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「選択本願念仏集」

「選択本願念仏集」(法然/佐藤平訳/中央公論社)

→「大乗仏典 中国・日本編 21 法然・一遍」に収録された現代語訳。
これからわたしが念仏の由来を書いてもいいけれど、みなさんご興味ないでしょう?
鎌倉時代の下層民だってそうで、そもそも文字が読めない人ばかりなのだから。
「苦しい」けれどこの「苦しい」をなんといえばいいのかボキャブラリーがない。
「救い」を求めているけれど「救い」をなんという言葉でいえばいいのかもわからない。
仏道修行をするにもそんな時間的余裕もないし基礎的な知的能力もない。
そんなときにお経をいっぱい読んだという秀才として知られる法然という坊さんが現われ、
「南無阿弥陀仏」という言葉を教えてくれた。
みなさんが苦しいのは南無阿弥陀仏で、救いは南無阿弥陀仏にある。
ナムアミダブツ、わずか7音。これなら下層民も記憶できる。
文字をいっさい書けない人も7音くらいなら暗唱できよう。
昨日は天気がよかったせいか、
夕暮れ昭和歌謡曲を歩きながら口ずさんでいるおばさんをふたりも見たが、
わかりやすくいえばあの歌謡曲が南無阿弥陀仏なのだと思う。

個人的な話をすれば、南無阿弥陀仏の功徳をいちばん感じたのは、
むかしシナリオ・センターという学校に通っていたとき、
いきなり狭い事務所に呼び出され、職員に囲まれ、所長と社長に恫喝された。
このとき受け答えをしながら、心のなかで念仏を唱えていた。
突然なのでパニックになりそうだったが、「ええい、どうにでもなりやがれ」、
おい阿弥陀仏よ、まかせたぜ! という感じ。ままよ!
どうせなるようになるし、どのみちなるようにしかならない、
という他力をたのむ気概と諦念が南無阿弥陀仏にはある。
そして、嫌いな人は大嫌いだろうけれど、死ねば浄土へ往けるというのは救いである。
なんのために生きているのかというのは謎だが、成仏するためという考え方もあり、
死ねば極楽浄土に往生してそこで成仏できるという信仰は、
そこまで悪くないのではないか。
要するに、皿の好物をいちばん最後まで取っておくようなもので、
いちばん最後にもっとも楽しいことが待っていると信じられたらそこに幸いがある。

以下、どうでもいいことなので読み飛ばしてください。
法然が念仏信仰の根拠にしたのは中国の善導(ぜんどう)という坊さん。
仏教はひたすら先輩を立てる社会で、善導の師匠は道綽(どうしゃく)で、
そのまた師匠は曇鸞(どんらん)ということになっている。
べつに曇鸞が偉いわけではなく、
いちばん偉いのは浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)。
なぜ浄土三部経が偉いのかといえば釈迦が説いたとされているから。
善導、道綽、曇鸞たちがやったのは浄土三部経の解釈(どう読むか)。
善導はかなりトリッキーなことをやった人で念仏するだけでいいという解釈をした。
言葉なんてどうとでも解釈できるから、
もしかしたら善導のやったのは誤解だったかもしれない。
で、こういうのをぜんぶ読んで、ほかの仏典もあますところなく読んだのが、
はい、ようやく来ました日本の法然で南無阿弥陀仏と口で唱えるだけでいいという、
斬新な解釈を断定的に主張したのである。
善導はそこまでは言っていないのだが、
大無量寿経と観無量寿経の一節を善導の言葉とからめて
南無阿弥陀仏だけで構わないと。
口で称える念仏はむかしから坊さんの修業のひとつとしてやられていたが、
法然が独創的なのは口称念仏(称名念仏)だけでよく、
ほかの仏道仏法をすべて否定したところ。
どうでもいい話をここまでお読みくださり、ありがとうございます。

空海は違うようだが、仏教の論書というのは、
Aにこう書いてある、Bにこう書いてある、Cにこう書いてある……だからこうである。
そういう論述形式を取っており、法然の「選択本願念仏集」もまったくその通りだ。
偉人の権威を借りているだけとも、読書量自慢をしているだけとも、
もっと厳しい言い方をすればどこまでも我田引水、牽強付会なのである。
結論はなにかというと「自分は正しい」なのだからいやらしいと言えなくもない。
空海の言う陀羅尼(ダラニ/呪文)とは南無阿弥陀仏のことであると、
法然はちゃっかり人気者の弘法大師空海の権威も借りている。
そうしたら空海の真言宗の人にも媚びを売ることができる。
密教も大乗仏典に含まれると「貞元禄」とやらに書いてあるとか。
(日蓮が大好きな)天台智顗(ちぎ)も「十疑論」で、
「阿弥陀仏の名前を称えれば極楽往生できる」と書いている。
この「十疑論」は偽書(いんちき)ではないかという見方もあるらしいが、
もし智顗が本当に「十疑論」を書いていたとしたら日蓮の支柱が崩れる。
ともあれ、日蓮は法然よりあとの時代の人だから、
法然がやったのは天台宗の人に媚びを売ったとも言える。
しかし、だから、わが法然の南無阿弥陀仏は正行であると男は主張する。
仏教とは縁が薄いみなさまにはどうでもいいい話であることを十分に知りながら、
ここまで来たのだから寄り道すると「他力」という言葉をはじめて使ったのは、
曇鸞(どんらん)であることを注釈で教わるが、
学者先生はそんなこと研究してなにがおもしろいのかね。

みなさまが仏教なんてどうでもよく、論書からの引用なんか、
たとえ現代語訳でも読みたがらないのは知っていたのであえてやらなかったが、
一箇所だけしてみよう。最初のほうに書かれていることである。

「たとえ一生の間、悪いことをなし続けたとしても、
ただ心を集中して一生懸命になって常に念仏すれば、
すべての障りは自然に消え去り、必ず浄土に往生することができる。
どうしてこういうことを深く考えず、
まったくこの世を去る心をおこさないのであろうか」(P9)


いちおう原文を示しておく。むろん原文は漢文だから書き下し文。

「たとひ一形(いちぎょう)悪を造れども、ただよく意(こころ)を縣(か)けて、
専精(せんしょう)に常によく念仏せば、一切の諸障、自然(じねん)に消除して、
定んで往生することを得。
何ぞ思量せずして、都(すべ)て去りゆく心なきや」


「選択本願念仏集」の一文であることはたしかだが、法然の言葉ではなく、
道綽(どうしゃく)の「安楽集」からの引用である。
法然は「選択本願念仏集」をこの「安楽集」からの引用で始めている。
「都(すべ)て去りゆく心なきや」を訳者は
「まったくこの世を去る心をおこさないのであろうか」という意味に読み取っている。
「去りゆく」「世を去る」をどう解釈するかだが、
出家や隠遁とも考えられるが「死」とも意味を取ることもできなくもない。
念仏しながら悪いことをたくさんやって早く往生しよう(死のう)とも読める。
こういう誤解が新しい仏教を創っていくという一例である。

法然や親鸞は善悪にこだわっていたが、
踊り念仏の一遍まで進むと善悪を突き抜けている。
善悪というこの世の相対の上にある絶対が南無阿弥陀仏だという解釈だ。
一遍もまた善導とおなじで夢告という宗教絶対体験を経ている。
訳者の佐藤平氏が鈴木大拙の「日本的霊性」を話のまくらにして、
このいわゆる宗教絶対体験についてわかりやすく述べているので紹介したい。

「宗教経験の真実というかそのリアリティーは、言葉を超えている。
言葉の上に表現しようとすると、どうしても逆説的にならざるを得ない。
つまり常識的には矛盾しているように見えるが、
真実を言い当てているという意味で、逆説的論理や言表が多用されるのである。
常識というのは、倫理的意識や通常の論理である。
たとえば、「善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや」というのは、
倫理的常識には真っ向から対立する。
しかしそこに宗教経験の真実が表現されている。
またたとえば「不一不二」という言葉がある。
これは究極的実在を指し示して、
それは一でもなければ二(もしくは多)でもないというのである。
一でないということが二(もしくは多)を意味しているとすれば、
形式論理学上では x は二であって二でないという具合に、
同一の主語に対して同一の述語を肯定すると同時に否定することになり、
矛盾律という論理学の大原則を犯していることになる。
いわゆる常識からすれば、間違った言表ということになる。
しかし、これが宗教体験のリアリティーを言い当てているのである。
これに類する逆説的論理としては、[鈴木]大拙先生の「即非の論理」があるし、
また「一即多」「多即一」というような表現もよく用いられる」(P403)


わかりやすい文章をさらにわかりやすく言い換えるとこうなる。
死は悪であって悪ではない。死は善であって善ではない。
死は悪であり善でもある。死は悪でも善でもない。
悟りはないと悟ることが悟りだが、その悟りも悟りではないことが悟ること。

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