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「ブックガイド心理療法」

「ブックガイド心理療法」(河合隼雄/日本評論社)

→ユングはほとんど新興宗教なのに学問ぶっており、
このためユング派の河合隼雄と新興宗教の創価学会が、
がっちり握手するのは極めて自然な流れであった。
創価学会は中国天台宗の一念三千の教学を重んじている。
人間の一念(一瞬の思い)のなかにあらゆるもの(三千)が眠っているというのが
創価学会のいう一念三千で、これは本来の中国天台宗では、
とても難しい座禅(ものの観方の変容形式)の実践論理として創られたところの、
ひどく難解な(高僧しかできない)修業方法のひとつだったのだが、
われらが日蓮大聖人はあんな座禅マニュアルは「理の一念三千」
だと生意気にもオリジナルの創案者を批判して、
ひたすら南無妙法蓮華経と叫ぶのが末法の世にふさわしい「事の一念三千」
であると主張、布教、強制したわけである。
一念三千というのはファンタジーの類だが、ユング心理学程度には学問性がある。

創価学会の教えはご本尊と呼ばれるカラーコピーに
南無妙法蓮華経と多く唱えれば唱えるほど、
その結果として「祈りがかなう」「夢がかなう」「現世利益がある」
という詐欺と紙一重のものだ。
学会は祈念と功徳を因果関係と説明するからインチキくささが倍増するのであって、、
しかし無学な庶民は「AをすればBになる」式の単純思想しか脳内で許容できず。
だからそれは誤りと指摘したいのではなく、
題目を唱えたことを因として功徳という果がかならず出てくるはずはないが、
題目を唱えたら一念三千の論理で因果的にではなく共時的に、
功徳だが仏罰だかわからなぬ不思議なことが
シンクロニシティックに同時生起する可能性はあるいはあんがい高いのではないか、
とも絶対言えないわけでもないので、
あれだけ創価の嘘を知ったわたしなんかもたまに熱心に勤行をやったりするのである。
南無妙法蓮華経と因果的に功徳が絶対発生することはまあないだろうが、
共時性、共時的ということを考えてみると、
一念三千の世界観がもし真理ならば、
題目を唱えることは理不尽な偶然だらけの世界に対する軽いグーパンチくらいにはなる。

人間は変に悟ったら食えなくなって大損するが、
しかしいくら稼いでも稼ぐほど人生の空虚、無意味、
人間の打算、さもしさに気づきやりきれなくなる。
いくら出世しようと金を稼ごうと、そうすればそうなるほどわかるのが人生の空しさで、
そうかといってい持っている栄誉や財産をぜんぶ捨てるのもそれはやりすぎだとわかる。
表層意識はどこまでも損得や高貴、美醜や貧富の絶対性を説くが、
反面、あるのかないのかわからぬ深層意識は、
すべてがくだらないじゃないかというメッセージを奥のほうから突き上げてくる。

「表層意識と深層意識とをこのように区別したとき、
人間が生きてゆくためには、
その両方についてよく知るべきだと思われる。
この点を井筒[俊彦]は次のような「老子」の言葉を引用してうまく述べている。

   常に無欲 以てその妙を観
   常に有欲 以てその徼(きょう)を観る

常に無欲とは、まったく執着するところがない真相の意識であり、
ここでは、いろいろなものの区別がなくなって、
絶対無分節の[二分法の言葉では言えない]「妙」の世界になる。
これに対して、「欲」はものに執着するこころの在り方で、
そこには「徼(きょう)」が見える。徼は、
「明確な輪郭線[二分法を基準とする言葉]で区切られた、
はっきり目に見える形に分節された『存在』のありかたを意味する。」
「老子」によれば、この両方を同時に見ることが必要ということになろうか。
考えてみると、われわれ心理療法家は、
たとえばクライエントが「死にたい」と言ったとき、
それはどの程度実際に実行するつもりで言っているのか、
なにか他のことを訴えたいためなのか、
治療者に向けての攻撃なのか、などという点で、
できるだけ分節して把握し、「徼」を見ることが必要だが。
一方では「生きることも死ぬことも、それほど変りがない」
とも言える[二分法の言葉ではない]「妙」の世界を見ることも必要である」(P28)


創価学会の婦人部さんに信濃町の会館に連れて行ってもらい題目を唱えたとき、
こころのなか、というか、そうおへその上のあたりに
「妙」という字をイメージしてするのがいいのよ、と教えてもらい、
そのとき以来そのようにしているが、
当時僕は願いも祈りもギラギラした欲望も健康不安も
なにもないまっさらな状態だったから、
あまり学会っぽくないことを指導してくれたのかもしれない。
ここで言われている「妙」の世界は無量光(計測できないもの)、
無量寿(数字にならない単位)の無言語世界、阿弥陀仏にも通じ、
法華経も阿弥陀仏もおなじだろうと僕なんかは思うが、
それを言ったら学会婦人部さんは怖い顔をしそうなので言わない。
信濃町のえらく豪華なビルで教わったのは、念仏は絶対言っちゃダメだとか。

「妙」――言語化(二分化)できない世界を、
損得だらけこの世はバックにたしかなものとして持っている。
それが南無阿弥陀仏であり南無妙法蓮華経であり、
不立文字(ふりゅうもんじ)の禅の世界である。
河合隼雄は長らく禅と詩がわからないとたくさんのところで言っている。
しかし、本書では禅と詩に対する河合のめずらしい、
そして卓越した禅思想、詩解釈が述べられているので大ファンとしては紹介したい。
最初にあらましを書いておくと、河合は
「無言語世界→純な感動(驚き→発見→喜び)→言語化(詩作)→陳腐化」
という禅と詩作にまつわるどうしようもない意識の流れを言葉で説明している。

「著者[上田閑照=有名な禅学者]はリルケの自作慕名碑を借りて、
禅における言葉の問題を説明する。
著者自身の訳によると、それは次のような詩である。

   薔薇(ばら)、おお! 純粋な矛盾、
   幾重にも重ねた瞼(まぶた)の下
   誰のでもない眠りである楽(よろこび)

著者[上田閑照]はこの詩を、
①「薔薇(ばら)」、
②「おお!」、
③(a)「純粋な矛盾」、(b)「幾重にも重ねた薔薇の下 誰のでもない眠りである楽」、
に分けて考える。
①は薔薇の現前、
②は薔薇の現前に打たれた驚きが、言語以前の音声として発せられたもの。
③はその驚きが言葉になって開かれたものである。
ところで、これに対する著者の言葉は注目すべきことである。
「できあがった詩としてではなく、
このような詩句が生まれてくる『言葉の出来事』として見る場合、
②の『おお!』を詩句の全体が発せられてくる源
――根源語(Urwort)――と見る。
逆にいえば全詩句をこの『おお!』の分節と見ることができると思う」。
詩における「根源語」を指摘し、全詩句をその分節として見る、
というところに上田閑照の考えの本質が示されている」(P138)


きつい仏道修行をするか精神病にでもならなければ、
人は自分の本当の感動(驚愕)に出逢えないし、
そこからその非二分的言語以前の感動を自分の知っている言葉を用いて、
(自分なんかにさらさら興味をお持ちくださらぬ)他人様に説明するのは至難のわざ。
そんなことをしてもいっさいお金にはならないし、異性にも好かれない。
しかし大なり小なり人は生きていたら「おお!」という感動を持つ。

「この「おお!」に対して彼[上田閑照]は次のように云う。
「それは単に薔薇に対する驚きではない。
薔薇の現前にあって自己を忘れて『おお!』と言う時、
その『おお!』の直下においては薔薇も忘れられている」。
そこに現前しているのは、日常に知られているバラではない。
それは「名づけ得ざるもの、言いえ得ざるものとなって現前している」。
そこでは「真に驚くことと言葉を奪われることは一つの事である」
という[二分化言語化できない]体験が生じているのだ」(P139)


しかし、河合や井筒のような学者たちが知らぬことだが、
本当の下層民、庶民は「おお!」という言葉さえ知らない。
南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経があるとき多くの人を救ったのは、
それは「おお!」の代わりになる言葉だったからだろう。
平成の「おお!」はお江戸の近松劇の「南無三宝!」である。
人生の裏側をたまたま見てしまったときに詩作できたら救われようが、
われわれ下層民の多くは「おお!」や「南無三宝!」でさえうまく発声できない。
こういう事情のため踊り念仏は文盲の底辺男女に、
南無阿弥陀仏という最高真理の(「おお!」に相当する)呪術語を伝えることで、
まさしく言葉そのままのちからで多くの人を救ったのではないかと思われる。

「「おお!」と言う時、人間は言葉を失うことによって「自己の死」を体験し、
同時にそれは「言葉を奪われたところに現前している『言い得ざるもの』
が言葉になる最初の音声」を発したという意味で
新しい自己への蘇生の声でもある。
「『おお!』と言う時、そこには人間の絶後再蘇がある」(P139)


一瞬の感動は一瞬で消えることは、その一瞬における浄土も極楽も証明しているわけだ
「おお!」という感動発見はだれでも可能だが、しかしそのありふれた奇跡の「おお!」を
たとえば「南無阿弥陀仏」のような言葉に感情と意味を移行することができず、
結局はざっくりと「ほっこり」なんていう軽い言葉で言い換えてしまい、
彼(女)は人生の深い味を知るチャンスを逃す。
彼(女)は「生死」を味わうことなく無機質に老いる。「おお!」とさえ言えない。
「おお!」でもいいし南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもいい。意味はおなじ。

「「おお!」と言う時、人間は言葉を失うということによって「自己の死」を体験し、
同時にそれは「言葉を奪われたところに現前している『言い得ざるもの』
が言葉になる最初の音声」を発したという意味で
新しい自己への蘇生の言葉でもある。
「『おお!』と言う時、そこには人間の絶後再蘇がある」。
このような根源語[=おお! 念仏や題目! 二分化できない言語以前の驚き!]
がイメージとリズムによって言葉に分節してくると詩になる。
しかし、そこには常に「根源から離れる危険も蔵されている」ことを知らねばならぬ。
既成の言葉を安易に使用することによって、
根源的な体験から離れたものになってしまうのである。
まして、「おお!」の体験をもたないままで、
詩を書いたりすると、それは言葉の遊戯になってしまう。
「『おお!』をほんとうにに発し得るかどうかに禅の第一の問題がある」
と言うのも当然である」(P139)


こういうのを読むとざっくりとした言葉のなかで、
なんの疑いもなく
ほっこりと生きていける人への言葉にならない「ため息」もらすしかない。
今年はじめて読書感想文を書いたが、要約したら言葉を舐めるなよってこと。

(関連記事)←ひとりとしてお読みにならないでしょう。
「インド仏教思想史 下巻」(ひろさちや/大法輪閣

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