「「あいまい」の知」

「「あいまい」の知」(河合隼雄・中沢新一編/岩波書店)

→本書は1999年に国際文化研究センターで行なわれたシンポジウムの書籍化。
冒頭、当センター所長の河合隼雄はあいまいは絶対善とか、
そういうものではないことを断っている。
あいまいとはものすごくかんたんに説明すれば、
イエスともノーとも言えないことである。
あいまいだなあ、とはつまりイエスかノーかわからないということであろう。
しかし同時に、あいまいではなく本来なら言葉で説明可能なことを、
怠惰にあいまいにごまかしているケースもあるのではないかと河合は指摘する。
しかし、本当に言語では伝達不可能なこと、
記号化や数字化できないことがあることも丁寧に示唆している。
そして、日本人が好むあいまいさは責任の所在を不明確にするという有害性を
たぶんに持っていることをはっきりと切り出している。

アルバイト、契約社員、正社員、係長、課長、部長……
と職位が上がっていくということは、それだけ責任が増してくるということである。
しかし、あいまいを好む日本人はあいまいなままなかなか責任を取ろうとしない。
今月でわたしは会社をクビになるが、だれが責任者なのかよくわからない。
たぶんだれかがが工場長に「あいつが職場をダメにしていますよ」
と讒言(ざんげん/密告)したのだと思う(違うのかもしれないが)。
工場長もそう言われたら責任者として、なんとかしなければならない。
だが、そもそも工場長とわたしはろくに話したこともないから、
工場長がよくわからないわたしという人間をクビにしていいのかわからない。
しかし、本人が自分から退職届を書いてくれたら、それは本人の自己責任になる。
わたしはだれがわたしのクビを決めたのかわからないので問いただす。
すると、あなたは自分で勝手に辞めたんでしょうとやられる。
さらに異議を申すと、本社のより責任が重い役員がやって来て、
我われが辞めさせたのではなく、あなたが自分で辞めたんでしょうと言われてしまう。
結局、あいまいなまま責任がどこにあるかよくわからなくなってしまうのである。
あいまいにはこういう欠点、短所がある。
大きな話をすれば、たとえば太平洋戦争中に
大将がミッドウェイ海戦の敗北の責任を取らないという事態になる。
しかし、本当に責任の所在者などいるのだろうかとまた河合はひっくり返す。
わたしの退職にも責任者(犯人)などもしかしたらいないのではないか。
答えは、わからないまま、言うなればあいまいというのが本当に近いのではないか。
同僚の総意もあり、上司の思惑もあり、かつ当方の無意識的願望もあって、
このたびのクビになったのではないか。
それは責任の所在を追求しないあいまいな日本的思考法だが、
かならずしも西欧的思考法に劣っているとばかり言い切れないのではないか。
当時、国際文化研究センター所長(責任者)だった河合隼雄は言う。
河合隼雄はつねに「私だったら」という視点から話を始める。

「では私としてはどう生きればいいのか。心の敗戦を認めて、
もっと「Yes」「No」を明確にするような
「明確さの世界」というものを選択したほうがいいのか、
あるいはやはりそこは明確にせずに、その中に何かあるといったほうがいいのか。
ところが、私自身の事として考える場合、
日本的曖昧(あいまい)さというほうを引きずっていきますと、
責任はどうしても曖昧(あいまい)になるんです。
というのもミッドウェイの海戦を分析すると確かに大将は判断は間違っている。
しかし、これは[西欧]近代科学的な方法で分析するから
大将が間違っているのであって、
もっと日本的な考えによるとそのときのお月さんの出かたとか、波の揺れかた、
それから星の輝きとか全部責任をもっているわけですから、
そのときその大将だけを追求することは絶対に間違っているわけなんです。
さらにいえば、ミッドウェイの海戦でアメリカは勝って日本は負けた、
だから日本はだめだなんていうのだけれど、
人生は無常だということを知っている人にとっては、
勝っても負けてもそんなに大して違わないんですよ。
もっと大事なことは死んだ方々がどこへお行きになったかで、
その海戦で死んだ方々の魂が今どこにいるかということの方が
そうした見方からすると非常に大事な問題です。
私はそうした考えも何か正しいように思うんですよ」(P10)


「責任はこの人にこそある」はイエスかノーかではなく、
全体との連関で事態がそうなってしまったという、
はっきりしないあいまいなものの見方である。
これは全体責任とも無責任とも言われかねない危ない考え方である。
それでも河合隼雄は言う。
組織の責任者、国際文化研究センター所長の河合隼雄はこう言っている。
おっと河合隼雄は心理療法家(臨床心理士/カウンセラー)のボス猿でもある。

「たとえば私が誰か[相談者]と向き合っているときに、
だれかが「死ぬ」と言った場合はその範囲内において
私は明確な態度を取らなければならない。曖昧(あいまい)さは許されない。
あるいは私は所長という役割でこの国際日本文化研究所センター内の
ことをやっている限りは、絶対に明確な態度を取らねばならない時がある。
それは限定された範囲内においてとっている。
しかしそれは、それが正しいとか、それは唯一の策であるというのではなくて、
その範囲を広げてみれば、非常に多義的なものである。
たとえば先ほどもミッドウェイの話をしましたが、
勝つか負けるかということは絶対的に大事なように思っているけれど、
ひょっとしたらこれは大事ではないかもしれない。
つまり私はここ[国際文化研究センター]の所長として
ここが継続するということは大事なことのように思っているけれど、
全然大事なことじゃないかもしれない。
そういう多義性というものをもっているほうが
自分の生活が非常に豊かになるんじゃないか。
だから、[国際文化研究センター所長で心理療法家の]私は
何かを自分の意志で操作するというよりは、むしろ何かを鑑賞している、
appreciateしているという態度の方が強いのではないかとさえ思っております」(P14)


責任者はものごとを正しくoperate(操作、支配、コントロール)すべしとされている。
しかし、本当に正しい客観対象などあるのか。
宇宙物理学と計算学が専門のピート・ハット教授はいう。

「日常生活においてさえ、この[あいまいな]中間点はいたるところに見出せる。
同じ一つのリンゴが、農家の人にとって経済的価値をもつものとなり、
化学者にとっては化学成分として分析可能な対象となり。
画家にとっては絵になるものになり、
また誰にとっても、味わい、食べることのできるものとなる。
現実世界の一部として見るとき、リンゴはリンゴである。
しかし、画家はそのリンゴを、農家の人や化学者とは異なるテリトリーに入れるのである」(P60)


立場によっておなじものでもさまざまな見え方をするよねえって話。
かといって、なんでもないことをあいまいと思っているという可能性もある。
比較宗教学が専門の町田宗鳳は言う。

「物事が曖昧(あいまい)であるかどうかの判定は、
きわめて主観的かつ相対的なもので、
ある人間にとってはどこまでも曖昧に見えることでも、また別の人間にとっては、
明晰きわまりないというようなことも大いにあり得るのである。
たとえば日本語で誰かが「それはちょっと……」といえば、
その返答が意味するところに日本人なら疑いをさしはさむ余地はない。
ところが日本語を学習してまもない外国人なら、
その曖昧な返答がいったいイエスなのかノーなのか判断しかね、
大いに戸惑いを覚えるであろう」(P123)


「あなたにこの給料は払えない」
「どんどん悪くなっている」
「いつかよくなると思っていたが、もう我慢の限界だ」
「あなたの代わりはいくらでもいるんだ」
「あなたはみんなから評判が悪い」
「あなたと話しているとイライラする。あー、腹が立ってきた」
「ほかの仕事が向いているんじゃないか?」
「最近入ったIさんはあなたなんかよりよほど優秀だ」
――これは日本人なら「辞めろ」と解釈するのがふつうでしょう?
でも、密室での会話だし録音もとっていないから
真実のようなものはあいまいなままである。
で、退職届を準備してあったかのようにさっとまえに出されればふつうはサインする。
退職理由の欄で迷っていたら「これ以上会社に迷惑をかける気か?」と言われる。
わたしは「辞めろ」と言われたと思ったが、
立場が上の相手は「辞めろ」とは言ってないといくらでも言い張ることができる。
結局、真実というのはなんなのか?
科学哲学、科学史が専門のエヴリン・フォックス・ケラーは、
精神分析医のミルナーという人の言葉を引く。

「人間や出来事の真実を見るというということは、想像するという行為を必要とする。
なぜなら真実は、どれか特定の時刻に、
まるごとの全体としてわれわれの感覚に提示されることは決してないからである。
直接的な感覚体験は常に断片的であり、
創造的な想像力によってひとつの全体へと組み上げられなければならない」(P107)


わかりやすく言い換えたら、まあ、みんなそれぞれの妄想を生きているよねって話。
みんなそれぞれの断片的な妄想を真実だと思っていて、全体図はつかみようがない。
人間にとって世界とはあいまいなままでしか認知できないものである。
我われはせめて数学くらい明晰なものだと思いたいが、
数学にもまたグレーゾーン(白黒つかない世界)があるらしい。
それはゲーデルという人が発見した「証明不可能性」の問題である。
なんでもこの数式は平易な言葉に言い換えることができるらしい。

「誰かが「私は嘘をついている」と述べたとして、
その人物は真実を語っているのだろうか、それとも嘘をついているのだろうか?
この問題に答えようとすると、われわれは難問にぶつかるのである。
実際、もしもその人物が真実を述べているなら、発言内容は嘘でなければならない。
一方、もしもこの人物が嘘をついているなら、発言内容は真実ということになる。
いったいどちらが正しいのだろうか?
これに関してわれわれには何とも言えず、どちらも正しくはない。
この人物が述べたことは簡単明瞭であるにもかかわらず、白か黒か、
イエスかノーかという単純な分類の境界を飛び越えているのである」(P56)


河合隼雄さんはよく「私は嘘つきです」と言っていたらしいけれど、これなんだよねえ。
河合隼雄の本はだいぶ読んだが、どこが本当でどこが嘘かよくわからないのである。
しかし、そのわからないというのが本当かもしれないわけだから。
本当か嘘かはよくわからず結局あいまいなままというのが真実なのかもしれない。
わたしだってなんでいまの会社を辞めることになったのかよくわからないのである。
会社サイドは「おまえが辞めるって退職届を書いたんだろう」と言うだろう。
わたしからしたらあの密室の会話は「退職勧奨」のほかのなにものでもなく、
ああいうことを言われてなお会社に残ることは日本人には無理だと言いたくなる。
しかし、無意識まで考えてしまうと、
無意識では会社を辞めたかったのかなと思うことが絶対にないわけではない。
辞めたがっているのを周囲がお察ししてくれて(しかし条件面では辞められない)、
わたしのことを考えて退職させてくれたのかもしれない、と言ったら人がよすぎか。
だれが悪いとも思えないし(自分もふくめて)、
こうなった経緯(いきさつ)はよくわからないし、言うなればあいまいである。
本書はあいまい(=よくわからん)の価値を見直そうという本である。
自称嘘つきの河合隼雄さんの以下の言葉は本当なのか、それとも嘘なのか。

「こうやって自分の力の及ぶかぎりあいまいさを保持していると、
自ずから解決が見えてくることが割とある。
それはその人の内的体験として自然に生じるからうまくゆく。
そういうこともあって、あいまいさを尊重するという態度は、
僕にすごく身についてきたと思うんです」(P273)

「なにもかも明確にやれば答えが得られるという考え方ではなくて、
わからないけれど、そのままで待っていようとか、もっていようということから、
さっきの日曜大工的知恵が生まれてくる」(P303)


だれが犯人かと考えても詮(せん)ないし、
自責や後悔もいまさらあまり意味がないから、
あいまいなままにしておくほかないのだろう。
考えてみたら生きている意味も、あいまいと言えばあいまいと言えなくもなく……。

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11/24 20:31
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