「臨床の詩学」

「臨床の詩学」(春日武彦/医学書院)

→資格も人脈も財産も目に見えるものはなにもないが(配偶者も恩師も支援者もいない)、
唯一たくわえてきたのは言葉である。小金持ちならぬ、少量の言葉持ちだ。
よく読んできたなあ、よくだれも読んでくれないのに書いてきたなあ、と思う。言葉を。
大ファンである精神科医の春日武彦さんもご同意くださるはずだが結局、言葉なのだ思う。
春日武彦は山頭火を大嫌いと表明しているが、
わたしは山頭火の俳句が好きで、
むしろ山頭火よりも「偉い」ことになっている芭蕉の俳句のよさがわからない。
古典和歌集におさめられた貴族の歌も
まるでさらさらこちらのこころに響いてくるものがない。
詩もそうだ。難解平易を問わず、現代詩もよくわからない。
詩によって開眼したということがない。しかし、本は好きである。言葉が好きだ。
本書で言葉フェチ、言葉収集家の春日武彦が好きな詩を引用しているが、
わたしはその言語表現のよさがわからない。だが、言葉を好きになる理屈はわかる。
「私」とは言葉でできているのだと思う。「私」は錯綜(さくそう)する言葉のシステムだ。
その配線のこんがらがった言語システムであるところの自我、
つまり「私」が新たな言葉を取り入れることで
(あるいは旧知の言葉の価値を再認識することで)、「私」の「世界」は変わりうる。

朝日賞作家で小林秀雄賞作家の山田太一氏の、
映像(動画)よりも脚本(シナリオ=言葉)のほうがはるかに好きなのもこのためか。
山田太一ドラマのセリフ(言葉)から立ち上がってくるリアリティは
パネエ(半端ない)のである。山田太一ドラマは庶民の詩劇だとわたしは思っている。
詩とはなにか? わたしが大好きな言葉提供元の春日武彦はいう。
AだとされているものをAだといわないでBというのが詩ではないか。
AだとされているものをAだと思わないでBと思うのが詩ではないか。
AもBも言葉である。詩は現実Aの解釈例である言葉Bだ。

「いずれにせよ、どちらかといえば「どうでもいい」「必要不可欠ではない」
「ものの弾み」「たまたま発せられた」「本人でさえ十分に意識していない」言葉が、
ある種のリアリティをもたらすといったことがあるだろう」(P34)


それが詩だと精神科医の春日武彦はいっているのである。
どこまでもつまらない「終わりなき日常」(宮台真司/首都大学教授)を
「ありふれた奇跡」と詩的解釈したのが山田太一(朝日賞/小林秀雄賞)である。
宮台真司も山田太一も、両者ともに、両先生ともに根は詩人だと思う。
いままでありきたりなAと解釈されていたものを、
Bという言葉で新しく表現することが詩的行為だ。
Bという詩(言語表現)を読んでCという連想を勝手にもして救われるのが人間だ。
Bという言葉を誤読してCではないかと詩的に思念するから人は生きられる。
そもそも言葉は正しく伝わらないのではないか。
Bという言葉は決してBとしてBそのままに伝わることはあるまい。
なぜなら相手には相手の言語システムがあるため、
自分にとってのBは相手にとってのBではないからである。
具体例をあげれば、老人にならないと老人の気持ち(発する言葉)はわからない。
結婚しないと夫婦生活という言葉の意味がわからない。
しかし、その「わからない」「伝わらない」ところが「救い」で、
現実Aを言葉Bと表現したものに接して、
さらに異なるCなる妄念を連想(誤読)することが人間が生きている証拠の、
みなさまも経験したことがおありだろう、
あの生き生きとした生命の味わいの本質であるのだろう。

万葉集と古今集、新古今集には学者によると違いがあるそうだが、
わたしは万葉集も古今集も新古今集もまるで意味がわからない。
わかりやすくいえば、まったく感動しない(こころ動かされない)。
源氏物語は嫌いだが、平家物語の言葉はせつせつとこちらを揺り動かす。
言葉はジャンプする。その「言葉のジャンプ」こそが生きている救いではないかしら。
受賞経験はひとつもなく、持つのはただ医師国家資格だけの春日武彦は、
臨床体験(患者の記憶)や読書経験(好きな詩)から
「言葉のジャンプ(=連想=誤読?)」をしてこの名著を書き上げた。
そこからさらに「言葉のジャンプ」をしてわたしがいまこの記事を書いているわけである。
現実Aを解釈した言語表現B(=詩)を読んで、
当人はさらに新たなその人なりのCを思念(言語化/創価/誤読)することができる。
そこが精神の救いではないかと言葉フェチの春日武彦は指摘する。
われわれはみな現実Aを生きている。現実Aは生きづらいことこのうえない。
その生きづらさの正体は、われわれがしているところの解釈Bだ。
ところが、そのクソみたいな現実Aを詩的Bと解釈する詩人がいたとする。
そのB(言葉)と接することで、
言葉Cを連想(妄想/誤読)することで人は救われうるのではないか。
もしやビジネス書も自己啓発書も詩のひとつではないか。
現実の多様な解釈例のひとつが詩であるならば、
詩をこちらの都合でどのように解釈してもよろしい。
ある言語表現=詩のBがあるとする。読んだとする。

「この詩は、たんに思い過ごし、
早とちりについて綴(つづ)ったものだと解説されたら、まあ同意するしかない。
だが、この作品に出合ったときのわたしは、
もっと豊かなものを感じ取っていたのである。
すなわち、とっさの連想によって世界はいくらでも容貌を変化させる。
危うげでただならぬ世界として迫ってくることもあれば、
のどかで平和な世界としての顔を見せることもある。
そしてとっさの連想が自分自身の心のありように左右されるとしたら、
自分の暮らしている世界は、本当はすべてあらかじめ
自分の心の中に仕舞い込まれているということにならないか。
いささか大仰に言うなら、自分と世界の関係性について
この詩は語っているように思えたのであった」(P42)


これは抹香くさい仏教でいうところの唯心論や唯識説に極めて近い。
ところが、摩訶不思議というべきか、当然というべきか。
著書多数のエリート成功者のお医者さん、春日武彦先生の感動した詩を
わたしが読んだところでなんにもおもしろくないし「ふーん」である。
そんなもんなんだなあ、現実は。
わたしがいま書いている文章はわたしにとっては深い意味があるけれど、
環境が異なるみなさまにはどうでもいいことではないでしょうか?
わたしとしては春日武彦氏から啓発されていま書いている、
わたしのこの文章からみなさまがさらに連想(誤読)して、
さらにおもしろい人生を送っていただけたらという偽善的な期待もなくはない。
詩(言葉)を読んで感動(言語化/創価)するというのはこういうことである。
わたしは春日武彦の好きな詩にまったくこころ揺さぶられなかったが、
以下はある言葉にわたしという言語システムが揺さぶられる過程を描写した名文である。
著者は小長谷清美(だれそれ?)という詩人の書いた
「ピクニック」と題された詩の一節にほろほろしたという。

「  みんな遠くに行ってしまった ばらばらと
   たんぽぽを摘む人 動物ビスケット囓(かじ)る人 黒ビールを抱えて眠る人

わたしはなぜかこの一節に、以前から妙に心を動かされるのである。
オレはピクニックへ行っても(きっと)たんぽぽは摘まないけれど、
黒ビールを抱えて原っぱで眠ることはあるかもしれないな。
だけど、いい年をして動物ビスケットなんかを囓(かじ)っている姿が
いちばん自分らしいな、などと思いつつなぜか感傷的な気分になってくるのである。
いずれにせよ、そんな調子で想像力[連想/誤読]をつなぎ合わせているうちに、
世界の奥行きというか豊かさが3Dのように立ち上がってくる。
もちろん錯覚[妄想]だけど。
いま引用した文章や俳句や詩は、それだけでは呪文のように《救いの言葉》
として働きかけてくるほどの力は発揮しない。
連想というべきか記憶というべきかイマジネーションというべきか、
とにかくそうしたものが与(あずか)って言葉が統合され、
するとそれを契機となって
わたしはどうにか気力を取り戻すことになるわけである。
ではわたしの前に座っている患者たちにも、その事実を助言してあげたらどうなのか。
残念なことに、その助言を参考にできるだけの心の余裕がないからこそ、
彼らはわたしの前に登場しているのであった。
彼らには、もっと即効性のある言葉が必要だというのに、
当方は呑気(のんき)にも文学が人が救えるなどと思っているのであった」(P153)


自分が感動した詩を人に教えてもほとんど意味はないけれど、
本人がこれは自分の言葉だと信じきれるような詩と
邂逅(かいこう/出会う)することは奇跡的体験だ。
めったにないことだがそれでも即効性のある言葉もあるのである。
本書で春日武彦は守秘義務などものともせず、おのれの臨床体験を公開している。
二十歳そこそこで統合失調症(精神分裂病)になった男性を診たことがある。
青年は発症時、意味不明のひとりごとをつぶやいていた。
どういうわけか、めったにないことだが、分裂病の青年は奇跡的な復調をする。
寛解(かんかい/治癒?)といってもいいレベルだ。
この症例を紹介したら薬品会社が大喜びするくらいのレアなケースだ。
なにが功を奏したかはわからない。
春日武彦医師は分裂病の青年に質問する。あのときなにをつぶやいていたのか?
答えはブッシャリ。さらに問うとやはり仏舎利(仏の骨)のブッシャリらしい。
かといって、本人は仏教とは無縁だし、
ことさら仏教を意識してブッシャリとつぶやいていたわけではない。
しいていうならブッシャリという言葉の音韻が、まるで鈴が鳴るようで安心したという。

ここまで、だ。春日医師はここまで。いいかえれば、ここまではいける。
矛盾した精神(言葉)の深み(浅薄さ)と危うさ(凡庸性)を
知る優秀な精神科医はこれ以上は患者に問わない(そこが偉い)。
どちらかといえば医師より患者のほうに近いわたしが飛躍すれば、
混乱状態である精神病の救いになった彼の言葉ブッシャリは、
人によっては南無妙法蓮華や南無阿弥陀といいかえられうるような気がしている。
南無阿弥陀仏はナムアミダで「ア」の音が基調だから楽である。
人によっては南無妙法蓮華経の「ウ」音(スネ夫の口)が合っているのだろう。
南無妙法蓮華経は唱えると接吻(チュウ/キス)をするときの口になる。

言葉が好きだ。精神科医の春日武彦の言葉が好きだ。
彼からメールをもらったブロガーがいたら天にも昇る気がしたことだろう。
わたしはそういう人をひとり知っている。
みなさん、もっと言葉を愛しましょう。
現実(事象)Aは言葉(解釈)Bにも言葉(解釈)Cにもなりうる。
現実はAではなくBやCかもしれないことを教えてくれるのが自分や他人の言葉だ。
苦しみが言葉ならば、救いも言葉だろう。
言葉っていいよなあ。言葉をどう愛するかを以下で春日先生は教えてくださる。
春日武彦は柿沼徹(だれそれ?)の詩を読んで妄想する。
精神科医は詩人の言葉を誤読(曲解)する。それが生きる味わいではないかと。

「  私たちが木々を眺めるのは
   木々が好きだからではなく
   眺めることが好きだからだ

   ぜんぶ地表の下に隠したまま
   木々は花を咲かせる
   私たちの視野のなかで
   おどけるために

なるほどねえ、と思う。身につまされる。
わたしは基本的に人間嫌いで、よほど気が合わねばつきあいたくない。
協調性は乏しいし、友人も少ない。
友人なんてたくさんいたらメインテナンスが面倒だから、少なくて十分なのである。
電話で喋るのもメールを交わすのも億劫(おっくう)だから、
携帯電話すら持ち歩かない。
人間と一緒にいるよりは、不愛想な猫といるほうが心が休まる。
だが、プライベートに踏み込まれない範囲では、他人を観察するのは好きである。
人間嫌いであっても、あえて他人が不幸になればいいと思ってもいない。
他人に何も期待していないから、彼らの心の中に押し隠された「おぞましいもの」
と向き合うのも、むしろ醍醐味である。
ゆえに、心を病んだ人を診察し、援助するのは苦痛ではない。
診察室や病室でしか関わりを持たないで済むのだから、気が楽である。
だからさきほどの詩において、
木々を患者と置き換え、わたしたちを「わたし」と置き換えれば、
それがそのまま当方の立場ということになる。
「木々が好きだからではなく/眺めることが好きだから」と」(P135)


人間どもを好きになれなくても、人間観察を趣味にすることはできる。
今日は休みで朝から酒をのみながら、
だらだらこんなだれにも読まれない駄文を無報酬で書きあぐんでいた。
明日は仕事だ。「ダメじゃないですか!」が口癖の口うるさい上司がいるんだ。
その「ダメ」の基準がわからないので怖い。
どうやら自分が思ったように他人が行動しないと相手を「ダメ」と認識するらしい。
正解はないのである。
上司がそのときその場で「ダメ」と思ったことは厳しく叱責される。
他人(上司)の考えていることなんてわかるはずはないのに上司はそうは思わない。
自分の考えていることが正しく、
がために正義の自分が思ったように行動しない相手は「ダメ」でイライラするようだ。
最近の上司はいつも怒っているように見えるが、
きっと上司から見たわたしもろくなものではないのだろう。
わたしは上司のほうがあらゆる面でわたしなんかより偉いことをよく知っているもの。
わたしがなにをしても、なにをしなくても明日もまた上司に怒られるだろう。
自分が変わらないように他人も変わらない。
そんなものだし、こんなものだ。自分も他人も、人間というものは。
――そんなに自分は偉い存在ではないことを知っているので春日武彦は信頼できる。
精神科には一生かかりたくないけれど。

「誰かに立腹している患者へ向かって、ときおりアドバイスをすることがある。
「相手を自分と同じと思うから、
オレだったらあんなことはしないのにと呆(あき)れたり怒ったりすることになるんですよ。
あなたと違う考えや価値観の持ち主だっているんだから、
いちいち反応していたら疲れちゃいますよ」と。
それなのにわたしはあの[患者]三人を(人間として尊重するのとは違う意味で)
自分と同じと考え、それどころか
自分自身の不快な要素を見つけ出して苛立っていた。まさに自分を投影していた。
ゆえに非はすべて自分にあるかというと、必ずしもそうとは思わない。
露出狂が露出するものは我々自身も備えているもの(性器や裸体)であるが、
だからといって露出狂に問題があるといった話にはなるまい」(P276)


まったくまったく精神の露出狂たる稀有な詩的精神科医の言葉には救われている。
おかげで一見するとヒステリックな上司も、
自分を思ってくれている人生の指導者と誤解(詩的解釈)できないこともない。
こうして明日も自分をごまかしながら、
淡々と妥協を繰り返し日々の生活をやり過ごすしかないのだろう。
それが生きるということだ。精神的に健康に生きるということ――を本書から学ぶ。
そのためには妄想(詩的解釈/誤解)が必要だ。
わたしは上司を嫌いではなく、あちらがこちらを嫌いでもないことはわかるのだが、
この関係はうまく言葉にできないなあ。
なんて書いていたら明日クビになったりするのかも。
仕事の人間関係ほど人の心を病ますものはないのだろう。
同時に救いをもたらすのも、おそらく同地にあろう。めんどくせえなあ。
いつかクルクルパーになって
精神病院にイエローピーポーで入って生活保護申請をできたら。
いい本だった。本当に救われるいい本でした。

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