「捨ててこそ生きる」

「捨ててこそ生きる 一遍 遊行上人」(栗田勇/NHK出版)

→2ヶ月以上まえに読んだ本で、いろいろ忙しくて本当に時間が取れなかった。
本書はとてもぜいたくな1冊で、国宝の絵巻物、一遍聖絵が丁寧にコピーされている。
いままでいろいろな関連書で一遍聖絵を鑑賞したがこの本がいちばんよい。
一遍聖絵に僧が入水自殺をするシーンがあることを本書で知った。
絵巻物の該当部分を拡大して、
あれは入水自殺だと教えてもらわないとふつうの人は気づかないのである。
一遍上人は踊り念仏を始めたとされる鎌倉時代のマイナーな坊さん。
日本全国を遊行(旅)して南無阿弥陀仏の札を配ってまわった。
後年は弟子(女もいた)が旅をともにすることになり自然発生的に踊り念仏が生まれた。
踊り念仏とは、いまで言えばAKB48のような集団ダンスである。
一遍につきしたがったのは、各地域で集団生活を送ることができないあぶれもの。
たとえば、チョーがつくほどの美少女は、
男たちの関心をひとり占めするから女連中から嫌われる。
あたまが少しおかしい人はおもしろいんだけれど輪を乱す存在とも言えよう。
そういうカタギには生きられないものが一遍の遊行(旅)につきしたがった。

一遍の踊り念仏はストリップショーに近かったという説があり、わたしもそうだったと思う。
べつの本で資料を見たが、踊り念仏をする女性は着物をミニにしているのである。
盆踊りの起源は踊り念仏とも言われているが、男女は高台のうえで踊る。
下から見上げる観衆からは踊るタレントの男根や女陰がちらちら見えたことだろう。
こういう興行をして一遍は貨幣を得たものと思われる。
そうでないと配る念仏札を製造する元金がどこから出ていたのかわからない。
一遍の布教は念仏札を配ることであった。
たいていの人には無料で配っただろうが、
一遍の威光に降参して寄付金を差し出したものも少なからずいたことだろう。
一遍は教団をつくる意図はなかったが、没後に弟子たちが群れて教団化した。
それが時宗(時衆)でいまでも本当に細々と神奈川の藤沢に残っている。
わたしは時宗の檀家ではなく、ただの一遍の心酔者だが、
むかし念仏札を無料でもらったことがあり、それは財布にたいせつにしまっている。
この念仏札は売ってくれと言われても困る。
かといって、いまもいまライターがあれば燃やしても構わない。

とまあ、一遍のかんたんなポップ(宣伝)を書いたけれど、
果たしてみなさまのご関心をキャッチ(捕獲)できたでしょうか?
歴史上にいたお坊さんのなかでいちばんわたしが好きなのは一遍上人だ。
むかし暇にまかせて岩波文庫の「一遍上人語録」を百回以上読んだことがある。
一遍上人の教えは、本書で栗田勇氏も指摘しているが「捨ててこそ」。
ひと言でわかりやすくまとめろと言われたら「善悪を捨てよう」になる。
あれは善(正しい)でこれは悪(正しくない)という考えを捨てる。
一遍は自分の言ったことも捨ててくれてけっこうとまで言っている男。
自分の教えが正しいわけではない。唯一絶対の真実は南無阿弥陀仏。
阿弥陀仏に南無(お任せ)する。
善も悪も自分で判断しないで南無阿弥陀仏(阿弥陀仏にお任せする)。
わたしは一遍の南無阿弥陀仏の熱狂的ファンだから、かなりフリーである。
一遍に刺激されて、善も悪もよくわからないんじゃないかと思っている。
このため、当方はどこの宗教団体にも入ることができる。
善悪を捨てたら、どの団体もそれぞれ正しいことに気づくわけだから。
どこの団体が正しいわけではなく、どの団体もそれぞれに正しいことがわかる。
ならば、創価学会、顕正会、浄土真宗、親鸞会――ぜんぶに入ることができる。
かわいい女の子に勧誘されたらキリスト教のどっかに入ってもいい。
いちおう新約聖書はむかし熟読したことがあるし、聖書も正しいと思うので。

一遍の魅力を広く紹介したのは栗田勇氏(「一遍上人 ~旅の思索者~」)。
わたしも氏の著書からだいぶ影響を受けたものである。
本書は氏の一遍論考エッセイの集大成と言ってよい。
わたしとは意見が違う部分もあるが、
作者が一遍を作者なりによく理解(咀嚼/そしゃく)しているのがよくわかった。
著者とわたしの一遍の見方のどちらが正しいというわけでもなく、
どちらも正しくないし、あるいはどちらも正しいのだろう。
おそらく一遍ファンの先達の著者はそのことに同意してくださるであろう。
わたしはブログ「本の山」にいままで一遍のことをたくさん書いてきた(好きだから)。
ブログのカテゴリーに「一遍上人」をつくってしまったほどである。
いったいこれからわたしはなにを書いたらいいのだろう?
というのも、わたしは個人的に一遍のファンというだけ。
べつにみなさまが一遍を好きになってくださらなくてもぜんぜん構わない。
日蓮大聖人のほうが何倍もいいと思われてもOK。
田舎坊主で子孫が腹黒い親鸞のほうが好きだと言われてもOK。
そう断ったうえで、一遍の教えをとことんわかりやすく紹介してみるか。
むかしは偏差値40の女子高生にでもわかる文章を目指していたのだが、
最近は知的障害者にもわかる文章を書けないかなと思っているが、うーん。

一遍はまあ、こう言ったわけである。
あれ? 善とか悪とかってあるっけ? 正解とか誤答とか、そんな違いはある?
東大生と知的障害者ってべつに変わらないじゃん。
社長も部長も工場長も正社員もバイトも、みんなおんなじなんじゃないかなあ。
このようなことを一遍は以下のように言っている。
このブログ記事のなかで一遍の言葉を引用するのはここだけだから、許して!

「念仏の行者は智恵をも愚痴(ぐち)をも捨(すて)、善悪の境界(きょうがい)をもすて、
貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、
又諸宗の悟(さとり)をもすて、一切のことをすてゝ申(もうす)念仏こそ、
弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ」(P18)


人間って善人ぶりたがるし、だれかを悪人だと決めつけたがる。
でも、一遍は善も悪も捨てようと言っているわけだ。
われわれは得(出世)を善だとみなし、損(病気)を悪だと思っている。
でもでも、一遍は善(得)も悪(損)も捨てようと言っている。
そんなもの机上の空論じゃないかと言われたら、たしかにそういう部分もあろう。
でもでもでも、一遍本人はかなりのところまで善悪を捨て切っていたと思う。
どうしたら善悪を捨てられるのか? どういう考えをしたら善悪を超えられるのか?
善悪というのは損得、貧富、美醜、賢愚、正否、貴賤のことと言ってよい。
どのようなロジック(論理/言葉の筋道)で善悪を捨てられるのか?
ここで一遍の持ち出してくるのが「死(極楽浄土)」である。
「死の世界(浄土/永遠/絶対)」からこの世を見たら「善悪(相対)」は捨てられる。
善人だと思われていた人が死んだら大悪人だとばれることってあるじゃん?
このたとえでもいいのだけれども、死から見たら善も悪もなくならないか?
善悪なんて口うるさい世間がギャアギャア言っているだけとは考えられないか?
損得勘定ばかりで生きていてもあの世まで財産は持っていけない。
美人東大生だって交通事故で死んでしまえば美醜も賢愚もないわけでしょう?
いくら大会社の会長だ社長だと威張っていても死後の世界でおなじように威張れるか?
あんがいこの世で威張った人は地獄の閻魔(えんま)さまから叱責されるのではないか?
死を身近なものとして念頭に置いていると善悪をある程度は捨てられるのである。
わかりやすくいえば、人間はいつ死ぬかわからないってこと。
そして、死んだらどうなるかはいくら科学が発達してもわからない。
死んだら無になると信じている人もいようが(それはそれでいいけれど)、
死んだら無になることを科学的に証明することはできない。

一遍の説いた教えは南無阿弥陀仏である。
南無妙法蓮華経でもいいが、自分は南無阿弥陀仏だと言っている。
南無阿弥陀仏と一遍でも唱えたら、みんな死後に極楽浄土に往ける。
これがどうして救いかというと、
いま難病で苦しんでいても死んだらすばらしい浄土に往けるわけだから。
そうであるならば、いまの苦しみも多少安らぎを見せることだろう。
いつ死ぬかはクヨクヨ悩まず南無阿弥陀仏(阿弥陀仏にお任せする)。
なにが善でなにが悪かも南無阿弥陀仏(阿弥陀仏にお任せする)。
だとしたら、南無阿弥陀仏は「わからない」という意味とも言えよう。
南無阿弥陀仏と唱えるのは「わからない」と唱えているようなもの。
「死」も「死後の世界」も「善悪」も「わからない」ことの表明が南無阿弥陀仏。
一遍はどのようにしてこのような南無阿弥陀仏にたどり着いたのか。
一遍とて迷っていた時期があったのである。
一遍の布教は念仏札を旅の途中で配ることであった。
熊野本宮神社に向かっているときに参拝客のひとりから念仏札を拒否された。
「おれは信心がないから、その札はただでもいらねえ」と言われてしまった。
このとき一遍は迷う。
たしかに信心がない人に念仏札をすすめてもゴミを押しつけるようなもの。
賦算(ふさん/念仏札配布)は迷惑行為なのではないか?
なんのために自分は念仏札など配っているのだろう?
みんな救われていることを教えるためだが、それは自力で教えられるものか?
苦悩で悶々としていると夢に熊野権現(神さま)が現われたという。
熊野の神さまは仏僧の一遍に夢のなかでこう教えた。
栗田勇氏の名文を自分勝手な補足しながら引用する。

「すでに阿弥陀様が永劫の昔に[全員を]救うということを約束なさっている。
だから[個々の運命も往生もあらゆることが]すでに決まっている。
信、不信をえらばず、浄、不浄を嫌わず、その札を配るべしと。
一切選ぶ必要はない。これは革命的な考え方です。
つまり、自力か他力か、どこまでが阿弥陀仏にまかせられるのか、
ということを考えることそれ自体も捨ててしまう。信も念も捨てて、
ひたすら口に「南無妙法蓮華経」の名号を称えることだけだ、と」(P84)


自力(努力)か他力(運命)かというところであたまを悩ます人も多いだろう。
わたしもこれはそうとう考えたし、いまでよくわからないところである。
人生(仏道)は自力(努力)なのだろうか、他力(運)なのだろうか?
一遍はそういう「自力か他力か」という二項対立的な思考法を捨てろと言う。
自力も他力もどちらも捨てて南無阿弥陀仏と唱えていればよろしい。
人生は自力でもあるし他力でもあるし、自力でもないし他力でもないし、
しいてこの問題についてなにか言うとしたら南無阿弥陀仏(=わからない)。
人生の転機に選択肢のようなものが現われる。
そのような大ごとだけではなく、日々の生活が選択の繰り返しとも言えよう。
どちらが善か悪か、損か得かでわれわれは迷うのである。
しかし、一遍は南無阿弥陀仏で善悪も損得も捨てちまえと過激な主張をしている。

繰り返しになるが、南無阿弥陀仏とは死を身近に思うこと。
毎日、明日死んでしまうかもしれないと思うことが一遍の念仏である。
これは間違いではなく今日死んだ人は、
昨日まさか明日死ぬことになるとは思っていなかったのだから。
明日あなたが絶対に死なないとは言い切れない。そして人の死亡率は100%である。
明日死んでしまうかもしれないのなら、
今日の善悪や損得などどうでもよくならないか?
明日死んでしまうと思うと苦手な同僚のよい面にも気づき、
それどころか「死後の世界」から見たらひとりひとりがとても懐かしく感じられないか?
醜いと感じていた人の美しさにも気づくこともあろう。
愚かだと思っていた人の賢さに驚くようなこともないとはかぎらない。

世間常識(善悪・損得・貴賤・美醜・賢愚)というのは窮屈なものとも言えよう。
一遍の「捨ててこそ」の念仏を唱えると、毎日が自由になり楽しくなるのである。
目先の損得や世間の目(=善悪)、将来の不安など南無阿弥陀仏でぶっ飛ばせ!
そうしたら楽しくなる。笑顔も浮かぼう。ときに踊り出したくなることもあろう。
それがわたしの大好きな一遍という坊主の説いた踊り念仏である。
周囲の評判を気にして善人を気取って目先の損得のことばかり考え、
他人と自分を比べてばかりいたら毎日がストレスの連続で息苦しくないか?
あいつはおれよりも悪い。あいつはおれよりも偉いのが悔しい。
あいつはバカなのにおれよりも出世している。
あの子はあたしよりも美人でいいなあ。金持のボンボンはいいよなあ。
チクショー、今日1万円もパチンコですってしまった。
ヤバイ、会社でミスをして50万の損失を出してしまった。
たしかに生活していくというのはそういうことだが、
しかしそうではない、
善悪を超えた「捨ててこそ」の一遍踊り念仏世界もあるのである。

一遍というのは一度逢ったら一生忘れられないようなやつだったのではないか?
そういう人がたまさかいるものである。
われわれは毎日多くの人と交差して、なかにはもう一生逢わない人もいる。
けれども、あの人のことは忘れることができないという経験があるのではないか。
そういうことは旅先で起こることが多い。
旅をしたときバスや列車で同席して何気ない会話を交わした人のことが忘れられない。
妙にこちらの印象に残る人というのが旅先で登場する。
一遍は遊行上人とも言われたくらい旅をしつづけた坊さんだ。
いったいどれほどの人の記憶に強烈な印象を刻み込んだことだろうか。
一遍の教えは、「教えたよ→ハイわかりました」というものではない。
なぜなら「善悪を捨てよう」という言葉の意味ならだれでもわかるだろう。
しかし、実際に善悪を捨てるのがどれほど難しいか。
われわれは一遍の教えをあたまで理解していても、
どうしようもなく相手の肩書や商品の割引、相手の顔に左右されてしまう。
ならば、一遍の教えに意味がないと言われたらたしかにそうだろう。
だが、一遍の存在にものすごい意味があったのではないか。
「捨ててこそ」の念仏をする一遍の存在感はすさまじかったのではないか。
一遍は本当に善悪・損得・貧富・貴賤・美醜・賢愚を念仏で捨てていた。
そういう人に逢うと、自分もちょっと真似をしてみようかと思うものなのだ。
とはいえ、世間的善悪、家計簿的損得、社会的上下感覚を捨てたものは狂人である。
万引をしたら捕まるし、計算しなかったら破産するし、社長を敬わなかったらクビだ。
だから一遍は、新興宗教の教祖にはよくあることだが、狂ったやつだったのである。
踊り念仏の一遍上人はスーパーフリーなきちがいカリスマだったのだと思う。
実際、ある武士から「この僧は日本一の狂惑のものかな」と言われている。
酔っぱらった武士からきちがいあつかいされた一遍はどれほど本物だったのか。
一休禅師の本も出している栗田勇は(「一休 その破戒と風狂」)、
以下のような指摘をしている。

「考えてみると、この「狂惑」とは、
人間が自分のあり方にたいする深い反省を自覚するときに現われてくるものであって、
伝教大師最澄が入山のとき、
自分を最も狂にして最も愚かなるものであるといった話や
一休禅師などの「風狂」といったような姿も思い起こされてくる。
「狂」には確かにある種のモノマニアック[偏執狂的]な純粋性というものがあって、
その純粋性は日常生活から見ると、ときに「狂」に見えてしまう。
しかしある種の日常性を突き破ったエネルギーというもの、
それはやはり、人が人間を超えたものを見たときに、
その日常性の裂け目から噴き出してくる素顔というようなものであろうか。
醒めているということは俗に狂惑に見えるものなのである」(P114)


さすがに一遍ほどではないが、
わたしも自分が狂っているのではないかという恐怖感がある。
人はどうして狂うことをこうまで恐れるのだろうか?
わたしは最近「一(ささいな出来事)」のなかに「遍(普遍的なもの)」が見えるという、
統合失調症的(精神分裂病的)な妄想体験を多くしている。
なにを高僧ぶっているのか笑われそうだが、
「一(一瞬)」のうちにひそむ「遍(永遠)」が見えるような病的妄想にとらわれている。
著者の指摘で気づいたが、一遍上人の一遍という名前は意味があったのである。
一遍の――。

「この「一」と「遍」というのも「一」即「遍」ということで、
「遍」というのは普遍性とか「遍(あまね)し」の意味である。
この世に生きとし生けるもの、存在するすべてに共通する、普遍的なものと考えていい。
それを普遍していくと、現世にあるすべてのもの、現世そのものが、
この名号[南無阿弥陀仏]の力に抱きとられていて
御仏の本体そのものの現れと一致するというのである」(P70)


「一遍」つまり「一即遍」(これを華厳経では「一即多」という)ならば、
小さな「一」のなかに「(普)遍」を見てしまうのは決して病的妄想ではなく、
ひとつの仏教サングラスをかけて世界を見ていたようなものなのかもしれない。
当面はいまのところは精神科を受診しなくてもいいような気がして安心した。
こういう記事を書くとおまえはインテリぶっているとか、
また批判コメントがつくのだろうなあ。
そもそも最後までだれもお読みにならないから大丈夫かしら。
生活べったりの人には世間的善悪や金銭的損得を捨てるなど思いもよらないことだろう。
すると自称庶民らしい偏狭な「おれは間違っていないモード」が発動して、
このブログの書き手は精神病だ、犯罪者だ、悪人だとヒステリーを起こす。
あいつはインテリぶったわれわれ庶民の敵だみたいなさあ。
一遍みたいに尊敬されたいとは思わないけど、もう批判コメントはいやずら。
本音を言うと一遍の小指の先くらいでいいから、人から尊敬されてみたいかも。
貴重な休日に一銭にもならないこんな文章を書いてなにをやってんだか。
まあ、そういう無駄なことをするのが文化であり、宗教行為なのだろうけれど。
これから人生どうしたらいいのだろうといまだに思い悩んでいる。
しかし、どうしたらいいかというのも善悪の問題。
善悪など投げ捨てて南無阿弥陀仏でいいのかもしれない。よくないのかもしれない。
というのも、これもまた善悪の問題だから。

(関連記事)↓だれも読めない「本の山」最長記事(笑)
「一遍上人語録 付・播州法語集」(大橋俊雄:校注/岩波文庫)

COMMENT

HN URL @
04/12 18:16
. >このブログの書き手は精神病だ、犯罪者だ、悪人だとヒステリーを

でも「テ口のようなことをやろう」と呼びかけるのは冷静に見て犯罪だし、狂気の沙汰ですよね。まともな人が実名ブログでそういうことをやりますか?

>わたしも自分が狂っているのではないかという恐怖感がある

病識があるうちに精神科医の助けを受けた方がいいと思います。これは批判ではなく、善意からの忠告です。
URL @
04/13 08:24
. 面白い。とても面白い。
URL @
04/14 06:54
. ああ、土屋さんに対して抱いていた違和感がやっとわかったわ。

普通の人は20代のころに社会に出て、社会との距離感を学ぶものだけど、この人はその時期ずっと2ちゃんにこもって他人を煽ったりバカにしたりし続けたのよね。

ところが2ちゃんではそういうことをしても、相手の反論が来なくなったところで勝利宣言してしまえば、自分の勝ちになるわけよ。議論の内容じゃなくてね。
で、その成功体験をそのままリアルでも引きずってるわけだ。

わたくしはキチガイでございますというアピールをしはじめると、いかにも特別な人間にみえるからね。
ところが2ちゃんではキチガイはモテるけど、リアルでそんなことをしだしたら、追放されるに決まってる。
シナセンもバイト先もね。

でも、そこで負けたことにしたくないから2ちゃんの要領で勝利宣言するわけだ。わたくしの狂気がとか真実がとかもっともらしいことを並べてね。
本当にこだわりがないなら善悪がどうのこうのというものも含めた世間そのものを捨てられるはずだからね。

要するに平凡な人間が他人を引き付けようとしてキチガイのフリをしてるわけだ、それも子供のころからずっと。理由はよくわからんけど自分は特別な存在だとね。








 

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