「西行 魂の旅路」

「西行 魂の旅路」(西澤美仁/ビギナーズ・クラシックス日本の古典/角川ソフィア文庫)

→西行は平安~鎌倉時代の歌人。出家した僧の身分でいろいろ和歌をつくった。
もとはいいところの武士出身だったらしい。出世も確実視されていたとのこと。
文盲の貧民がロックミュージックで一発当てたとか、そういう話ではない。
きちんと文化資本のあるところに生まれたいいとこの坊ちゃんが、
世を捨てて(これを出家という)坊主になり仏教的な和歌をつくりまくった。
けどさ、出家しているんなら表現欲や、
他人の評価を期待する煩悩(ぼんのう)はどうなってんだって話は当然あるだろう。
そこのところを西行は、自分にとっては和歌創作が仏道修行だと言い放っている。
自分の創作した和歌のひとつひとつはそれぞれが仏像なのであると。
これは「明恵上人伝記」に記載されているエピソードで、
ところが、学問的には明恵と西行が出逢い語り合ったことは事実ではない、
と否定されている。
しかし、和歌創作こそ仏道修行という西行のポリシーの真偽はわからない。
むしろ、「明恵上人伝記」に書かれるくらい有名で、
一般にも流布していた真実だったという可能性もなきにしもあらずではないか。
具体的には「伝記」で西行は年下の明恵にこう言ったことになっている。

「此(こ)の歌、即(すなは)ち是(こ)れ、
如来[にょらい/仏さま]の真(まこと)の形体なり。
されば一首読み出でては、一体の仏像を造る思ひをなし、
一句を思ひ続けては、秘密の真言[呪文]を唱(とな)ふるに同じ。
我れ此の歌によりて法を得ることあり」(「明恵上人伝記」講談社学術文庫P167)


自分のつくる歌こそほんものの仏さまである。
であるからして一首自分が和歌をつくるというのは一体の仏像を彫るのとおなじで、
この一句を考えて考えて言葉の海から創作するのは、
仏教の秘密の呪文を唱えるのと意味的には等しい。
自分は和歌を創作することで奥深き仏法を学んでいる。
この姿勢を文化人の白洲正子は、
「西行は、究極のところ、自分の歌しか信じていなかった」と評しているそうだ。
仏さまは自分の奥深くに鎮座ましまして、
ならばこの口から出てくる言葉こそが本当の真言(呪文)だという確信である。
西行はお経(の文句)ではなく自分の口から出てくる言葉を信じた。
その心境(信心)を表現したものとされる有名な歌がある。
表面の文意は、いくら山奥のことを知っているといっても、
実際に住んでみなければその奥深い味わいはわからないよ、とでもいおうか。

「山深くさこそ心は通ふとも 住まであはれを知らんものかは」

いくら自分の奥深いところに到達したといっても、
本当にそこに言ったものしかその境地はわからないし言葉にもならない。
そこに行かないとわからないよという言語不信の歌になるのかもしれない。
いくら西行の和歌をお勉強で読んでも、
そういう心境はおのおのが体験していないならば理解できないだろう。
個人的にはどんな秀才でも、
大学生の時期に西行がわかるものは極めて少ない気がする。
では、西行の信心(心境)とはどのようなものだったのか。
これは西行の歌ではないという学説もあるそうだが、本当のことはだれにもわからない。
そして、西行の歌ならよくて、ほかの人の歌ならダメというのは単なる権威主義。
出家した仏僧の歌人が神道の伊勢神宮を参拝したときの歌だという。

「何事のおはしますを知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

若い人はわからないだろうけれど、わかんないかなあ、この感覚。
世界の裏側になんか神仏のようなものがいるんじゃないかっていう感覚のことさ。
もう書いちゃおう。今年の2月、いろいろと因縁のある父が脳内出血で倒れたのよ。
半身不随で一時期はやばくて、仕事もなにもかも辞めて同居介護生活の可能性もあった。
ところが奇跡的に持ち直し、なんとか独居生活ができるまで父は復活した。
おめでたいなあと父と逢ったその日にわたしが自転車事故を起こして鼻と肋骨を折る。
昨日とおとといにあったことである。これは絶対になにかあるっしょ?
一生公開することはないかもしれないが、わたしの人生ではこういうことがけっこうある。
プラスもマイナスもいろいろ不可思議なことが人生である。
学問としては、お勉強としては神道と仏教は違うわけでしょう?
でも、西行の心のなかでは神も仏もおなじだった。わたしもおなじような信心を持っている。
出家した仏教徒の西行は神木(しんぼく)にタオルをかけるという、
伝統行事の神事をして一句つくる。

「榊葉(さかきば)に心をかけん木綿垂(ゆふしで)て 思へば神も仏なりけり」

うちは無宗教だけれど、実家が仏教の人でも神社に初詣に行くのではありませんか?
「初詣大凶に今日恐々し 思へば神も仏なりけり」
いま即興で遊び心でつくったけれども、こういう和歌でもぜんぜん構わないわけ。
意味はだれもわからないだろうけれど、創作者の心情は、
おみくじで大凶が出ちゃったけれども神さまは仏さまとおなじなんだから、
まさか罰をくだすようなことはないだろうから安心くらいかしら。
これが真理がどうかはわからないけれど、自分でそう信じていたらいいとも言えよう。
けれどさ、神さまと仏さまは違うなんてだれが証明したわけ?
どんな偉い学者が神と仏は違うと言っても、それは絶対的真理ではないでしょう?
いうなれば、その人の(権威的)真理っていうか。

いきなりだが、真理とはなにか?
真理とは、ある人が真理だと信じていること。
真理とは、みなを喜ばせること。
真理とは、絶対に虚偽であると証明できないこと。
だとしたら、西行の言葉は仏法の真理であろう。
その意味で、わたしの言葉もあなたの言葉もそれぞれ真理である。
西行の歌は西行作だから真理なのではなく、
西行がこれこそ仏法の真理だと信じていただろうから、
その確信が西行の和歌に意味を与えているといえるのではないか。
西行の真理は西行にしかわからない。
しかし、それは西行が真理と信じているからどこまでも真理である。
もしかしたら西行ではない人にはわからない真理なのかもしれない。

「山深くさこそ心は通ふとも 住まであはれを知らんものかは」
「何事のおはしますを知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
「榊葉(さかきば)に心をかけん木綿垂(ゆふしで)て 思へば神も仏なりけり」


おととい鼻骨と肋骨を骨折して病気療養中。
たしかにいま鼻と胸の下(肋骨)が昨日よりもはるかに痛い。
身もふたもない話をすると、病院に行くまでは鼻も肋骨も大丈夫だと思っていた。
このくらいならなんとかなるんじゃないかと甘く見ていた。
しかし、「鼻骨骨折」「肋骨骨折」という医学的診断(=言葉!)が加わるとたまらない。
診断された直後から痛みが倍増し、三倍増しになったものなあ。
へたに動くと肋骨が肺に刺さるとか医療者から
助言(=脅迫=言葉)されるとガクブルだって。
「痛み」も「あはれ」も、
うまく言葉の大海から適宜(てきぎ)言葉を拾って接続しないと伝わらない。
相手の言語能力にも言葉の伝達は大きく依存している。
必要なのは自分の言葉のみならず、相手の言語海の深さである。
発信者と対話相手の、その言葉の接続仕様が言語芸術のかなめだろう。
しかしながら究極的に言葉はその人の「痛み」や「あはれ」を伝えることはできない。
相手の広大(あるいは偏狭)な言語海のなかから、
こちらの「痛み」や「あはれ」を想像(妄想)してもらうことしか言葉にはできない。
それでも人は言葉に頼ろうとする。いまわたしがこうしているように。

いまそうとうにやばいのではないだろうか?
非正規雇用。自転車自損事故。鼻骨肋骨骨折。ひと言でいえばいまもいま「痛い」。
しかし、人には言葉があるということを西行から学ぶ。
こういうマイナス経験をしていなかったら西行の言葉をよくわからなかったかもしれない。
しかし、西行の言葉など理解したからどうだという庶民的損得勘定もまた真理である。
「お大事に」は「お気の毒さま」とならぶ「対岸の火事」的な表現だと思う。
そういう言葉があるから救いなのだが、
そういう手あかのついた言葉では救われないものが
西行の和歌を愛誦するのかもしれない。

出家とはどういうことか?
公式的な意味では、世間と縁を切ることだが、
むかしは名家のご子息さまが宗教界での出世目的で出家することも少なくなかったという。
西行がどういう理由で出家したのかは(客観)学問的には判明していない。
おそらく永遠に学問ではわからないことだろう。
出家とはおそらくいまの言葉でいえば、会社を捨てる、家族を捨てるということ。
今日も今日、有給休暇をいただいたわたしが会社を捨てるなんてとても言えない。
しかし、そういう生き方もあると思うと矛盾しているが救われるところがある。
会社や家族を捨てると自由だけど、しみじみ言うけど、孤独でさみしいよねえ。
肋骨を骨折して上司と携帯電話で話してどれだけ安心したか。
どこかの共同体(組織)につながっているということがどれだけ慰めになるか。
しかし、孤独もまたいいものだと出世エリートコースから脱落した西行はいう。
以下はただの和歌ではなく、仏教の真言(秘密の呪文)である。
孤独になるには世を捨てるしかない。

「鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん」

いったいおれどうなっちゃうの? という孤独者の叫びだろう
学問的には鈴鹿山の「鈴」と「振り」「なり」「なる」が言語世界の意味宇宙を象徴している。
でもさ、鈴鹿山って言われてもどこかわからんよねえ。
わかればそれだけこの言葉の意味は増すのだろう。
西行のいちばんの名句はおそらく、
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜(さや)の中山」だろう。
意味はどうでもよく、まあ「命なりけり」、つまり宿命だなあ、運命だなあと思うこと。
またこういう経験をするとは思わなかったけれども、これも「命なりけり」なんだなあ。
「中山」は地名で、お学問的には和歌の名所らしい。
そのことを知っていてはじめてこの和歌がわかるとか。
でもでもでもさ、そんなことはない。
わたしは中山さんという時給850円のバイト先で出逢った50男の先輩を知っている。
当方の偏った主観では、たいへんな人格者であった。
中山という言葉には学者には学者の意味があろうが、生活者には生活者の意味がある。
学者が感じる「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜(さや)の中山」と、
わたしが味わっている歌は言葉のうえではおなじだが、いったいどちらが深いのか。

数日まえ会社や家族など捨ててもいいと平気のへいさで思っていた。
だって、社会関係とか家族関係とか捨てたら楽になれるじゃない。それはさみしいけれど。
しかし、会社の人と毎日逢うことでどれほど救われているところがあるか、とも言いうる。

「惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けれめ」

社会関係(職業関係・家族関係)を捨てたほうがかえって身を助けるぞという意味だ。
最初のほうの言葉はふたつの解釈がある。
「どうしようもなく捨てられない世間の価値観だが」というのがひとつ。
もうひとつはエリートの西行の本音をかんがみて、
「世を捨てようと思っても世間のほうがわたしを捨ててくれないが」という解釈。
どちらとでも解釈できるし、どちらも「正しい」し、どちらの言葉も人を救うと思う。
しかしまったく世を捨てるとさみしい。だから人は職や家族を求めるのかもしれない。

「古畑の岨(そば)に立つ木に居る鳩の 友呼ぶ声のすごき夕暮」
「谷の間にひとりぞ松も立てりける 我のみ友はなきかと思へば」
「淋しさに堪へたる人もまたあれな 庵(いおり/小屋)並べむ冬の山里」


どうしたら壮絶な孤独感に辛抱できるかといえば、
どれほど浄土(来世/死後の世界)を信じているかだろう。
もうこの世はいいじゃないかと、どれだけポップなミヤコをあきらめられるか。
いまは東京というミヤコにあるテレビから垂れ流される浮き世の
毀誉褒貶(きよほうへん/賞賛や罵倒)などこの世のことはどうでもいいではないか。
いつまでもこの世に住むものでもあるまい。

「長らへて終(つひ)に住むべき都(ミヤコ)かは この世はよしやとてもかくても」

「この世はよしやとてもかくても」って言葉はいいよなあ。
世を捨てたつもりでいる世から捨てられた(=惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは?)
当方には「この世はよしやとてもかくても」という言葉ほど救われるものはない。
いくら肋骨が痛くても鼻骨がうずいても、しょせんは「この世はよしやとてもかくても」。
人はいったいなんのために生きるのだろう。
10年くらいまえだったか、
インドのガンジス河を最下流から源流の河口までさかのぼる長期個人旅行をしたことがある。
死んでもまあいっかと思っていたあの旅で無事故、無怪我、
会社に迷惑をかけるので怪我はやだなあと思っていたら鼻骨骨折、肋骨骨折、絶対安静。
いったい人生の裏側ってどうなっているのでしょうか?
ガンジス河の源流(河口)はガンゴートリー、ゴームク。
ガンゴートリーで月を見たかは覚えていないが、月を見たような気がしなくもない。
月もツキも偶然もたまたま見たような錯覚がある。
あの月(ツキ/運命)を見ていなかったとしたら、
いったいわたしの人生はなんだったのだろう。
中学を卒業したら知っていることになっている、「せば/まし」の反実仮想の法則の和歌。

「深き山に澄みける月を見ざりせば 思い出もなき我が身ならまし」

母親に目のまえで自殺されて生き迷って死のうとしてインドへ行き、
ガンジス河の源流まで個人旅行で行った晩に見た月が真理でなかったらどうなる?
真理とはそういう個人的理由で生み出されるそれぞれの言い訳ではないか。
それぞれがそれぞれ自分あてに出す処方箋が
真理というような可能性を考えてみるのも一興かもしれない。
どのみち言葉はなにも伝えられないのだろう。
きのう骨折と医学判断がくだったいまのわたしの鼻や肋骨の痛みは言葉にならない。
しかし、言葉にしようと思うものが言語表現をするのだろう。
あたかも西行のように、そしてこの記事を痛みに耐えながら書いた当方のように。
とはいえ、言葉はなにをも伝えられないという可能性も大である。
大げさなことを書くと、
きのうのレントゲン技師さんには当方の感覚が伝わったと思ったもの。
医学的な意味はわからないが3、4回レントゲンを撮影していただいたような気がする。
西行の作歌のみならず、言葉はすべて当人の現実を伝えない嘘なのかもしれない。
だがしかし、人は嘘かもしれないと疑いながら言葉を使用するしかない。
いちばんの罪悪は言葉なのかもしれない。

「身につもることばの罪もあらはれて 心澄みぬる三重(みかさね)の滝」

いまクリーニング関係のお仕事をありがたくもさせていただいているが、
わが身につもる言葉の罪も少しは洗濯して心身ともにキレイキレイにならないものか。
まずは仕事復帰しなければなりません。
そのためには安静。安静とはなにもしないこと。
散歩もしちゃダメ。まさに本でも読んでろってことで……。
この記事は「命なりけり」の気概で書いた駄文であります。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
結論はたしかに肋骨は痛いけれど、
これは「肋骨骨折」という医学的診断(=言葉)のためかもしれない。

*そうそうそうだ、学問的悪臭が強く、本書は決して初心者向けの本ではありません。

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