「明るいニヒリズム」

「明るいニヒリズム」(中島義道/PHP文庫)

→平易な一般書かと思って買ったら、難解な哲学書だったので当惑した。
ネット書店の楽天やアマゾンで買うと、
立ち読みができないのでこういう事態に遭遇することがある。
やたら西洋の有名哲学者の名前や、
庶民には流布していない哲学用語が散見されるPHP文庫である。
「明るいニヒリズム」――とてもいいタイトルだと思う。
基本的に山田太一さんは明るいニヒリストだし、わたしもそうでありたいと願っているし。
祖をたずねれば鎌倉時代のカルト僧、
踊り念仏の一遍上人に行き当たるのではないかと思う。
本書は難解度がアップしただけで、主張はいままでの類書とおなじである。
著者の本を何冊か読んでいなかったら、本書の購入は金銭と時間の無駄に終わると思う。

本書の内容は――。
1.客観的世界は存在しない。
2.世界は観念(言葉)に過ぎない。
3.よって、過去も未来も存在しないし、死すらも存在しえない。

だからなんだっていう見方もできるわけだ。
わたしは長らく底辺時給帯で下級労働にぎりぎりでいそしんできたが、
同僚に1~3のことを説明はできるが、説明してもさっぱり理解してもらえないと思う。
客観がなんだと言われようが、
この1杯のカップラーメンを食ったら腹がふくれるだろう?
そうしたら昼休み後もまた働くことができるだろう? 
そう言われたら、なんの反論もできない。
存在がどうのや、観念がどうのよりも、
同僚の噂話のほうがはるかにおもしろいのもわかる。
じゃあ、どうしてこんな話をするのかというと、
結局この人はインテリじゃんってもてたいからかもしれないなあ。
とにかく同僚の悪口も大好きだけれど、おいら、こういうことにも興味があるんだ~よ。

1.客観的世界は存在しない。
これはもう鎌倉時代の一遍上人からして主張していることだが、
わかる人はすっとわかるだろうが、わからない人はたとえ東大を出ていてもわからない。
たとえば、事件(事象/現象)Xがあったとするじゃないですか?
それを目撃した証人のA、B、C、D、Eがいる。
この場合、客観事象(事件)Xは、
主観A、主観B、主観C、主観D、主観Eとしか存在しえない。
たいがいは主観A~Eが一致するだろうから、それが客観的事実と仮称(命名)される。
まれに5つの主観が一致しない場合は多数決で客観的事実なるものが決められる。
このように考えると、真なる客観事象(事件)Xは厳密には存在しないことになろう。
こういうことを書くと、証拠があるじゃないかと反論してくるものが現われよう。
たとえば客観証拠の写真Xがあるとする。このXは絶対客観と言えないか?
答えは、言えない。なぜなら写真Xを人はそれぞれの主観で見るからである。
たとえば男性が女性をラブホテルに連れ込もうとうする写真Xがあったとする。
それは客観的事実ではないかと主張する人がいるかもしれない。
しかし、主観者Aは男が好みのタイプだったため女に反感を持つかもしれない。
主観者Bはラブホテルに行ったことがないので、公園を楽しくデートするふたりに見える。
主観者Cはいまとにかく金がないのでプレイボーイに怒りをおぼえる。
主観者Dは写真の女性が好みのタイプなので、自分もこういう体験をしたいとあこがれる。
主観者Eは同性愛者なので、写真の意味するところがいまひとつ理解できない。

以上のような弁舌で客観的世界が存在しない(かもしれない)ことは主張できるが、
大半の生活者にとってそんなことはどうでもいいことを、
ここ数年の低賃金労働で身体がボロボロのこの書き手が知らないわけではない。

2.世界は観念(言葉)に過ぎない。
これもまたわかりにくいし、
わかってもお金がもうかるわけでもなく、異性にもてるわけでもない。
だったら、そんなの意味はないじゃん、というのは正しく、
中島哲学はまったく意味がない暇つぶしなのだが、
時間に追われる大勢の人間がいるいっぽうで、
世の中には中島哲学で苦しんでいるふりをすることで
(あのなによりも恐ろしい)退屈という「魔」から逃れたい人もおられるのである。
「世界は観念である」という定義の「観念」がよくない。
「観念」ってなに? と高卒の庶民は思ってしまう。「観念」というのは、つまり言葉のこと。
「世界は言葉である」と言われたら、
少しはなるほどと思うかたもいらっしゃるのではありませんか?
なーに、こんなことは最新学説でもなんでもなく、西洋ではデリダだっけ?
わが日本でも西洋哲学よりはるかむかしに踊り念仏の一遍上人が言っておられる。
われわれはいつも悩み苦しんでいるところがある。
金がほしい。美人になりたい。イケメンだったらなあ。あのトラウマさえなかったら。
けどさ、そういうのはすべて言葉なわけじゃないですか?
貧富、美醜、賢愚、苦楽、快不快、幸不幸、現在過去、善悪――。
すべてが「言葉」に過ぎないでしょう?
それは客観的事象ではなく主観的言語と考えることができるのではないか?
いくらそんなことを言われたって、現実の貧窮や不幸が消えないのは、
当方も実感として理解している。
しかし、それは「言葉」に過ぎないという見方もできるでしょう?
言語構造の根本にあるのは貧富、美醜、善悪といったような「A/反A」という対比構造。
苦楽だって、いまを苦しいと思うから楽という言葉(観念)が出現するわけでしょう?
だったら、すべて「言葉」に過ぎないわけではないかとは考えられませんか?
(まあ、ご無理でしょうけれど)

ここで「明るいニヒリスト」だった踊り念仏の一遍を持ち出すと説明が容易になる。
一遍仏法において最高真理は南無阿弥陀仏である。
そして、この南無阿弥陀仏は言語道断、言葉では説明できないと説く。
最高真理X(南無阿弥陀仏)は存在するけれど、
Xは善悪、貧富、美醜、賢愚といった相対言語では説明できない究極的真実である。
X(南無阿弥陀仏)は言葉(相対言語)では説き明かせない不可思議真理。
このX(南無阿弥陀仏)のまえでは言葉(世界)は意味をなさない。
X(南無阿弥陀仏)という光明のまえでは、
男女も不幸もトラウマも怨恨も意味をなさない。
なぜならX(南無阿弥陀仏)自体が言葉(相対言語/世界)を超越しているからである。
わかってもらえないかなあ。無理だよなあ。
わたしだって昨日、愛する人を亡くした人にこの論理を説明して救えるとは思えない。
しかし、「死」や「不幸」「苦悩」、「教授」「社長」「成功」なんかすべて「言葉」に過ぎず、
「世界」など無数のそれぞれ主観的な「言葉」が仮構している虚妄(こもう)で、
さらさらつゆつゆ客観的な確固とした建造物たる「世界」など、どこにもありえなく、
ならば「死」も「不安」も「不幸」も主観的言語ゆえ恐れるに足るものではなく、
毎日「明るいニヒリスト」として、ときに世の浮き沈みでもながめて、
ニヤニヤしながら「やんなっちゃうなあ」とでもつぶやいていたらいい、
という可能性もなくはなくなるわけであるが、
ひとりでもご納得していただけた人はおられますか?
「明るいニヒリスト」になりきってギンギラギンに踊っちゃってもかまへん♪

3.よって、過去も未来も存在しないし、死すらも存在しえない。
「過去」も「未来」も「死」も主観的な「言葉」に過ぎないでしょう?
だから「過去」「未来」「死」は客観的に存在しているわけではない。
以上で解説は終わりなんだけれど、
ここまでお読みくださったかたにそれはあんまりだよねえ。
というわけで、最後にくだけたちょっとばかりわかりやすい説明をいたしたく存じます。
「過去」って本当に「(主観的)言葉」なんだよねえ。
「本の山」にも「アジア漫遊記」というカテゴリーを掲載している。
あれは10年近くまえタイ、カンボジア、ベトナム、中国と
3ヶ月半かけて旅したときの記憶をつづったものだ。
アクセスなんたらを見ると、あんなものをいまだに読んでくださるかたもいるので嬉しい。
自己愛にもほどがすぎるが、自分で読み返すこともあり、
そうすると「過去」とは「言葉」であるということがつくづくよくわかる。
言葉として書き残していなかったら、あの7割近くは忘却していたのではないか?
そのうえあの旅行記には読者に楽しんでいただく目的で、
フィクションをところどころに混ぜている。
いまとなるとどれがフィクションでどれがリアルか判定できないところもある。
そうなってはじめて、
みなさまがこだわっていらっしゃる「過去」や「履歴」「経歴」「トラウマ」
なんてそう大したものではないのではないかということがおのずからわかる。

これは中島哲学博士の言い分だが、
「過去」とは「現在」から想起された「言葉」で実体はないに等しい。
いま生きるこの「現在」も「未来」によって「過去」として想起されうるのではないか、
という発想から未来という「観念(言葉)」が発生する。
博士が言いたいのは「過去」「未来」「死」――すべてが主観的な「言葉」で実体はない。
鎌倉時代の踊り念仏開祖、
一遍上人が50歳にならぬうちに早々と悟った真理らしきものを、
西洋かぶれのマスコミ学者、老権力者、
中島義道哲学博士はいまごろようやく気づいたとも言えるし、
いまの日本に生きているとこういう真理に、
はなはだ到達しにくいという時代風潮に対してさまざまな感想をいだくのも自由であろう。
まあ、一般読者はわが解説がなかったらこの本の意味がわからないだろう。
とうてい担当編集者が本書の意味を理解していたとは思えないが、
それでも原本のまま世間さまに公開するのは老権力者への尊敬からか、
損得勘定からか、(本書を理解したと思いたい)おのれの知的虚栄心からか?
いまは学者や作家よりも権力があるとばれてしまった編集者の石井高弘さんに聞いてみたい。

*文章は一般読者には理解不能なので本書からの引用はあえてしませんでした。

COMMENT

桑原義房 URL @
06/08 19:14
. その手の観念的遊戯は、退屈という「魔」から逃れたい、と言えばまだ格好いいが、実は悲惨な現実から逃れたいがための苦しまぎれの方便ではないか。

客観的事実はこうだ。土屋顕史の母親は顕史の目の前で飛び降り自殺した。顕史を呪う日記を遺して死んだ。ここには解釈の違いが介在する余地はない。

土屋顕史の発言の通奏低音は、すべてが「言葉」に過ぎなければどんなにいいだろうか、どうか「言葉」であってくれ、という悲鳴であるように私には思える。もちろん、これは主観の問題。
Yonda? URL @
06/09 19:33
桑原義房さんへ. 

特別大サービスで返答しますね。
ほんとはこういうめんどうくさいのはいやなの。
でも、ほら、桑原さんが権力者かなんかで、
こういう誠実な対応をするわたしに
ご恩を返してくれるかもしれないわけだし。

いままでいろんな人のお世話になってきたしなあ。

母の自殺直後はあまりの壮絶さにいろいろ言われましたよ。
「お母さまはあなたに看取ってほしくて、そういうことをなさったのよ」
「息子のあなたを大好きだったから、あえてそうしたのよ」
「あとのことは任せたわよって信頼していたのよ」
そういう解釈もできなくもなかったわけだが、
当時のわたしはそれら慰めをすべて偽善だと嫌いました。
しかし、そういう解釈で生きていくこともできるわけですね。

日記の悪口についても、いろいろ勉強しましたね。
精神医学の分厚い教科書を熟読しましたもん。
いちばん役に立ったのは精神科医の春日武彦さんの御本。
あれは精神病のリアルを偽善抜きで語っていて、まあ救われました。
なんのことはない。
「わたしの母親は精神病だった」という解釈も可能なんだと。
母がわたしをどう思っていたのかという意味解釈は捨てて、
あれは精神病という病気の患者が起こした行為なのだ。
精神病だから、意味を考えるのもいいが、
答えは精神病だから、なのかもしれない。
こういう解釈の可能性もありますね。

あとは仏教的な解釈もできます。
前世の因縁がどうとやらという抹香くさいあれですね。
あと劇的な解釈もできます。
母から目のまえで飛び降りられるなんて、
そんな劇的なことはふつうめったにないでしょう?
劇的すぎますよ。「人間・この劇的なるもの」です。
そういうものを最期に息子にプレゼントしてくれた母に感謝する、
そういう解釈もできます。

桑原さんはよくもまあ、
逢ったこともない人間に
そこまでデリカシーに欠ける言葉を投げかけられますね。
事件直後のわたしがそんなことを言われたら包丁で刺していましたよ。

「わざわざご回答ありがとうございます」くらい言ってほしいものです。
あとうちのアマゾン経由で高いものを買うとか。
よろしくお願いします。どうもありがとうございます。
これ以上、議論とかまじ勘弁してください。
そういうのは嫌いなので。








 

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