「因果にこだわるな」

「因果にこだわるな」(ひろさちや/春秋社)

→やっぱり受賞歴ゼロの売れっ子仏教ライターひろさちやさんの本はいいなあ。
われわれはなにか起こるとすぐに原因を探そうとするじゃない。
ぶっちゃけ、原因がなにかなんてわからないし、
わかっても道は後悔しかないのだけれど。
いつだったか職場で機械の調子が悪く雰囲気が最悪だったときがある。
その最悪のタイミングでわたしが結束機を壊してしまった。
正確には、当方が壊したのかどうかよくわからない。
とにかくよく壊れる年代物の結束機で、長らくだましだまし使っているのである。
しかし、買い替えると百万円を超えるらしく、だましだましのほうがいいらしい。
わたしの言い分としては、わたしが壊したのではない。
たまたま最後に使ったのがわたしだと言いたいわけ。
ひろさちやさんがよく使うたとえだけれど、
満員のエレベータに最後に乗ってピーと鳴らしちゃう人は原因ではないでしょう?
たまたま最後になったから原因のように思われるだけで。
いまの職場がすごいと思ったのは、
結束機に関してだれからもなにも言われなかったこと。
最後に使ったのはわたしだと知っている人も多かったが、
みんなわたしが原因だとは言わなかった。
あの状態だとだれが「わたし」になってもおかしくなかった。
というか、いつ壊れるかわからないオンボロだから、
最後に使った人を原因とみなす風習がむかしからなかったのかもしれない。

原因を考えないって、かなり老賢者のたたずまいを感じさせる態度だと思う。
どうしてわれわれはなにか起こると原因を考えたがるのだろう。
それは「間違った因果論」ではないか。

「「間違った因果論」というのは、
――物事が起きる背後には、必ず原因がある――
というものです。あるいは少し表現を変えるなら、
――原因なくして結果はない――
となります。
このような「間違った因果論」に
われわれは毒されているのです」(P107)


なにが真の原因かなんて人間にはわからないのかもしれない。
そういう世界への畏怖を持とうと、老賢者っぽい仏教ライターはライトに語る。
では、問題が起きたときにどうしたらいいのか。
われわれは原因を考え、原因をめった刺しにするほか道はないように思っている。
しかし――。

「原因なんか追究しないほうがよろしい。
で、原因追及をやめて、どうしますか……?
――縁が悪かった――
と思えばいいのです。どちらが悪いのでもない。
ただ縁の行き違いによってトラブルが生じるのです。(……)
<相手が悪いわけではない。
相手だって一生懸命やってくれているのだ。
しかし、行き違いになった。ただ、縁が悪かったのだ>」(P50)


なにかを悪者にするならば、たとえるなら縁が悪かった。だれも悪くない。
わたしはいま重度の顔面神経麻痺で複数のお医者にかかっている。
こういう「不幸」のただなかで原因探しを始めちゃうと鬱(うつ)の闇へ入っていく。
あいつが悪いとか、自分が悪かったのだとか。
ちなみに苦しさは比較できるものではないが、
犯罪被害者遺族よりも自死遺族のほうが苦悩することが多いような気がする。
犯罪被害者遺族は犯人を原因として恨めるけれど、
自死遺族は自分が悪かったのではないかと死ぬまで苦しむわけだから。

「でも、もう、そういう苦しみ・悩みはやめにしませんか。
原因なんて、いくら考えたって分からない。
すべては因縁によって生じたのだ。
そして、その因縁を過去に遡(さかのぼ)って変えるわけにはいかないのだから、
わたしたちはいまある状態をそっくりそのまま受け取ればいいのです。
それが仏教の教えです。
要するに、仏教の教えはくよくよ考えるな! ということです」(P132)


顔面神経麻痺というのは悩む人はかなり苦しむと思う。
なにせ顔は自分の看板のようなものなのだから。
でも、いくら苦悩しても状態に影響しないし、
原因がわかっても急性期を過ぎたら打つ手がない。
わたしは自死遺族で、そのほかいろいろなマイナスも経験した。
だからか、このたび「また来た」顔面神経麻痺には
それなりにうまく対応している気がする。
いんちき(だからほんものの)仏教ライターひろさちやの愛読者だしね、こちとら。
治るときは治るだろうし、治らなければ治らないと最初からあきらめていた。
いま発症から2ヶ月以上経ったが、
左目のウインクがわずかにできるようになったし、
口笛は吹けないけれど少し音は出るまで自然復活している。
これはなにが原因なのかわからないのね。過去に山のように薬を飲んでいるし。
もしかしたら、医者にかからなかったら、いまもっと回復しているのかもしれない。
いやいや、やはり医者にかかったのがよかったのかもしれない。
けれど、処方薬は無難なものしか出されていないし、なにが効いたのかはわからない。
そもそもどうして顔面神経麻痺になったのかも、究極をいえばわからない。
わたしは外傷性だと思っていたが、そうではないかもしれないという医者もいるし、
さらにおもしろいのは原因はなんだとしても取るべき医療はおなじなのである。
まあ、メチコバールという有名なビタミン剤を処方するしかないという。

「災難にあって、災難から逃れようとしてもがけばもがくほど、
よけいに苦しみが大きくなります」(P97)


顔面神経麻痺でネット検索するといろいろヒットするが、
そういうところに通えば通うほど苦しみが増すような気がする。
具体的には金と時間がかかり、さらに顔面神経麻痺が気になってしようがなくなる。
もしかしたら世界の裏側は「わからない」のかもしれない。
どうして顔面神経麻痺になったのかも「わからない」し、
どうしたらよくなるのかも「わからない」し、
果たしてよくなることがいいことなのかも突き詰めると「わからない」。
みんな「わからない」ということをわかるのが仏教なのかもしれない。
どうして「大風が吹けば桶屋が儲かる」のかは「わからない」が、
現実にそういうことはれっきとしてあるのだから、そういうこともあると認めること。

「ところが、最近は自然科学のほうで、
――北京で蝶が翅(はね)を展げるとニューヨークで大風が吹く――
といったような理論(バタフライ理論と呼ばれています)があるそうです。
自然界の仕組みは、何が何とどう関連し合っているのかは分かりません。
まったく関係がないと思っていたことにもあんがい関係があるものです。
そうすると、大風が吹いたために桶屋が儲かることも絶対にないとは言えなくなります。
しかし、かといって、大風が吹くと必ず桶屋が儲かるかといえば、
これも絶対にそうなるとは断言できません」(P198)


あんがいものごとは因果的に生起しているのではなく、
共時的にあらゆる現象がシンクロ的に連鎖発生しているという華厳的宇宙観のほうが
現実にうまく対応できるのかもしれない。
ひろさちやさんの愛読者だったおかげで
重度の顔面神経麻痺にそこまでもがきあがき苦しむことがなかったような気がする。
まえは大きな活字も読めないほど左目が悪かったが、
いまはこうしてひろさちやや河合隼雄程度の活字の大きい本なら読めている。
あたまを打ったからあたまが悪くなっている可能性は、読者諸賢にご判断をゆだねる。
まあ、むかしからひろさちやとか河合隼雄とか、
そういうあたまの悪い人が読むようなものばかり読んでいたしなあ。
どうしてあたまが悪いのかって、そこは「因果にこだわるな」って話で――。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4663-3df0ae80