「「私」の秘密」

「「私」の秘密」(中島義道/講談社選書メチエ)

→とてもとてもいい本だったので、繰り返し何度も感想を書きたい。
西洋哲学とはなにかをひと言で要約したら、哲学は言葉になるだろう。
東洋哲学たる仏教の真理はおそらく無言語状態にあるが、
西洋は「言葉、言葉、言葉」(「ハムレット」)。
日本はいまでもまだ人情世界だが、西洋は契約つまり言葉である。
どちらがいいのかはわからない。
言葉にならない状態(病名がつかない段階)はモヤモヤしてイライラするが、
いざ言葉にされると本当にそれだけだろうかと敏感なものは違和感をおぼえよう。
西洋学問というのは、言葉って本当にすごいんですねえ、というひと言に尽きる。
たとえば、権利という言葉を知らなかったら、権利を求める人もいないでしょう?
平等という言葉を知らなかったら、平等を求める人もいないでしょう?
愛という言葉を知らなかったら、愛を求める人もいないでしょう?
幸福という言葉を知らなかったら、
その反対の境遇とされる不幸で悩むこともなくなる。
動物というのは快不快原則で生きていると思う。
本来ならそのほうが自然なのだろうが、人間は言葉で自然を区分けしたがる。
西洋哲学を象徴しているのはルサンチマンという言葉だろう。
ルサンチマンなんて言葉は知らないほうがいいのかもしれない。
上層部は庶民に祝福や大勝利という言葉だけ与えておけばよろしい。
なにが起こってもこれは神の祝福だ、大勝利だと思っている人間がいちばんイージー。
差別という言葉を知るから被差別者は差別に苦しまなければならなくなる。
おそらく大勝利オンリーがベストだろう。
交通事故に遭っても生きていれば死ななかったのだから大勝利と思っていればいい。

もしかしたら客観的世界は存在しないのかもしれない。
たしかに絵画は主観だが、写真は事実を伝えた客観だろうと反論されるかもしれない。
しかし、写真にもフレームを決定した撮影者の主観が大きく影響している。
そのうえ、ここが重要だが、1枚のおなじ写真を見ても人はいろいろなことを思う。
青と黄色と赤の看板がうつっている写真でも人によって見え方は変わる。
ある人はなにも思わない。べつの人は怖いと思う。
ある宗教団体に属する人は、とてもいい写真と思うかもしれない。
そして、そのどの感想もそれぞれ正しい。
日本の創価学会も西洋のルサンチマンとおなじような言葉だと思う。
繰り返すが、客観的な万民普遍の世界は存在しないのかもしれない。
なぜならば、人によって知っている言葉が異なるからである。
日本人とベトナム人とでは、
おなじ光景を見ても違うような言語解釈をするだろう。
本書のタイトルは「私の秘密」だが、「私」という観念(言葉)を知らなかったらどうだろう。
「秘密」という言葉(観念)を知らないものに世界はどう見えるだろう。
もしかしたら客観的世界など存在せず、
世界はそれぞれの言葉で色付けされたさまざまなものがあるだけなのかもしれない。
わたしはこのところ世界が以前と比べて、
とても生き生きとしたものに見えることがあり驚くことがある。
ながらく「死」のことばかり考えてきたわたしは、
いま目にうつっている世界は死んでい「ない」ことを敏感に察知しているのかもしれない。
「死」という言語を知ると、死んでいない世界が生き生きと見えるようなこともあるのか?
そんなことを有名哲学者の中島義道博士の名文を読んで考えた。
書籍は言語の集積である。
(例によって引用文中の[カッコ]は当方のお節介な意味補足)

「言語を習得した者のみが「……でない」
という否定的態度で世界に接することができます。
眼前のこの特定の色Fは赤くないと同時に、青くなく、黄色でもなく。茶色でもない。
ですが、このとき私の瞳孔(どうこう)を刺激するF[客観]には、
この否定[主観]は含まれていない。
刺激の対象としては、ただFが[客観的に]「ある」のであって、
ここに私はあらためて言語によって否定を到来させて
同じFを[主観的に]「赤くない色」であると同時に「青くない色」であると判断するのです。
「Fは赤くない」という[主観的な]判断によって、
[客観的な]知覚=刺激に何も付け加わるものはない。
知覚の対象としてのFのあり方が変わるわけではない。
ここに持ち込まれた否定[主観]は、
[客観的]知覚とはまったく異なった世界に対する私の態度に基づくからこそ、
知覚[客観的対象]に影響を及ぼすことはないのです」(P81)


ここから先が重要ですよ。

「その態度とはいかなるものでしょうか。
私が「赤いもの」を求めているという態度です。
私は、「赤いもの」を探している。その場合、さまざまな色は
私のこの態度によって「赤い色」と「赤くない色」とに分類される。
ここに、赤い色以外のさまざまな色はその固有な色を失うことなしに、
総じて「赤くない色」という性質をもつようになります。
知覚=刺激上は何一つ変化していない。
ただ、世界には忽然(こつぜん)と「赤くない色」という否定的色が登場したのです。
同じように、私が傘(かさ)を探しているとき、
突如として傘以外のすべての物はその固有のあり方を維持したまま
「傘でない物」という否定的物を「はらむ」ようになります」(P81)


正義を求めているものには、
他人のミスばかり目につくようになるだろう。
金銭を求めているものには、
他人の機能性(役に立つかどうか)ばかりが気になるようになるだろう。
よしんば死のようなものを求めているものがいたとしたら、
人間はおろか世界全体が輝いて見えるようなこともなくはないのかもしれない。
おなじ日本国民でも東京都民でも板橋区民でも人によって「住んでいる世界」は違う。

COMMENT

HN URL @
05/01 15:10
. 「言語を習得した者のみが『……でない』という否定的態度で世界に接することができます」というのは疑わしい主張ですね。

うちの猫は言語を習得していませんが、お皿に食事が載っていなければ「載ってない」、おいしい食事じゃなければ「これじゃない」、撫でられた場所が気に入らなければ「そこじゃない」という否定的態度をはっきり示しますよ。
石神哲哉 URL @
05/02 01:22
. 猫は、比較結果を態度に示しただけだと思います。
食事があるのかないのか。
おいしかったのかまずかったのか。
心地良かったのか不快だったのか。
論理の矢に当たって落ちる論理の小鳥は、人間だけでしょう。
人は試験前にかりかりして、猫は夢の中で狩り狩りしますね。








 

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