FC2ブログ

「空海入門」

「空海入門」(ひろさちや/中公文庫) *再読

→おい、みんな、ひろさちやさんのことをバカにしすぎだぞ。ぷんぷんだ。
ひろさちやさんは独学で仏教を勉強したから権威がなく、しかしわかりやすいんだ。
学会員は師匠病にかかっているかのごとく、師匠、師匠と上には媚び、
いったん下と見たら指導者気取りで一発かまそうとか考えるようだが、
おいおいおい、釈迦に師匠はいたかよって話だ。
釈迦は自分のあたまで考えて自称仏陀(覚者)になったって話だろう?
これまた仏教は独学の梅原猛さんもひろさちやさんも書いているけれど、
空海の師匠の恵果和尚はどうしようもねえカスだったんじゃねえかって。
反面教師っているじゃないか。
創価学会の池田名誉会長を育てたのは二代目会長の戸田城聖とされているが、
池田はアル中で女好きの金の亡者、戸田を見て、
こいつどうしようもねえなと思ったはずである。
ゴミやクズ、カスみたいな師匠が偉人を生み出すことがあるといういい例だ。
あんがい空海や池田の例を見ると師匠が人間的にカスのほうが、
いい弟子が育つとも言えよう。というか、師匠なんて必要か?
師匠はいてもいなくてもいいし、いたとしてもだれでもいいんじゃないか?
空海は師匠なんか権威を借りるための道具だと思っていたと思う。

プロレスの話をするとアントニオ猪木とジャイアント馬場を比べたら、
馬場のほうがよほど社会的にしっかりしている(金に細かく従業員から搾取する)。
いっぽうの猪木はどうしようもねえクズだとみんなが言っているわけでしょう。
だが、結果としてみると馬場の全日本プロレスは悲惨のひと言でしょう。
馬場の魔の手から脱出したのは川田利明くらいではないか。
比して猪木の新日本はいまや成長企業である。
またふたりの師匠の力道山が元ジャイアンツの馬場をかわいがり、
猪木を山猿あつかいする(人間あつかいしない)鬼畜だったわけだ。
力道山はだれに空手チョップを教わったんだよ。
仏教の悟りとプロレスの自称最強は似たようなところがある。
いまの僧侶は格闘家ではなく、自称最強のプロレスラー、葬式パフォーマーだろう。
晩年の馬場なんて、そこらへんのヤンキーでも倒せた高僧のような存在だった。
なにが言いたいのかっていうと、ひろさちやさんはガチが強いんじゃないか。
若い僧侶はみな隠れて、ひろ先生の本を読んで仏教を勉強するらしいぞ。
高僧の講義なんかわけわかんねえよって。

本書で受賞歴ゼロの仏教ライターひろさちや氏はおもしろい禅の話を紹介している。
江戸時代の盤珪(ばんけい)禅師の話だ。
師匠が弟子に京都へ行って上質の紙を買って来いと命じた。
弟子は師匠のためにえっちらおっちら京都で紙を買ってくるわけだ。
だが、師匠は「これじゃない」と弟子を罵倒する。
弟子はどこが悪かったのだろうと迷いながらもう一度京都へ行き、
人から評判を聞いて最高品質の紙を買ってくる。
しかし、師匠は「おまえはバカか!」と弟子を怒鳴りつける。
おまえは本当にアホやなあ。二度も間違えるバカがいるか。
おまえの目はなにも見えていないんだから、いっそのこと目ン玉潰しちゃろか!
やり直し。三度目の正直といいよるが、もういっぺん京都へ行って来い。
弟子は震えながら泣きそうな表情で三度目の京都へ向かった。
もうやけくそになって善悪の基準もわからなくなって京都で紙を求めた。
師匠のもとへ戻り、おそるおそる紙を差し出すと「バカヤロウ」と師匠は怒鳴る。
その瞬間、弟子は悟りめいたものを開いた。
「わかりました。ありがとうございます」
師匠は「ようやくわかったか。なーに、最初の紙でもよかったんだ」と笑顔で応じた。

これはどういう意味か、ひろさちや氏は我流の解釈をしている。
この紙でいいのかなという迷いを師匠に察知されたのがまずかった。
本当は最初の紙のときに、「これじゃあかん」と言われても、
「いや、この紙でいいんです」と自信を持って差し出せばよかった。
ひろさちやさんは過激なことを書いていて、
禅なんだから紙を丸めて師匠をポカリと殴りつければよかったとまで書いてある。
弟子は師匠に迷いを見透かされたのがいけなかった。
これでいいんだと迷いなくストレートに差し出すのが悟りだ。
さすが無師独悟のひろさちやさんだけのことはある。
このエピソードは創価学会の池田大作にも通じている。

ある人から聞いた話だが、
お元気なころの(コンプレックス過剰な)池田先生が(全国中継される)本部会で、
エリートのNHK職員の学会員をいびりまくったという。
池田先生は弟子に挨拶をさせる。「声が小さい」と池田先生は怒鳴りつける。
これが果てしなく延々と続き、婦人部からも「かわいそうよ」という声が出たらしい。
いかにも低学歴の池田がエリートの弟子に仕掛けそうなことだが、
正解は「うるせえぞ池田。声が小さくて悪かったな」だったのかもしれないのである。
まあ、本当にそんなことをやったらあとで裏で男子部にボコボコにされるのだろうが。
池田はこういう弟子いじめが大好きで、
芥川賞受賞直後の宮本輝青年にもシカト(無視)するという陰湿ないやがらせをしている。
わたしは文章力にかぎっていえば、池田は宮本輝の足元にも及ばないと思う。
宮本輝だってバカじゃないから師匠からいじめられ、
あーあ、池田もこの程度の男かと見切ったことだろう。
しかし、妻子ある宮本青年は創価学会というバックがなければ生きていけない。
このため宮本は池田に土下座文章を書いたのだろう(「無言の叱責」事件)。
現在の宮本老人は(池田が半分死んだいま)師匠格になったようで、
芥川賞の選考会ではるか年下の食えない後輩作家をいびり抜き、
池田根性、池田精神の正統な継承者であることを満天下に示している。

宗教の師弟関係っておもしろいよねって話。
梅原猛は弟子をつくり群れたがったが、ひろさちやさんは天然というか自由人というか、
そういう師弟関係を毛嫌いしているところがとてもいい。
ちなみにひろさちや先生は創価学会が大嫌い。
河合隼雄のように創価とうまく手を組めば勲章のひとつやふたつもらえただろうに、
いさぎよいというかバカというか。
しかし、アンチ創価としてはひろさちやさんは味方に思え、
そこで得をしたこともあったろう(立正佼成会!)。
ひろさちやさんは自信があったから創価嫌いを表明できたのである。
ひろさちやさんはあたまがいいから、創価も恐れをなしたと言うこともできよう。
師匠がいないで、どうやってあれだけ仏教を勉強したのだろう。

ひろさちや氏は師匠から認めてもらっていないのに自分を信じることができた。
空海だってそうで、無名の僧が違法帰国をして「(御)請来目録」ってなんだそれ?
どっからその自信は来るんだよ。
意外と知られていないが日蓮の最初の(出家したときの)師匠は念仏者で、
師匠、師匠、師弟不二と騒ぐ創価学会がたてまつる日蓮大聖人さまは、
じつのところ師匠に逆らっているのである。
師匠もなく留学経験もなく「立正安国論」を幕府に出すなんて、あったまおかしいよ。
なんでそんなに自信があるんだよ。
ひろさちやさんに話を戻そう。氏のチープなわかりやすい言葉を引いておこう。
えーと、紙の話をしていたんだっけな。

「迷いながら行動したのでは、山科から京都まで三度の往復をさせられるはめになる。
上質紙といったって、たかが紙ではないか。
どんな紙でも文句を言うな! この紙でいいんだ!
どちらでもいいが、ともかくそれくらいの自信がないといけない」(P72)


著書多数だがこれまた受賞歴ゼロの精神医学の重鎮、
成仁病院の院長である春日武彦先生も「迷い」がいけないと書いていた。
自信のないところに由来する「迷い」が医療ミスを呼び寄せると。
相続税対策をどうしているのかわからない、
幸運の女神に好かれたひろさちや先生はこうおっしゃる。
河合隼雄財団ならぬ「ひろさちや財団」をつくって、ぼくを雇ってくれないかなあ(笑)。
「迷い」はよくない。

「中途半端だから、迷うのだ。迷うから、幸運の女神は逃げてしまう。
幸運の女神に逃げられてしまえば、ますます落ち目になり迷いが深まる。
完全な悪循環である。
さて、空海は、ある意味で運命にゲタをあずけてしまった男である。
そんな卑俗な表現は空海に似つかわしくない……と言われるかもしれないが、
空海が、運命に完全に、自分をまかせきれた背後には、
「自分は仏陀である」という彼の信念があったからだ。
どんな過酷な運命であっても、運命は、仏陀にだけは反抗できぬはずだ。
そして、自分はその仏陀である……と、それだけの信念があったから、
空海は運命にゲタを預けられたのである」(P73)


わたしって自信があるのかなあ、ないのかなあ。
春日先生からのメールでは
もっとプライド(自信)を持ってくださいみたいなことが書かれていて、
え? え? え? わが文章はそういうふうに見えるのって驚いた。
自虐ができるのは自信があるからだとわたしは思っている。
高級グルメを食ったとか有名人と逢ったとかブログに書いているやつって、
あれは自信がないからでしょう?
わたしも春日武彦先生からメールをいただいたとか書いているけれど、
かの精神科医はマイナーでそこまでの有名人ではない。
しかし、唯一わたしなんかを相手にしてくれた文筆業者でご恩は忘れないぞ。
「自信を持ってください」はわたしが春日先生に申し上げたいことで、
あれだけおもしろい本を書ける人なんだから芥川賞とか直木賞なんてレベルじゃない。
ユーチューブで白衣を脱いだ春日さんを見たら妙にオドオドしていて、はああ。
わたしが現在存命の名文家を5人選べと言われたら春日さんを入れるくらいなのだから、
もっと自信を持っていただきたいが、
その自信なさげなところが名文と関係しているのかもしれない。

わたしが空海を読んだのはお金と自信が関係している。
ちょっとお金に関する案件があって、いまオシャカになっているのかもしれないが、
そのために空海を読んでいたのである。
お金がからまなきゃ、いまどき空海なんてなかなか読めない。
それから空海を読んで自信が増したよねえ。
仏教なんてほぼほぼ自分を信じるためにあるのではないでしょうか?
成り上がりものの成功者がいきなり仏教とか言い出すのは自信の補強のため。
創価学会がなぜいいのかと言ったら自信がつくからだと思う。
自分は高卒だが日蓮大聖人の弟子なのだから負けないぞって感じよ。
おれはNHKのエリートを泣かせるほど偉い池田先生の弟子なんだって。

あらあら、なんの話をしていたのだっけ? そうだ空海の真言密教だ。
東大の印度哲学科出身のひろ先生は密教は梵我一如だと言い放っている。

「インド哲学に、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想がある。
「梵(ぼん)」とは、サンスクリット語で「ブラフマン」といって、宇宙原理である。
万有の真理である。大宇宙(マクロ・コスモス)である。
それに対して「我(が)」は「アートマン」といい、こちらは人格的原理である。
自己そのもの――といえるかもしれない。
あるいは、小宇宙(ミクロ・コスモス)といってもよい。
そしてこの梵(ぼん)と我(が)が究極において一致するというのが、
「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想である。
「梵我一如」――「アートマン・ブラフマン同一説」である。
これが婆羅門(ばらもん)哲学の根本思想なのだ。
そして、空海は、[入唐後]二人の印度人からインド哲学(婆羅門哲学)を教わっていた。
「梵我一如」の教説を聞いたとき、空海は、大声で、
「それよ! それよ!」
と叫んだにちがいない。「梵我一如」こそ、密教を説く鍵であったのだ!
おわかりであろう。「梵」は宇宙原理であり、だから「宇宙仏」「仏」である。
そして「我」は凡夫だ。
仏と凡夫が一如[一体]である――というのが、密教の根本教義である」(P124)


むかし創価三世だか四世の統合失調症の青年に、
法華経の「唯物与仏(ゆいぶつよぶつ)」の解釈に関して、
「自分は仏である」という秘密を告白されたが、
健常者ではなく精神障害者から「仏宣言」をされるとブルブルっときた。
しかし、空海も日蓮もああいうやつだったのかもしれないなあ。
わたしは心の奥底で仏に通じているとは思うが、いま仏でもなんでもなく、
レベルで言えば餓鬼(がき)くらいではないかと思っている。
餓鬼のみならず幼稚という意味でのガキでもある自覚はあるが、
他人からそれを指摘されたらムカつくよなあ、そこは。

*精神病院の成仁病院って創設者の片山成仁さんが自分の名前をつけたんだ。
その自我肥大っぽいところとかお名前からして創価臭がするなあ。こええ。
だれにも読まれていない過疎泡沫ブログは、
好き勝手なことが書けてらっくちんちん、おちんちん。

COMMENT

宮木褌 URL @
05/26 08:09
. プライド(自尊心)と自信はちょっと違う。

カスガが何を書いたか正確には知らんが、「プライドを持て」だったら「おまえ見苦しいぞ。みっともない真似すんな」という意味だろう。
Yonda? URL @
05/26 16:36
ふんどしへ. 

そうっすかねえ。もうどうでもいいっすよ。めんどくせっ。
シ也田犬作 URL @
05/27 06:51
. 土屋君に「気持ち悪い絡み方すんな」と苦情を言ったのは春日だろう。そういう文脈で「もっとプライド(自信)を持ってくださいみたいなこと」を言ったのなら、春日の真意は明らかだ。
Yonda? URL @
05/27 17:11
池田先生へ. 

べつに春日さんからなにを言われたっていいのですよ。ぼくも好き放題書いていますからそこは平等。








 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/5341-3cdd5a70