「観音経 奇蹟の経典」

「観音経 奇蹟の経典」(ひろさちや/大蔵出版)

→打つ手がないときってあるじゃないですか?
そういうときにあれこれ対策を考えると、
なにがなんだかわからなくなって逆に泥沼にはまってしまうということはありませんか?
打つ手打つ手が裏目に出るというか、
なにをしても「ああ、やっぱり」と悪い結果になり自縄自縛の状態におちいっている。
そのことをうすうすはわかっているのだけれど、なにかせずにはいられない。
イライラして立場が弱いものに当たり散らすと、脅えた部下はさらにミスを繰り返す。
本当はなにもしなければいいのかもしれないが、なにかせずにはいられない。
よく知らないが、株式投資なんていうのもそうではないか。
株価の上下に一喜一憂して売買の取引を繰り返すから損をしてしまう。
わずかにプラスになったとしても手数料を差し引いたらトントンという。
だったら、なにもしないでゆっくり好きな漫画でも読んでいたほうがましだったという話。
ことほどさように、われわれはなにもしないことに耐えられないようにできている。
職場でも仕事をしていないと見られたくないから、
やる必要もないことをことさらオーバーアクションでして熱心な労働者を演ずる。
そういうことをしていると、なんだか自分はとても有能な労働者のような気がして、
なにもすることがないときにふらふらしている部下を怒鳴りたくなる。
結果、多くの部下から嫌われ、以後のチームワークのまとまりが悪くなる。
しかし、なにかせずにはいられず、いつもイライラすることになる。
人間の行為と結果の関係はシンプルに表示するとこうなっている。

☆行為→?→結果

善とされるプラス行為をしたら、
おなじくプラスめいた結果が出るとわれわれは盲信している。
しかし、実際はいわゆる善なる行為をして悪い結果になることも多々ある。
長生きすればわかるはずだが(あんまり大きな声では言えないけれど)、
悪いとされることをしても結果がうまくいくことはいくらだってあるわけだわさ。
そもそも善とか悪とか、そんなものは相対的価値観で、
つまり主観(ものの見方)によっていくらでも善悪は様相を変えるものとも言える。
そして、われわれは結果からものごとを判断するというひどい悪癖をみな有している。
世間的にプラスとされている結果がいま出ている人や組織は(将来はさて?)、
みな事前にプラスの行為をしたからいまよくなっているのだと考えがちだ。
これは科学的真理というよりも、そうであってほしいという大衆の願望だろう。
だって、悪いことをしても恵まれている人がいくらでもいるじゃないですか?
毎日汗水流して働いた人が小さな夢ひとつかなわず病魔に襲われ苦しむのが人生。
だとしたら、行為と結果の関係はあるいはこうなっているという可能性も考えられないか。

☆行為→(たまたま/偶然/わからない)→結果
☆行為→(不思議/神仏/運の強弱)→結果


人はうまくいったときドヤ顔(得意顔)で自慢話をするけれど、あれは眉唾(まゆつば)よ。
失敗したときやミスをしたとき、人は深刻な顔で反省するが、
そこまで思いつめなくてもいいような気がしなくもない(わたしはもっと反省すべきだが)。
さて、ここまできてようやく観音経なのである。
観音経は法華経の一部で、現世利益(げんぜりやく)を説いたお釈迦さまの教えである。
内容は困ったとき観音さまを念じればかの菩薩(ぼさつ)が助けてくれるというもの。
最初に戻って打つ手がないときは観音経でも唱えていたらいいのではないか。
むろん、観音経ではなく般若心経でも法華経でもなんでもいいのだろう。
しかし、現世利益をうたっている観音経がいちばん適当な処方薬のような気がする。
観音経を唱えていたら少なくとも悪手は打たないだろう。
さらにヘマをやって事態を悪化させるということはなくなる。
これは思った以上の功徳だとは思えないだろうか?
観音経の内容は、観音菩薩にお祈りしろ。観音菩薩に南無(なむ/お任せ)せよ。
心理療法家の河合隼雄の晩年行き着いた境地は「なにもしない」だったが、
権威ゼロの仏教フリーライターひろさちやも似たようなことを言う。

「船乗りの人から教わったが、海で遭難したときは、泳いでは駄目だそうだ。
泳げる人は「ともかくも……」と思って、がむしゃらに泳ぎはじめ、
たいていが力尽きて海の藻屑(もくず)になるという。
船が転覆するような嵐の海である。プールで泳ぐのと、わけがちがう。
いくら水泳に自信があっても、どだい泳げるものではないそうだ。
それに海は広い。所詮、島まで泳ぎつけるはずがないのである。
それよりは、浮木(うき)にでもつかまって、じっと救助を待っているほうがよい。
そのほうが、助かる率は多いそうだ。
そうだとすれば、南無観世音菩薩」の称名が、
たしかに奇蹟をもたらしてくれるのである。
『観音経』の言う通りではないか。
そして、――。
浮木につかまって水に漂いながら、彼が「南無観世音菩薩、なむかんぜおんぼさ」
と称名している、そのときの心境はあきらめではければならない
――と、わたしは思うのだ」(P61)


選択肢が1~5まであったとする。受験教育の弊害で、
われわれは1から5までの選択肢のうちに正しい答えがあると信じきっている。
しかし、現実では1、2、3、4、5のすべてが間違いという可能性もあるのではないか。
ペーパーテストを無視する、受験を拒否するという選択肢を忘れてはいないか。
これはたいへん勇気ある決断だが、理論的にそこまで大誤答かはわからない。
なぜなら行為と結果のあいだにあるものは不思議で運とも言うべき、
人間には把握できないものである。神仏の世界と言い換えてもいいだろう。
だとしたら、そういう神仏ワールドには神仏ワードで立ち向かうのもありではないか。
南無観世音菩薩(称名)でも南無釈迦牟尼仏(称名)でも、
南無阿弥陀仏(念仏)でも南無妙法蓮華経で(唱題)もいい。

☆称名→(偶然?神仏の世界?たまたま)→結果

やってみてうまくいくかどうかはおのおの実験してみるしかない。
現代人はそういうことを非科学的だとバカにして行動に移せないのかもしれない。
その点、毎日唱題している創価学会の善男善女はとても親しく好ましく感じられる。
わたしのケースで他人には当てはまらないのだろうが、
もしかしたらわたしは観音経のおかげで、
健康診断まえの禁酒を1週間もできたのかもしれない。
念仏も称えたし、題目も数度なら唱えたから、なにが功を奏したのかはわからない。
人によっては仏教ではなく、聖書を読むことが人生の安定剤になるものもいよう。
ひろさんの実家は薬屋さんだったというが、あらゆる宗教は薬なのだと思う。
たまたま薬が効きすぎたのか、そもそもが劇薬なのか、イスラームのほうはヒャッハーだ。
観音経はその典型だが、宗教は効く薬で、しかし成分はメリケン粉なのだと思う。
観音経はかなりよく効く偽薬(プラシーボ)ではないか。

「さらに薬に関しても、こんな話がある。
〝プラシーボ”という薬(?)がある。
もとはラテン語で、「わたしは満足するだろう」の意味だそうだ。
この薬はぜんぜん薬効がない。メリケン粉を固めてつくった薬だと思えばよいだろう。
なにも薬効はないが、患者は薬をのんだと思って安心する。
そういった役目の薬である。
辞書を引くと、「気休め薬」「偽薬」といった訳語が出ている。
薬ではない薬である。変な薬だ」(P14)


胃潰瘍(いかいよう)の患者にこの〝プラシーボ”をのませたという。
だが、ナースからの手渡しである。これでも25パーセントの胃潰瘍が治った。
つぎに白衣を来た医者がこの偽薬を患者に与えると、どうなったか。
ご想像の通り、治癒率はさらに高まった。
つぎに町医者ではなく大学教授にこの薬を処方させたらどうなったか。
そのときに「これは新薬で保険のきかないとても高価なものだが、
特別にあなただけに処方しましょう」と患者に伝えたら、そのときの結果はどうなるか。
その医師が名医として掲載された雑誌のコピーを見せておいてもいいだろう。
胃潰瘍レベルなら放置しても治るだろうが、〝プラシーボ”をのむのも悪くない。
ただし、この〝プラシーボ”を偽薬なのに百万円とかじゃ売っちゃいかん。
それをやるのが悪質な新興宗教だが、あんがい治ったらそれでもいいのかもしれない。
たくさん金を巻き上げる新興宗教も病気を治しているのだから。
百万円を払ったことで病気が治った人も大勢いることだろう。
高額を払わないと効かないということは〝プラシーボ”の性質上、避けられない。
ほかに〝プラシーボ”の使い道は、自分だけの薬をつくることも可能だ。
手間暇をかけていろいろ宗教のことを勉強して、
自分だけの〝プラシーボ”を常備薬にするのも精神衛生上よいだろう。
しかし、本物の薬と偽物の薬の違いとは、いったいなんになるのだろう。
結果から判断するならば、事態が好転したのなら(病状が改善したのなら)、
結果的にあらゆる〝プラシーボ”が本物だったということにならないか?

お勉強タイム。以下、本書で学んだことをメモメモ。
仏教にご興味がない方は飛ばしてくださいませ。
仏教には、仏法僧を三宝として考え敬えっていう三宝帰依の教えがあるでしょう。
「往生要集」を書いた源信がおもしろいことを言っていたという。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏という「仏」に帰依している。
南無妙法蓮華経は法華経という「法」に帰依している。
南無観世音菩薩は観音という菩薩(修行者)、つまり「僧」に帰依している。
だから、3つは違うようでみなひとつのおなじことを言っている。
あるいはどれかひとつでは不十分で3つそろって完全になる。
いんやいやいや、そこまでは源信もひろさちや先生も書いていなかったかしら。
さあ、どうだったか。わたしはそんなことが書いてあったような気がするなあ、イヒッ。

観音経のキーワードは「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」だが、
これには3つの解釈があるらしい。
観音経は「念彼観音力」でものごとがうまくいくと主張しているが、
その「念彼観音力」をどのように解釈するかである。
1.「彼の[偉大なる]観音力を念ずれば」
2.「彼の観音を念ずる[自分の]力」
3.「念ずる彼の[自分のなかにある]観音の力」
一般的に(禅の世界の話じゃないかな?)3>2>1の順で浅くなるという。
いちばん偉いのは3で、つぎに偉いのは努力主義の2、
神仏頼みの1はもっとも程度が低いと偉い坊さんたちは思っているらしい。
ひろさちや先生は1の解釈を選択しておられる。
2とか3とか、人間中心にものごとを考えていて傲慢というほかない。
自分ではどうしようもないから観音さまにおすがりするのであって、
自力でどうにかなるんなら仏門なんかにそもそも足を運ばないではないか。

本書は怒りっぽいひろさちやさんがおよそ35年まえに書いた本である。
結局、ひろ氏はうまくこのまま人生から逃げ切られそうだが、
勉強家の氏に効果があったお経はいったいなんだったのだろう。
若かりし宗教ライターの説法を拝聴しようではないか。
先生、称名しても現世利益なんかちっともないけど、どういうこったい?

「称名そのものが、いちばん大きな利益なのです。
たとえば、他人からひどい仕打ちをうけたとき、
たいていの人は「こん畜生!」とか「あの野郎、ぶっ殺してやりたい」と思い、
そういうことばを吐きます。にもかかわらず、
そのとき静かに称名できる人がおれば、その人はすでにもう救われているのです。
称名そのものが、その人にとって救いの証となっています。
称名によってほかに何か得られるのではなく(ほかに利益があるかもしれませんが)、
称名できたそのことがほかならぬ〝現世利益”ではないでしょうか」(P4)


まあ、あきらめが肝心ってことさね。
他人に期待しない、人生全般に期待しなければ、こんなもんかとおさまりがつく。
なにか災難に巻き込まれてもこれは前世の報いとあきらめ、
来世にこそちょっとは慶事もあるのではないかとささやかな希望をつなぐ。
他人に期待すると怒ってばかりでストレスがたまり生きていて楽しくない。
阿修羅(あしゅら)のような人って怖い。

「阿修羅は、ほんらいは正義の神であった。
しかし彼は、正義にこだわりすぎたのである。
正義にこだわって、彼は怒りを燃やした。他人の不正を許せなかったのである。
そのため、彼は神々の座から追放されて、ついに魔類とされた。
しかも、魔類となりながらも、彼はなおも正義の怒りを燃やし続けている。
阿修羅はそういう存在である」(P150)


小声でつぶやくと、正義は「魔」なのだと思う。
人間がもっともおちいりやすい口当たりのやさしい「魔」が正義のこころ。
他人の不正を許せなくて、イライラカリカリする。
他人の不正を許せない反動で自分は正しい生き方をしようと窮屈になっていく。
正しい社員になって正しい生活をして他人の不正にいつも怒っていて、
はてまあ、そんな人生がおもろいでっか? って話。
ぶっちゃけ、舛添都知事に怒る気持とか、さっぱり理解できない。
おれが都知事に就いたらもっとひどいことをやるんじゃないかなあ。
基本的に舛添さんが辞めようが続けようが、こちらの生活に変わりはなし。
どうでもいい話なんだなあ。なんでみんな舛添さんに怒っているのかわからん。

だれも読んでいないだろうし、最後に不謹慎なことを書いちゃおっと。
町をぶらぶら歩いていると(我輩よりはましだが)
どうしょうもねえオジン、オバンの夫婦とかいるじゃないですか?
あれ、わっかんねえんだ。あいつらも恋愛の真似事をやったわけ?
こういう東大の入試よりも難しい問題の解決へのヒントを仏教は与えてくれる。

「たとえば、一枚の映画スターのブロマイドをもって美人を論ずれば、
かえって底が浅くなるようなものだ。
むしろ、読者の心のうちにある〝美人像”――
〝奇蹟像”を大事にしていただいたほうがよい」(P216)


なーんか、わかったような気になるぜ。
わたしが好きな女は「わたしが好きな女」ってことか。
わかりやすく書いたら、わたしが好きな女は「わたしを好きな女」っていうか。
相手が自分を好きかもしれないと思うと、それだけで見かけが変わるのだろう。
「A子ちゃんがあなたを好きって言っていたわよ」
なんて言われたら男は想像力でがんじがらめになりよけいな発情をするだろう。
仏教は深いなあ。

(関連記事)
「愛と救いの観音経」(瀬戸内寂聴/嶋中書店)
「観音経講義」(奈良康明/東京書籍)

COMMENT

HN URL @
06/06 16:18
. >選択肢が1~5まであったとする。
>受験教育の弊害で、われわれは1から5までの選択肢のうちに正しい答えがあると信じきっている。
>しかし、現実では1、2、3、4、5のすべてが間違いという可能性もあるのではないか。

昔の司法試験の択一問題には「ゼロ回答」といって、選択肢の全てが間違い(どれを選んでも不正解になる)というのが実際にあった。








 

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