「聖地アッシジの対話」

「聖地アッシジの対話 聖フランチェスコと明恵上人」(河合隼雄・ヨゼフ・ピタウ/藤原書店)

→いろいろな利権関係がからまりなされた河合隼雄最晩年の対談の書籍化。
本書に河合隼雄の顔写真が何枚か掲載されているが、どれも疲労困憊といった印象。
本当に死ぬ直前のような疲れた顔をしているのでかわいそうになってしまう。
実際、倒れたのはこの対話をしてからそう間もないころだったはずである。

なんで人間って「正しい」ことにこだわるんだろう。
自分のことを長らく社会不適応者だと信じてきたが、
いまの職場に半年もいることを考えると(それは周囲の寛大に支えられてのことだが)、
あんがい自分で思っているよりは社会適応能力がわずかばかりあるのかもしれない。
たとえば職場で上司のKさんの言うことが日によってけっこう変わるのである。
「正しい」ことがころころ変わる。
そしてKさんと現場チーフのSさんの言うことも、これまた違う。
後輩の50代後半のバイト、Iさんは自分は絶対に「正しい」と信じているようで、
何度も意味不明なことで怒鳴りつけてくるので本当に困っている。
どうやら実勢権力的にはバイトのIさんがいちばん偉いらしい(なにをしても注意されない)。
会社役職上はKさんがいちばん偉く、次にチーフのSさんが続く。
年齢的には65歳の現場チーフSさんがもっとも偉いのだろうが身分はアルバイトだ。
それぞれ自分は「正しい」と信じているので困ってしまうが、
人間なんてそんなものとも言えよう。
「正しい」ことがこのようにいくつもある現場に耐えられないで、
先輩のバイトYさんはいきなりバックレてしまったものと思われる。
わたしはそのへんは河合隼雄の影響かどっちも「正しい」ことがあることを知っている。
だから、いまのところ少なくとも昨日までは職場に通いつづけることができている。

「正しい」と「正しい」がぶつかっちゃうと、そこから先がないのね。
わたしはKさんとSさんがどちらも「正しい」ことを知っている。
どちらにもそれぞれの言い分があるのである。
半年も勤めていれば、当方にも当方が思う「正しい」やり方がある。
それをやっちゃうとダメだよ、と思うことがある。
問題を起こしたくないから、よほどのことがないと指摘しないけれど。
それに相手は自分が「正しい」と信じているのだから、
こちらがなにを言っても言葉が通じるはずがないではないか。
こういう身近な問題は、世界的な宗教問題とも通じている。
あらゆる「正しい」意見の調整役となった当時文化庁長官だった河合隼雄は言う。

「ずっと昔であれば、自分たちの宗教は正しいから、
ほかの人たちも自分たちと同じような宗教に改宗すべきである、
あるいはそれを願おうということでおちついていたのだが、
そうは言えなくなってきたと」(P133)


しかし、人間はわかりあえない。
どうしようもなく自分(たち)が「正しい」ことにこだわってしまい、
相手(の人たち)もまた「正しい」ことを認められない。白黒をつけたくなってしまう。
おそらく対話で白黒がつくことがないだろう。
いくら対話を継続してもどちらも決して白旗をあげることはないだろう。
では、人間関係に救いはないのか。
おそらく対話ごときで軽々と救われるほど対人関係問題は単純ではないが、
根が深いどちらも「正しい」意見の衝突に対して、
われわれのなしうることもないわけではないと最晩年の河合隼雄は語る。

「ダライ・ラマ[チベット仏教の高僧・生き仏]が
ロンドンでカトリックの人たちに話をした記録『ダライ・ラマ、イエスを語る』(角川書店)
という本があります。それを読んだときに感激したのは、
やはり考えが違いますから、カトリック側もダライ・ラマもそれぞれの意見を述べる。
そしていろいろディスカッションしたあとで、最後はどうなるかというと、
「では、ともしびを消して祈りましょう」と。
それでずっとみんな祈る。それが私はすごいと思う。
それははじめからの約束だったんです。
議論して、結論をむりやりだすとかいうよりも、
ある時間がきたらみんなで祈りましょうと。
それで終わりにするというのは、非常にすばらしいと思いました。
それをやっていけばいいんだけれど、
どっちが正しいかで答えを出そうとすると、どうしてもけんかになる」(P157)


祈るというのは善悪や正誤(正しいか否か)を超えた存在を認めるということ。
もしかしたら人間は本当に「正しい」ことを知りえないかもしれない。
そんな謙虚な気持で、人間を超える大きなものに思いを寄せること。
それが祈るということ。祈る。
人間が自力でなしうることは少なく、他力も思うようにならないけれど、祈る――。
祈るとは、われわれ人間の無力を認めること。
人が祈っている光景を見たら、なぜ努力をしないんだと怒る人もいるだろう。
しかし、祈るしかないという難問が人生ではけっこう発生するものである。
口を閉ざして祈っているかぎりにおいて、どの宗教もしていることはおなじである。
祈っている。見かけはなにもしていない。しかし、希望している。

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