「俺の日本史」

「俺の日本史」(小谷野敦/新潮新書)

→東大卒で高収入ベストセラー作家の革命的な歴史啓蒙書を拝読する。
著者の奥さまも東大卒で作家をなさっており、
あのような美人さんに逢ったら小心者の当方など目も合わせられないだろうが、
被口淫がお好きな大先生が、
高学歴でたいへんお美しい奥さまから朝晩どのようなご奉仕を受けているかと思うと、
嫉妬もなにもなく、ただただもう本当に、
わたしが持たないものすべてを所有しておられる小谷野先生の足元にひざまずきたい。
小谷野先生は神さまか仏さまで、奥さまの神々しさはまるでマリアさまのよう。
一見書き飛ばしにも間違われかねない(そんなことはない、そんなことはない!)
新書も大歓迎でありますが、夜の奥さまを書いた私小説も読みたいなあ。

さてさて、ゴシップが大好きな小谷野さんの裏話はある事情でかなり目にも耳にもした。
それをめぐってのプチ騒動で、ある密告のようなものから、
ああ、出版関係はこうなっていたのかと内部事情に驚いたこともある。
わたしと親交のあったものなら気づくだろうが、当方の口はある面ではとてもかたい。
書かないものは絶対に書かない。書きたくないものは書かないというより書けない。
だれかのご迷惑になるからではなく(そういう事情のあることもある)、
「わたし」とは「わたしの秘密」のことだからである。
できるだけ、秘密は秘密のままにしておきたい。

どういうことか。
みんながみんな知りえた世の中の社会的マル秘情報を書き残すわけではないのだ。
これは墓場まで持って行こうという秘密をかかえたまま死んでいく人がいる。
それは公的な歴史にならない。
個人の秘密として文書化されなかったものは歴史化されない。
反対を言えば、それがたとえウソでも文書化されたら歴史的に正しいことになってしまう。
江戸時代以前の底辺庶民の歴史がよくわからないのは、
彼たちが言葉を持っていないなかったからではないか?
あるいは自分たちの真実(ってなに?)を表現する書き言葉を持っていなかった。
歴史というのは、
(文盲ではない)エリートが記録した(話し言葉ではなく)書き言葉によっている。
そうではない証拠記録のようなものがあっても歴史上、
権力者から存在を抹殺されていたらそれは歴史学上なかったことになる。
まあ、妄想ではない、
本当の事実だけで成り立っている歴史のようなものはないのかもしれないと言いたいが、
そこまで言っては大勢の歴史学者や歴史愛好家を怒らせてしまうので、
本当に起こった本当の歴史は、
人間にはわからない可能性もなきにしもあらずと言うにとどめる。
あるいはもしかしたら歴史は、
本当はどうだったかなんてだれにもわからないのかもしれない。
東大卒のエリートで博識、
信者も多い高収入のベストセラー作家も以下のようにお書きになっている。

「だいたい、奈良以前の政治史については、
記紀[古事記、日本書紀]以外の文書資料がほとんどないので、
記紀にこう書いてある、と思っていればいいので、本当かどうか、
本気になって考えたって分からないのである」(P28)


記紀に書いてあることが正しいのかどうかはわからないが、
それしか残っていないので
(あるいはほかの資料は歴史上権力者の都合で抹殺されたので)、
いまのところそれが世間的にはほぼ絶対的に正しく、
たとえば日本史の大学入試で記紀に書いていなかったことを書くと、まあ落とされる。
日本でいちばん偉い学問機関は東京大学で、
小谷野先生はそこの比較文学ご出身でいまはみながうらやむベストセラー作家。
わたしも見栄から先生の出た東大文3を受験したことがございます(むろん落ちた)。
体験から申し上げると東大日本史の過去問はおもしろいので、
いまはもうほとんど覚えていないが、
好奇心からかなり過去の問題と多様な解答例を読みこんだことがある。
東京大学は本当のことがばれるのが怖いのか、
ずる賢くも正しい(とされる)解答を世間に公表しない。
このため、東大日本史の本当に正しい百点満点の答えはだれにもわからない。
(現代文もまったくそうなので、東大現代文はきちがいめいた宗教の世界だと思う)
実際、東大日本史の解答例は予備校によって異なる。
わたしは河合塾生だったが、講師によっても正しい答えは異なっていた。
具体的には石川先生と桑山先生(故人←こちらが恩師かな)の答えは違っていた。
たしか駿台予備校出身(違ったらすみません)の「もてない男」、
現代日本が誇る最高峰の知性のおひとりであられるにもかかわらず、
しかし群れるのが好きなアカデミックの世界からはまったく認められない、
自称とびきり不遇な小谷野先生の東大日本史の思い出がおもしろい。

「内藤湖南[←この人が重要ですから、あとで正体を紹介いたします]は
「日本文化研究」で、
応仁の乱以前と以後の日本文化はまったく別物と考えて差支えがない、と言った。
実は私が最初に東大を受けた時の二次試験の日本史で、
この文章をさして、妥当かどうか論ぜよという問題が出た。
おそらく模範解答は、それ以前と以後の連続性を、和歌とか具体的な例をあげて、
湖南の論を否定するものだったのだろうが、私は本式にバカ、というか、
未だ受験技術というものが分かっていなくて、フロイトを持ち出して、
親から子に超自我というものが形成されるから云々と
まるで関係ないことを書いたのである。
あとで[一浪後]入学してからその話をしたら、
「そりゃ落ちるよ」とゲラゲラ笑われた」(P136)


当時の東大日本史のリード文で引かれた内藤湖南は京大派閥の重鎮なのだ。
彼は京都大学の古株権威研究者だ。
こういう本音を書くことにどれほど意味があるのかわからないが、
関東と関西は仲が悪い。東京(関東)と京都(関西)はいがみあっている。
学者や作家など、当人が東か西かで区別できると言えなくもない。
浪人時、河合塾東大コースの夏期講習をふだん通っている池袋校ではなく
名門とされる駒場校で受けたら、
石川先生がむかしの受験生は東大の先生の本を読んでいたとおっしゃっていた。
東大の問題は東大の先生がつくるのだから、
答えは東大の先生が正しいと思っている歴史解釈である。
池袋は駒場には勝てないと思ったものである。
受験生時代崇拝していた東大現代文の大川先生も、
池袋の東大浪人コースには出講しておられなかった。
わたしの日本史の先生は早慶コース主任の桑山先生だったが
(池袋では東大コース兼任)、
おかげなのかなんなのか受験科目が英語、国語、小論文だけの、
氏の出身である早稲田一文にまぐれで入ってしまった。

歴史は解釈であり、物語だと思う。
難関大学受験問題の正しい答えは、
そこの教授先生(権力者)が正しいと信じていることだ。
身もふたもないことを言えば普遍的な正しい答えはないかもしれず、
権力権威にそのとき恵まれている「上の人」のご意見が正しいことになる。
おそらくそれが高学歴で大企業に入る世渡り上手の考え方だろう。
本書で小谷野先生は、
破れかぶれにもそういう常識に反旗をひるがえしているのがおもしろい。
歴史学上Aの学説とBの学説が異なる場合がある。
いったいどちらが正しいのかと学校洗脳された人間は考えるだろう。
しかし、小谷野敦氏はそうではない。歴史は――。

「時代により、また事柄を見る位相[立ち位置]によって違ってくるものであり、
黒田[A]が正しいか佐藤[B]が正しいかと、
決めなくてもいいではないかということである」(P12)


なぜなら――。

「学者というのは、新説を出して自分の功績にしたいものだし、
学界としても、自分らの学問の存在意義を強調したいから、
次々と新説が出ているということにしたがる」(P10)


歴史の「なぜ」を問うのは楽しいが、最終的な答えはわからないのかもしれない。
当座の権力者が正しい歴史問題の答えを決めているだけかもしれない。
なぜ天皇制は続いたのか?
なぜ日本だけうまく西洋文化を取り入れ経済成長したのか?
なぜインドや中国では消滅した仏教が日本では生きのびたのか?
なぜ仏教革命家は鎌倉時代にしか現れなかったのか?
なぜベトナムが勝てたアメリカに日本は負けたのか?
なぜ資本主義は共産主義に勝ったとされているのか?
なぜ、なぜ、なぜ?

「「なぜ」という問いは教育の場などで重要だと思われているが、
歴史においては、確固たる答えがあるとは決まっていない。
問われること自体、分からないから問われるのだということだ。
問うこと自体は無意味ではないが、
最終的には、「分からない」ということも、少なからずあるのだ、
ということは心得ておくべきだろう」(P9)


本書では穴兄弟編とも言える、
おなじ新潮新書の「日本人のための世界史入門」の「偶然史観」が踏襲されていて、
そこがとてもおもしろかった。
われわれはいつも「なぜ(理由)」を考えるよう学校教育で洗脳されているが、
本当は「たまたま(偶然)」なんじゃないかなあ。
小谷野先生への期待は「分からない」を一歩先にすすめることであります。
うすうす気づいているのは本書からも十分察しますが、
もう一歩前進(退転)してくださったら、さらに世間に衝撃を与えることかと。
「分からない」のは歴史の「なぜ」のみならず「善悪」もそうではないか?
歴史上の為政者に善悪などあるのか?

「田沼[意次]は、賄賂(わいろ)政治をやったというので悪名高い。
しかし、賄賂はとったがいい政治をした政治家と、
清廉潔白だがダメな政治をした政治家とどちらがいいかというと、
前者のほうがいのである」(P204)


わたしも歴史好きによる善悪認定はうさんくさいとまったく同感である。
著者とおなじで賄賂好きの田沼意次は、
創価学会的とも言える現実的政治をした偉人だったのかもしれないと思う。
しかし、どんな政治をしても得をする人と損をする人にわかれるのだ。
得をした人たちにとってはトップの政治家は偉人で、
損をした人たちにとっては同人物が稀代の悪人になるという法則がある。
ヒトラーだって、ある時代のある国の人たちにはカリスマだったのだ。
あれだけネットでは非難されている池田SGI会長も、
将来の日本史ではわが国最高の偉人と評されている可能性もなくはない。
結局、サントリー学芸賞だけで終わりそうな、
酒が大嫌いな愛煙家の小谷野先生も、
百年後には日本最高峰の知性を持つとされる(国語便覧に掲載されるような)
河合隼雄レベルの学者になっているかもしれないではないか?
少なくともわたしのなかでは河合隼雄も梅原猛も小谷野敦も同列である。
とてもいい本を読んだと思う。

(関連記事)
「日本人のための世界史入門」(小谷野敦/新潮新書)

COMMENT

HN URL @
04/23 22:37
. 面白いエントリ。調子が戻ってきましたね。「高学歴でたいへんお美しい奥さまから朝晩どのようなご奉仕を受けているかと思うと」云々は、おそらく土屋さん一流の皮肉でしょう。実はあの夫妻は●●●●●スなのだ、という暴露と解釈しました。








 

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