「臨床心理学ノート」

「臨床心理学ノート」(河合隼雄/金剛出版)

→人は人にものを教えられないのかもしれない。
知識や情報、仕事のようなものは教えられるけれど、生き方は教えられない。
人は人を変えられない。人が変わるとしたら、それはおそらく自分からだ。
他人は変わらない。自分が他人を変えることはできない。
他人は救えないと思っていたほうがいい。めったに自分は他人を救うことができない。
もし他人が救われるとしたら、その人が自分で自分を救ったときになるだろう。
われわれは他人を変えたくて「あーしろ、こーしろ」と言う。
しかし、他人は変わらないものである。
あんがいなにも言わないのも一手なのかもしれない。
相手が言葉を発したときだけきちんと受けとめて、あとはなにも指示しない。
ほとんどなにも言わない。なにもしないことに全力をかける。
これがカウンセリング業界の親分の主張である。
人間関係を維持するくらいの意味はあるが、助言は根本的にあまり意味がない。
なにかするより、なにもしないほうが難しい。
助言するよりも、ただ聴いているだけのほうが疲れる。
聴くとは、相手から言葉を引き出すということ。
有料カウンセリングに来るようなそうとうな困難をかかえた他者はおそらく、
こちらの言葉では救われないだろう。
目のまえの人が救われるとしたら、それは相手が自分で発した言葉によってしかない。
だから、聴け。だから、助言するな。聴いて聴いて、相手に考えもらえ。
それがカウンセラーという聴く商売の役割。晩年の河合隼雄は言う。

「アドバイス[助言]の無効性や有害性が明瞭になった地点で、
心理療法について「聴く」ことの重要性が認識されるようになった。
ともかくクライエントの言うことに耳を傾けて聴く。
そうするとクライエントはひたすら話していくうちに、
治療者がアドバイスしたいようなことを、クライエントが自ら気づく。
このときは、本人自身が発見し納得したものなので、
その点を少し保証したり、後押しをすることによって有効な動きが生じる。
もちろん、実際に行なうと、それほど簡単なことではない。
いくら聴いていても、
クライエントが同じことばかり繰り返して言えばどうなるのか、
などということもある」(P128)


わたしはこの河合隼雄の意見はかなり「正しい」と経験的に思うけれど、
いまを生きるカウンセラーさんのブログを読んだりすると、そうではないらしい。
むかしはひたすら聴いていたら、自己改変する(自分から変わる)ものが多かった。
しかし、いまはどれだけ話を聴いても、どこまでも反省が見られないという。
リアリティがありすぎてぶっ飛んだものである。
河合隼雄の主張より、そちらのほうにリアリティを感じたものである。
よほど優秀なもの以外は、話を聴いてもらっているだけで、
「自分の言葉」で自分を変えることはできないのかもしれない。
上から降ってくる大勝利や使命、夢や絆といった言葉で救われるのもありだろう。
カウンセリングでたっぷりと時間と金をかけて「自分の言葉」を探すよりも、
「他人の言葉」で生きていくほうが楽なのは間違いない。

しかし、「他人の言葉」が効かないほどの苦しみを味わっている人がなかにはいる。
そういう人は「自分の言葉」を探すしかない。
一見すると「他人の言葉」と「自分の言葉」はおなじように見えることもあろう。
たとえば、「禍福(幸福と不幸)は過去世の宿業のため」――。
いま家族を亡くしたり、難病にかかっている不幸な人に、
「あなたの不幸は前世からの因縁のせいですよ」と助言したら怒られるでしょ?
「ふざけんな、おまえになにがわかるか!」って話になる。
けれども、本人が仏典を読み漁って、
腹の底から過去世の存在を確信したら、そこに救いのようなものも生まれるわけだ。
「不幸は過去世のせい」を「他人の言葉」として助言されたら腹が立つが、
「自分の言葉」として自分が納得して発するならば、その言葉は当人を生かす。
しかし、自分が救われた言葉だからといって、
苦しんでいる他人に「不幸は過去世のせい」と言っても無意味どころか逆効果だろう。
このことを河合隼雄は以下のように説明している。

「それは、思いがけない不幸に見まわれて抑うつ状態になっている人に、
「前世の因縁」などという「因果的」説明をし、その人がそれに納得することによって、
健康を回復するような場合である。
この場合は、クライエント[相談者]が主観的にその因果的説明を納得して
受けいれたことが治療への大切な要因になっている。
この際、日本語の「納得」という表現は便利である。
単なる知的理解をこえて、人間全体としてそれを受けいれている、
という感じがするからである。
この際も、この方法は一般化できない。
つまり、その因果的説明を納得しない人がいるからである。
このような類のものとして、たとえば、先祖の供養がされていない、墓相が悪い、
などというのがあり、その忠告に従って、供養をしたり、墓相を変えたりしても、
それは効果のあるときとないときがある。
近代科学の強みは、その条件に明確に当てはまるときは、その結果が確実にわかる。
あるいは、その確率がわかっている、ということであるし、
その説明は「普遍性」をもっていることである。
これに対して、上記のような場合[先祖供養や墓の問題]は、
結果については保証はない。しかし、成功する場合もあることは事実である」(P82)


宗教的な話になってしまった。
金や社会的地位、良好な人間関係は驚くほど人を救済するけれど、
人間の根源的な不安を解消するには宗教しかないようなところもなくはない。
打つ手がないという八方ふさがりの苦境に人生でおちいることがある。
わたしの場合は本ばかり読んで「自分の言葉」を見つけようとして、
結果的にある程度の落ち着きを得ることができたが、
これはほとんどわたしにしか効果のない方法だったと思う。
わたしは先祖供養などバカらしいと思っているし、同様に墓なんてどうでもいいが、
そういうことで救われる人たちがいることを非科学的と否定してはならないと思っている。
あらゆる宗教が人を救う可能性を持っているのだろう。どの宗教も「正しい」。
しかし、自分が創価学会に入って救われたからといって、
だれもがおなじように救われるとはかぎらない。
とはいえ、救われている人がいるのだから学会員さんをおとしめるのもおかしい。
――日蓮大聖人への信心を持たないのが「原因」で問題が生じている、
と言われたため、あるクライエントは思い切って創価学会に入信する――

「先祖の供養がされていないのが「原因」で問題が生じている、
と言われたため、あるクライエントは思い切って先祖の供養をする。
その席で長らくつき合いのなかった親類の人と話しあっているうちに、
自分の苦境を脱するいとぐちが見つかった。
このとき、その人は、「先祖の引き合わせ」によって解決の方法を見出せたと言うし、
やはり「先祖の供養をすることは、いいことである」という結論になる。
しかし、ここから結論として、
「先祖供養をすると、問題が解決する」という提言をすると誤りである。
ただ、この際に先祖供養したことが問題解決に役立ったことは事実である」(P86)


――「創価学会に入ると、問題が解決する」という提言をすると誤りである。
ただ、この際に入信したことが問題解決に役立ったことは事実である――
おそらく正しくは、先祖供養をしたら、「たまたま」問題が解決した。
創価学会に入った「から」問題が解決したというよりも、「たまたま」解決した。
いちばん身近な宗教団体が創価学会なので例としてあげさせてもらったが、
これはどの集まりやセミナーにも当てはまることだろう。
物騒なことを言うと、心理療法(カウンセリング)もおなじと言えるのではないか。
特定の心理療法を受けたことが「原因」となり因果的に問題が解決するわけではなく、
カウンセリングを受けたことがきっかけとなり
「たまたま」共時的に問題が解決することがある。
心理療法はクライエント(相談者)を、
それぞれひとりぼっちの「自分教」の教祖にする宗教的行為だと思う。
宗教的行為をするとき問題となるのは金銭面と危険性だろう。
仏典をひとりで読んでいるのは安価だが、社会適応障害を起こす危険性がある。
新興宗教に入ると人格が劇的に変わることもあるそうだが、大金を求められる。

よく知らないけれど、創価学会に入ると指導として上から怒鳴られるんでしょう?
カウンセリングの傾聴(相手の話を聴く)の正反対が創価学会の指導だろう。
カウンセリングはおなじ目線で相手と向き合うが、
上下関係が厳しい創価学会は軍隊式の指導で問題を解決しようとする。
傾聴でよくなる人がいる一方で軍隊式の指導でよくなる人もいるのだろう。
ストレスはふたつ解消方法があると思う。
ひとつはだれかにストレスのもととなっている話を聴いてもらう。
これは相手からいやがられる行為だからカウンセラーが必要とされるのだろう。
もうひとつのストレス解消法は抵抗できない格下のものを怒鳴りつけることだ。
「もっとも下劣」だが、もっとも即効性があるので、
これが楽しみで職場に行くものも少なからずいよう。
河合隼雄は怒ることをいいとも悪いとも言っていない。

「もっとも下劣なのは、権力に守られたり、
上下関係の制度によって守られたりしているなかで、
上から下に向かって怒る場面である。これは、自分は安全な立場に立って、
自分の感情のはけ口に他人を利用しているだけで、
何の意味もないし、害があるだけである。
[引用者注:怒った本人はスッキリするのではないかしら?]
しかし、怒りの感情の抑制ばかりしていては、頭と体が分離してきたり、
行き場のない感情のために、結局は知的な判断力まで狂わされてしまったりする。
そんなときに、あっさりと怒りを表出すると、怒った方も怒られた方も、
何だか心と体の間に一筋の線が通ったようですっきりとすることがある。
このようなときに「雷を落とす」という表現があるように、
それは「自然現象」に近い気がする。
自然現象的な怒りの表出は、さっぱりとした感じを残すものだ。
このような怒りの場合は、あまり人に嫌われることはない。
そうすると、怒りは表出すべきであろうか。
このような考えから「感情を発散させる」のはよいことだと言う人がいる。
これを考えるためには、先に述べた「自然現象」という比喩が役に立ってくれる。
すべての「自然現象」は歓迎すべきだろうか。
洪水、嵐、落雷による火事などなど、
人間にとっては恐ろしく、回避したい自然現象は沢山(たくさん)ある。
比喩的に言うなら、怒りの発散が洪水や落雷や、
もっとひどく地震のようなことにつながるのは困るのである。
あるいは、怒りの体験が、その人に動物や神の体験をさせるとしても、
その後で人間に戻って来られないと困る、とも言えるであろう。
怒りには、このような危険性が伴っている」(P179)


「どっちとも言えない」は河合隼雄を理解するうえで重要なキーワードだろう。
「どっちがいいとも悪いとも言えない」「どっちにもいい面と悪い面がある」
もしかしたら「どっちでもいい」のかもしれないが、そこまでは言い切らない。
感情は発散したほうがいいとも悪いとも「どっちとも言えない」――。

いんちき宗教家が金を儲けようと思ったら、思いのほかかんたんなのかもしれない。
パーフェクトな人間はいないから教祖はいくらでも信者を指導(叱責)することができる。
完全なクライエントはいないので、
いんちきセラピストはいくらでもセラピーを延長できる。

「心理療法の終結は、なかなかパラドキシカル[矛盾的]である。
よくなった、とか解決したという喜びとともに、大切な人と別れるという悲しさがある。
もちろん、喜びのほうだけ意識されることもあるが、そのようなときでも、
悲しさが潜在しているときもある。
治療者の方が逆転移が未解消で別れ難く感じることもある。
そのようなときは無意識のうちに引き伸ばそうとする気持ちがはたらいて、
クライエントの「未解決」の問題を指摘したりする。
言うなれば、人間は誰も「未解決」のことをかかえているのだから、
言おうと思えばいくらでも言える。
このような点については、セラピストは常によく自戒していなくてはならない」(P195)


問題をかかえた人にとって河合式のカウンセリング(=「自分の言葉」を育てる)と
新興宗教(=「他人の言葉」に従う)はどちらが効くのだろう?
両者を折衷(せっちゅう/いいとこどり)させた指示カウンセリングのようなものが
もっとも経済効率がいいのかもしれない。行動療法はそうだよねえ。
相手が「自分の言葉」を見つけるまで待つ河合式心理療法は
10年、15年かかるわけだから、とても一般庶民には高嶺の花だろう。
かといって新興宗教に夢中になるのは短期的にはいいのだろうが、
長期的に考えるといささか問題があるような気がしてならない。
カウンセリングと新興宗教のどちらがいいのかは、
まあ河合隼雄の真似をして「どっちとも言えない」くらいに結論づけておこう。
そもそもからしてカウンセリングを受けたことはないし、
新興宗教に入ったこともないのだから、「どっちとも言えない」のは当たり前か。

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