「創価学会 もうひとつのニッポン」

「創価学会 もうひとつのニッポン」(島田裕巳・矢野絢也/講談社)

→学会ウォッチャーの島田裕巳と元公明党委員長で古株学会員にして、
いまは脱会して「裏切り者」と相成った矢野絢也の対談本である。
どうしてこんなに(むかしの)創価学会にひかれるのか考えてみた。
おそらくいまおのれのバイタリティが消えかかっているからだろう。
欲望がないことが悩みである。ほしいものはギラギラした欲望。
いまの目標は、なにか欲望を持つこと。怒りでも反骨心でも復讐心でも構わない。
むかしは屈辱的な退学処分を受けたシナリオ・センターを見返してやりたいという、
炎のような怨恨ともいうべき熱情があったが、いまはすっかり消失してしまった。
そもそもいまの映画もテレビドラマもまったく関心がない。
ドラマどころか地上波テレビも見なくなってしまった。
政治への興味も世界経済への関心もない。
結婚したいとも正社員になりたいとも出世したいともほとんど思わない。
人生経験として(書くネタを求めて)結婚とか出世競争とかしてみたいという気はあるが、
とはいえそれほど熱烈なものでもない。
もう父からは結婚しろとも正社員になれ(正社員を目指せ)とも言われなくなった。
父より早く死ぬという親不孝はしたくないが、
父が死んだあとのめんどうくさい処理を考えると本音では父より先に逝きたい。
というか生命に執着がなく今月いっぱいの余命と医者からいきなり宣告されても、
「ああ、そうですか」と穏やかな微笑を浮かべられる廃人めいたところがなくもない。
かといって小金にはけっこう執着を失っていないのだから矛盾している。
女にボロボロになってみたいとか不埒(ふらち)なことを
まったく考えていないと言ったら嘘になる。
けれど、金儲けもそうだし女も出世もなにもかもめんどうくさい。

こういうわたしだからこそ創価学会のような反対の世界に興味をいだくのだろう。
というか、おそらくいまは休眠中だが、人一倍いわゆる学会根性を持っていると思う。
眠りから覚めたいのである。暑苦しい、しかし生き生きとした世界に帰還したい。
小さな相手の不手際に、このやろう、おれを舐めるなよ、いつか見てろよ!
と延々と些細なことを根に持つようなファイトがほしい。
いまは学会雑誌にも掲載される元プロレスラー天龍源一郎のように熱く生きたいのだ。
いまはすっかり学会に落とされた芥川賞作家・柳美里の、
それ以前の若いころのような破滅的な熱っぽい生き方をしてみたい。
口先だけではなく、むかしの学会員のような暴力的な違法行為を実践してみたい。
とはいえ、創価学会へ入信したいというわけではない(そもそも入れてくれないもん)。
かりに学会へ入れていただいても絶対役職にはつきたくないし活動家にはならない。
ただし公明党へは入れる。これはもういまでも入れている。
自分の得になる賄賂的な財務(寄付)をすることは
やぶさかではないが(これは後述する)、
純真な気持から財務をする気にはあまりならないだろう。
いまはもう悪口座談会がなくなったという聖教新聞はいらない。

いまの若い人は(たとえ学会員でも)知らないだろうけれど、
創価学会研究家のわたしはむかしのかの団体がえらくおもしろかったことを知っている。
矢野絢也は1957年に竹入義勝(元公明党委員長)と
初めて会ったときのことを以下のように回想している。
公明党の最初の参院選のとき、
関西の選挙活動の指揮を執ったのが(東京から来た)竹入だった。

「[竹入を]怖い人やなと思いました。選挙期間中、あまりぼろくそにしごかれたので、
選挙が終わって天満のレストランで送別会になったとき、
われわれ大阪の人間たちはみんな怒り心頭だったんですよ。
「よーし今日こそ、選挙終わったからぶんなぐったるねん」と、
それは竹入さんに対してだけではなかったんですが、えらい剣幕だった。
ところが竹入さん、挨拶する番になったら
「無理を言って申しわけなかった」みたいなことを言ったかと思うと、
「私、『夜霧のブルース』を歌いますと言って、
「男同志の相合傘でー」なんて歌うんですよ。それを聞いているうちに、
怒り狂っていた連中が感極まっておいおい泣いているんですな。
これはもう、信心でもなんでもない、浪花節の世界。
[むかしの?創価学会には]そういう感じってあるんですよ、竹入さんだけじゃなくてね。
(……) 殴るどころかね、抱き合って握手して別れたという、
それはね、池田[大作]さんにももっとそれがあると思うんです。
ぼろくそに怒ったあとで「元気かい」ってちょっと声をかける」(P52)


人間くさいドラマがあっていいよなあ。
むかしは大物が群雄割拠していたけれど、いまはなんだかなあ。
結局、戦争というのが人間を生き生きさせるという面もあるわけだ。
いまの男が男らしさを保てなくなったのは長らく戦争がないからという意見もあろう。
戦争といってもあの悲惨な戦争をイメージするのではなく、
国内の宗教戦争もまた人間をわくわくさせるのではないか。
そう考えると、現代において創価学会ほど宗教戦争を起こした団体はないのではないか。
他宗のみならず権威のよりどころであった日蓮正宗とも戦争をしている。
そのほとんどで勝っているともいえるんだから、創価学会は常勝の最強団体といえよう。
創価学会に骨の髄までしゃぶられつくされた矢野絢也は証言する。

「創価学会は、常に自分は正しいと勝手に思いこみ、
常に外に敵を想定して、それに襲いかかるのがバイタリティの源泉なんだから。
それは一面で離脱防止のミセシメになるのです」(P242)


過激派戦闘集団、創価学会の大将は池田大作先生である。
先生の裏も表も味わい尽くした矢野絢也は、
いまでも池田さんに惚れていることを隠さない。
池田大作先生は――。

「喧嘩上手ですよ。「攻撃が最大の防御」が池田さんのモットーです。
相手の出方によっては自分もダメージを受けるわけですよ。
ダメージを受けたときに、負けてなるかとハッパをかけられるかどうか。
池田さんのすごいところは、そこですよ。
負けても、負けたと認めない。
ましてや優勢となれば、それ行けどんどん」(P288)


かつての池田創価学会は、喧嘩上手、プロの戦闘集団だったのである。
いまの若い人は知らないだろうけれど、むかしは学会と共産党は犬猿の仲だった。
理由は、おなじお客さん(下層労働者)を相手にしていたからで、
いがみあわざるをえない。ところが1975年、創共協定が発表される。
これは作家の松本清張が創価学会と共産党の仲を取り持ったという。
ご存知のように、公明党は創価学会を母体としている。
当時公明党のトップだった竹入と矢野は、
創共協定のことを発表されるまで知らなかったという。
あまりのことに竹入は憤慨したが、創価本部から抑え込まれたという。
このように創価学会は巨大ゆえにトップの池田以下の指揮系統が
いろいろあり情報が錯綜することが多い。いまではもっとひどいだろう。
それにしても池田さんはすごいなあ。
いちばんの敵と手を組むようなことを平気でやるのだから。
これに関する裏事情を矢野絢也はばらしている。

「ところで、そもそも[創共]協定自体はどちらからもちかけたのかという問題ですが、
気になって野崎勲君に話を聞いたことがありました。
が、もごもご言ってるばかりではっきりしないんです。
ですが私の受け止め方としては、学会側からもちかけたということのようですね。
なぜそんな協定を結ぶ必要があったのかというと、
やはり対共産党対策を一〇年担保するためなんでしょう。
つまり、宗門戦争に備えて前門の虎を固めたということです。
そういう意味では、池田さんという人の発想は確かに奇想天外、
機略縦横[きりゃくじゅうおう/自由自在]だと言えるのかもしれません。
ものすごく大胆で、ドラスティック[過激・劇的]ですよ。
余人には思いもおよばないことをやりますわ。たいした戦略家ですよ。
実際そのあと共産党は、創価学会批判を完全にやめました。
律儀というか、生真面目に学会批判をストップしましたね。あの党は真面目ですわ。
もちろん創価学会のほうも「聖教新聞」では共産党批判はしませんでした。
しかし、僕は池田さんから言われたんです。
「おい、『公明新聞』で共産党を叩け」とね。大したお方ですよ。
ようおっしゃいますなと思って、つくづくお顔を眺めたことがあります。
つまり政教分離だから、[共産党の]宮本顕治さんとしても、
公明党のやったことに対して学会に文句を言うことはできないわけですね」(P167)


池田さんやるなあ。池田大作さんのこういうダークなところ、
デーモニッシュな部分がとても好きである。なにをやったっていいんだ。
常識や世間法なんて知ったことか! 
信心とは世間法など足元にも及ばぬ最勝の仏法、法華経と一体になること。
法華経精神とは勝利のためなら「嘘も方便」と命がけで思い切ること。
表面上は握手しておいて、裏では闇討ちを計画してもよい。
おれがおまえを育ててやると部下を徹底的にしごき、
自分の立場が危なくなったら、
その部下を平気で裏切りポイ捨てする精神がなければ男は世をのしていくことはできぬ。
創価学会は矢野絢也を裏切り者だと言うが、
矢野絢也からしたら池田大作さんに裏切られポイ捨てされたわけで、
これは矢野も認めていることだが、
残念ながら矢野は池田ほどの器ではなかったといえよう。
とはいえ、あれだけ池田に鍛えられたのだから有能な人物であることは疑いえない。

さて、戦争をするためには実弾がいる。実弾とは金のこと。札束のことである。
むかし創価の財務は寄付金控除の枠に入ると思っていたが、
どうやらそういうことではないらしい。
しかし、創価の財務は裏金の受け渡しに使われていた(使われている)のではないか。
わたしは賄賂(わいろ)というのは必要悪だと思う。
世間法では賄賂や癒着(ゆちゃく)は裁かれるが、
日蓮仏法や法華経から見たらそれほど大した問題ではない。
賄賂というとさも罪悪のような気がするが、庶民的には「おまけ」ともいえなくはない。
便宜をはかってもらった見返りになにもしないというのは、
法律的には正しくても人情の世界ではあまりよろしい態度ではなかろう。
相手になにかをお願いしたいときは「気持」をわずかでも差し出すのが心意気。
中小の会社がライバル会社から受注を奪いたかったら「誠意」を見せるしかない。
しかし、「気持」や「誠意」はよほど演技がうまい役者でも小道具なしには出せない。
そうはいっても難しいことはわからないが、
会社の経理で「気持」「誠意」という用語では金を落とせないだろう。
経済活動をしていくなかで裏金というのはどうしても必要なものなのだと思う。
大学時代、コンパのあとに先輩が酔っ払い運転する車に乗せてもらったことがあるが、
先輩はたとえ見つかっても
自分の親は都議会議員と通じているから大丈夫だと言っていた。
世の中というのはそういうもの。
世間法に縛られて窮屈に生きるよりも、池田先生のために自由に生きようよ。
自分のためではなく、池田先生のためにしているのだから、
広宣流布(布教)のためにしているのだから、小さいことにこだわるな。
創価学会の巨大財務の裏側が公開されたらみんな唖然とするに違いない。
国税庁は創価学会の財務の正体を暴こうとしたが、
正義の獅子たる矢野絢也は国家権力から多くの学会員を守った。
矢野絢也に足を向けて眠ることができない社会上層部の人たちは多いのではないか。
矢野絢也は学会のために国税庁と戦争をして、そして雄々しくも勝利した。
矢野は多くの苦労人学会員をエリート国家権力から守ったともいえよう。
国税庁は学会の財務のなにを問題にしてきたか。

「……公益の中でいちばん問題になったのが、
会員からの寄付、いわゆる財務ですね。
大口の財務の名簿を見たいと国税は言うわけです。
しかし、公平に見てこれは学会員のプライバシーなんですよ。
誰がいくら寄付をしたとか、私がいくら寄付をしたかということは、
国家権力なんかに知られたくない信仰の自由にかかわる重要な秘密であって、
プライバシーの問題なんだと突っぱねた。
しかし、国税庁からすれば、入りを調べなければ全体はわからないわけです。
寄付した人が本当は一〇〇万円しかしていないのに、
五〇〇万円したと言っているかもしれない。
逆に五〇〇万円しているのに、帳簿に一〇〇万しか入金記録がなければ、
四〇〇万円がどこかに消えていることになる。
そういうことを確認する必要があるから、
国税は財務の大口のリストを見せるように求めてくるんですね」(P198)


ここからいわゆる世間法でいうところの「不正」のさまざまな香りを、
嗅覚の鋭いものは感じ取らざるをえないだろう。
しかし、その「不正」が私利私欲のためではないのなら、それは本当に「不正」か。
世間の善悪なんていいかげんなものでうまくやれば合法で、
やりかたを知らなかったばかりに違法になることはいくらだってある。
とにかく最近、欲望が消えつつあるわたしが言いたいのは、
創価学会の欲望礼賛の教えがいかにすばらしいかである。
映画「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三ではないが、
人間の法を超えるものはあると思っている。
それは神の法かもしれないし、法華経かもしれないし、
池田さんの「おれルール」かもしれないし、
池田先生の影響を受けた学会員それぞれの「おれルール」かもしれない。
世間のルールにがんじがらめになり小さくまとまって生きているよりも、
おのれの欲望を肯定して「おれルール」で生きている人は、
ある面でとても人間くさく、見方によっては美しいともいえるのではないか。
全盛期の池田大作さんの魅力はそういうところにあったのではないかと思われる。
この人を男にしたい。ああいう男になりたい。
わたしは全盛期の池田大作名誉会長をなまで見たことがないから、
池田氏にそういう思いをいだくことはないが、
長らくプロレスラー天龍源一郎の大ファンだったので。
この人を男にしたい、ああいうおもしれえおっさんになりたいという気持は理解できる。
カリスマ性というのは体感しないとわからないが、
むかし後楽園ホールに天龍源一郎が登場するとそれだけで鳥肌が立ったものである。
おそらく学会員が池田大作氏に感じたであろうカリスマ的昂揚をわたしも知っている。
この人を応援したい、ああ、かなわねえ、けど、ああなりてえという気持のことだ。
この人をなにがなんでも守ってみせる、という気迫のことだ。

よい子の学会員さんは知らないほうがいい「ルノワール事件」という、
創価学会がらみのゴニョゴニョなあれがあった。
たぶん矢野絢也は本当のところを知っているのだろうが本書で吐き出していない。
いまだに池田大作氏への忠義心のようなものがあると思われる。
第一次国税調査は二十何億円かを納税することで国税と手打ちをした。
矢野絢也は過去をどこか懐かしく思い返す。

「これでやれやれと思っていたら、今度はルノワール事件です。
これは三菱商事が絡んでいて、またややこしい。
(島田「いまだに真相がよくわからない」)
だいたいはわかったんですけどもね。
とにかく約一五億円が行方不明金になっていて、
第二次国税調査になったんですが、陳情、お願いしまくりましてね。
このときは追徴課税はゼロですんだんですよ」(P238)


有能な人ほど裏を知りすぎてしまい結果としてトップから危険視され粛清される。
わたしは有能では断じてないが、
むかし上司からそのまた上司の悪口を酒の席で聞きすぎたせいで、
その直後に唐突に切り捨てられ会社から追放されたのかもしれない。
いま矢野絢也がヤクザから消されもせず、こうして書籍まで公刊できるのは、
まだまだ公開していない学会の秘密があるからだろう。
それはすでに記録しており、自分が不審死したら公開される仕掛けになっている。
こう言っておけばさすがに創価学会も矢野絢也に手を出せまい。

ここからはかなりマニアックな話になるが、
SGI(創価学会インタナショナル)なるものが存在する。
これはそもそも宗門対策としてつくられたことを本書で知った。
いまは喧嘩別れしてしまったが、創価学会はもともと日蓮正宗の門徒組織なのである。
権威は日蓮正宗の坊さんに依存して、金と権力は創価学会のほうが持っていた。
どう考えたって坊さんよりも池田大作のほうが「偉い」だろう?
ということで、創価学会は1975年にSGIの前身となる世界組織をつくり、
そこの会長を池田にして、
日蓮正宗の法主(ボス)はその下というあつかいにしようとたくらんだわけだ。
当然、日蓮正宗サイドは怒るわけで、これが第一次宗門戦争のきっかけになったらしい。
男って人の上に立ちたがるというか、
まあ出世くらいしか生きる楽しみがないのが男たるものの哀しさだよね。
男って本能的に威張りたがるようにできているのかしら。
相手の言葉尻をとらえて「上から目線」だとかいちいち声を荒らげたり、
学会員のコンプレックスは似たものをこちらも有しているからわからなくもない。

いまの二世、三世の学会員さんって、
本当に罰(バチ)とか功徳とか信じているのだろうか?
功徳は信じられないけれど、バチのほうは幼少時から教え込まれていると、
のちのちまでその人を縛るらしいね。
なにかよくないことがあるとこれはバチではないかって(笑)。
わたしは幸いにも(不幸にも?)家族や親せきに学会員がひとりもいなかったから、
バチへの恐怖感みたいなものはまったくない。
功徳とか言われても、いいことも悪いことも、すべては運やタイミングだと思っているから。
矢野絢也はうまく学会から抜け出すことができた。
いま脱会したい人は、突き詰めれば罰(バチ)が怖いのではないか?
このへんの心理メカニズムを優秀な矢野絢也氏はうまく言語化している。

「学会のいろいろな指導の影響もあるけれど、
自己洗脳という面が大きいと思うんですよ。
人に向かって功徳を説き、反対すれば罰を受けますよということを
日常的にやってきているわけですから。
折伏[しゃくぶく/勧誘]は、そういうことをやるわけです。(……)
自分のことを言うと恥ずかしいんですが、入信して功徳があるなんて、
そんなことあるわけないと内心では思っていたわけです。
ところが、人にそう言っているうちに、
「本当に私、功徳をいただきました。ありがとうございます」なんて言われると、
こっちが感激してしまうわけなんですよ。
えっ本当、なんてね。もちろん、そうは言えませんがね。
そういう現実を前にすると、功徳があるから信心しなさいと人に言っていることが、
逆に自分にインプットされる。一種の自己洗脳ですよ。
人に教えを説くことは、利他、他人のためですが、
同時に自分のためでもあるんですな。
そういうことがあると、もうその世界から抜けられなくなってくる」(P209)


今日はエイプリールフールだから話半分に聞いて(読んで)もらいたいが、
先日早朝法華経を読誦した日に驚くような功徳があったような気がしなくもない。
繰り返すけれども、今日はエープリールフールだからね。
世の中の裏側ってどうなっているかわからないわけ。
だれかのブログやツイッターのひと言が株価を変えることも実際あるわけだから。
だとしたら、法華経を読誦したら因果的にではなく、
共時的に幸運が舞い込むということも絶対にないとは言い切れないんだなあ。
わたしは南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の両刀使い。
というか、なんでもOK! の人だから、創価学会にも顕正会にも偏見はない。
ある人たちにとっては学会活動はとても楽しいのだろう。
京大出のエリートの矢野絢也は指摘する。

「……選挙のときの学会員は本当に大変で、
足を向けては寝られないくらいありがたいんです。
が、その反面、意外に喜々としてやっていただいている面もあるんですね。
学会から選挙運動を除いたら、ガタがくるのではないかなどという人もいるくらいです。
財務の話もそうでしたが、選挙も一種の麻薬みたいなところがあるんです。
お金を出すこと、苦労して票を集めることに生きがいがある。
信仰というのはある意味で、
犠牲を払うことがいちばん高い境涯になるからなのでしょうか。
よくわからないのですよ」(P216)


わたしは選挙や財務に生きがいを見いだせないだろうが、
そういう人がいてもいいと思っているし、
あんがいそういう生きがいのある学会員さんのほうが、
いまや夢や目標を失い欲望さえ薄まった当方よりも幸福かもしれないではないか。
あの池田大作を育てたのは二代目会長の戸田城聖である。
矢野絢也も戸田城聖に落とされて学会に入っている。
酒なしでは説教のひとつもできなかったという戸田城聖はどのような男だったのか。
わたしは創価学会で「戸田に還れ」とまではいかないが、
努力主義の池田先生もいいが快楽主義の戸田先生も悪くないのではないか、
という一種のムーブメントが起きてもおかしくないような気がしている。
矢野絢也は戸田城聖と会ったときのことを以下のように回想している。
戸田城聖は――。

「存在感が大きい。それはこっちが小さいからでしょうけどね。
とにかく豪放磊落(ごうほうらいらく)っていうのと、
本当に牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡をかけていたのが印象的でした。
(……) やさしい目、しておられたんですよ。
で、僕が紹介されたら、
「お前は京都大学の学生か、しっかり勉強せえ」と、こんな調子ですわ。
「親父がノイローゼだ? それはお前たちが狂っとるから親父が狂うんだ。
お前たちが狂わしてるんだ」と。
「どないしたらいいんですか」って聞いたら、
「放っておけば治るんだ」と、そんな調子ですね。
信心の話なんかしないんですよ。(……)
僕らは最初、新宗教の指導者なんてどうせ、
何でもかんでも拝めば治るって言うんだろうくらいに思っていた。
そういう先入観があったんですけど、
この先生はそうじゃないなと思いましてね」(P22)


ずいぶんむかしに宮本輝の小説から創価学会へ分け入ったが、
かなり奥深いところまで到達したのか、
それとも座談会へ潜入取材させてもらえないうちはまだまだ半人前なのか。
むかしの創価学会はおもしろい。
いまの学会がどうなっているかはお声がかからないからわからない。
顕正会だって黒服で挨拶に来る我輩さまを創価学会は無視するのでしょうか?
正義という言葉が嫌いなわたしは比較的に融通が利くほうだと思う。
ひょっとしたらいままでわたしはエフ(フレンド)として、
多くの学会員のお世話になったおかげで生きてこれたのかもしれないけどさ。
南無妙法蓮華経。

(関連名著)
「私が愛した池田大作」(矢野絢也/講談社)

COMMENT

膣屋ケンジ URL @
04/01 14:29
. >実際そのあと共産党は、創価学会批判を完全にやめました。
>律儀というか、生真面目に学会批判をストップしましたね。あの党は真面目ですわ。

矢野絢也は何を言っているんだ? 赤旗は今でも創価学会をたびたび批判しているぞ。「創価学会 site:www.jcp.or.jp」で検索すればわかる。








 

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