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二分法を超える

我われは仏のように世界をそのまま(諸法実相、眼横鼻直)
自然に見ることができず、常に二分法で考えるくせがついている。
なぜならそれは人間は言葉を持っており、
言葉は世界を分ける機能がついてるからである。
混沌としたいわば闇のような世界から光のような言葉が生まれたとき、
すでに「闇/光」という二分法が始まっている。
そもそも闇の存在は単体では証明できず、光という対立概念を出すことで、
闇の正体がまざまざとわかるようになっている。
「あ」という言葉の意味は、「い~ん」ではないことである。
「A」は「B~Z」ではないことで「A」の意味を帯びる。
ならば、世界=私は「あ~ん」「A~Z」の組み合わせである。
しかし、そんな複雑なことを考えるより話をはっきりさせることを人は好む。

たとえば、善悪や損得や美醜だ。
とくに善悪ほど我われを悩ませる対立概念はなく、
いつもあいつが悪いとか、自分が悪かった、家族が悪い、会社が悪い。
そんな感じで善悪の問題にばかりとらわれている。
このため、悟りは「善悪不二」と
説明されることもある(善悪は二つならず/善悪はおなじ/善も悪もない)。
ほかには要するに善悪という言葉にこだわっているわけで、
「不立文字」(ふりゅうもんじ/言葉以前の世界に立ち返る)と
禅ではいわゆる悟りのことを説明することがある、
南無阿弥陀仏の世界は、阿弥陀仏は原語の音訳で、
意味で訳すと無量寿仏 無量光仏になる。
これは計り知れない大きな光の仏ということで、
この阿弥陀仏の大光、大輝に照らされたら、
言葉の意味(善悪)なんて消えてしまい、そこに在家の庶民の救いがあった。
南無妙法蓮華経の悟りはよくわからず、大金を稼ぎ異性と健康な家族を維持し、
絶対善の自分が絶対悪の仏敵を打ち倒すドラマ性にあるのかもしれない。

いまわたしはどのくらいの仏教レベルですか?
しかし、そんなのをいったいだれが判断できるのだろう?

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