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「日本語と日本人の心」

「日本語と日本人の心」(河合隼雄・谷川俊太郎・大江健三郎/岩波書店)

→いまだもって日本語への関心は強い。言葉に興味がある。
むかし時給850円の書籍倉庫でバイトしていたけれど、
そこにGさんという日本語ペラペラな笑顔がかわいいベトナムの女の子がいて、
最後は勤務中に携帯番号を聞いてしまったくらいだもの(教えてくれなかった)。
日本語の仕組みを知りたいならば、外国語をやるにかぎるのだろうが、
もう当方にはそれをなすだけの脳細胞は残っていない。
で、古文とかたまに挑戦するけれど、やっぱり言葉はおもしろい。
「もったいない」とか英語では言えないわけでしょう。
上野の中国人旅行者は「すいません」を連発するけれど、
あちらのガイドブックにはそうしろと書いてあるのだろうが、
日本人と中国人の「すいません」のニュアンスは正確には異なる。
数日まえ芥川龍之介「奉教人の死」を読んで久しぶりの文学的感動に打ち震えたが、
あれも根っこには西洋と日本の言葉の問題があると思う。
ゴッドと神はおなじだけれど違うというかね。
あれはすごくて最後のほうは音読して音に酔い痴れた。
世界はひとつなのにベトナム人と日本人ではまったく世界観が変わる。
それは言葉が違うからだと思う。
ひとつの真如(真理)を我われは多様な言葉に分節化しているだけかもしれない。
息子は全員(?)お偉いさんの河合隼雄は言う。
これは最晩年の書籍だから、老年に達した河合の結論と言っていいのかもしれない。
河合隼雄は晩年、学者の井筒俊彦のすごさに改めて気づいたという。

「私の仏教の勉強のいちばん大きい手引になっているのは、だいたい井筒先生です。
この井筒俊彦先生のお書きになった本を見ていますと、
仏教で非常に大事なこととして「真如(しんにょ)」という言葉があります。
要するに、「真如」ということがわかれば、もう仏教では終り、
悟ったということになるのでしょう、
ところで、この世界のなかで私のような俗人はひとつひとつこだわって、
ここにマイクロホンがあるだけではなくて、
このマイクロホンはどのぐらいの値段がするのだろうかとか、
どこのメーカーだろうかとか、そういうことを考えますが、
そういうふうにひとつひとつ区別して
いろいろなことを人間がやっているのはすべて妄念、妄想であって、
世界というのはほんとうはひとつで、そのひとつの世界というものには、
そんなわれわれが必死になっている区別[言語化]などというのは存在しない。
まったく区別[言葉]はなくて、いうならば、すごいエネルギーの固まり、
ただもう存在しているというふうな、そういうものなのだ。
それが「真如」なのです。
そういう[言語化できぬ]「真如」がこの世にあらわれてきて、
マイクロホンという形になってみたり、私という人間になってみたり、
一人一人みなさんのようになっているのです。
だから、考えて見ますと、「私」というのを私はすごく大事にしているのですが、
ほんとうは「私」などというもの[言葉]も、真如のほうからみたら妄念なのです」(P31)


テレビドラマ作家の山田太一さんはむかしセリフに「私」を入れられなかったのだと思う。
「私はこう思う」というのは英語の翻訳で、日本人はそういう言い方はしない。
少なくとも35年まえの日本人はできなかったのだろう。
現代は「私はこう思う」「あなたはこうだ」と言える人のほうが多いのかもしれない。
山田太一ドラマ「ふぞろいの林檎たち」では「こちら」「そちら」「あちら」が頻出する。
影響を受けて、わたしもブログで自分のことを「こちらは」と書いたりしてきたが、
そういう悪影響(?)に気づいた人はおられますか?
河合隼雄もそこらへんは敏感で、一時期は「私」を「筆者」と呼称していた。
山田太一ドラマはほぼ絶対に英語化できなくて、
登場人物が「I think」とか「You said」とか言ったら情緒が台無しでしょう。
たしかに意味はそうなんだけれど、それは違うよっていうかさ。
わたしは七五調の語りが禍々しいながら情緒的で感傷的でとても好きだ。
しかし、七五調のよさはよほど日本語に熟練した外国人でもわからないと思う。
あれは我われの生きるリズムなのだから。
語り物の「日本霊異記」や「説経節」はときに七五調があらわれるがそこがいいのだ。
「平家物語」も近松門左衛門も「義経千本桜」もそうである。
怨念や怨恨をおさめる役割を果たしているのが七五調ではないかと河合隼雄は言う。

「それからちょっと話は変わりますが、
さっき大江さんの五・七・五・七・七というのは、ほんとうにおもしろいですね。
これは上田秋成の『雨月物語』かなんかだったと思うのですが、
崇徳院とか関白の秀次とか「浮かばれない」人たちの怨霊がでてくるのですが、
そのなかで歌のやりとりがあります。
あるいは五・七・五の歌をつくると、だれかがうまいこと七・七でおさめるのです。
そうしたらうまく「おさまりました」といって、怨霊の心の方もおさまるのです。
これはヨーロッパの人だったら、その恨みをどう晴らすか。
恨みはどういう方向に、だれに向かうのかということをやってしまわないと、
完結しないのです。ところが、日本は七・七でおさまるのですね。
このおさめ方というのが日本のいまでもすごく行なわれているのですよ。
手打ち式でもみんなそうですよね。
そうした伝統をわれわれはいまだに持っているのですが、
[心理療法家の]私が苦しんでいる人にお会いしていても、
五・七・五・七・七的おさめ方が生じるのです。
それはなにも私がやるのじゃないですよ、
その人がやられるから、それに私は従うだけですけれども。
そうでないと、恨みを絶対に晴らさなければならないと思ったら、
すごいことになりますからね。そういう知恵も、
これは日本だけではなくて、ひょっとしたら、
さっき言いましたようにもっともっと世界中にあるのじゃないか」(P169)


わたしは日本語ばかりがいいと言っているわけではなく、
「がんばれ」よりも「グッドラック」のほうがよほどいいでしょう?
最後に別れるとき、「がんばれよ」と言われるよりも「グッドラック」のほうがいい。
「Do your best!」とか言われても「はあ?」「知らねえよ!」とわたしなら思う。
そういえばむかしは、なまの言語収集のためもあり働いていたんだなあ。
「おつかれさまです」とか日本人なのにいまだに意味がわからない。
「ごくろうさま」も意味が正確にはわかっているとは言いがたい。
「了解です」も嫌いな日本語だ。
「ざっくり」も嫌いな書き言葉で、使わないようにしているつもりだが、一度使っていた。
「私はあなたを愛している」なんて言葉は使う気がしないし、そもそも意味がわからない。
「もうちょっとだけ一緒にいて」なら意味がわかるし使用可能だ。
知らない人と話すことがけっこうあり(病院や公共の場所)嫌いではないが、
言葉の採取が目的かもしれない。
山田太一ドラマは役者の演劇でもあるだろうが、
突き詰めれば言葉(台詞)のやりとりだと思っているから、
シナリオや芝居台本を読もうともしないリアル視聴世代とは意見が合わないのだろう。
「言葉だ、言葉、言葉」(「ハムレット」)。

COMMENT

エスパドリーユ URL @
06/02 05:54
. >日本人と中国人の「すいません」のニュアンスは正確には異なる

英語のI'm sorry.も日本語の「ごめんなさい」とは違うからね。

A: Where's your dad?
B: He's in the jailhouse now.
A: Oh, I'm sorry.

こういう会話のI'm sorryは「(こんなこと訊いてしまって)ごめん」と「(おやじさんが刑務所にいるとは)残念だ」の2つの意味に取れるので、日本語でどう訳すかは難しい。
Yonda? URL @
06/09 23:53
エスパドリーユさんへ. 

わたしなら「Oh, I'm sorry」は「そう――」くらいに訳すのでしょうか。むろん正解ではありませんが。








 

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