「五年目のひとり」

11月19日にテレビ朝日で放送された朝日賞作家であられる、
朝日新聞に登場することも多いと聞く、
脚本家・山田太一の新作ドラマ「五年目のひとり」を視聴する。
いずれも酒を飲みながらだが、5回も視聴したものである。
それでも飽きなかったのはドラマがじつによくできていたからだと思う。
山田太一ドラマはいつもそういうことが多いが、このドラマにも悪役がいない。
このドラマのすごいのは悪役ばかりではなく明確な善人も存在しないことだ。
みんなそれぞれ自分勝手な自分の都合で行動して、
結果として自然にうまくまとまりを見せる世界観を山田太一は見事にドラマ化している。

5年まえの津波で妻や娘、息子をふくむ家族8人を亡くした中年男(渡辺謙)。
3年後にどっと悲しみが押し寄せ自分から精神病院に入った。
いま病院から出てきて薬とも遠のいた。
してはいけない話なのだが、家族が大勢自然災害で死んだのなら賠償金も出ていよう。
すぐに生活に困るという懐(ふところ)事情ではない。
しかし、いったいこれからどうしたらいいんだ? なにをしたらいいのか?
ここで同郷の世話焼きババアの市原悦子の選択が偉い。
いま住んでいるアパートの近所に「ここだけのパン屋」というベーカリーがある。
そこの奥さんが急性のすい炎で倒れて、いま人がいないという。
社会復帰の一環としてそこでリハビリをしてみたらどうか?
リハビリなんだからお金をいっさいもらわないボランティア。
またまあボランティアでもなければ、いかつい50過ぎの男をパン屋で雇ってはくれまい。
わたしもこのドラマを見てパン屋でバイトしたいと思ったが、
東京都最低時給でも当方を
パン屋の売り子として採用してくれるマスターはいないだろう。
市原悦子は先がどうなるかをなにも読まずに、
「なるようになるさ」「なるようになれ」と(いわば重症の)渡辺謙を
町の小さなパン屋に放り込んだのである。
「先の先は読めない」ことをわかっているこの世話焼きおばさんの知恵の深さと言ったら!
そこを描けるもはや80歳を超えた山田太一の筆力もまたどうだ!

「ここだけのパン屋」マスター(高橋克実)の自分勝手ぶり、
自己都合優先の態度がとても好ましい。
たとえばかつて被災地に善意からボランティアに行ったものたちと、
まるで正反対の生活者意識をマスターは有している。
他人を助けるのたいせつだが、しかしそのまえにまず自分を守らなければならない。
ただ働きをしてくれる渡辺謙相手に、
パン作りのノウハウは教えないとすごむところに(17年のノウハウを教えられっかよ!)
生活者の根本にある自己防衛本能を見たと言ってもよい。
それを書いてしまえる庶民派作家、山田太一に朝日賞を与えたのは悪ふざけかなにか?
なにかをかかえてリハビリ中の渡辺謙にマスターは、
「(女房が入院して、また近隣の商店が閉店して)こっちもこっちでたいへんなんだ、
あんたをいたわっている暇はない」と言い放つ。
ありがとうと言われたがるボランティアより、よほど本音のマスターに好感をいだく。

なにが渡辺謙を救うのか? だれが家族8人を津波で亡くした渡辺謙を救うのか?
ドラマを5回を見ると、渡辺謙を救っているのは自分なのである。
渡辺謙のしいて言うならば無意識が渡辺謙を救済している。
50過ぎの渡辺謙は散歩がてら近所の中学校の文化祭に立ち寄った。
そこである女子中学生(蒔田彩珠)に目を奪われ、
胸をわしづかみにされるような思いをする。
少女は大勢の一員として(AKB48のような)ユニットダンスを踊っていた。
あるいは、ここまでならよくある話かもしれない。
待ち伏せしていたのかもしれないし、たんにぶらぶらしていたのかもしれない。
別の日たまたま学校の近くにいた渡辺謙は下校時の女子中学生を見かけ、
あの子だと思い、歩道橋で声をかけてしまう。
歩道橋というのがいい。ふつう人と人とはめぐりあえないようになっている。
歩道と歩道は車道があるため、歩道橋や横断歩道がなければ向こう側には行けない。
渡辺謙はどうして自分がそれをするのかも、それがいいのか悪いのかもわからず、
ただただこみ上げる思いのままに女子中学生の蒔田彩珠に声をかけてしまう。
「あのダンスできみがイチバンだった。きみがイチバン、キレイだった」
ドラマ「五年目のひとり」を動かしたものは渡辺謙の口から出たこのひと声である。
何度見返してもドラマ力学的な動因は、
この渡辺謙の自然に思わず出てしまったセリフである。
渡辺謙も言おうとねらっていたわけではなく、思わず言ってしまった、
しかし言わずにはいられなかったひと言である。
「きみはキレイだ。イチバンだった」

平凡な一家の凡庸な娘がそういわれたと聞けば、母親は警察に通報してしまう。
そうすると家に警察までやってくる大騒ぎになる。
自分がありきたりなつまらない女子中学生だと思っていた蒔田彩珠は、
「キレイ、イチバン」と言われたことが天にも昇るほど嬉しかっただけなのに、
それを大人に言うとこういう警察沙汰になってしまう。
50過ぎの中年男と女子中学生。
最初こそアプローチをかけたのは中年男だが、
以降ほとんどは女子中学生からアタックをかけることになる。
あたしがキレイってどういうこと? あたしがイチバンってどういうこと?
あたしはテレビで踊っているような美少女じゃないし、
父親は工員、母親はパート、兄は筋トレバカ。あたしなんてなんにもない。
どうしてあたしがキレイなの? あたしがイチバンってどういう意味?

個人情報保護なんていう建前が幅を利かせるくらい日本人はオフレコ話が大好きなのだ。
「これは秘密だけれどね」
とだれかから聞いた秘密を他人に話すことほど楽しいことはない。
人生で辛酸をなめてきた苦労人は、
「これは秘密よ」
と伝えることで個人情報が拡散できることをよく知っているものとも言えよう。
わたしは苦労人でもなんでもないが、
職場で同僚に話した秘密はまず広まるだろうという人間不信的前提を根に持っている。
5年まえの津波で家族を8人亡くしたというのが、イケメン中年の渡辺謙の秘密である。
まずはどこか家政婦の香りがする(家政婦は見た!)
市原悦子がマスターに秘密をばらす。
こういう守秘義務違反はいちおう悪になっているが、
最終結果的には(悪とされるものが)善になっていることに注目したい。
渡辺謙が心底から市原悦子に秘密を守ってほしかったのかどうかもよくわからない。
今度は渡辺謙をただ働きさせてウハウハのパン屋のマスターが
女子中学生の蒔田彩珠に秘密のみならず個人情報である住所まで教えてしまう。
ほとんど善意や法令順守といった建前が見当たらず、
自分勝手とも言いうる個人的好奇心や
いいかげんさがドラマを動かしているのがおもしろい。
女子中学生は単身行動し、
孤独な「五年目のひとり」を生きる渡辺謙の部屋のドアを開け広げ中に分け入る。
これはもう女子中学生にしかできない仕事であろう。
ふつうの大人は、津波でどうこうという孤独な人には、
さすがに5年も経つと手を出しようがない。
「お気の毒様です」とか「ご愁傷様です」とか、そんな陳腐な言葉しか出てこない。
言葉ですら出て来ないのに行動に移すなんてもってのほかで、
こういうのは小学生も高校生も持ち合わせぬ、
大人と子供の境界にいる女子中学生ならではのパワーなのだろう。
あたしがキレイ? あたしがイチバン? それどういうこと? この中年男はなんなの?
世間のことをまだよく知らないある意味では無垢の
別の意味では意地悪な女子中学生が、
上級ボランティアでも不可能なことを意図せずやり遂げた過程を描いたのがこの物語だ。

あたしをキレイ、イチバンと言ってくれた人が家族を大量に亡くした被災者で、
いまも狭い部屋で段ボールに囲まれ片づけられないで生きている。
なにかせずにはいられないではないか?
蒔田彩珠とその友人、イッコと雪菜は掃除をするため、
女子中学生ならではの純粋さと無神経さを振りかざして
「五年目のひとり」を生きる孤独な中年男の狭い部屋にズカズカ入っていく。
市原悦子も高橋克実もできないことでも、女子中学生3人ならばすることができる。
蒔田彩珠は掃除中、
開けてはならないと言われた押し入れから秘密のバッグを見つけてしまう。
ここが問題なのだが、渡辺謙は秘密のバッグの中身を見てほしくて、
あえて蒔田彩珠に押し入れを開けないでくれとお願いした可能性も考えられるからだ。
女子高生なら秘密を見ただろうが、
中学生の蒔田彩珠は押し入れこそ開けたが秘密までは見なかった。
しかし、多感な少女の勘をなめてはならない。
平凡な少女は悲惨な被災者の中年男に問いただす。
「あたしはキレイでもイチバンでもない」
「あたしのことをそんなふうにほめてくれたのは、
死んだ人のひとりにわたしが似ていたからではないですか?」
イケメン中年男で被災によりさらに黒光りした渡辺謙は少女にイエスと答えてしまう。
それどころか別れ際、本名は亜美という少女を礼子と呼んでしまう。
礼子は中年男の亡くした実子の名前である。

しかし、本当に本当に本当は本当なのだろうか?
蒔田彩珠は友人のイッコと雪菜とともにまたもや中年男の牙城に分け入る。
実際にお嬢さんの写真を見せてください。
そうしないと本当に亜美(蒔田彩珠)と似ているかどうかわからないじゃないですか?
これも大人ならナアナアにすませることで、
こういう訪問は女子中学生にしかできないだろう。
このドラマでこのシーンがいちばんおもしろかった。
人間の自己同一性(アイデンティティ/私であること)って、どういうことなんだろう?
もし死んだ礼子の写真と亜美(蒔田彩珠)が似ていなかったら
渡辺謙はロリコンのキチガイ。
かりに礼子と亜美が似ていたら、どうしてか渡辺謙は正常という判断が世間から下される。
わたしもふくめて、違う人をそっくりだと思うことってけっこうあるんじゃないかなあ。
かなりのところそのあいまいさ(あいまいな感覚)は
生きる上での救いになっていないか?
しかし、テレビ朝日の放送するドラマでは
礼子と亜美が似ていなかったら渡辺謙は精神病。
わたしが直前まで期待したのは、キャメラが最後まで礼子の写真をうつさないことである。
しかし、キャメラは死んだ礼子の写真をうつした。それは亜美とそっくりだった。
ならば国際的映画スターの渡辺謙はキチガイでもロリコンでもない正常な被災者である。
このテレビドラマは朝日賞作家の書いたまこと芸術的なご作品ということになろう。

人びとのもやもやした感情に言葉を与えるのが小説やドラマ、精神医療の役割である。
ドラマの最後で被災者で精神病院入院患者だった渡辺謙は独白する。
ふるさとの福島に帰るときである。
とにもかくにも渡辺謙はご両親に蒔田彩珠(亜美)とはもう逢わないと約束した。
しかし、それでは、あんまりではないか――。

「亜美さん、むかし日本人は逢えないときは手紙を書きました。
いまおじさんはそうしています。
次の土曜日の午後3時、おたくの近くの、あの歩道橋の下まで来てくれませんか?
のぼらなくていいんです。
道路のこっち側からひと目逢いたい。手を振りたい。
約束違反だけど、そのくらいは破らせてもらいます。逢わずに福島へは行けない。
振り返ると亜美さんは、はじめて見たときから(礼子ではなく)亜美さんだった。
亜美さんとしてすばらしかった。
娘の代わりなんかじゃなかった。ただ娘が引き合わせてくれたと思っています。
そして、娘の生きられなかった人生をいま、
亜美さんが生きてくれていると勝手ながら思っています。
死んだ人はそれで終わりじゃないと思っています」


東京(?)を離れ福島に戻る約束の日時に少女は来てくれる。
車道を挟んで渡辺謙は蒔田彩珠に言う。「ありがとう」
車の騒音で男の声が聞こえない少女は聞き返す。「え?」
中年男は相手が聞こえないのをわかったうえで、
あえてゆっくりと繰り返す。「どうも、ありがとう」
「こんなのいや」と少女は返す。「行きます。そっちに行きます」――。
長い歩道橋を渡るとそこにはだれもいない。少女はもらす「かっこつけんなよ」――。
少女は男のことを5年も経てば忘れるだろうが、
中年男は死ぬまで彼女のことを忘れないだろう。
礼子としてではなく、たまたま亜美という少女と出会ったことを男は忘れないだろう。
人間は車道をこえて、たとえば歩道橋を乗りこえて向こう岸に行くことはできない。
(他人のことはどこまでもわからない)
しかし、歩道橋の上でなら一瞬なら瞬間的になら逢えるのではないか。
善意やボランティアもいいが、
あるいはそれよりも無視放置、自分勝手、
(不謹慎ともいうべき)下世話な好奇心、(キレイやイチバンという)虚栄心のほうが
苦しんでいる他人を意図せずして救うこともあるのではあるまいか。
そういうかなり難しい問題を、学術論文ではなく、庶民にもわかるように
かみ砕いて描写して見せた山田太一のドラマ手腕には本当に降参した。
「五年目のひとり」はキレイでイチバンだった。

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