「図説 お経の本」

「図説 お経の本」(洋泉社MOOK)

→オールカラーで仏像や仏画がうまくレイアウトされたじつにいい本だった。
しかし、初学者がいきなりこの本を読んだら、
お経がわかるようになるかといったらむろんそういうわけではない。
こちらにそれなりの蓄積があるから、この本のすばらしさに気づくのだろう。
お経は読むたびに発見があるようなところがある。
読み手は日々変化しているのだが、その無常をお経によって発見するのかもしれない。
この本では維摩経が気になった。
どうでもいい豆知識だが、維摩経は創価学会の教学部が大好きなお経でもある。
内容は豪商の維摩(ゆいま)っておっさんが出家した仏弟子を叱りつける話だ。
出家した仏弟子よりも、世間をよく知った金持の中年男のほうが偉いんだよという。
お経では、維摩が仏弟子をこき下ろしたり、在家のぶんざいで出家者に説教したりする。
お経の中心に「不二に入れ(入不二)」というメッセージがあり、そこが抜粋されている。
ちゃんと漢文も掲載されているののがよかった。
不二(ふに)とはなにか?
本書によると不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」らしい。
そういう考え方を不二という。
対立する二つが「異ならないこと」「差別のないこと」という解釈もある。
本書で維摩経は、「二辺を離れる「不二思想」の金字塔」と紹介されている。
実際にお経を見てみよう。
維摩経は二度違う訳で読んだことがあるけれど、
この本の訳がいちばんわかりやすい(意訳らしいけれど)。
不二に入るとはどういうことか。楽実(らくじつ)菩薩はこう言った。

「真実と虚偽とが二である。
真実に達した者は、真実を見ているわけではない。
いわんや虚偽を見ているわけではない。
なぜなら真実は、肉眼で見るのではなく、智慧の眼で見るからだ。
智慧の眼は、見るのでもなく、見ないのでもない。
これが不二に入るということだ」(P42)


繰り返すと、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
善悪、賢愚、損得、美醜、生死――「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
智慧の象徴である文殊(もんじゅ)菩薩が、
「おれがいちばん賢いんだ」と言いたげに以下のような説明をしている。

「あなたがたの説はもっともだが、それもまた二[相対]なのである。
何も言わず、何も説かず、何も示さず、説かないということも言わない。
これが不二[絶対]に入るということだ」(P42)


この経でもっとも偉いのは豪商の維摩だから文殊菩薩もおうかがいを立てる。
「維摩先生、あなたもなんか言ってやってください」
このとき維摩は黙して語らなかった。「維摩の一黙、雷の如し」である。
文殊菩薩は(金になびいたのか)維摩の態度を絶賛する。

「よろしい、よろしい。文字もなく、語る言葉もない。
これこそ、不二に入るということなのだ」(P42)


言葉で語るということは、世界を言葉で分けているということだから、
言語に頼っているかぎりいつまでも「二(相対)」のレベルでしかなく、
「不二(絶対)」のレベルには到達できないということである。
わかりやすい話をしたら、どんな慰めの言葉をかけてもらうよりも、
そばにいて「おまえの気持はわかるよ」
と肩をポンとたたいてもらうほうが絶対体験に近いということだろう。
女の子から大丈夫だよとギュってしてもらったら男の子はがんばれる。
こういうところから言語を否定した密教に入っていくんだろうけれど。
音楽や絵画は言葉にならない不二(絶対)を表現しているとも言えよう。

いつごろからか創価学会が師弟不二ということを強く打ち出している。
これは師匠の言うことには絶対に従えよという偏った意味だと思う。
しかし本来、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
ならば、師弟不二とは、師匠や弟子という差別はないということになるのではないか?
師匠は弟子である、弟子は師匠である、というのが本当の師弟不二。
人になにかを教えようとうすると本当に理解していないと教えられない。
このため、教えているほうは弟子のことを師匠のように思うだろう。
弟子は師匠から教わっているが、本当は弟子こそ師匠の師匠なのである。
わたしもブログにいろいろ書いているけれど、
これは教えているに近い行為だが、教えているという感覚はなく、
ブログ記事を書くことでいろいろ教わっているという実感がある。
弟子は師匠の師匠なんだからもっと威張っていいわけ。
師匠は弟子から教わっているんだからもっと謙虚になるべし。
軍隊のように厳しい師弟の上下関係を否定したのが、本来の師弟不二の意味合い。
師弟不二を理解したら、
座談会で池田先生の悪口が飛び交うようにならなくちゃいけないわけさ。

きっと「学ぶ」ってことは「教わる」ことではなく「教える」ことなのだろう。
だれかに教えようとしてみたら、自分がそれを理解できているかどうかわかる。
いい弟子というのは「ここがわからない」といい質問をしてくれる師匠のこと。
本当のいい弟子というのは師匠の教えていないことまで自分で発見してしまう。
いい師匠というのは自分はなにも言わないで、
弟子の言うことを「ふんふん」と聞いているカウンセラーのような存在かもしれない。
本物の師匠は弟子に指導などせず、弟子の言うことを傾聴するのかもしれない。
というのも、そのほうが弟子にいろいろ教えられるのだから。
維摩経で、維摩が多数の菩薩の(不二に対する)説明を聞いて、
自分は沈黙したままひと言も発しなかったという光景こそ本物の指導なのかもしれない。
大声で「池田先生はこう言った」なんて叫ぶのは指導ではなく命令なのかもね。
そういう軍隊のノリが好きな人は一定数いるだろうから、それもいいのだろうが。

本書で薬師経と金光明経をはじめて目にした。
どちらもおもしろそうでさあ。薬師経で、こういう一節がリピートされる。
「来世で自分が悟ったら(菩薩になったら)~~(功徳)~~」
おいおい、来世かよと笑ってしまった。
現世で悟ろうとしない、そういうところ、まるでおれみたいでよろしい。
わたしの今年の目標は「来年はがんばる」だから。
今日の目標は「明日から本気を出す」。
いま生きている目標は「来世でイケメンになって、あれこれする」。
本音を言えば、ゲイではないが、来世では女の子になってみたいんだなあ。
もちろん、かわいい子限定だが。
「目標依存症」で疲れ切っている人は来世に目標を置くといいと思うよ。
来世というのは死のその先にあるものだから、死への恐怖もやわらぐしグウ。
薬師経に本当にそんなこと書いてあるのかって? 書いてありますって。

「願わくば我、来世に悟りを得たなら」
「願我来世、得菩提時」(P60)


金光明経もおもしろそうで読んでみたいのだが6千円もして高い。
いっぱい働いて金を稼げって言われるかもしれないけれど、
働いたら自分の時間がなくなるし、疲れて本を読む気力もなくなる。
まあ、金光明経を読むのも来世にまわしてしまおう。
もう一定年齢を過ぎたら、来世にすべてを投げ込んじゃうのも一手だから。
結婚も家族も正社員も出世も成功も来世に放り込んでしまうと現世が楽になる。
「それは、うーん、来世でがんばりますので」ってふざけすぎかな?
創価学会に入って壮年部の怖いおじさんに
厳しい指導をしてもらったほうがいいのかもしれない。
学会って男子部と女子部に分かれて活動するんだってね。
ガチガチの師弟不二なんかやめて、これからは男女不二を強く打ちだしたら、
創価学会もさらなる大躍進をするような気がしてならないが、
いかがなものでしょう。
維摩経にも男女の性別にこだわっている仏弟子を天女がからかうシーンがある。
言っとくけど、本当にあるからね。
お経には西洋哲学の持ち合わせぬ怪しさとユーモアがあるので好きである。

(関連記事)
「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)
「維摩経」(横超慧日・三桐慈悲海編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

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