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自分を救う他人を救う

自分を救うはわかるが、他人を救うということがわからない。
自分はもしかしたら自分で救えるのかもしれないが、他人は無理のような気がする。
こんなことを考えるきっかけになったのは鎌倉新仏教の法然で、
男は南無阿弥陀仏に行き着きおのれを救ったわけである。
そこでストップすることもできたのに、どうして法然は他人を救おうとしたのだろう。
自分には救いとなる薬の言葉が他人には毒の言葉になることを考えなかったのだろうか。
現実として、日蓮関係の人は南無阿弥陀仏が大嫌いでしょう?
しかし、法然は南無阿弥陀仏でしか往生できないと主張し、
念仏を誹謗するものは地獄に落ちると言っている。
日蓮も日蓮で、南無妙法蓮華経で自分を救っているのならいい。
どうして日蓮も他人を救おうとして題目以外は地獄に落ちると言ったのだろう。
どうして法然も日蓮もあそこまで傲慢なのだろうか。
他人を救うとなったらお金をあげるしかないと思うが、
これも絶対正義ではなく、相手をダメにしてしまう危険をはらんでいる。
おまえは他人に救われたことがないのかと問われたら、
女の子に愛され嬉しかったことはあるが、自分が相手を救っているとは思わなかった。
自分なんか他人から愛される価値はないと思ったし、
そんなことをしてかの女の若い大切な時間を無駄遣いさせていいのかわからなかった。
女性が離れて行ったときは、きれいごとを言うようだが、
このほうが相手のためにいいのではないかとストーカーのようなことはしなかった。
かなり後になってお願いして再会してもらったとき、
イタリアに友人がいると言われ、それが男のようで、心がざわざわしたが、
幸せになってほしいと思い直した。
女は男を救えるが、男は金品でしか女を救えないような気がする。
わたしはある意味で自分を救うために仏教書を読んでいるが、
自分を救った言葉が相手を救うとは信じられない。
自利の精神しかなく利他の心がない。なにが他人に利として働く理なのかわからない。
「この先どうなるか絶対にわからないよ」は自分を救った言葉で、
かなりのパーセンテージで他人をも救う言葉だとは思う。
しかし、いま大企業に勤め幸せな家族に囲まれている人には、
「この先どうなるか絶対にわからないよ」は脅しの言葉になるのではないか。
この「わからない」は南無阿弥陀仏であり南無妙法蓮華経だとわたしは思い、
念仏も唱えるし同時に題目も唱えるが、
それはわたしにとっては「正しい」と感じられる行為だが、
多くの人は念仏と題目をごっちゃにするのを嫌うだろうし、
そもそも念仏も題目も気持が悪いと考えるのが正常な感覚かもしれない。
わたしは他人に念仏も題目もすすめられないが、
ふたつを一緒くたにしてもいいんだということは伝えられる。
しかし、それが普遍的に「正しい」のかは「わからない」。

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