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「真理のための闘争」

「真理のための闘争 中島義道の哲学課外授業」(中島義道/河出書房新社)

→中島義道が朝日カルチャーセンターとトラブったときのことを書いた本。
中島はこれでおれも有名文化人の仲間入りかなあ、
なんてほくそ笑みながらやたらギャラが安い朝日カルチャーセンターで
ステータスシンボルのようなものを求めて講師を長年やっていたら、
あるときぶち切れておのれの正義、真理を表明するために出した本。
なんかさ、ひとコマ90分でも120分でもギャラが変わらないらしく、
いつからかそうなったかは忘れたが、
講師にはそれを選択する権利があるのにもかかわらず、
それを職員が教えてくれなかったのを恨み、
おれの30分は高いんだぞと怒った中島が、
最初は軽い行き違いで終わりそうだったものを、
わざわざ哲学的真理を持ち出してきて、糸をもつれさせ、
細い人たちを脅えさせ、おおきな毛玉(の問題)のようにしてしまったという話。
中島義道は本当に世間というものを知らない。世の中、そんなもんよ。
朝日カルチャーセンターと自意識と自尊心だけが高い中島の
どちらの格が上か考えてみろよ。権威を比較してみろってこと。
中島だって朝日の権威にひれ伏して安いギャラで講師になったんだろう?
だったら、その権威に屈従して、なあなあにやって、
次回からは120分の講義を90分にしてもらいミニボーナスでもいただいて、
手打ちにすればよかったじゃないか。
それが(学問の世界ならぬ)世間ってもんよ。

しかし、中島義道の気持もわからなくはない。
10年もまえの話だが、
わたしもシナリオ・センター相手におなじようなトラブルを起こしている。
数十年まえに3分のアニメを一度しか書いたことがないという、
上原正志という講師とトラブルになったのだが、
ある日突然、狭い事務所で社長や所長、職員に取り囲まれ、
だれも責任を取らず「あんたが責任を取れ」と大声で何度も責められ、
シナリオ・センターを強制退学させられた。
そこには上原正志は一度も顔を出さず、
かといって社長や所長が責任を取るわけではなく、
「あんたが悪い」と一方的に3時間以上難詰され辞めさせられた。
これにはお金の問題があって、
わたしは所長のすすめで基礎科から研修科に行ったのだから、
せめてその進学料金くらい返してくれとお願いしたら、
「冗談じゃないわよ」と怒鳴られ、それで終わりである。
中島義道は問題が起きたときまず弁護士に相談して法的処置を考えたそうだが、
そこが東大あがりの学者と三流私大をお情けで出してもらった当方との相違か。
わたしは何度も上原正志をやっちゃおうかと思った。
あれは上原正志とわたしの問題だったのに本人は隠れて出て来ず、
わたしの退学後はゼミコマ数も増やしてもらい組織で出世したという。
彼は読んだこともないアリストテレスを講義する無学な先生だったが、
道端で待ち伏せして、「おい、ちょっと待てよ」と肩をつかむくらいしてもいいだろう。
そんな危ないことをしきりに考えたものである。
中島のように弁護士の知り合いなんていないし法的処置は考えたこともなかった。

これを10年後のいまどう考えているか?
まあ、どっちもどっちだよなあ。わたしも世間を知らなかった。
「あたしは新井一の娘よ」といつも高そうな服を着た(シナリオを書いたこともない)
女社長から怒鳴られたが、世の中って結局そういうものなんだよなあ。
しかし、いまでも中島義道とおなじであのときのわたしは「正しい」と、
どこかで思っているのもまた事実なのだからぜんぜん成長していないのかもしれない。
たぶんこの本はまったく売れていないはずだが、
「だれもおまえの正義なんかに興味はない」という常識は理解する年齢になった。
有名哲学者の売れっ子作家だから、こういうどうでもいい本を出せるのである。
わたしがシナセンを批判したって、だれも聞く耳なんか持っちゃくれない。
ファンも多い有名なカント哲学者の言葉のほうがまだ拙文よりも価値があろう。
いまのわたしは唯一の絶対真理など存在しないのではないかという立場だが、
それでも唯一真理教の狂信者のように思える中島義道の次の言葉は考えさせられる。
中島はウソを嫌ったことで知られる西洋哲学者のカントへの信心を持っている。
果たして唯一絶対の真理は存在するのか? みんなじつはウソではないか?

「日常生活において、一方で、みなウソをつき、他人のウソにも寛大で、
「ウソも方便」と涼しい顔をしている場合もあるが、
他方、自分にまともに被害が及ぶと、ウソに対して猛烈な怒りをぶつける。
とくに政治家や企業のウソに対しては、みんな敏感だね。
さらに、ぼくはいつも思うが、身内を悲惨な事件や事故で失った者は、
それを知ってもさらに痛めつけられることがわかっていても
「ほんとうのこと」を知りたがる。
自分の子供がどうやって殺されたか、自分のほんとうの親は誰か、
自分はどういう人間なのか、人間誰でもギリギリの状況に置かれると、
たとえそれを知ることがいかに辛くても、
本当のことを知りたがるのではないだろうか?
その理由は何だろう。
やはり、それがウソだから、真実じゃないからではないかな?」(P129)


もはや持ちネタのようになっていると思われる方もおられるかもしれないが、
わたしは19年まえ母親から目のまえで飛び降り自殺をされ、
女はその場で血を流しながら絶命した。
精神病の診断を受けていたが、本人はうつ病だと言っていた。
本当のことが知りたくて、最初に入院した病院の先生にまで話を聞きに行った。
なんであのとき忙しいあの人があんなに親切にしてくれたのかわからず、
いまから思い返すと胸に熱いものが込み上げてくる。
母は年下のひとりの精神科医に10年近くかかっていた。
信用していたのだろう。御すのが容易かったのかもしれない。
あるときは「先生はケンジ(僕)のことを精神病だと言っているわよ」
と勝ち誇っていたものだった。
自殺直後、話を聞きに行ったがいやそうで(いやな理由はいまではわかる)、
30分くらいで退去をうながされ、人がひとり死んでいるのにそれはないだろうと思った。
いまから考えたら、待合室には患者があふれかえっていたから
医者が迷惑に感じたのはわかりすぎるほどわかる。
よくお薬を出す先生でこのため人気があり(商売上手で)、
「あの先生はベンツに乗っているのよ」となぜか母が自慢げにおしえてくれたものだ。

いったい本当のことはなんなのか?
わたしは何度もそのクリニックの周辺を歩いてまわり、
乗り込んでいきたいという気持とどう向き合えばいいかわからなかった。
本当のことを知りたい。
いまの知性で考えれば、精神科なんて3分診療が当り前で、
医者なんて患者が死んでも家族に説明する必要はないし、
お客がひとり減ったくらいが常識感覚なのだと、
ファンである精神科の春日武彦医師の本を読んで思う。
しかし、いまでも本当のことを知りたいし、死ぬまで本当のことにこだわるだろう。
それはわたしの今後の人生に現われるので死ぬまで死ねない。
仏教はウソだが、なにか真理を語っているようで興味が尽きない。

本当のことは人を地獄に落しかねないが、ウソは人を救うことがままある。
真理はしょせんオナニーで、ウソこそ愛あふれた男女のプレイではないか?
真理や本当のことは自尊心、虚栄心で、
ウソやインチキが愛であり文化であり芸術であり、
生きている喜びや悲しみのたいせつな深い源であるような気がしてならないが、
日本人なのにカントを愛する取り巻きに囲まれた中島義道はカントの口真似をする。

「平気で嘘をつくこと、しかも、あくまでもそれを表面的節度を保ちながら
つき通すこと、その背後には、
ただ「ソン・トク計算」だけが黒々ととした影を作っていること、
これは私にとって吐き気がするほどイヤな人間の側面であり(以下略)」(P93)


わたしは中島義道と本当の真理の喧嘩をしたら負ける気がしない。
男のファンクラブ、私塾に行ったら多数決とカントの権威に負けるのだろうが、
一対一の飲み屋で喧嘩したら、
そのリングのレフリーはカントでもないし、哲学でもないので、
言葉の世界においてもわたしは彼を打ち負かすが
男は哲学世界での負けは認めないだろう。いざとなったらわたしは手を出す。
ひと目見たらそういうことができない損得世界を生きる温厚な人物だとばれてしまうが、
それでも本当のガチを仕掛けられたら、
なにも守るものがないわたしは、法律的敗北など恐れず男の目を割り箸で貫くだろう。
なぜそれをできるかといったら、
こちらが哲学者の先生よりもなまの不幸を知っているからである。
本当の真理はカントにはなく、ヤクザにあるかもしれず、
なぜなら中島は弱い相手にしか喧嘩を仕掛けないし、
喧嘩を仕掛ける相手はその段階でカントの土俵に乗っているからである。
本当のガチ(真理)を知っているものほど、
天龍源一郎のようにプロレス(ウソ)がうまい。
わたしも本当の真理を知っているのかはまったく自信がなく、
いままでふつうの人しか知らないようなところがあり、
ガチの性格の悪い女が本気で騙そうとしてきたら、
泣きながら何度も何度もタップ(ギブアップ)するだろう。

以上、ブログというリングだから言いたいことを言ったが、
新聞とか雑誌でまさかないとは思うが中島義道と対談したら、
わたしはすぐに尻尾を振るだろう。
なぜならそのリングでは相手のほうが圧倒的に強く、闘う意味がないからである。
わたしが読んでいる哲学者なんて中島義道くらいで、
ご本人はすぐにご理解くださるだろうが、わたしは彼を好きなのである。
けれども、弟子になりたいとかはなく、しかし、いいことを書くなあと感心する。
そういえば、山田太一は自分の指導に従順な弟子のようなやつは嫌いだと言った。
若き山田太一はサルトルの講演会に行き、
それを老人になって回想して、そのときのことはなにも覚えていないが、
ひとつだけ突き刺さった言葉は「普遍的な真実のようなものを信じてはならない」
だったと講演かなにかで耳にした。
最後は中島義道さんのちょっといい話でしめよう。

「これまでは、漠然と普遍的真実があることを前提にしていた。
それにそってカントやベルクソンンの考えを紹介してきた。
だが、そうではないかもしれないじゃないか?
普遍的真実などないじゃないかもしれないじゃないか?
サルトルは、そう疑う哲学者の代表格だろう。
「神は死んだ」。よっていかなる絶対的価値もない。
善悪の基準はない」(P169)


たしかに西洋の神は死んだのだが、日本の仏はまだ生きているということを、
西洋劣等複合哲学者の中島義道は知らないし、もう年齢的に勉強できないだろう。
善悪はないかもしれない。
なんでもいいのかもしれない。なにもかもわからないのかもしれない。
仏さまだけがなにかを知っていて、それをわれわれは知りえないならば――。
大学生のころの中島義道青年はあるカウンセラーから教わったという。
わたしはこのカウンセラーの優秀は認めるが、
中島は自分のこころの声を聴いたのではないかと思う。
おそらくカウンセラーは傾聴しただけで、
なにも迷いの盛りの中島に指導していないはずである。

「法学部に進む仲間たちから落ちこぼれたくない、
親の期待を裏切りたくない、哲学の才能があるかどうか不安だ、
将来哲学者として身を立てる自信がない……等々をぐだぐだ語ると、
カウンセラーの先生は、微笑みながら最後にただこう言ってくれた。
「自分がいちばんしたいことをしなさい」と。
眼の前からさっと霧が晴れるような気がした。
そうだ、僕は哲学がしたいんだ! 哲学がしたいだけなんだ!
それはもうはっきりしたことなのに、
ぼくはソン・トク計算に余念がなかったんだね」(P131)


(関連記事)
「悪について」(中島義道/岩波新書)
「夕暮れの時間に」(山田太一/河出書房新社)
山田太一講演会(2011年2月26日)

COMMENT

支那の扇 URL @
03/15 19:00
. シナセンの講師の質が低いのは事実として、よくわからないのは、それならどうしてそんな下らない学校にわざわざ入学したのかということだ。

「そこまで質の低い学校とは思わなかった」というのなら、単にリサーチ不足。
Yonda? URL @
03/17 18:12
支那の扇さんへ. 

だから人生はおもしろいのじゃないの。
当時はシナセン批判情報なんてどこにもなかった。








 

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