2017年の花火

界隈が年に一度だけにぎわうのが「いたばし花火大会」の日である。
昨日、わたしは短期の賃仕事が終わってから
ある男と荒川土手に並んで腰かけて花火を見た。
彼とはN本部長のことで、GW以来ひさびさの再会を果たす。
本を読んでばかりで現実を知らないと自己卑下しているので、
派遣仕事でいろんな人に逢って話すとこんなおもしろいことはないと思う。
不謹慎なことを書くと、働くのは世界や人を知りたいがためで、
いまは職種や給金よりもそちらのほうを優先している。
むろん、こんなことを言っていられるのはいまだけで、いつどう変わるかはわからない。
GWの短期仕事(日給8千円、交通費なし)で知り合ったN本部長の正体(本職)は、
一流医療機器会社の若き本部長。わたしと同世代。
派遣というのがどういうものか知りたくて、
社会見学のために生まれて初めて(いわゆる)底辺派遣世界に飛び込んできたという。
馬が合うというのか、うん、馬が合ったとしか言いようがない。
話していておもしろいのである。
わたしは時給千円付近をさまよってきた人間だから(いわゆる)上の世界を知らない。
上の世界、それも医療品、医薬品世界の内幕はおもしろすぎるのだ。
さんざんバカっぱなしをして、そのノリで17年まえの母の眼前投身自殺の話もした。
いまや旧友からは持ちネタ、持ち芸になっているんじゃない? 
と言われているくらいだが、なかなかリアルで知り合った人に話せるものではない。

母のことを冗談めかして話せたことで自分はあれから17年経って、
少しずつ自然治癒しているのだという自覚と安心を持つことができた。
短期仕事で出会った人とは一期一会でたいがいは再会することはない。
だからいいのだし、だからおもしろい。
GWは働いたという感覚はまったくなく、気の合う仲間と遊んだという感じであった。
冗談も過ぎるという話だが、
そのとき知り合ったN本部長に自分は不人気ブログを実名で書いていると話した。
どうせ読まないだろうと世間を知っているつもりだった。
どのみち他人は自分なんかに興味を持たない。
リアル世界でわたしと知り合った人は、
ネット世界のわたしに恐れをなしてなかなか声をかけてくれないのである。
みなさまもそうでしょうが、当方も世間に向けた顔とネットの顔がふたつある。
いちおう低賃金向けのペルソナ(仮面)もそれなりにできているつもりだ。
ふざけた言い方をすれば、いんちき作業員めいた未完成まじめ顔とでも言おうか。
Nさんがリアルとネットの壁をぶち壊してくれた。
わざわざ「本の山」にコメントをくれたのである。

なんでもありだと思っている。おもしろいことが起きないかなあ、と日々思っている。
まあ,リアル社会で知り合った人がネットのわたしに関わってくれるのはおもしろい。
先月、ブログを更新しない時期があったでしょう。
あれは身体を壊していてブログどころではなかったというか。
だれかからお給金をもらって書いているわけではないのだから更新する義理はねえ。
がんではないかという恐怖におびえ、ちょっと言葉が出なかったこともある。
後ろめたい事情は書けないがいろいろあるのだ。
Nさんから心配している旨のメールが来た。
わたしは人格がゆがんているのだろう。こういう他人からの厚意に戸惑ってしまう。
1.どうして赤の他人がわたしなんかに興味を持ってくれるのだ(心配してくれるのだ)。
2.人交わり、うざったい、めんどうくさい、ひとりが好き。
しかし、Nさんはネットの見えざる他者ではない。
以前、楽しく雑談した間柄である。顔を知っている。
人間嫌いなところのあるわたしだが、人並み以下だろうが社交を果たした。
おなじ早稲田卒であったことはまったく関係ない。
わたしは早稲田大学を好きでもないし、かといって嫌いでもない。

いろいろ込み入った事情があって、
そんなことはみなさまにはどうでもいいので書かないが、
昨日までGW以来の短期賃仕事をさせていただいた。
これはNさんからのメールのおかげだろう。
やってみないとわからないことがある。
自分が立ち仕事をできるまで体力が復活しているかはやってみないとわからない。
働けた理由のひとつは5日にNさんと再会したいという思いがあったからだ。
GWの短期仕事は合宿のような甘酸っぱい想い出になっている。
またNさんと逢えるのなら働きたい。むしろ働かせてください。
先月は体調不良(吐き気)のため直前キャンセルをした
わたしを再派遣してくれた会社には感謝している。
で、昨日N本部長と再会を果たしたのだが、生きているのっておもしろいなあ。
生きていたらこんなことがあるんだ。
まさか2017年にN本部長と「いたばし花火大会」を見るとは、
2000年に早稲田大学を卒業して
直後に母から目のまえで飛び降り自殺されたころには思いも寄らなかった。

Nさんは早稲田の同期だったのである。
彼は現役で政経(学部)、わたしは一浪で一文(第一文学部)。
おそらく本キャン(パス)ですれ違ったことも何度となくあったことだろう。
そのふたりがこうして再会を果たすとは!
まずわたしの問題である。
以前のわたしなら政経を出て一流街道まっしぐらで、
いまは本部長まで出世して部下も大勢いる妻子持ちの同世代に嫉妬していた。
だが、Nさんの人徳か、めぐりあわせの妙か、機縁が熟したのか、
不思議と本部長にそういう黒々とした感情をいだかないのである。
あれから17年経って、いろいろ当方も達観したのかもしれない(と思いたい)。
好奇心がうずきまくりなのだ。
ええ、一流会社の本部長と知り合う機会なんてめったにないだろう?
いったいなにを考えているのか、どう世界を見ているのか、知りたい、熱く知りたい。
本部長いわく、「いまは部下を成長させることを考えている。
がんばりを見せるのではなく、結果を見せろ」とかナマで聞くとチョー新鮮。
わたしなんか全体の結果を見るポストまで社会で上がったことがない底辺作業員だから。
しかし、相手の人徳のためか当方の成熟のためか、コンプレックスのようなものはない。
人徳も成熟もなく、ただただ馬が合ったのかもしれない。
幸福そうなファミリーやカップルにあふれた人込みのなかで思ったのは――。
おなじく2000年に早稲田を卒業したふたりがこうも分かれているのだという感銘。
そして、こうしてふたりでおなじ花火を見ている。これっておもしろすぎるじゃん!

花火大会は30分で切り上げてバーミヤンに寄った。
いまあの時代の早稲田の人はどうしているのだろう。
N本部長はいまでも大学の同期と交流があるらしい。
大学に行く目的は、いい仲間をつくることだと言っていた。
わたしは大学どころか高校中学との縁もみなみな切っている。
そもそも学生時代から友人がほとんどいなかった。
そのうえ母親の目のまえでの自殺である。
その後、大学時代の知り合いから連絡があったこともあるが、
おまえらにおれの苦しみがわかるか!
どうしておれだけ苦しまなければならないのか!
そういう心境から関係を絶った。
あっちだって母親から目のまえで自殺された男にかける言葉はなかったと、
いまならばそう思う。しかし、当時はそう思えなかった。
本部長の早稲田の仲間でいま年収1千5百万の人もいるらしい。
「土屋さんはお金の話ばかりする」と出逢ったときNさんから言われたくらいだから、
わたしは金のにおいに敏感なところがあるのかもしれない。
おそらくN本部長の年収も1千万近くかオーバーしているだろう。
そういう人が冗談半分で派遣で遊びに来て、当方と知り合う。
最高じゃないか、神よ仏よ!

N本部長とバーミヤンで対面しながら、とにかくおもしろいのである。
こっちは人生奈落の底に落ちた身で(大げさだな)、あっちは世間体としては一流。
話を聞いてみると、一流も(当人は一流を否定)一流でたいへんっぽくてさ。
人生ってこんなことがあるんだなあ。
生きているのはすばらしいとまで大声でシャウトできないけれど。
けれど、いままで早稲田はどちらかといえば嫌いだったけれど(とくに校歌!)、
最近変わりつつある。
これも早稲田大学が結びつけてくれたご縁なのかしら。
「おなじ早稲田の人、原稿依頼をください」とブログに書いたらどうなるか?
とN本部長に言ったら、おやりなさいのことだが、まだそこまでは、そこまでは。
早稲田への恩といえば6月のことである。
山田太一ファンの、
奈良のお医者さんからご厚意で呼ばれてお駄賃のようなものをいただいた。
それをなにに使ったかというと早稲田大学演劇博物館である。
エンパクには山田太一の未公刊戯曲(芝居の台本)が7冊あった。
山田太一関連でいただいたお金は山田太一で使おう。
出版されていない山田太一の芝居台本をすべて全文エンパクでコピーした。
とっくのとうにぜんぶ読んでいるので、感想はちかぢか書く。
全文コピーは違法という注意をしてきたおばさんもいたが、
入手不可能な書物の全文複写は違法ではない。
たとえ違法でもやったが、なぜ法律にたがうことが悪いのかわからない。
法律はなぜ正しいのか?

早稲田大学の同期とひょんなことで再会して、いまの世間的身分の差はどうあれ、
そのような隔たりはなく、ともに単純労働をして、その後に花火を見た。
花火はつまらないから30分で引き上げバーミヤンで90分話した。
支払いは彼がすると言ったが、
そういうところで自己を偏屈に主張するわたしではもうない。
収入が多いほうが払ってください。引け目もない。
こういうところがシナリオ・センターの小林幸恵社長から厚顔と面罵されたゆえんか。
シナセン記事は反響がいまだに多いんだ。
Nさんもシナセンの2ちゃんねるスレッドを見て、ぶったまげたと言っていた。
ちなみにあれから8年経ったいまでも、
シナセンスレッドではわたしの悪口が実名で書かれている。
それに「本の山」のシナセン記事もおもしろいっしょ?
シナリオ世界とは縁のないN本部長も、
シナセン記事には泡を食ったようなことを言っていた。
携帯番号を公開してかかってきた電話はふたつだけ。
ひとつは奈良のお医者さんで、もうひとつは鹿児島県の男性。
鹿児島は「シナセンの記事がすげえ、おもしれえ、ファンです」とおっしゃっていた。
あの電話がかかってきたのはCT検査を受けたあとだった。
「いたばし花火大会」のため、
浮間舟渡駅は混雑していたので北赤羽駅までNさんと歩いた。
わたしがNさんともう少し話したかったからである。
またの再会を誓って別れた。
北赤羽駅から埼京線に乗ったのは、ホームの別れのほうが劇的かなあ。
そんな茶目っ気ゆえ。
なんだか、なんだか、これからいいことがいっぱい起こるような気がしたのでした。

COMMENT

無明寺 URL @
08/13 08:36
-. 真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
Yonda? URL @
08/13 15:42
無明寺さんへ. 

ぜんぶ読んでいませんが――。
1.弟子になりたいんですか?
2.当方を弟子にしたいんですか?
せっかくのご厚意ですが1、2ともにご遠慮させていただきたく存じます。
おコメントありがとうございます。
よくわかりませんが、がんばってくださいね♪








 

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無限猿定理  哲学はなぜ間違うのか  2017/08/07 16:27
偶然に頼る、という方法があります。猿にタイプライターをたたき続けてもらえば、いつかは、シェイクスピア戯曲が書き上がるというアイデアがあります(無限猿定理)。筋書きの構想も作文も推敲も必要ない。無限の時間がたつうちにはどんな長編戯曲も描きあがるはずです...