原点回帰

いろいろなことを清算する時期なのかもしれない。
母の自死をひとまえで公開することができるまでに6年の時間を要した。
いろいろ過去からの逃亡をはかったが、結局、逃げ切れるものではなかった。
原点に戻るしかない。母の悲劇と向き合うしかないのである。

「ゆきゆきて、神軍」で知られる映画監督の原一男さんは息子さんを自殺で亡くしている。
原さんはその日、テレビを見ている中学生の息子さんを怠けていると思い、
習っている剣道へ行けと殴った。
そのすぐあとにかれは近くのマンションから飛び降りたという。
かつてわたしは大学で原一男さんに教わっていた。
この話をうかがったとき、なんとも無残なことがあるものだと心を痛めた。
しかし、やはりどこかで他人事だと思っていたところがあった。
母がわたしの目の前で意図的に飛び降りた。
下にわたしがいるのを母は知っていた。
上から存在を確かめわたしの名前を大声で呼び、それから手を離した。
救急車を呼び、ひとまず病院に行った。
母のために死んでいてくれと思った。生きていてほしいという思いはなかった。
あれほど生前、死にたがっていた母である。
何度も死にたいといわれた。それをわたしは小説に書いていた。
どこかで冗談だろうという思いがあった。
じぶんの人生にそんな悲劇は起きないという、いま思えばふしぎな自信があったのである。
だれもいない病院の廊下で死亡確認を待ちながら考えたことを覚えている。
ついにじぶんも「あっちがわ」に行ってしまった。
ああ、こういうものなのかと意識のどこかが冷たく覚醒していた。

翌日、原一男さんのところへ相談に行った。すこしまえに大学は卒業していた。
大隈講堂のまえで人目もはばからず泣きながら母のことを話した。
じぶんのまわりで何が起こっているのかさっぱりわからなかった。
当時、原一男さんにだいぶ影響を受けていた。この監督の映画をご存じだろうか。
キャメラによって、ある人間をぎりぎりまで追い詰めるのが作風である。
キャメラのちからで人間を劇的たらしめる。
なあなあに生きる人間に原一男は興味を持たない。
もともと過激な人間に、もっと激しく生きろ、もっと自由に生きてみろと発破をかけていく。
何のために? すべては映画のためである。いい映画を撮るためだったら何だってする。
いま考えれば、大学生のわたしは原一男という人間の怖ろしさをわかっていなかった。
この映画監督の作品にひかれたのではない。
告白すると、いまでもどこがよいのかわからないところがある。
映画ではなく、人間・原一男がおもしろかった。
全共闘世代というやつである。しかもかれは乗り遅れたくちだった。
だから平成になっても革命だの、自由だのといった古臭い言葉と表現を同一視していた。
思想など、どうでもよかった。原一男の熱さが心地よかった。
かれの話を聞いていると、こんなじぶんでも何かできるのかもしれないと思えた。
一発どでかい花火を打ち上げてみせる。見てろよ、このやろう、という気になった。
当時から家族のことで悩みが多かった。苦しかった。辛かった。
原一男は表現をすることで、それらマイナスを乗り切れると説いていた。
逆に武器になる、とも。
怒り、悩み、苦しみ、こういう感情こそが表現の原動力になる。
葛藤を避けるな。あえて葛藤を起こせ。そこに飛び込んで行け。
そこから切り開いていくのがほんとうの表現である。
わたしはすっかり洗脳されていた。
原一男を継承するのはじぶんしかいないとまで思っていた。
小説を書きながら、原一男のやりかたを実践した。
母の過去をほじくりかえした。
12年前に母が一度自殺未遂をしていたことをその過程で知るにいたった。
まったく記憶がなかったので驚いた。
そんな悲劇が身のまわりにあることが信じられなかった。
劇的なものを見たいと思った。それを小説に書いてやろうと企てていた。
はちきれんばかりの野心があった。なんとかしてみせるとおのれのちからを過信していた。
数年ぶりに父、母、わたしの3人で会う機会を設けたりもした。
その席で、母は完全に発狂した。大声で近親相姦妄想をがなりたてた。
母にはわたしの存在が疎ましかったことだろう。
そっとしておけばよいものを、
わざわざ波風を立てようとするわたしに腹を立てていたことだろう。
わたしが小説を書こうなどと思わなければ、母はあれほど苦しまなくてよかったのである。
3人で会食してから半年後、母はわたしの目の前で投身自殺をした。
これほど劇的なことはないではないか。母が子の眼前で飛び降りる。
生から死へ移行するその瞬間を見せつける。

大隈講堂前の階段に並んで腰かけながら原一男さんにわたしは話した。
あらましをすべて。ほんとうはこう言いたかった。
原一男さん、どうしてくれる? 
あなたの言うとおりに行動したらこんなことになってしまった。
あなたに会わなければ母は死なずに済んだのではないか。
その旨を口には決してださなかったけれども、
おそらくわたしがそう言いたいことを原さんはわかっていたと思う。
何も言わずにうんうんと聞いてくれた。この翌日が、通夜だった。
列席者は親戚3人、母の友人2人のさみしいものだった。
通夜にも葬式にも父は姿を現わさなかった。
それから何度も原一男さんのところへ相談へ行った。
こういう記憶はかならず変容する。だからいまのいまを書きとめておけ。
そう言われて母の自裁直前直後のことを書きつづってみたりもしたがうまくいかなかった。
原一男さんのやりかたは、わたしには真似できないのを思い知った。
たとえば精神病院へ行って患者にインタビューをする。
あるいは、似たような自殺遺児のもとへ話を聞きにいく。
こういうことをわたしはやりたいとは思わなかった。
原一男さんは「書を捨てよ、町へ出よう」を全身で生き抜く表現者である。
活字など死人の遺言にすぎぬ。真実はいまを生きる人間の中にある。
そのようなことを何度、アジられたことか。
最後にお会いしたとき、わたしは「ハムレット」に感銘を受けたことを原さんに話した。
「そうか……」という言葉は、どうしようもない断絶をわたしに感じさせた。
別れる直前、新宿駅で言われたことを忘れられない。
「いいか。中途半端なものは作るなよ。10年かけるつもりでやれ。
これからたいへんだぞ。どんどん、しんどいことが起こるからな。
それでもぜったいに表現をあきらめるなよ。がんばれよ。
ひとにどれだけ迷惑をかけてもいいから、好きなことをやり続けろ」
握手をして、別れた。わたしは去っていく原一男さんにずっと頭を下げていた。

もう6年か。まだ6年か。
最近、ようやく一歩を踏み出したという感がある。
6年経って、ようやく第一歩である。先が思いやられる。
だが、わたしはあのときの思いを胸に抱き続けている。
退転はしていない。ひよってはいない。常に表現のことを第一に考えて生きている。
先ほど、あるひとからメールで叱られた。
何を弱音を吐いている。おまえは表現をするつもりなのだろう。
そのひとの言葉で、原一男さんの記憶がよみがえった。
笑いたいなら笑えと開き直る。笑いたいならこんなわたしを笑ってもらって構わない。
母に目の前で飛び降りられ、小説だなんだと6年もうじうじ悩んでいる。
おかしいか? なら笑うがよろしい。
わたしはこのまま生きていく。かならずじぶんの表現をものにしてみせる。
いつか原一男のまえに、これがわたしの表現だとたたきつけてやる。
原一男ゼミのレポートのテーマは「私が表現したいこと」だった。
わたしはそのレポートをだすことができなかった。
いまだに提出していないのだからあきれたものである。
原一男さんはこんな些細なことを覚えてはいないだろうが、
わたしはずっと気になっていた。6年前の課題をいまもひきずっている。
原点回帰しなければならない。

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