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「井上靖全集 第25巻 エッセイ3」

「井上靖全集 第25巻 エッセイ3」(新潮社)

→全集第25巻は井上靖の美術記事が中心に収録されている。
井上靖の京都大学での専攻は美学で、毎日新聞でも長らく美術記事をしており、
当時の画壇とも通じていた。
わたしは音感、語感はともかくとして美感はまったくといってよいほどなく、
絵を見て感動したことはほとんどないし美術館に行くこともない。
先日、富士美術館に寄ったのだが、
千円も払って古刀なんて見たくないと入場しなかった。このへんがお育ちの問題で、
美術がわかる人を見ると高貴なお生まれのような人の気がする。
美術鑑賞の基本はこういうことなのだろう。
戦前、毎日新聞の美術記者だった井上靖の書いた文章を引く(昭和18年)。

「古いもの、新しいものを問わず、現代人が美術作品に関心を持ち、
それから何ものかを求めようとしていることはれっきとした事実である。
美術作品のみが持つ、観るものの心を高めてくれるもの、
慰めてくれるもの、鼓吹してしてくれるもの――
そうしたいろいろの美しさを人々は求めているのである。
一言の文句もいわずに、その前に立つだけで
人の心に滲み入ってくる謙虚な話し方、
それでいて他の何物よりも強く働きかけてくる不思議な力、
そんなものが現代人の多忙な心に、大きい魅力となっていることは不思議ではない。
この激しい事実の世紀に処し、光輝ある耐乏の生活を闘い抜くために、
確りと自己を支えるものとして、人々は意識すると否とを問わず、
美術作品の内に持つ永遠なるもの、
芸術的な永遠の生命に激しく惹かれているのである」(P372)


この文章を読んで影響を受け、家にある版画集やら写真集を持ち出してきて、
一丁前の感動をしようと思ったが、この絵はいいとかわからないで、
いくらするんだろう、なんぼや? という庶民的視座から離れることはできなかった。
とはいえ、庶民に芸術的な永遠の感動が必要なのも理解できなくもない。
このまえ花見で、職場でお世話になった59歳の独身男性に、怒らないで、と聞いた。
毎日、なにがおもしろくて生きているんですか?
「仕事がおもしろいよ」って言われて、内容を聞いたら時給千円の単純労働。
本当にそれがおもしろいんですか? と畳みかけたら、相手は言葉を詰まらせた。
「毎日、おもしろくないよ。なんにもないんだもん。くそおもしろくもねえ」
しかし、人生そんなもの。生きていくとは、そういうこと。
これは山田太一ドラマから学んだことである。
上記したものと正反対の生き方が、芸術家的な人生である。
井上靖はいう。

「芸術家も、文学者も、芸術家として、文学者として生きるということは、
己が人生を制作によって刻むことであろうと信じます。
自分が生きた証しを、一歩一歩、制作という形で彫り、
刻むことであるに違いありません。
大芸術家はみなそのようにして生きた人たちであります。
成功も、不成功もありません。立派さがあるだけです。
私もまた文学者の端くれとして、氏[『大同石仏』の前田青邨]にあやかって、
そのような道を歩きたいと思います」(P224)


とはいえ「生活者/表現者(芸術家)」の区分でいまから見たら、
井上靖の人生は芸術家のそれではなく、処世をうまくやった生活者の顔をしている。
井上靖には妻や子ども、愛人、同業者というしがらみが多すぎた。
最前、井上靖を生活者の顔といったが、どんなものが芸術家の顔なのか。
セザンヌといわれてもわたしはひとつも絵が思い浮かばないが、
井上靖によると、セザンヌこそ芸術家の顔という。

「私は芸術家の顔では、セザンヌの顔が好きである。
「自画像」のセザンヌもいいが、
パリの印象派美術館にある写真のセザンヌの顔はもっといい。
傲岸(ごうがん)、不信、拒否、猜疑(さいぎ)、そんなものの固まりのような、
見るからに気難しい髭面(ひげづら)の老人である。
その写真を見た時、このような面魂(つらだましい)で対象を睨(にら)まなければ、
人間であれ、自然であれ、あのように相手の核心に迫り、相手の持つすべてのものを、
あのように愛情深く摑(つか)み出すことはできないであろうかと思った。
セザンヌもそれぞれの時期で、対象への対(む)かい方が謙虚になったり、
烈しくなったりしている違いはあるが、一貫しているのは、
常にどの作品からも対象に対する愛情深い眼を感ずることである。
恐ろしいほど対象をよく観ていることである」(P622)


これはスウェーデンの劇作家のストリンドベリや、
アメリカのノーベル賞作家のユージン・オニールの顔に通じている。
自分が見えなかったら、相手が見えるはずがない。
むかし脚本家の山田太一さんが講演会で言っていたが、
「まず自分を愛せなかったら、他人なんか愛せるわけがないじゃないですか?」。
他者を愛することへの根本は自己愛にあるのだろう。
井上靖によると、ゴッホは自画像をよく書いたという。その数40枚である。

「ゴッホが最も関心を持ったのは自分自身なのだ。
自分でもどうすることもできなかった自分を、
結局は自らの手で生命を断つ以外仕方なかった自分を、
ゴッホはふしぎなものを見詰めるような思いで描いているのである。
(中略) 彼は自分の仕事のことしか認めていない。
彼は世間普通の人として生きる時間も、
常人のいわゆる休養の時間も持たなかったのである。
彼は希望に燃えているか、苦しんでいるか、絶望しているか、
そうした時間しかなかった。
この《自画像》はそうした男の顔である。
内に狂気を持ち、それを無比な冷静さで見守っている男の顔である」(P162)


ゴッホみたいな孤独と狂気、歓喜、絶望を生きるよりは、
平々凡々と会社勤めをして、レベルにあったカーチャンでもゲットして、
毎日なんだかんだとありきたりな愚痴を口にしているほうがはるかに幸福だろう。
芸術なんか目指すものではないし、おそらく天才稼業ほどしんどいものはない。
レオナルド・ダ・ヴィンチを天才として、井上靖は以下のような天才論を述べている。
レオナルドは男色だったのか、生涯独身だったが女を知っていたのか、
ということから始まり、男の宗教や信仰、大量の学術研究の意味等、
さっぱりわからないが、いったいこれはどういうことなのだろうか?
わからないことづくめである。あるいは、と井上靖は思う。

「私たちが判らないのと同様に、レオナルド自身判らないかも知れないのである。
天才というものは自分でも理解できない混沌たるものを自己の内部に詰め込み、
それに動かされている人であろうからである」(P124)


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