「なんだか人が恋しくて」

94年にNHKで放送された単発ドラマを視聴したのは去年だった。
シナリオで二度読み、どちらも感想を書いているから、
いまさら書くことは……と思っていたが、人は変わるから感想も変わる。
つまり、おなじものを見ても新しい感想は生まれうるわけだ。
「校則は校則だ」が口癖の「人情劇が嫌い」で「人間味あふれる先生なんて大嫌い」
な中年男性高校教諭がちょっと変わる話である。
既婚子持ちの人生に退屈した堅物の女子高教師が、
受け持ちの女子生徒の(校則では禁じられた)不純異性交遊(=デート)を認める話。
男の子とデートしているところを見つかった女子生徒は厳格な教師に言う。
「知らん顔してください」
「本当のこと言って、騒ぎにしなくても」
これに対して「校則は校則だ」と考えている中年教師は例外を認めようか迷う。

山田太一ドラマは海外で大々的に評価されることはないだろう。
なぜなら、氏のドラマは日本人以外にはわかりにくい人情を描いているからである。
人情を英訳するのは無理だと思う。
人情を欧米人に完全に理解してもらうのは不可能ではないだろうか。
これはこのドラマを見て、1ヶ月以上も考え続けた結果わかったことだが、
人情とはいわゆる「不正」のことだからである。
そのときの感情に動かされて「正しい」とされることを破るのが人情である。
「正しい」とされる「本当のこと」をあえて言わないのが人情だ。
損よりも得を選択するのが人間としては「正しい」が、
あえて損とも見える親切をすることが人情ということである。

山田太一ドラマ=「(正義 vs )不正(=人情)」

不正を描くのが山田太一の人情ドラマと定義されても困ると思う。
ちょっとした体験を語りたい。
先日、派遣でゴミを排出する仕事をさせていただいたのである。
人間味あふれる素敵な担当者さまから
ガラスを積んだ台車を建物から外に出してくれと指示がくだる。
わたしは大台車にガラスを積んだが平台車に積み直されている。
「絶対に割るなよ」とのお言葉をいただいた。
へえ、ガラスは大台車ではなく平台車に積むのが「正しい」のかと思いながら動かす。
道路には段差というものが存在する。車椅子が嫌うあれである。
段差でガラスが止まってしまう。ガラスの山積みが動かなくなってしまう。
そこで社員と思しき人が親切にも助けに来てくれる。
ありがてえと感謝。人間ってええなあ。
ふたりでガラスを動かそうとしているときに、どういうわけかガラスが割れてしまう。
社員さんはパッといなくなった。そこに先ほどの担当者さまが現われる。
「ほうら、だから割るなって言ったのにやっぱり割った」
とこれでもかというほど叱られた。
わたしは人情からうなだれ、無言でお説教を拝聴していた。

「正しい」ことを言えば、そうではないのである。「本当のこと」はそうではない。
ガラスはふたりで割ってしまったのである。
もしあのとき社員さんが来なかったら、わたしひとりでうまく動かせていたかもしれない。
ひとりでやっていても、どのみちガラスを割っていたかもしれない。
そんなことを言えば、担当者さまがやっていても割ったかもしれない。
大台車のまま運んでいたらガラスを割らなかったかもしれない。
「正しい」ことをあえて言うならばこうなる。
しかし、事実としてはわたしひとりが悪いことになり手厳しいお叱りを受けた。
人情として「本当のこと」は言えない。
わざわざ親切から助けに来てくれた社員さんがいたとは言えない。
彼がその場から離れたのも悪くなく、わたしが彼でも「逃げた」であろう。
あとで「ごめんなさい」とアイコンタクトを取って来てくれたし恨みもなにもない。
あの人は善人っぽいからあとで「本当のこと」を担当者さまに白状したかもしれない。

このいわゆる失敗体験が山田太一ドラマを理解するうえで大きなとっかかりとなった。
人情とは「不正」のこと。「正しい」ことをわざわざ言わないのが人情。
派遣先で昼食代を出されることなどありえないが(絶対にないと思う)、
担当者さまのご好意でその日も(2回目だった)わたしはお昼代をいただいていた。
その日かぎりの派遣に契約にない昼食代を払うのは、「正しい」ことではない。
損得で考えたら損になる、こういうことを人情と言うような気がする。
それを言えば賄賂(わいろ)も人情だが、わたしは賄賂こそ人情だと思う。
「正しい」ことではないけれど、「正しい」ことばかりでは生きていけない。
「不正」は人情として必要悪というか、
むしろ生きる方便というか、そこに人間味があるというか。
「正しい」ことならロボットでもコンピュータでも識別できるのである。
あえて「正しい」とはみなされないことをやるのが人間味であり人情だ。

この日、わたしだって「正しい」ことを言えばいくらでも言えたのである。
あのガラスを割ったのはふたりで作業しているときだった。
そこまで怒られる理由はないのではないか、等々。
しかし「正しい」ことをわたしは言わなかった。
なぜならそのMさんという担当者のことがなにより好きだったからだ。
思わず激怒してしまったのが、こちらにもわかるのである。
怒ったことを後悔していることが見て取れて当方も気まずい。
あんがいあの社員さんが正直にふたりで割りましたと報告したのかもしれない。
「正しい」ことがなんになろう? 「本当のこと」がなんになろう?
わたしのこの日の日給は8千円程度だったが、
反対に社会勉強代金を支払ってもいいとさえ思ったくらい大発見をした1日であった。

「人情=不正」

人情を描くのが山田太一ドラマなら、アンチ人情=正義も登場させなければならない。

山田太一ドラマ=「(正義 vs )不正(=人情)」

末端の教員や警察官のような
職務として「正しい」ことを言わなければならない立場はしんどいのである。
このドラマでも言われていたが、
温泉場に行って暴れたりタオルを持って行ったりするのは、
決まって先生と言われる商売や警察官のグループなのである。
あんがい「不正」とされるヤクザ集団のほうが温泉宿ではおとなしい。
「正しい」ことを言うのは辛いが、だれかが「正しい」ことを言わなければならない。
だれも「正しい」ことを言わなかったら、グダグダになってしまう。
世の中が不正天国、賄賂饗宴になってしまう。
しかし、「正しい」ことばかり言っていると「生きとってもつまらん」と思うようになる。
けれども、「正しい」ことを言う人は必要だ。
山田太一ドラマ「なんだか人が恋しくて」はこの矛盾をうまく描いていたように思う。

わたし個人としては「不正」はありだと思う。矛盾したことを書くが、
集団の「正義」なんかよりも個人の「不正」のほうがよほど「正しい」と思っている。
わたしは「不正」を発見しても自分の巨額の損にならないならば見て見ぬふりをする。
社会的に「正しい」ことをなるべくなら言いたくないという気持が強い。
正義派ぶって徒党を組んだりしているやつらを見ると虫唾が走る。
ここまで書くと精神病を疑われかねないが、
被害者が自分の周囲の人間ではないのなら犯罪者さえそこまで悪いとは思わない。
犯罪者の「不正」を正義派ぶって断罪する人だって、
いざその人とおなじ生育環境、社会的立場に追い込まれたら、
おなじことをやっているのではないかと思う。
わたしが犯罪者のような劣悪な社会的環境に置かれたら、
もっとひどい犯罪をしていたのではないかとさえ思うくらいである。
どうしてそういう不適正な思考をするようになったかと言えば、山田太一ドラマの影響だ。
氏のドラマには「人間なんてそんなもん」「世の中そんなもの」というセリフが頻出する。
「正しい」ことばかりしていたら生きていけない人がいるわけでしょう。
勇気がないばかりにいわゆる「悪いこと」をできない人たちが、
善良な人のふりをしてクソにもならねえ「正しい」ことを言っているような気がしてならない。

「山田太一ドラマ=世の中も人間も、そんなもんだって」

しかし、わたしは世の中がそんなものではないことを知っている。
しかし、わたしは人間がそこまで堕落していないことを知っている。
これは山田太一ドラマに教わったというよりも、
いろいろな人をこの目で見た当方のリアリティである。
山田太一ドラマも描いていることだが、世の中も人間もそこまで腐っているわけではない。
むしろ根性が腐っているのは山田太一氏やわたしのほうなのかもしれない。
いやいや、正義の朝日賞作家を自分などと同列に置いてはならない。
たましいが腐っているのがわたしという人間なのだろう。
ゆがんでいる当方だから
気づいた「人情=不正」という真実を最後に繰り返し強調しておく。
「校則ではそうなっているけれど、今回だけ見なかったことにする」のどこが悪いのか。
「それは法律ではいけないけれど、人としては許される」行為はいくらだってあると思う。
なんで校則や法律がそこまで「正しい」のかそもそもからしてわからない。
しかし、わたしも表面上は社会人としては「正しい」ふりをする。
そうしないと食っていけないからだが、この「正しい」素振りを「不正」と言われると困る。
個人的な真実としてはケースバイケースで「正しい」ことは変わると思う。
臨機応変にそのときその場の「正しい」ことを判断できるのが「正しい」社会人だろう。
上司は立場上ミスは報告しろと部下に言うが、報告されたら困るミスもあるのである。
このあんばいをうまく判断できるものが上司から気に入られるのではないか。
山田太一ドラマは本当に奥深い。

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