏教なんかにご興味を持たないのはわかります。
「なぜ?」から仏教のみならず宗教は始まる。
いったいなぜどういう理由で自分ばかり苦しまなければならないのだろう?
この基本の疑問がないと仏教の本を読む気にならないだろう。
おのれの無力を知ってはじめて人は人間世界を超えたものに思いを馳せる。
教会で結婚式を挙げたばかりのラブラブの新婚さんはもっとも仏教には縁遠い。
酒井法子は薬物事件で逮捕され留置所にいたとき、
天台宗の瀬戸内寂聴さんの本を差し入れてもらい読んだという。
酒井法子本人だって、自分がどうして覚醒剤なんかやったのかわからないのである。
どうしてサーファーと結婚したのかも、どうしてあんなに孤独を感じたのかも、
いったいなにゆえ自分はヤクザの娘で、しかしとびきり美しい女として生まれたのか。

本書で法華経などに見られる全員集合の熱狂は祭礼だという指摘がされており、
まこと卓見だと思った。ライブの盛り上がりが大乗仏典の世界なのである。
みんなが盛り上がってイエイ、イエイ、ワイワイやっているのが
大乗仏典だと考えたら、読むぶんには退屈な、
えんえんと仏の名前が続くあれも昂揚の象徴なのだということがわかる。
実際にお経の世界(細かく言えば「阿弥陀経」の世界)を現実に垣間見せたのが、
踊り念仏の一遍で、盆踊りの根っこはそこという説もあるし、
ディスコもある種のクラブも、そしてAKBのようなユニットダンスもそうだろう。
その瞬間だけは辛いことを忘れられる。ならば、なぜ極楽浄土を見ないのか?
それが「観無量寿経」であり「阿弥陀経」である。
「観無量寿経」は催眠術療法やイメージ療法の基礎でもある。
美しい世界をイメージしたら、いまの辛いことを忘れられる。
努力してもどうしようもないことや、もう起こってしまった取り返しのつかないことはある。
無力。無力の自覚が浄土三部経。無力、ひとり、生まれ、死ぬ。
無力でたったひとりでさみしく死んでいくのが人間であると世尊が説いたのが「無量寿経」。

いままで「無量寿経」で説かれている48願というのが本当によくわからなかった。
それは法蔵菩薩が48の願を立てて阿弥陀仏になったから、
要するにみんな仏名を聞けば仏になれるよっていうあれのこと。
あれはお坊さんでもよくわからない人がいるんじゃないですか?
わたしもどんな解説書を読んでも「はあ?」としか思えなかったが、
この齢になって意味するところがようやくわかった。
法蔵菩薩は人間代表なんだよ。
で、生まれ変わりを無数に繰り返し修業して仏になるというのは、
あれはたとえれば選挙に出馬した立候補者のようなもの。
自分が仏になったら(成仏!)、これこれをやりますと公約したのが法蔵菩薩。
いま阿弥陀仏はいるだろう。人間の法蔵は仏になった。
しかるがゆえに法蔵菩薩の選挙公約は果たされるというのが48願の意味である。
全編マイルドな本書だが第35願の翻訳が危ない。

「たとえわたくしが仏になる時が来ても、十万無量、不可思議数の諸仏世界において、
女人が我が仏名を聞いて歓喜信楽し、菩提心を起こして、
女性である身を厭(いと)うて寿命が尽きたのちに再び女性に生まれるならば、
わたくしは仏になりません」(P201)


本願寺出版の翻訳を見てみたら、ここはわざと意味不明な文章にしてごまかしていた。
これって女性は仏名を聞いたら、
女である身を恥と思えという意味に直球で解釈されてしまう。
女性に生まれてくるのは不幸だ、災いだとはっきり書いてしまっている。
女性に質問したいのは、生まれ変わったらまた女性になりたいですかってこと。
ある人に聞いたら、絶対次は男ね、と言っていた。
わたしは生まれ変わったら美女になって、たんまりしこたま悪いことをしてやりたい。
まあ、13、4歳で売春宿に売り飛ばされる貧乏娘は絶対いやだけれど。
こんなことを言ったら差別になるのかもしれないが、
仏教は極めて閉じた暴力団のような男性社会のようなところが、よくも悪くもある。

本書のコラムで学んだことは多い。
「方丈記」で有名な鴨長明は、阿弥陀仏の絵像をかけながら、
毎日法華経を読誦して極楽往生を祈っていたという。
平安時代では法華経を唱えながら往生を願うのはみんなやっていたことらしい。
「往生要集」で知られる源信は、二十五三味会というものを開催していた。
これは基本的には念仏の会なのだが、午前中は法華経を唱え、
死者が出たら密教の真言を唱えていたという。
念仏と法華信仰と密教が渾然一体となっていたという。
2、3度読んでいたが、気づかなかったのは近松門左衛門の「曽根崎心中」。
あれは南無阿弥陀仏と唱えながらふたりは自殺している。
あの世でいっしょになろうと刃物でおのれの身を削った。
しかし、末文は「貴賤群衆の回向の種。未来成仏疑ひなき、恋の。手本となりにける」
と終わっている。自殺しても成仏できること。
そして、女のほうが成仏したあと男になってしまったら、
それは男女の恋ではないだろうと著者がおもしろい指摘をしていた。

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