「河合隼雄全対話10 心の科学と宗教」

「河合隼雄全対話10 心の科学と宗教」(河合隼雄/第三文明社)

→わたしは16年まえの6月26日に母親から目のまえで飛び降り自殺された。
自殺しているところを見たとかそういうたまたまの話ではなく、
母はわたしがしたにいることを知ってねらって、
わざわざ意図的に9階うえから飛び降り自殺をして死んだ。
16年まえの6月26日、午前4時すぎか。路上。
母の声でわたしの名前を呼ばれて(顕史=ケンジ)うえを向いたら、
母が9階から落ちてきて死んだ。
シャレにならない現実だ。
しかし、16年後のいま考えてみると、この事実を証明すべき証拠がなにもない。
目撃したのはわたしひとりである。
警察署の書類に記録が残っているかもしれないが、どのみち証言者はわたしひとり。
わたしのほかだれも見ていない「本当のこと」である。
いまから思えばの話をするとその後5年くらい苦悩の地獄であった。
10年まで夢にひんぱんに出てきた。15年経つと、なにがなんだかわからなくなった。
どうして「母親」から目のまえで「自殺」をされると人は「苦しい」のだろう?
それは、母親は子どもを愛すべしという一般通念があるからではないか?
自殺はしてはいけないという一般通念=言葉(言語)が
わたしを苦しませていただけではないか?
そもそも自殺は「悪」なのだろうか?
「来世」や「あの世」が「浄土(天国)」ならば、早く死ぬのは「正しい」ことになる。
断食して死んだ坊さんは聖(ひじり/聖者)になるが、だれもあれを自殺とはいわない。
河合隼雄はいう。「死後の世界」があるとするならば――。

「極端に言うと、早く向こうに行きたいというようになりますからね。
しかし、それは難しい問題で、
たとえば、昔の坊さんに断食して亡くなられた方がおられますね。
あれは、自殺だから病(やまい)だなんて決して言えない。
彼らは本当にちゃんと向こうに行ったんだ、
゛自分になる”最高の形態の一つとして、
ああいうこと[自殺]はあり得るのではないか……
というふうにも考えられるわけです」(P67)


ある現象(事件)を「自殺」と見るのも「極楽往生」と見るのも、
その人の主観(言語構造)である。
その人が「それ」を「自殺」という言葉にしたら「苦しい」(これも言葉)し、
「極楽往生」という言葉で事象をとらえたら「楽(らく)」になる。
ある体験があるとする。たとえば、わたしでいえば自死遺族としての体験。
体験そのものはなにものでもない。
体験に言葉を与えるから、それはプラスやマイナスの属性を帯びる。
おなじ体験をしても、人によって感想(体験談)が異なるのは、
そもそもの当人の持っている言葉(言語構造)がそれぞれ違うからとは考えられないか? 
すべては言葉かもしれない。河合隼雄はいう。

「極端にいうと、たとえば、ほとんど似た経験をしても
私は日本語で言わなくてはならないし、ある人は英語で言わなくてはならない。
(……) ということは、
私の言語構造というものが私の体験の認識に影響してくるわけです。
宗教にしても、ことばで語る段階になってくると
もう違ってくるのは当然ではないかという気がします」(P196)


ある近似した神秘体験X(エックス/それ)をしたとしても、
西欧人はキリスト教世界の言葉で「それ」を語り、
東洋人は仏教世界の言葉で「それ」を語るため、言葉のうえでは違ったように見える。
「それ」は本来言葉にできないが、人は「それ」を言葉で語ろうとするものである。
「それ」はX(エックス)で言語化不能なのだが、
しいて言葉にしたら「前世」のような仏教用語になることもある。
結局、母のこと(神秘体験X)をどのようにわたしが腹におさめたかといえば、
「前世(過去世)」という言葉によるところが大きい。
どんなトラウマも不幸体験も、そのものはX(エックス)だろう。
X(エックス/それ)を言葉にできないから人は苦しみ、
そして同時にXを手あかのついた安易な言葉(トラウマ/心の傷)
で代替することで人は苦しむ。「苦しい」もまた言葉だ。
92年段階で週に13人のクライエント相手に心理商売をしていた河合隼雄はいう。

「これはまったく僕の解釈ですが、意識のレベルを深くしていきます。
非常に深いところをXとします。
それを表現する時に、意識が上へ昇ってこないといけないわけです。
たとえば僕だったら、
日本語のシステムを表現形態として、僕の意識にあてはめる。
体験Xあるいは深い意識のXそのものの表現というのは不可能なわけです。
つまり僕の言語システムを濾過(ろか)して出ていく。
そしてその時、言語システムで表現した場合に、
前世の事として表現するのがぴったりのことであると、そんなふうに思っています。
前世がその人にあったかどうかということは、
まだ僕は保留にしています。
しかし、前世の話をし、その話がその人にとって真実であり、
その人が癒(いや)されるということと深い関係がある、
そのことは肯定します」(P75)


「前世」なんて妄想だろうという批判があるかもしれない。
しかし、なにが「妄想」で、だとしたらなにが「現実」なのだろう?
すべては「言葉」なのだとしたら、そうしたらすべてが「妄想」ではないか?
「母親」から目のまえで自殺されて「不幸」だというのは「言葉」で「妄想」だ!
――ああ~ん、離人症全開のおキチおっさんの言葉(妄想)におつきあいくださり、
本当に本当にありがとうごぜえますだ。
「私」という言葉も、「言葉」だから証拠および根拠のない「妄想」かもしれない。
以下の言葉は「自分(=私)を生きろ」と主張する河合隼雄先生の口から出た。
すべては「妄想」かもしれない。「私」も「僕」も「俺」も「あたし」も「自分」も――。
「妄想」かもしれないところの、
いやおそらく「私」の「妄想」のはずである「河合隼雄」はいう。
河合隼雄は「私」を生きろというが、そもそも「私」も「僕」もないのかもしれない。

「よく言うんですが、考えてみたら僕という人間は、
過去にもいなかったし、未来にもいないし、
今の世界にも自分しかいないと思っているけれど、
これは確かめようがないでしょう。
しかし、非常にたくさんの人がそう思って生きていますよね。
妄想というより、むしろ確信というべきでしょうが、
それは、考えたらおかしなことです」(P145)


「私」も、「私」の「母」も、「母」の「自殺」も言葉ゆえにみなみな妄想かもしれない。
あんがい妄想だろう。妄想に違いない。
「自殺」が妄想(言葉)ならば、「善」も「悪」も妄想ということになろう。
すべてが妄想かもしれないとしたら、あえて妄想を生きるという作法もなくはない。
めんどうくさいことをすべて
「前世」という言葉(=妄想)で片づけることもできるのではないか?
X(エックス)はそのままXで「善」も「悪」もないのかもしれない。
卑俗な世界の話に立ち戻ると、たとえば社会人にとって仕事の悩みとは、
おそらく人間関係がいちばんだろうが、だれも悪くない可能性もある。
現実的に役に立つ学問を志した河合隼雄はいう。

「ぼくは、こういうことをよく冗談に言うんです。
「あんな嫌いな人はおらへん」とか、
「いったいなんでこんなことになるんや」とか言うでしょう。そしたら
「それはもう、前世であんたら喧嘩(けんか)しとったんやからしょうがない」
って言うと、なんかそのほうがすっきりするときがあるんですね。
あいつに悪いところがあるんだろうかとか、自分はどこが悪いんだろうとか、
反省なんてしなくてもいいですよ。
「前世で喧嘩しとった」と言えば、
非常にすっきりして、また次のやり方ができてくるんです。
それを非常に狭い範囲内に限定して考えるから、しなくてもいい反省をしてみたり、
あるいはものすごく相手を攻撃したりするわけです。
相手もあんたも何も悪くないと言ったら、
ほんまにそうでしょう、と安心する」(P248)


だれかが「原因」でなにかが悪くなっているとわれわれは考えるのを好む。
しかし、それは「善悪」や「因果関係」という言葉に長らく縛られていたせいだ、
とも考えられるのではないだろうか?
見たものX(エックス/それ)をどのように言語化するかでそれは様相を変える。
「善悪」や「原因」という言語構造にとらわれていると見えないものがあると河合隼雄はいう。

「見たものをどういう言葉で我々の意識に統合するかということは、
その人がそれまで生きてきた意識体系が、もんすごく影響しますからね」(P24)


なぜ「それ(神秘体験X/エックス)」は起こったのか?
わたしの話をすれば、なぜ母は息子の目のまえで飛び降り自殺をしたか?
みなさまにもどうにも納得できない「それ」がかならずやあることでしょう。
「それ」を因果的にどう解釈したらいいのか? 
いいかえたら、「それ」はどう解釈する余地が言語的にあるのか?
西欧のシェイクスピアが
「きれいはきたない、きたないはきれい“Fair is foul, and foul is fair.”」(「マクベス」)
と「それ」を表現したところのパラドックス(矛盾)を、
学問として取り扱おうとした日本人のユング学者である河合隼雄はいう。
ふたたび、なぜ「それ」は起こったのか?

「人生を因果的に完結した体系として、理解しようと思うと、
「輪廻転生(りんねてんしょう)」ということを考えざるを得ない――
と私は思っています。悪いことをしていないのに、災難が降ってきたり、
悪いことをしているのに、栄えたり……。
自分や他人の人生を見ていても、だいたい辻褄(つじつま)が合わないことが多い。
その時に前世とか来世とかいうのを考えると、非常に筋が通ってくる。
こういう考え方が人間の世界観の中に入ってくる必然性は、
ものすごく高いと思いますね。輪廻転生を抜きで、
人間の人生を腹の底から「うん、そうだ」と納得するのは大変ですよ」(P62)


「それ」はなにかわからないが、
たとえば「輪廻転生」という言葉をあてはめるとしっくりする。
「それ」は究極的にはわからない、わけられない、言葉で区分できないものだが、
「それ」ではなにがなんだか落ち着かないので、
深いところの「それ」を「無意識」だの「神」だの「仏」だのとわれわれは言葉にする。
「それ」は本来的に善悪も因果もないものだが、それでは話にならないので、
たとえばわたしの話をすれば、「それ」は南無阿弥陀仏と命名すると安心する。
人によっては「それ」は南無妙法蓮華経かもしれないし、それはそれでいいと思う。
アーメンでもザーメンでもラーメンでもいいのだろう。
生きがいのようなもの、つまり「それ」がザーメンでもラーメンでもぜんぜん構わない。
実存の不安をラーメンを追求することでごまかしている人も大勢いよう。
「それ」とは人それぞれの、しかし人それぞれが信じている究極真理のことである。
「それ」はなんなのか人間にはわからないが、「それ」はたしかに存在している。
「それ」は言語化できないから「それ」なのだが、
「それ」を学問(言語化)しようという絶対矛盾に取り組んだのが河合隼雄である。
絶対体験の「それ」は言語化を拒(こば)んでいるがために絶対たりえている。
「それ」は見方によって、いかようにも語られうるX(エックス)である。
今年の6月26日は有給休暇をいただいて母の墓参りにでも行こうかと思う。

COMMENT

HN URL @
05/31 11:31
. 2ch文学板のネカマ「美杳」が暗躍を始めたのは2002年。

亡くなった母親の名前だったら怖い。








 

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