「差別感情の哲学」

「差別感情の哲学」(中島義道/講談社学術文庫)

→あらゆる誤解を恐れず言い放つと、わたしは差別が好きなわけ。
母とおなじように自殺すればその瞬間に終わりなのに、
わざわざ毎朝東京から埼玉まで人によって高低の(価値観は)わかれる賃金を求めて
作業をするために行っているのは、世間という差別構造を知りたいがためかもしれない。
いまの派遣先職場に入って、ものすごく興味を持ったのは上下関係(差別構造)だもの。
だれが上で、だれが下か。
だれが正社員か? だれが威張っている怖い古株か? メイトってなに?
それぞれの給料はどのくらいか? 年齢はいくつなのだろう?
かわいい女の子、きれいな女性はいないか? これって差別でしょう?
だから、わたしは誤解されるのを覚悟で書くが差別が好きなのである。
世間(差別構造)や言葉(これも差別構造)を知りたいから、
そういう好奇心ゆえに当面自殺しないで生きている。

とてもわかりやすく差別感情の本質を論じた本書を要約すると、差別とはなにか?
1.差別とは言葉である。
2.差別の原因は向上心である。

こんなことを書くと差別的だが、いやいま差別を論じているのだからそれでいいのだが、
埼玉は東京に比べて価値が低い言葉でしょう?
南浦和よりも表参道のほうが、上野よりも銀座のほうがどうしても上でしょう?
帝京よりも慶應のほうがどこか上に感じるじゃないですか?
ブロガーよりもライターは上。ライターよりも作家は上。東スポよりも朝日新聞は上。
言葉がそもそも差別(区別/わける)という機能を持っている。
がために向上心こそ差別の原因という中島義道氏の卓見に到達する。
やたら向上心が活発なメンバーがいるじゃありませんか。
そういうやつらが上とともに下をつくって、あからさまな差別構造(世間)を構成している。

わたしは言葉(わける/区別/差別)に興味がある。
この数年芽生えてきた世間への関心はなにゆえかと考えていたが、
本書によると、それは差別主義からだろうという結論にいたった。

言葉=差別=世界(世間)

わたしは言葉を好きでたまらないから、
必然として差別主義者で、世界(世間)を好奇心からながめざるをえないのだろう。
あのかわいい子はどういう言葉を使っているか(知的レベル)。
あの人はどのくらいの身分(収入)なのか(経済レベル)。
生活するとは差別するということで、差別を消滅させたら生きる味わいがなにもなくなる。
ぶっちゃけ底辺正社員よりも、大企業アルバイトのほうが待遇はいいでしょう。
それでも人は正社員を求めるし、社員を目指す短期アルバイトもニートを差別する。
ニートになったら終わりだとか。当方の夢は働かないニートなのだが。
大学や大企業という高貴身分のなかにいたら差別はわかりづらいという面があろう。
しもじもワールドに分け入ると世間(=言葉=差別)がよくわかる。
中島義道氏は比較的に恵まれた人生を送られているのに、
本書における差別感情への的確な論説には非常に感心いたしました。
東大卒のくせに、あたまがいい人っているんだなあ(え? え? え? 逆差別?)。

世界は言葉でできており、言葉(言語)は差別の源泉だと中島義道哲学博士はいう。

「言語には固有の社会的価値が付着しているのであり、
「官僚」や「医者」や「教授」の中にいかに劣悪な者がいようと、
それぞれの言葉は高い価値の響きを維持している。
同じように「ホームレス」や「中卒」や「水商売」という言葉は、
その中にいかに人格的に立派な人がいようと、
言葉としては価値の低い響きに留まっている。
とはいえ、価値の高低の響きは未来永劫不変なわけではない。
「韓国人」や「アジア人」という言葉から
価値の低さはほとんど消え去ったように思われるし、「ゲイ」という言葉は
ここ二十~三十年でずいぶん低さから脱したように思う
(ただし「ホモ」という言葉は依然として低い価値を担っている。
まして「オカマ」という強烈な意味合いをもった差別語は厳然として存在する)」(P40)


おっさんだがそれでも若い世代だからか、
当方は韓国人差別の理由がまったくわからない。
白人女よりもアジア女性が好きなのは、差別かもしれないなあと思う。
白人女に欲情するのなんて無理っしょ?
男は差別されている女ゆえに女に欲情して、恋のような錯覚をいだく。
男女平等の社会で自分よりも上の女上司に
欲情できる底辺男は生物学的には「正しい」のだろうけれど(けだもの!)、
人間科学的には異常とみなさなければならないのではないか。
いまあまりにも女性が強くなりすぎているような気がする。
社会問題にはからきし関心がないので、そんなことはどうでもいいのだが。
男女や貴賤、貧富という言葉が差別構造そのものである。
偏差値や年収、年齢、資産もみなみな(楽しい)差別。
生きる楽しみなど差別くらいしかないのかもしれない。

「……差別意識の強い人は、
一般的に人をランキングすることに情熱を燃やす人であろう。
より社会的に優位の人を尊敬し、
より下位の人を軽蔑する姿勢の強い人であろう。
人をさまざまな視点から見ることができず、おうおうにして
時代の風潮にぴったり一致した硬直した価値観から判断する人であろう。
上には媚(こ)びへつらい、下の者を足蹴にする人であろう。(……)
権威主義的性格の人は、ヒエラルキー[序列]を好み、上へ向かって
自らの属する社会における権威に盲従することに抵抗を感じないように、
下へ向かって社会的弱者を差別することに抵抗を感じない人である」(P86)


子どものころから植えつけられた向上心が差別の原因ではないかと著者は指摘する。
もっと上を目指せは、もっと下を差別せよと同義ではないか。
上を目指せば目指すほど上の反意語の下が意識され差別感情が芽生える。
生きるとは差別をするということなのかもしれない。
生きる楽しみは差別にしかないのかもしれない。
ひとりの人を愛するとは、その人と別の大勢を差別しているということでしょう?
家族愛は、家族とそれ以外を差別しているということ。
勉強しろ。いい学校に行け。いい会社に入れ。結婚しろ。家族はいいぞ。

「差別意識をもたないことがほとんど不可能であるのは、小学校のころから、
「よいこと」を目指すように教え込まれているからである。
清潔であること、規則正しくあること、勤勉であること、
傲慢であってはならないこと、弱いものを助けること、
……こうした価値[言葉]を教えられた子供が、
これらを目指していない者、
実現していないものを蔑むようになるのは自然である」(P154)


差別こそもしかしたら生きる最高の楽しみであり味わいであるのかもしれないのだから、
差別を撤廃するなどしてはいけないし、試みても無理なのだろうが、
差別が大好きな当方は差別克服方法を鎌倉時代の踊り念仏開祖、
一遍というマイナーな坊さんから教わったような錯覚がなくもない。
世界は言葉であるならば、その相対的言語を絶した境地を得れば差別は消える。
善悪も美醜も貧富も貴賤も相対的言語である。
相対的な言葉を超える南無阿弥陀仏の
絶対的な無言語境地にいたったらダンス、ダンス、ダンス♪
というのが一遍上人の説いた教えである。
おそらくあらゆる賞を嫌う無位無冠の中島義道博士も、
目指す境地はそこなのかもしれない。
以下のようなことができたのが一遍という鎌倉時代の田舎乞食放浪坊主だ。
すべての価値観(言葉=差別)を捨てていたのが一遍である。

「社会的価値の高いものを自分より具えている人の前に出ても、
高邁[高貴]な人は卑屈にならないのに対して、
高慢[卑俗]な人はその人を憎んだり妬んだりする。
逆に、社会的価値の高いものを自分より具えていない人に対して、
高邁[高貴]な人は優越感を抱かないが、高慢[卑俗]な人はその人を蔑む。
高邁[高貴]な人が社会的価値[世間]に左右されないのは、
それよりも大切な価値[たとえば南無阿弥陀仏]を知っているからであり……」(P117)


差別感情とはなにか? とか考えられる時点で生活を無視しているのだろう。
生活するとは、食っていくとは差別するということだ。
偉いものにはペコペコして、目下のものには横柄にふるまうのが生きるということだ。
食べていくとは、そういうこと。差別とはなにか、なんて考えないこと。
著者もわたしも差別を考えている時点でどこか生活者を見下しているのかもしれない。
けれど、生活者が健気でまじめで勤勉で、
清く正しく生きるのに必死というのもどこまで本当だか。
これはアカデミズム(知的学問世界)をけっこう上手に世渡りしてきた著者の
知らないであろうわたしの現実=真実(錯覚)である。
しかし、著者とわたしはおなじように差別主義者である。
わたしは以前、知的障害を持つ青年3人と働いていたが、彼らがいまでも嫌いである。
疑いもなく、知的障害者をわたしは差別している、嫌っている。
中島哲学博士が本書で知的障害に言及していたのはこの一か所だけである。

「知的障害者ならば立派な(?)弱者、
被差別候補者として現代社会では丁重に保護される。
しかし、単なる低学力者[低偏差値、バカ学校出身]はいかなる保護もされない。
この理不尽をまえにして仕方ないと諦めるほかないのである」(P130)


そういう理不尽や世界の矛盾を知ることが生きる楽しみなのかなあ。
いつ死んだっていいと思っていたら、どこまでも身を持ち崩せる。
書物だけではわからない、
たとえば中島哲学博士の知らない世界を味わいたくて、
わたしはいやいやながらも生きているようなところがございます。



仕組みはよくわからんが、
うちのアフェからなんでもいいのでものを買ってくだされ。
お金がこちらに入るらしいし。そして、コージーコーナーのマドレーヌを食べたし。



世を甘く見ているのかもしれないが、甘いものを食べて、甘やかされて、甘く生きたい。
死ぬまで甘く♪

COMMENT

宇田川町 URL @
02/28 21:56
. >大学や大企業という高貴身分のなかにいたら差別はわかりづらい

ギドーはウィーンでさんざん人種差別を受けたから。









 

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