「「私」の秘密」

「「私」の秘密」(中島義道/講談社選書メチエ)

→とてもいい本だったので、何度も繰り返し読んだ。
この本に費やした時間を考えると驚くくらいである。
ファンである、うるさい哲学者の中島義道先生の最高傑作ではないかと思う。
費用対効果のようなものはとくになく、金にもならないし女にもてるようにもならないが。
つくづく思ったのは、家族関係や職場の人間関係といった世俗のことのほうが
西洋哲学よりも何十倍も難しい。
これはわたしにとってはで、人によっては西洋哲学のほうが難解だろう。
わたしは中島義道の本をたくさん読んでいるから、おそらくこの本のおもしろさがわかる。
ひまにまかせていろいろな本を読み散らかしたせいもあろう。
40年、50年と働きづめできた人にはこの本の意味がよくわからないだろう。
その代わり、仕事のことはその人のほうがよくわかっているだろう。
おそらくたぶんそういうほうが現世的な意味では幸福だろう。

繰り返し読んだ本書の内容を要約すれば、「私」は存在しない。
「私」のみならず、過去もいまも未来も、それどころか世界も存在しない。
正しくは、存在しない、ではなく、存在しないのかもしれない。
いや、存在するのかもしれない。
かりに世界が存在するのだとしたら(本当は過去もいまも存在しないのかもしれないが)、
「私」とは過去をいまと結びつけている語り部としての機能だけかもしれない。

――と、こんなことを言われても、ふつうの人は意味がわからないっしょ?
わからないことを言われると庶民はすぐ怒る。
世界は存在しない? なーに、おまえ、インテリぶりやがって!
おまえは生意気だ。世界が存在しないはずないだろう。なに?
すぐおまえは歯向かってくる。おまえは間違っている。
おれがおまえを鍛えて現実世界を教え込んでやる。おまえを注意するぞ。
インテルぶるな。理屈を言うな。おまえ、おまえ、おまえ、おれを舐めるなよ!
――とこうなるのがオチである。

「世界は存在しない」には耐えきれない苦労人も、
「私」の怪しさならご理解いただけるかもしれない。
苦労人のおじいさんとか、自分探し(「私」探し)をしている若者が嫌いそうじゃん。
ここをとっかかりに進めないだろうかと思う。
「私」は存在しないのかもしれない。
「私」が存在するとしたら、それは過去といまを接続する接着点としてだけである。
いまの「私」は過去にこういうことをした(=しなかった)存在だ。
そう語るときにのみ「私」というものは存在する。
若者が自分探し(「私」探し)をするのは、過去になにもしていないからである。
「私」とは過去のことだから、過去が少ない若者ほど自分探しに熱中する。
いい歳をした大人が自分探しをやらなくなるのは、
「私(=過去)」がどうしようもなくできあがってしまったからだ。
苦労人が「あたまでっかち」を毛嫌いするのは、
苦労してきた(と「私」が思っている)過去ゆえである。
本当に本当に本当に苦労人っぽい人は中島義道的存在を憎悪する。
むかしの創価学会の対極に位置するのが西洋風大衆哲学者の中島義道だろう。

「私」とはなにか?
こういう青臭いことを書くと、またコメント欄でたたかれるんだろうなあ。
攻撃するなら金持で有名人の中島義道に矛先(ほこさき)を向けてください。
「私」とはなにか? 「私」とは過去を語る主体である。「私」は時間的存在だ。
(以下、引用文中の[カッコ]内の記述は当方のお節介の無駄な意味補足です)

「私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、
過去の体験を「私は……した」と語る者なのです。
時間を捨象して[時間を考慮せず、私を]とらえようとするかぎり、
いかにしても「私というあり方」はとらえられないでしょう」(P16)


カウンセリング(心理療法)や精神科で患者は「私」のことを語るが、
それは過去を語るということに等しい。
ふたたび、「私」とはなにか? 「私」の正体はなにか?

「私はあらゆる時間的規定以前に「根源的に」存在するのでもなく、
<いま・ここ>の知覚の場面に絶対確実に存在するのでもなく、
むしろ過去という不在、無意識という不在、
[過去の]泥酔・錯覚・幻覚・夢想・思い違い・早とちり……という
「混濁(こんだく)した意識」を含んで
<いま・ここ>にかろうじて「ある」のです」(P17)


「私」は過去を言葉にする主体(存在)である。
過去にあったX(エックス)という事件をいま言葉にするときに「私」が立ち現われる。
その瞬間に起こったXそのものはなにものでもないのだろう。
Xをそれぞれに想起するとき(思い返すとき)、それぞれの「私」が立ち上がる。
セックスそれ自体はなにものでもないのかもしれない。
セックスを思い返すときに「私」が発生する。
ここにレイプされた過去(=「私」)を
「あたまでっかち」になら乗り越えられる哲学的抜け道がある。
一般的に女性は身体的で男性は理性的と言われるから無理かもしれない。
だが、レイプをした罪悪感に苦しんでいる男性への抜け道もここにあるのかもしれない。
Xがなんだったのかはだれにもわからないのかもしれない。
本当は誘われてことに及んだのに、どうしてかレイプ犯人にされた男もいるだろう。
Xがなにかはわからない。
Xを過去のこととして物語るときに「私」が生じる。
Xはなんだったのか? 気持よかったのか? 痛かったのか?

「「痛かった」と過去形で語る場合の痛みははじめから観念です。
しかし、現在形の場合、思わず「痛い!」と語るとき、
それは固有の刺激Xを語り尽くしてはいない。
Xは「痛い」という言葉では表せない独特の刺激です。
しかし、それにもかかわらず、われわれはその独特性を切り捨てて、
単に「痛い」と語ることを強制される。
そして、そのときわれわれは刺激の世界を離れて
それとはまったく異なった観念の世界に足を踏み入れるのです。
つまり、「痛い」という言葉を学ぶとは、
痛いという観念によって世界をとらえなおすことを学ぶことであり、
刺激が現存していても不在でも、
同じ「痛い」という言葉を使用することを学ぶことなのです。
このことによって、はじめて私は過去世界と現在世界とを
「一つの」世界として語ることができ、
現在形と過去形を「つなぐ」ことができるのです」(P106)


「私」も過去も現在も本当は存在しないのかもしれず、
もしそれらが存在するとしたら、
「私」はいま現在ここで過去のXを言葉にする存在というだけかもしれない。
ネガティブな「私」は過去にこだわり、ポジティブな「私」は未来を語るだろう。
暗い過去を振り捨てて明るい未来を語らせようとするのが創価学会である。
しかし、中島義道によると、過去も未来もおなじようにまやかしである。
過去も未来も現在(いま)も存在しない可能性がありうる。
過去の存在を「私」がいま語るとき、その同形態で未来という概念も発生する。
未来である老後の不安におびえていま必死に働いているような人は、
「未来は存在しない」などと言われたら相手を殴りたくなるだろう。
言っているのは、東大卒のインテリで新聞学者、子どももエリートの中島義道先生。

「先ほど少し触れたように、未来は厳密には時間ではありません。
未来と現在の関係は、現在と過去との関係をただ延ばしただけです。
われわれが「未来」と呼ぶものは、じつは時間ではなく概念[言葉]であるにすぎない。
未来が過去と並ぶ独特の時間であるというのは錯覚です。
未来とは、現在であるこの<いま>を一つ前の<いま>
すなわち過去へと仮想的に[あたまでっかちに]ずらしてみて、
その過去の時点に立ってあらためて
<いま>を見なおすときに出現する時なのです。(……)
[過去も未来も世界も]すべてがただの推量の産物であり、
このすべては現在を一つの時、
そして過去をそれとはまったく別の一つの時として
産出するという操作に基づいています。
想起できなければ[あたまで考えなければ]、
過去[後悔]のみならず未来[不安]を産出することもできず、
過去との対比でのみ意味をもつ現在も産出することはできず、
未来における過去である現在も、
未来における現在である未来を算出することもできない。
時間了解の全体は、現在と過去との両立不可能なあり方を原型としており、
あとの時間了解はそのヴァリエーションにすぎないのです」(P91)


明日食うコメがなくなる庶民に
未来は概念(言葉)にすぎず存在しないと言っても通じないだろうけれど、
そういう貧困経験をお持ちにならない中島義道は彼の真実を正直に述懐する。
西洋哲学的に思弁するならば(考えたら)、過去も未来も存在しない。
いまここにいるあやふやな「私」が過去も未来もつくりだしている。
「私」とはなにか? 「私」とは時間的存在である。
「私」とは過去を言葉にするものである。「私」とは未来の予測を言葉にするものである。
「私」とは過去を後悔して悩み苦しみ、同時に未来の不安におびえる概念(言葉)だ。

「私のみが、過去[未来]と現在とを「またぐ」ことができる。
想起を世界の中に取り戻すことは[要するに、あれこれ考え悩むことは]、
現在と過去[未来]という両立不可能な時間のあり方
(現在は過去ではなく、過去は現在ではない)を世界の中に取り戻すことであり、
想起[苦悩]を通じてそれら[過去→現在→未来]両立不可能なものを
接着する能力をもつ私を世界の中に取り戻すことなのです」(P62)


過去が原因で現在、いまのわたしがこうなっているのではないのかもしれない。
現在の行為が原因となって未来がどうこうなるのではないのかもしれない。
原因(過去)も結果(現在)もないのかもしれない。
現在(原因)も未来(結果)もないのかもしれない。
すべてはいまここにあるかどうかわからぬあやふやな「私」が
つくりだしたフィクションという可能性も思弁的になら(あまたでっかちになら)
考えられないだろうか?

「光景1[夕陽]が見えないことが、光景2[星空]を見えさせると語るとき、
光景1が見えないことが原因で、その結果として光景2が見えるわけではない。
光景1[過去]が光景2[いまの私]を「見えさせる」と語っていますが、
ここにはAがBを「ひきおこす」という因果関係は成立していない。
光景1[過去]に光景2[現在]をひきおこす力などありません。
ここに成立しているのは、同時成立的[共時的]な「すなわち」の関係であり、
眼前の微小な知覚風景が見えること、
それがすなわち残りの全世界が見えないことなのであり、
残りの全世界が見えないこと、
それがすなわち眼前の微小知覚風景が見えることなのです」(P50)


これは仏教でいう華厳的な思想だが、西洋哲学者は東洋の仏教に言及しない。
「私」とは過去の苦労をくどくど語るうざい老人である。
「私」とは起こりそうもない夢を語る世間知らずの若者である。
後悔(過去)も不安(未来)も「私」がつくりだしたフィクションかもしれない。
ならば、そうだとしたら、どうしたらやっかいな「私」を乗り越えられるのか。

「われを忘れて読書しているとき、
夢中になってボールを追いかけているとき、
音楽に聴きほれているとき、
そこには一つの世界の光景が生じているだけであり、私は登場していません。
私が世界に密着して何事かに勤(いそ)しんでいるとき、
私は登場してこないのです。
しかし、そのあとで、ふっと「われに返ってみれば」
私は読んだ本の内容をよく憶えており、
ボールを追いかけていた状況をよく憶えています。
私は、(明確に)知覚していないことをも(明確に)想起することができる。
この構図のうちに、「私というあり方」の秘密が隠されている」(P84)


なにかに夢中になっているときだけ人は「私(過去・未来)」から離れることができる。
いちばん手っ取り早く経済効率もいいのは、おそらく仕事だろう。
仕事に夢中になっていたら「私(過去・未来)」から逃げることができる。
読書に夢中になるのもいいが、それには言語能力が必要で、
そのくせ金銭にはならない無駄な行為である。
あんがい忘我という意味では
恋人とセックスするのもバトミントンをするのもおなじかもしれない。
鎌倉時代のマイナー坊主、一遍がやらかした踊り念仏のパフォーマンスもそうだろう。
ひたすら念仏(南無阿弥陀仏)や題目(南無妙法蓮華経)を唱えているといいのは、
そのあいだだけは「私」すなわち過去(後悔)と未来(不安)から逃れることができるから。
最大の忘我は「死」であろう。「私」が死ぬとはどういうことか?
「死」は夜に夢を見ているのとおなじかもしれない。
夢は目覚めてその夢を語った時点で夢になる。
ひっくり返せば、語る機会がなければ夢は原体験的な夢そのものである。

「ですから、私が明け方突然心臓麻痺(まひ)で死んでしまったとしても、
私が目覚めた瞬間に殺されて、
「夢であった」とかられる場面が永遠に訪れないとしても、
そのとき原体験していることは排除されません。
極彩色(ごくさいしき)の阿弥陀さまが来迎する夢であることも、
涼しい木陰のような天国にいる夢であることも排除されません。
同じように、死んでいる場合も、
私は(夢のようなもの)をみつづけているのかもしれない。
しかし、それは永遠に目覚めることのない夢です。
すべては「夢だった」と過去形で語ることがいつまでも訪れない夢なのです」(P183)


以下の引用文の「夢」を「人生」と置き換えて読んでみてください。
人生の喜怒哀楽を味わうのは夢を見ているようなものなのかもしれない。

「夢をみている最中、私は夢をみていることを意識していない。
あとから「夢をみていた」と意識するのです。
そのことをもって、はじめてその夢は私の夢として認知されるのです。
昨夜みた夢は、夢をみている最中すでに私の夢なのではなく、
単にあの夢にすぎない。
それを、目覚めて後に私が「あの夢をみていた」というかたちで承認するとき、
あの夢は私の夢になる。
いや、もっと正確に言えば、さかのぼって私の夢だったことになるのです。
ですから、もし私が濃厚な夢をみながら、永遠に目覚めることがない場合、
目覚めた瞬間に死んでしまう場合、
あの夢[苦楽=喜怒哀楽]が世界に登場したとしても、
それはさかのぼって私の夢[苦楽=喜怒哀楽]ではない。
私は夢をみなかったことになる[人生を生きなかったことになる]。
現在の知覚における場面ではなく、過去の対象を想起する場面で、
私はある表象[出来事]が私に属することを決めるのです」(P41)


わたしは本を読んでも感想文を書かなければ、
それは「私」の読書ではないと思う。
この本を読んでいろいろ考えたが、そのあいだとても「私」を楽しむことができた。
老人みたいだと言われることが多いけれど、最近むかしの回想をすることが多い。
後悔するのではなく、おもしろかったなあ、という文脈でだ。
人は信じてくれないだろうが、将来や死への不安もあまりない。
人は信じてくれないだろうが、
この本の著者の中島義道さんなら、ああこいつヤベッとお気づきになるかもしれない。
最後までお付き合いくださった読者さま、
リアリティのない離人症患者のようなことを書いて申し訳ありません。
中島義道の本なんか読まないほうがいいが、これは著者の最高傑作かもしれない。
役に立たないインテリの屁理屈と言われたらまったくその通りだと思う。

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