「よくわかるお経読本」

「よくわかるお経読本」(瓜生中/角川ソフィア文庫)

→有名どころのお経をコンパクトにまとめた文庫本。
お経の意味は教わるものではなく、何度も読んで自分で気づくものだから、
初学者は(ああ、我輩もそうか)どの本を手にとってもいいのだろう。

仏教にはいろいろな宗派があるのだが、
しかしすべてを要約する魔法のような言葉がある。
それはお経の冒頭に使われていることの多い如是我聞(にょぜがもん)である。
意味は「(仏から)是(かく)の如(ごと)く我は聞く」。
イエスもそうだけれども、釈迦(しゃか)は教えを書き残していないでしょう。
仏教の宗派はあまたあれど、どれも如是我聞(おれはこう聞いた)なのだ。
この如是我聞で大乗非仏説(大乗仏教は仏の説いた教えにあらず)から、
あらゆる宗派における教義の相違まですべて乗りこえることがことができる。
原始仏教、初期仏教、小乗仏教というのは、
学問的にかなり釈迦の教えが入っているとされている。
しかし、それとてしょせんは如是我聞に過ぎないと言えなくもない。
日常生活をかえりみたら、だれもが如是我聞のうさんくささに気づくのではないか。
たとえば上司が部下に指示を出す。
上司は部下が指示に従わないので怒るが、部下は自分はこう言われたと思った、
つまり自分はこのように上司の話を聞いた(如是我聞)と答えるだろう。
そうかと思えば、きちんと上司の指示を守って仕事をするものもいよう。
たとえば母親が子供に雨が降ったら洗濯物を取り込んどいて、と言う。
母親が夜遅く帰宅したら洗濯物が干しっぱなしである。
子どもを叱ったら、だって雨が降らなかったもんと子どもはぐずる。
雨が降らなくても日が沈んだら洗濯物は取り込むベきでしょうと母親はあきれて言う。

たとえば、作家の講演会に行ったとする。
小林秀雄賞作家の山田太一のような有名人なら聴衆もたくさん集まろう。
後日、聞き手ひとりひとりに講演会の内容を書いてもらったらバラバラではないか。
おなじ話でも深く聞ける人と表面上の上っ面のことしか聞けない人にわかれる。
山田太一にうまく取り入って家で手作りのチャーハンをごちそうになったものがいる。
そこでいろいろ業界話を聞いたとする(これが原始仏教)。
山田太一とは一度も逢っていないが氏のシナリオ本を繰り返し読んだ男がいる。
男も書物を通して山田太一の話を聞いているのである(如是我聞)。
いまは山田太一を例に出して書いたが、だれの如是我聞も「正しい」でしょう?
なぜならどの人も山田太一の話を自分なりに聞いているわけだから。
あんがい山田太一の言っていないことまで聞いてしまった人がいて、
あとから氏がそれを読んでみたら話のすばらしさに感心するようなことも
まったくないとは限らないのではないか。
いくばくかの優劣はあるかもしれないが(その基準をどこに置くかは難しい)、
「正しい」という面ではどの如是我聞も間違いなく「正しい」――。

最初に仏教とは如是我聞だと書いた。
そもそも話し言葉も書き言葉も正確には伝わらないから、どの如是我聞も「正しい」。
わたしは釈迦の時代に近い小乗仏典をつまらなく感じ、
一方で大乗仏典は(小乗と比べたらという程度の話だが)おもしろいと思う。
しかし、釈迦の教えっぽい小乗的な如是我聞を好む人がいてもいい。
いくら怒るなって言われたって(小乗仏教の決まり)、
むかついたら人間は怒るだろう(大乗仏教の現実)とは思うけれど、それでもさ。
以上ですべての仏教宗派の壁を取り除いてしまったことになる。
どの仏教宗派もそれぞれの如是我聞なのだからそれぞれ「正しい」――。
新約聖書も如是我聞と言えなくもないだろう。
よくわからんが、イスラーム(イスラム教)は
ムハンマドとやらがアッラーの声を如是我聞したわけでしょう?
歎異抄は、優秀な唯円が田舎坊主の親鸞が(おそらく)言ってもいない深い内容を
天才的な耳で如是我聞をしたのち熟成させ完成させた記録と言えよう。
いまでも日蓮大聖人の肉声を如是我聞する人は大勢いるだろうし、
それはおのおの如是我聞という意味において優劣や正邪はないと言える。
創価学会の池田大作名誉会長のお言葉も、
信者さんはみんなそれぞれに如是我聞していると思う。

なぜ如是我聞でいいのかと言うと、人間は如是我聞しかできないからである。
自分の目や自分の耳でもってしか人の話を読めないし聞けない。
これはどういうことかと言うと、人間は自分の言葉(=体験)の限界をこえられない。
少しずつ体験(言葉)は増えるだろうが、
加齢とともに純粋さが失われるようなこともないとは言い切れない。
そもそも仏はそれぞれの心のなかにいるという説がある(仏性)。
そうだとしたら、如是我聞とは自分の心の深い声を聞くことなのかもしれない。
さらにそうだとしたら、釈迦とは無縁の大乗仏典も、
たしかに作者がおのれの心中でブッダと見(まみ)え聞いた話と言えよう。
だから、あなたやわたしも如是我聞の結果、自分だけのお経をつくることもできるのだ。
いつも前向きに明るく周囲を励ます指導者の口真似をする人生も立派だが、
それより劣るのかもしれないが自分の如是我聞を生きるのもおもしろかろう。
しかし、病的妄想のようなものを如是我聞してしまうと周囲は迷惑をこうむる。
いやいや、あんがい新興宗教の教祖になっておいしい思いができるのかもしれない。

ここから先は少しだけ専門的な話になるので、
わからなかったらそれは書き手が悪いのでどうかお読み飛ばしくださいませ。
大乗仏典に阿弥陀仏の教えを説いた大無量寿経というものがあるんだ。
なんでもおおむかしに法蔵菩薩(修行者)という人が誓願(誓い)を立てて、
数えきれない無数の生まれ変わりのあいだ修業を継続し、
結果として阿弥陀仏になったんだ~よ、というお話。
だからなんだと言うと、いま阿弥陀仏はいるだろう(え? 人によっては解釈が?)。
いま阿弥陀仏がいるんだから法蔵菩薩の誓願はかなっているという、
まあよくわからんお話である。
その法蔵菩薩の誓願はなにかというと、わかりにくいが原文を出そう。
いいか。わかりにくいからな。阿弥陀仏になるまえの法蔵菩薩はこう誓った。
(以下[カッコ]内は当方によるおせっかいな意味補充)

「わたし[法蔵菩薩]が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、
わたしの国[仏国土/浄土/極楽]に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、
わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます」
(「浄土三部経」本願寺出版社)


意味がわかりにくいでしょう? ロジックもなんだかいかがわしい。
むかし一回だけ藤沢にある時宗の寺で坊さんの話を聞いたときもわからなかった。
先日これがふいとわかったんだなあ。
要するにこれは、いまで言うところの成功者の言葉のようなものなんだ。
社会的成功者は若いときの苦労自慢のようなものをやたらアピールするじゃないか。
大無量寿経は、ゲスな言い方をすれば阿弥陀仏という成功者の苦労自慢だ。
おいおい、おらおら、おまえら、
成功者がむかしこう言ってるんだからこの教えは「正しい」んだよお、こらっ。
成功者はむかし貧乏なときにひとつしかないパンをさらなる貧者に恵んだ。
だから、彼は成功者になったし、彼の行為は「正しい」ことがわかるだろう。
成功者はむかし苦労人時代、
みんながおれさまの名前を読んだら(念仏)、
おれさまの国(浄土)へ呼んでやりたいと願った。
この願いがかなわなかったら、おれはさ、阿弥陀仏になんかならねえぞ。
大無量寿経というのは聖典というよりも、
俗っぽい元ワル(不良)の説いた尖(とん)がった成功哲学みたいなものなんだ。
おれさま阿弥陀仏さまの一代記みたいなさ、あはっ。
根本にある思想は、現在が過去を証明している。
もっとかみ砕けば、現在は過去の結果であるなのだが、
やはり「現在は過去を証明している」のほうがどちらかと言えば「正しい」だろう。

この教えのどこが救いなのかと言うと、ぶっちゃけこれ以上の救済はないのではないか。
釈迦が菩提樹のしたで悟ったとき、理解した内容もおなじである。
「現在は過去を証明している」――。
現在の状態はおのれの無限の過去世をあからさまに証明している。
現在、マイナスの状態にあるとしたら(貧困、病気、孤独、障害者、低学歴等々)、
それはあなたの努力が足らないというわけではなく、
無限ともいってよい過去世における結果としてそうなっているのだから、
それはもうどうしようもなく、しいてできることはマイナスをあきらめて、
アッハッハと笑い飛ばすことくらいである。
いまどんなにしんどくても苦しくても死後に浄土に往けるからいいじゃないか。
これはいくら人に教えても反発を買うだけで本人が心の底から納得しないと意味がない。
それにいまどき前世のみならず無限の過去世とかオカルトじゃんって話で。
そのうえ死んだら天国(極楽)に行くなんて、え? それ、科学的にどうよ?
しかし、過去世の存在の有無および死後の世界の有無は、
どちらも科学的計測の領域外で、科学的には「正しい」ことを著述できない。
これは法華経の最大メッセージになるが、
ある教えで救われる人がいるのなら、結果がよければ嘘をついてもよいではないか。
いや、結果がよければそれは嘘ではなく真実になる。
嘘ではない真実の教えを、本書から抜粋しよう。

「仏教では、人は遠い過去から輪廻転生を繰り返して現在に至っていると考える。
したがってここでいう悪業(あくごう)は、
人が生まれてから今までに犯した罪業だけではなく、前生での行いも含まれる。
因果応報といわれるように、前生の行いが原因になって今があり、
今生での行いを原因として未来に善悪の結果が生まれる」(P68)


まあ、現世はダメでも来世があるって思ったら(信じたら/騙されたら)、
いまは不遇でも、まあいっかという気分になるところが救いと言えば救いでは?
さてさて、話を変えると初期仏教では女性蔑視が激しかったが、あれは一理あるのだ。
というのも、苦の原因と言うのは明白に女性にあるからである。
仏教では生まれることは苦しみであると説く。
世の大半を占めるところの貧乏人の多産って不幸の大量再生産みたいなもんじゃん。
ここまで読んでくれている人は少ないだろうから自分の話を書くと、
去年大恩人の女性と5、6年ぶりに再会したのである。
どんなババアになっているかと思ったら、
むかしと変わらなく若くてきれいでチェッと思った(性格わるっ!)。
そのとき言われた言葉がいまでも脳裏を離れない。
「女って好きな男の子どもを産みたいって思うものなの」
これは真実の言葉で悪魔の言葉だと思ったものである。
生物学的に女性が子どもをほしがるという構造が、
あらゆる不幸を産出していると言えなくもない。

みなさんご興味がないでしょうが、観無量寿経っていう浄土経典があるんだ。
これがなかなか味のある話でさ。
むかしある国の王妃の不幸話。彼女は子どもがほしかったができない。
そこで占い師に相談したら、ある仙人が死んだのちに生まれるからそれまで待てと言う。
彼女は待ち切れずに王さまに相談して仙人を殺してしまう。
仙人は死ぬ間際、女を恨みのこもった目で見て呪いをかけたという。
おまえから生まれてくる子どもは長じて父王を殺すことになるだろう。
王妃はそれを聞いて生まれた男子を死にいたらしめようとするが、
赤子は運がよく小指を1本切り落としただけで死なずに済んだ。
青年になった四本指の王子は悪友から出生の秘密を聞いて激怒する。
王子は父王を餓死させようと牢屋にぶち込む。
王妃は夫のためにこっそり食物を持って面会に行っていたのだが、
それもばれて今度は四本指の王子は母親をも牢屋に閉じ込める。
どうしてこのようになってしまったのか。
すべては自分が悪いのだろうが、いくら過去を悔いてもどうしようもない。
いまもいまわが子は夫を殺そうとしている。
お釈迦さま、いったいこの苦しみをどうしたらいいのでしょうか?
ここに釈迦が飛んできて悩める女性に説いたのが観無量寿経である。
この女性に因果応報の話をしても聞く耳を持たないでしょう?
おまえがいま苦しいのは過去世の因縁のせいだと言われてもヒステリーを起こさせる。
釈迦は苦悩する女性に現実を見るなと教えた。
現実ならぬもの(仏や浄土)、不思議なものを観想すればそのとき救済される。
思弁的な話をすると、善とか悪とか幸福や不幸は相対的な言葉に過ぎないわけ。
絶対的な真実の不可思議光明(不思議な光)に照らされたら善悪も禍福も消え去る。
犯罪者的な考えと嫌われるかもしれないが、どうして子どもが親を殺してはいけないの?
どうして親子は愛し合わなくてはならないの?
どうして人が死ぬのは不幸なの? 子どもが生まれるとなぜおめでたいの?
本当のところはすべてわからないわけじゃない。
そういうスーパーフリーな境地にいるのは狂人か不思議ちゃんでしょう?
でも、その段階まで行けば例の悩める女性は救われるのである。
ちなみに本書では仏教用語の不思議をこう説明している。

「不思議――サンスクリット語でアチントヤといい、「不可思議」とも訳す。
言葉で言い表わしたり、心でおしはかったりすることができないこと。
ブッダの悟りの境地などを表わし、
『華厳経』や『維摩経』は『不可思議解脱経』と呼ばれ、
阿弥陀如来[阿弥陀仏とおなじ]は『不可思議光如来』とも呼ばれる」(P88)


当方は大学で仏教を学んでもいないし寺院での修業経験も皆無なのでわからないが、
たぶん仏教は善悪(プラスマイナス)の問題から入るのが一般的で、
善悪や生死の問題にとどまるのも人間味があって非常によろしいが、
仏典などを読みまくって狂人に近づくと善悪を捨てて、
(仏教で言うところの、言葉にならない)不思議な世界に入っていくものもなかには現われ、
彼はうまく弟子とめぐりあうと教祖的(開祖的)な偉人とみなされるような気がする。
リスカ(リストカット/手首ちょん切り)好きの不思議ちゃんが
高僧に近いのかと問われたら、それは違うとも、
あんがいそういう面もあるのかなあ、とも両方思う。

しかし、我われは不思議な世界にばかり生きてはいけず、
現実世界で生活していかなければならないという面がある。
善悪や禍福、損得、生死のない不思議な感覚では世を渡っていけない。
このとき非常に役立つ現実的かつ功利的な教えが、あの有名な法華経である。
おそらく生きる意味も、生まれてきた意味も、なにもないのだろう。
おそらく善悪もなく、殺人や自殺をしてもぜんぜん構わないのだろう。
けれども、そんなスーパーフリー状態を生活者は受容できない。
とりあえず勉強したらいい学校に入れるぞ(いい学校は本当に善かとか考えるな)。
いい学校に入ったらいい会社に就職できてお得だぞ(そういうことにしておこう)。
いい会社の正社員だったら、きれいで気立てのいいお嫁さんをもらえる(ほんとかよ?)。
こういうふうにごまかしながら最後の死を見ないで生きていくのが古今生活者の生き方だ。
こうしたら幸せになれるというのはみんな嘘だが、
その嘘を信じたら結果的に世間体はよくなり、ならばそれはそれでよく、
ならばそうだとしたら、結果的善のために嘘をついてもよく、
というか結果が善になれば、それは嘘ではなく真実になるのではないか。
勝てば官軍というのは、戦争では勝利したほうが「正しい」という論法だ。
法華経も結果至上主義で、結果が大勝利ならば、
そのひとり勝ちをもたらしたものがたとえ嘘であったとしても、
いまの大勝利が過去の嘘を真実に変えてしまうという妙なる教えである。
言葉は本来、真実や嘘という属性を持っておらず、
結果をよくする言葉ならばそれらは現在の勝利に支えられて真実の言葉となる。
現在こそが過去の言葉の真偽を決定する。
法華経を信じて読誦した結果、
快活な生きる高揚や快感に近い正義感(独善感覚)を味わえるのならば、
その結果をもってして法華経が「正しい」真実の法であることの証明となる。
ある言葉を真実か嘘かを決める基準を未来の結果にゆだねる。
いまなにかの言葉を真実かとか嘘かとか判定しない。
哲学や論理学には(にも!)まったくの無知だが、
法華経は学問を軽く凌駕(りょうが)したとんでもない教えなのではないだろうか。

たとえば創価学会員は毎朝、法華経のこの部分を読むことになっている。
「法華経 如来寿量品第十六(自我偈)」である。
悪質セールスマンの決意表明みたいでとてもおもしろい。本書から訳を書き写す。

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)医者が巧みな手段によって
本心を失った子どもを治すために、
(医者が)実際には生きているのに、自分はもう死んだのだと言って、
子どもの病気を治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」(P102)


法華経はやべえぞ。書き直す。
「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)セールスマンが巧みな手段によって
ものの価値を知らないお客さんに幸福になってもらうために、
(私が)実際にはまだ使える商品なのに、それはもう故障していると言って、
非常に使い勝手のいい新商品を買ってもらったとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)母親が巧みな手段によって
勉強嫌いの子どもを治すために、
(現実は)勉強してもいかんともしがたい能力差は存在するのに、
努力はかならず報われるのだと言って、
子どもの勉強嫌いを治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

いくらでもおなじパターンで真実の言葉を創価創造できそうなので震えが来る。
このブログにも繰り返し書いてきたが法華経は「嘘も方便」を巧みに説明している、
とびきり現実的で役に立つ最勝の妙法なのだと思う。
著者は誠実そうだから、
法華経の実効性および有害性には気づいていないのではないか。
いんや、著書多数のいうなれば成功者だから、あるいはとっくにお見通しかしら。

「嘘も方便。たしかに父は嘘をついたのだが、それは子どもを治すための嘘で、
よい結果をもたらしたのであり、決して嘘偽りを言ったことにはならないのだ」(P188)


こんなお経の本など読んでいる場合ではないのに、
どこまでわたしは不思議中年なのだろう。
3月いっぱいで賃仕事を失い、無職無収入になるのに、こんなことをしている場合か。
しかし、わたしには南無阿弥陀仏(念仏)と南無妙法蓮華経(題目)がある。
念仏も題目も肝心かなめは「南無」にあるから、
わたしはどちらも似たような意味だと思っている。

「帰命(きみょう)――サンスクリット語ではナマス。これを音写して「南無」という。
身命を投げ出して信心することで、いってみれば「命預けます」ということだ」(P222)


南無阿弥陀仏は精神的平安に効果があり、
南無妙法蓮華経は現実面生活面における実効性がすぐれているような気がする。
4月からも南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経があるから大丈夫。
どちらが強力かと問われたら、南無妙法蓮華経のほうではないか。
では、最後に声高らかに、南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!



読書のおともには紅茶とコージーコーナーのおいしいお菓子を♪

COMMENT

しろゆき URL @
02/24 17:33
. はい、次








 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4783-7d316827