「「いかがわしさ」の精神療法」

「「いかがわしさ」の精神療法」(春日武彦/日本評論社)

→精神分裂病を統合失調症と改名するのは、
埼玉市をさいたま市と表記するようでなんだかなあ、
とぼやく精神科医のわかりやすい医学エッセイを楽しみながら読む。
いまありがたくも働かせていただいている会社は従業員全員に道徳教本を配布している。
それを読んだうえで誓約書を提出するというのが勤務者のルールだ。
ちょうどその時期にこの名著を読んでいたので、
影響を受けておかしな誓約書を書いてしまった。
春日武彦は本書で「大人になるということ」を以下のように定義している。
1.相手の立場になり、自分を客観視すること。他人に迷惑をかけない。
2.矛盾や曖昧(あいまい)さに耐える。
3、現実的に妥協する。要するにおのれの分際をわきまえ、相手の顔を立てる。
やっぱり大きな会社の道徳教本には「きれいごと」ばかり書いてあるわけよ。
たしかに建前はその通りなんだろうけれど、本音はそれではやっていけんでしょという。
建前をあたかも本音のようにさらりと言うことが「大人になるということ」。

おのれのガキっぷりがいやで会社に提出する誓約書には、
春日武彦の文章を多少マイルドにしたものを書いた。
1.相手の立場になる。
2.矛盾に耐える。
3.現実的に妥協する。
そうしたら上の人から「これはちょっと勘弁して」と苦笑しながら言われた。
「これは親会社の人も見るから、ちょっとこれは……」
1の「相手の立場になる」はいいけれど、2と3が大人社会ではまずいらしい。
やべっ、やっちまったよ、と恥ずかしくなる。
「矛盾に耐える」と「現実的に妥協する」は本音でも、
建前では社会上その言葉は通用しないのか。
即座に「現実的に妥協する」ことに決め、その場で修正テープでぜんぶを消した。
そのうえから目標を「早く仕事を覚えること」と書き直してOKをいただいた。
精神科医の春日武彦がよく書いているけれど、
人間の精神のアキレス腱(急所)は「こだわり、プライド、被害者意識」。
よけいなこだわりやプライドがどれだけうざいかはいまの職場で学んだことでもある。
自分から率先してこだわりやプライドを捨ててみたつもりだ。

勘違いしている人も大勢いるだろうが、
基本的に精神科医の仕事はカウンセリングではなく病名診断と投薬治療である。
日本の保険報酬制度だと初診以外の患者に30分も時間を取れない。
3分診療が当たり前で、だからこそ、
ときたま現われる面倒くさい患者に時間を取ることができる。
春日医師は患者をまえにしてどのようなことを本音では考えているか。
たとえば、20歳を過ぎたばかりくらいのいかにもメンヘラ―の女性。
ありきたりな家族との確執をかかえていて、
それも家族が一方的に問題があるというわけではなく、
本人の性格のゆがみもありそうだ。
精神科医の春日武彦は、こういう女性を診察するとき、
どのようなことを心中で思っているのか。

「どこまで介入すべきなのか。
どこまで彼女の人生そのものへかかわるべきなのか、大いに迷わされた。
というよりも、面倒くさいなあというのが本音であった。
彼女の語る状況からは、「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」
という感想しか出てこないのだが、そのことを伝えて終了というのも気が引ける。
わたしなりの意見をオブラートに包んでやんわりと伝え、
あとは本人と相談して安定剤を処方した」(P38)


赤の他人の悩み(愚痴)に対する職業人の本音の感想は、
「面倒くさいなあ」と「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」なのかもしれない。
仕事でやっかいごとが生じたとする。
違うセクションの人が不満いっぱいで従来のやり方を変えようと言いだしてきた。
「面倒くさいなあ」
「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」
本音はそうだとしても社会人はそういうことを言ってはならない。
だから親身になって相手の相談を聞いているふりをして、
相手の立場に立って改善する旨を伝え、しかしそうしたらほかが困るのだが、
そういう矛盾もぐっとこらえ、現実的な着地点や折り合いを求めるしかない。
ありとあらゆる悩み(不満、愚痴)について、
もしかしたら改善策は存在しないかもしれなく、
できることは「当面は我慢する」しかないというのが現実や実際なのではないか。
どうしようもないものはどうしようもないのだから「当面は我慢する」しかない。
「それを言っちゃあ、おしめえ」だから、みんな春日武彦のように言わないだけで。
「当面は我慢する」の意味は膠着(こうちゃく)状態であり、現状維持である。
わたしが大好きな現実的な精神科医は言う。
「当面は我慢する」しかないのなら「当面は我慢する」しかないのではないか。

「なるほど、膠着状態が持続すれば悲観的にもなってこよう。
焦(あせ)りも出てこよう。
だが目覚ましい改善は見られなくとも、
現状維持であることは果たして敗北なのだろうか。
悪くならない、再燃しないという事実を「当たり前」と考えるか
「それなりに安定している」と捉えるかで、
評価は大きく違ってくるのではないだろうか」(P141)


春日武彦医師は、
精神科領域の疾病は完全に治ることがないと思っているのではないか。
春日医師はこと精神分裂病(統合失調症)にかぎっては完全治癒はないという、
患者や家族を絶望に落としかねない身もふたもない本音をあまたの著書に書いている。
しかし、希望がないわけではない。
精神科にかかるしかないような疾病にも先々の希望がまったくないわけではない。
患者や家族がうっとり聞きほれるような建前の「きれいごと」ではないが、
こういう本音の希望を書けるのもまた春日先生の偉いところである。
本音を言ったら、このくらいしか精神科医の希望はないのかもしれない。
春日さんのような精神科医の先生がたが診てくださっているから、
患者さんたちは現状維持でたもっていられるのではないか。

「現状維持をもっと評価せよと家族に言っても、
でも一生このままで終わってしまっては困ると反論されるかもしれない。
その反論はもっともである。昔、ある地方の病院で先輩の[精神科]医師が、
「患者が齢を取ってくると、妙にいい感じにまとまってくることがあるんですよ。
それを期待しているだけですね」と、
諦(あきら)めきっているのか悟りに近い境地に達しているのか
わからないようなことを語っていたことを思い出す。
それをそのまま家族に伝えても、
おそらく何と頼りのない医師だろうと思われるだけであろうが」(P142)


パーソナリティ障害という精神科でつけられる病名がある。
むかしは人格障害と言っていたが、人格に障害があるって差別的すぎねえか。
というわけで埼玉市をさいたま市にするように、
人格障害はパーソナリティ障害になったわけだが、
どういう病気かというと精神病(統合失調症、双極性障害)でもないのに
「変な人」「迷惑な人」「面倒くさい人」の総称といったところだろうか?
こういう教科書的には多少逸脱した、
しかし「本当のこと」を教わったのは精神科医の春日武彦先生の本からである。
分裂病も躁うつ病も人格障害も基本的に完全には治らないと思っていたほうがいい。
医師の国家資格を持たない心理療法家の河合隼雄も、
ボーダー(=人格障害)は10年、15年かかると言っている。
ボーダーとは境界の意味で、ふつうの人と狂人の境界にいるというくらいの意味。
B級精神科医の春日武彦のみならず、
日本文化の最高権威者のひとりである河合隼雄もまた
人格障害はアレだと言っているわけである。面倒くさいなあ、に近いことを。
しかし、「患者が齢を取ってくると、妙にいい感じにまとまってくることがある」――。
精神科医とカウンセラーは商売敵だが、あんがい両者の希望はおなじなのかもしれない。
もしかしたら精神病よりやっかいなのがパーソナリティ障害なのだろう。
本人もたぶんにその気(け)がある春日医師は、
パーソナリティ障害のゴールについて皮肉だが的確な意見を述べる。

「パーソナリティ障害者のゴールは、当人としては
「自分らしさを存分に発揮して輝き、周囲からも温かく見守られたい」
といったものが多かろうが、
これは底なし穴に延々と土を放り込んで埋めようとする作業に近い。
現実を弁(わきま)えるという意味で
プライドや他者に対する期待や被害感や自己嫌悪に一定の見切りをつけ、
淡々と生きていく方向にゴールを定めたいのだけれど
それが困難なことは言を俟(ま)たない」(P32)


わたしは自分のことをあるいは春日医師とおなじパーソナリティ障害ではないかと
疑いながら、うんざりげんなりと生きてきたが、
いまの時点で考えてみるとたしかに加齢とともにわずかながらではあるにせよ
「妙にいい感じにまとまって」きたような自覚がまったくないわけでもない。
「他者に対する期待」が少しずつなくなってきたような気もして、
そうするとなんて周囲の人が自分に親切なのだろうと不思議になった。
「被害感」は最近は弱くなって、むしろ「加害感」が芽生えてきたくらいだが、
この自責の念はうつ病の発端とも言われているから注意しなくてはなるまい。
「自己嫌悪」は相変わらず強いからパーソナリティ障害は治らない。
自分では尊大なプライドを持っているつもりだったが、
職場でやたら「もっと自信を持って」と言われることが多いので、
他人からはプライドがないように思われているのかもしれない。
断わっておくが、わたしは春日医師とおなじでパーソナリティ障害ではない。
なぜなら精神科や心療内科を受診したことが一度もないからである。
むかしある精神科医から長文メールをいただいたことがあるけれど、
そのメールにも当方がパーソナリティ障害だという診断は書かれていなかった。

数ヶ月まえから、わたしは精神病的な妄想をいだいていた。
それを書いたら精神病になってしまうからブログにはいっさい書かなかった。
むかしからの友人にこれも「前世の因縁」だからあきらめてくださいね、
と思いながらおのれの精神病的妄想をこっそり明かしただけである。
結局、現実と妄想の違いはなんなのだろう。
現実にその人が体験したことでも、周囲が納得してくれないと病的妄想になってしまう。
当人が現実には経験していないことでも、
それが社会的通念に適合するかぎり妄想でも現実的という評価を受ける。
精神病的妄想について精神科医の春日武彦氏は以下のように語る。

「病者が語る妄想は、どれもこれも似たようなテーマであり、似たような展開である。
およそ目新しさに欠ける。個性といったものが感じられない。
それは無個性ゆえにある種の普遍性を示しているのだろうか。
統合失調症の発病に伴い、病的不安や違和感、猜疑心や困惑、
漠然とした危機感や訝(いぶか)しさといったものが立ち上がってくる。
そうした不定形のものを曖昧(あいまい)にしたまま耐えていくことは容易ではない。
取り止めのない状態に対して、人間の耐性はきわめて低い。
そこで応急処置的に突飛(とっぴ)な物語(しかも多くは被害的なストーリー)
を持ち出して妄想気分へ具体的な形を与え、
事態の納得と対応を図ろうとするものの
その非現実さがかえって世間との軋轢(あつれき)を生じて、
ますます患者は追い込まれていく――
このようなあらましがすなわち妄想の出現であるとわたしは考えている」(P128)


曖昧(あいまい)さに耐えるとはどういうことか?
ある人が好きで嫌いというおのれの矛盾を言語化しないことだろう。
言葉にしてしまったら曖昧さは失われてしまう。
言葉は矛盾を許さないところがある。
ならば言語化不能の原体験的不安や原体験的畏怖が
立ち上がってきたらどうしたらいいのか。
それを言葉にしたら矛盾した整合性のないものになってしまう。
強引に合理的に言語で接着するとありふれた精神病的妄想になってしまう。
しかし、どうして矛盾していてはいけないのだろう。
ある人が大嫌いでありながら、同時に好きでたまらないというのは、
矛盾しているわけではなく、むしろそれが、それこそが内面の真実ではないか。
ある人を全面的に尊敬しているなんていう、
軽蔑感情の裏打ちがない心酔はもしかしたらニセモノとは考えられないか。
本音と建前は違うが、その矛盾したふたつのものが現実であり正義ではないか。
おのれのうちにひそむ矛盾に目をそむけるのではなく肯定したらどうか。

「いつも不思議に感じているのだけれど、
相反した二つの感情を同時に持つことを変であるとか間違っているなどと言う人がいる。
そんなことはあるまい。
愛しているけど憎い、むかつくけれど気になる、
痛いけど気持ちがよい、悔しいけれど気が晴れた、
鬱陶(うっとう)しいけれども嬉しい――そんな事象は枚挙に暇(いとま)がない。
大震災が起きたり猟奇事件が起きれば、胸を痛めたり眉を顰(ひそ)めると同時に、
どこか退屈な日常が揺さぶられたゆえの軽い高揚感が伴ったりする。
誠実さと不謹慎、優しさと残忍さが同居するのはむしろ普通だろう。
恥じることは何もない。そうしたこころのあり方を否定するのは息苦しい」(P216)


精神科医ってもしかしたらものすごくたいへんなお仕事ではないのだろうか。
長らく目のまえで飛び降り自殺をした母の主治医を恨んでいたことがあった。
いまでははっきりとそれは間違いであったと思う。
母が精神病を発症してからあの齢まで生きられたのは、
長年のあいだ主治医だった精神科医S先生ならではの、
ほかの医師にはできないすぐれた手腕のおかげだったのだろう。
むかしは恨んでいたが、いまでは感謝したい気分もなくはない。

COMMENT

あなたと同類の人間 URL @
04/20 00:44
. 昔の日記を読むと明らかにあなたはアレな人ですよ。
自分が認められないのは実績が無い講師のせいだ、月謝ばかり払わせる阿漕なセンターのせいだ、ライターの価値を認めない業界のせいだと、あなたが認められない事と一切関係ない事柄に押し付けて周りに迷惑をかけていたじゃないですか。
山田太一かぶれの文体を何度指摘されても直せなかったのは、まさに「こだわり、プライド、被害者意識」の賜物です。

しかし表現者なんてのはだいたいその「こだわり、プライド、被害者意識」で創作活動していくものですよね。
それで何の才能もない人たちがただアレな人ってだけで終わるわけで・・・。








 

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