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「純文学とは何か?」

「純文学とは何か?」(小谷野敦/中公新書ラクレ)

→大学生のころとてもきれいで純粋っぽい一文女子に卒論の内容を聞いたら、
「雨月物語」と教えてもらい、
それだけでいんちきな創作小説で卒業しようと思っている自分の汚さに
ウゲッと吐き気が込み上げ、かの女がさらにさらに何倍も輝いて見えたものである。
広い意味で日本文学は物語文芸、芝居演芸、歴史書、仏教書、詩文であろう。
日本に少なくとも室町時代までは哲学思想のようなものはなく、
いちばん哲学に近いのはやたら難しい仏教思想だけではないか。
小谷野さんは自分が仏教に歯が立たないから宗教をバカにして、
プライドを守っているようなところがあり、かわいい。
日本語はかな文字(平仮名)、漢文(中国語)、英語(カタカナ)だが、
むかしの男は平仮名をバカにして公文書はすべて漢文で書いていた。

一休は室町時代の禅僧だが、
あの時代でも男は中国にあこがれ漢詩文を創って粋がっていた。
いま漢字の価値はむかしと比べて大幅に下がり、
中国といえば先進国ではなく、下品な金に汚い国というイメージが定着した。
代わりに英語カタカナが幅を利かすいっぽうで、
よく知らないが人気歌謡曲の歌詞などどこの国の言葉だかわからない。
日本の文学(言葉)はこういう性質を持っている(はず)。
わたしがいちばんだと思うのは説経節だが、理由はあれは、
文盲にも理解することができる物語文芸、芝居演芸、仏教思想だからである。
おそらく小谷野さんは説経節の価値をさらさら認めないだろうが、
本書で著者は文学の価値など、
株価のように変動する実体のないものという説を紹介しているので、
わたしが説教節を評価しているのをことさらバカにしたりはしないだろう。
小谷野さんはよくわかっておられる。

「東アジアでは、漢文・漢詩が教養の中心であり、それは明治期までそうだった。
漢詩は五言、七言の絶句、律詩などの形式をもち、
平仄(ひょうそく)というものがあった。
四六駢儷体(しろくべんれいたい)などの流麗な文章の形式も生まれ、
科挙においては、平仄の合った格調高い漢詩が書けることが条件であった。
日本ではかな文字が発明され、かな文藝が栄えたが、
かなは女が書くもので、そのため紀貫之は女のふりをして
『土佐日記』を書いたのである。日本独自の詩が、和歌である。
歌集の詞書(ことばがき)が発達すると歌物語になるとされるが、
『竹取物語』などは、『古事記』などに
見られる単なる物語が展開したと見ていいだろう。
しかし、『蜻蛉物語』や『源氏物語』は、
和歌を含んでいるからこそ評価されたもので、
のち藤原俊成などが『源氏』を評価したときは、
「源氏見ざる歌詠みは」と言って、その和歌を評価したのである。
『今昔物語集』などの、散文で書かれた物語集は、
その中に描かれた歴史的人物の事件が史料的に見られることはあったが、
古典的文学作品の扱いを受けるようになるのは明治末から大正期で、
芥川龍之介がこれを短編の素材にしたのはまさにその時期のことだった」(P33)


からかって言っているわけではなく、
小谷野さんの学識の高さと教師としての能力の高さがよくわかる平明な文章である。
このご説明からもわかるように日本文学は学問能力の高い男と、
気高い精神を持つ女が連綿と引き継いできたもので、
最前の自分の言葉を引き込めると説経節は文学ではないし、
いまでいえば創価学会の宮本輝は大衆文芸ではあるだろうが純文学ではない。
本当は井上靖も文学ではないのだが、
歴史的知識が学者なみにすごいからみんな誉める、と言ってもいいだろう。
なにを純文学とするかは難しく本書でも結論は出ていなかったが、
難しいもの、一部の大学関係者にしかおもしろくないもの、
もっと身もふたもないことを言えば売れないものが純文学なのではないか。
そうだとしたら村上春樹は……いやいや、わからないわからない。

こういう分類方法はどうだろう。注文されてもいないのに書いたものが純文学。
村上春樹が言及したようで一時期ストリンドベリが復活しそうになったが、
あれは絶対にいま再刊しても売れないだろう。
女性差別がひどすぎるのである。
しかし、ストリンドベリのかなりの作品は注文仕事ではなく自発的に誕生している。
とくに「痴人の告白」は長大だが、
作者はそれを少なくとも生前は発表するつもりもなく、
ただただ妻への復讐のために半年もかけて書いたのだから、
これを純文学と言わずしてなにが純文学か。
おそらく小谷野さんは「痴人の告白」を読んでいないはずだが(つまらなくて読めない)、
読んでいない本をさも読んだような顔をして語るのが文学者であると最近気づいたので
男芸者の文学演技に耳を貸そうではないか。

「日本の私小説の火付け役となったのは、
ストリンドベリの『痴人の告白』という自伝だろう。
ストリンドベリはスウェーデンの劇作家だが、自身の妻への呪詛、
ないし自分の生への呪詛を書き連ねた恐ろしい本で、
先の木村荘太が大正初期に翻訳している。
里見弴などはこれに影響されて、震災後に『安城家の兄弟』
のような恐ろしい私小説大作を書いたのである」(P185)


日本でいまストリンドベリが語られるとしたら山本周五郎、山口瞳ラインだろう。
しかし、山本周五郎はストリンドベリを愛読したが、山口瞳は読んでいない。
ここで影響はストップして、山本周五郎に影響を受けた作家は大勢いるだろうが、
周五郎が師としたストリンドベリの孫弟子となったものはいないのではないか。
小谷野さんの名著を読んで感想を書き、
自分のあたまで考えると発見があるのでよろしい。
なにをいまさらと笑われそうだが、日本文学史というのは影響の流れではないか。
どの文学作品に影響を受けて新しい作品が生まれているか。
著者は日本現代演劇を完全にバカにしているが、それはそうで、
いまの演劇人はバイトに忙しくシェイクスピアさえ読んでいないやつがやっている。
かといって近松なんかもっとやつらのあたまでは読めないだろう。

純文学に感動をして大衆小説を書く作家は宮本輝のようにたくさんいるが、
大衆文学に影響を受けて純文学を書き始めるやつはいても少ないのではないか。
日本文学の骨として一本貫かれているのは仏教思想で、
にもかかわらず、文明開化期、敗戦期と海外文学に影響を受ける作家が多くなり、
そうなると日本文学の伝統と根が切れてしまうのである。
本来は仏教を勉強しないと日本文学のこころはわからないのだが、
いまでは海外文学を愛好することが純文学者の証のようなところもなくはない。
敗戦国コンプレックス文学が新しい主流となり、平成の終わりまで来てしまった。
かな文字と漢字が日本文学の母なのだが、残念なことに――。

「日本における外国文学者の中では、英文学者の数が多い。
それは、英語が世界語になったため、
大学において英語教師の口があるからである。
そのため、各作家について学会があったりするが、
それが作家自身の魅力によるのかというと疑わしい。
英文学は、シェイクスピアとアメリカ文学でもっているのではないか」(P137)


外国文学はその国の言葉で読まないとわからないのではないかと思うし、
とはいえ、いくら日本人が現地語を勉強しても、しょせんは日本人で、
知的興味や虚栄心は満たされるだろうが、本当にその作品を味わえるのか疑わしい。
「ノルウェイの森」だって早稲田の文学部キャンパスを知っているほうが味わい深い。
小谷野さんの本はとてもためになるが、直接教えてもらいたいとは思わない。
わからないことがあったら本を読めばいいし、
師匠から以心伝心される文学のこころなんて実際に存在するのだろうか。
会ってみたら想像以上にひどくて、人間はここまで傲慢になれるのかと、
あんがい本物の文学者に近づく一手かもしれないのだが、
奥さまの葵さんには惹かれるが、小谷野先生の弟子になりたいのかはわからない。
いまではぜん息も改善し、そばで喫煙されても大丈夫である。

(関連記事)
「痴人の告白」(ストリンドベリ/山室静訳/「世界文学全集24」講談社)

COMMENT

太猥重信 URL @
03/15 14:08
. コヤノが猫猫塾を始める時「こいつが来たら困る」と警戒して土屋くんの名前をチェックしておいたというのだから、トラブルメーカーとしての君の悪名は相当なものだ。

創価学会から入信を断られ、猫猫塾からも警戒される人間なんて滅多にいない。
Yonda? URL @
03/17 18:11
太猥重信さんへ. 

えっへん、どうだ!

でも小谷野さんの息がかかった弟子からお代は自分が出すからと塾に誘われたことがあるのは、ここだけのサービス秘密。








 

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