「いのちの対話」

「いのちの対話」(河合隼雄/潮出版社)

→最近、やたらテレビや雑誌、および周辺で師匠という言葉を目にしたり
耳にしたりする機会が多いけれど、あれは創価学会のマーケティングなの?
師匠っていったいなんなのだろう? ああいうふうになりたいってこと?
でも、あなたはあなたでしかないんだから他人にはなれないでしょう?
まったく世間から認められずおっさんになったものの意見ゆえ
信憑性はほぼゼロなのだろうが、人間の最大の誤りは
自分以外のだれかのようになりたいという自己否定ではないか?
イチローはイチローだからイチローになったんだと認めること。
あなたもイチローになれるという人はいかがわしい詐欺師の可能性が高い。
自分だってイチローじゃないのに、
イチローが成功した理由は……とか訳知り顔に語る人っていっぱいいそうじゃん。
あんたはどうしようもなくあんたでしかない。
わたしはどうしようもなくわたし以外の存在にはなりえない。
このことを認めるのが、いまや手あかのついた言葉だが自己実現なのではないか?
自分とはなにかといったら、あなたが好きなものが自分の証である。
偏差値40のあなたが好きなものは間違っておらず、とてもそれは「正しい」。
河合隼雄はわたしの師匠でもなんでもないが、例によって言葉を引く。
ちとばかしいまでは権威があるらしいしね、くすっ(河合隼雄賞!)。

「私は高校の教師をやったことがあります。
当時成績が悪くても威張ってた子がたくさんいましたね。
そういう子が二十年、三十年たってみるとけっこう面白いんです。
誰か教育学者がやらないかなあ、
小学校で一番だった人が三十年後どうなっているかを調べてくれないかなあ(笑)。
勉強なんかできなくても、好きなことをやっていた子は、
好きな人生を楽しんでるんじゃないですか。
そういうのが本当の幸福だと、みんなが考えてくれるといいんですが」(P69)


成績が悪いのに威張るなんてとんでもないといまは思われやすい。
成績というのは、学校だけではなく会社での成績もある。
社長の血縁でもないのに、会社の成績も悪いのに、
威張っているお子さまな社会人が将来、大化けするのかもしれない。
しかし、威張らなくてもいい。あなたはあなたなのだから、というのが自己実現だ。
自己実現の理想像(池田大作SGI会長!)のようなものを仮構するのもいいが、
しょせん自己実現の意味はあんたはあんたでしかないよということだ。
ゴミなあんたはゴミなままでそのまんまであんただけの輝きを放っている。
あなたはあなたのままでよく、あなたを突き詰めるのがあなたの自己実現だ。

「最近、自己実現という言葉がしきりに使われますね。
だが、実態は自分の好きなことをやって
何事かを成し遂げるのが自己実現だと思われている。
そんなのは自己実現やない。自我実現だと私は言うんです。
人も自分もあまりやりたくないことをやる。奉公し、犠牲を払い、献身する。
それによって何事かを成し遂げるのが、本当の意味での自己実現ですよ。
奉公や犠牲や献身を再評価して世界に発信していくのは、
これからの日本人の重要な役割ですね」(P93)


これはまったくそういう見方もまた「正しい」とわたしは思う。
奉公、犠牲、献身というのは身勝手な当方とは正反対な生き方である。
にもかかわらず、ではなく、しかるがゆえに奉公、犠牲、献身の価値を
いまもいま再認識しているところがある。
奉公、犠牲、献身もまた自己実現のいち形態である。
YouTubeでさ、創価学会員の一糸乱れぬ動きとか見ると感動するもの。
自分は絶対にできない、自分とは正反対の奉公、犠牲、献身ゆえ、
何度も何度も繰り返し視聴して見惚れてしまうところがある。
どうしてあそこまで自分を消して全体に同一化できるのだろうと感動さえおぼえる。
自我を消すというかたちでの自己実現もきっとあるのだろう。
会社にまじめに奉公している社員さんとか、
よく見てみれば当方などにはないその人だけの自己犠牲の輝きがあるもの。
一生懸命スピードをあげたらかえって給料が減るのにがんばる非正規雇用者を、
無知とあなどるばかりではなく、
彼らの奉公、犠牲、献身を彼らなりの自己実現とみなすのもまた「正しい」と思う。
わたしの意見としては、日本人女性は奉公、犠牲、献身の精神を忘れないでほしい。
女性の権利を訴えるよりも、奉公、犠牲、献身で自己実現しよう。
奉公、犠牲、献身のお相手をお探しの女性がいらしたら、
あなたの自己実現のためにわたしが相方を務めましょう(笑)。

しっかし、河合隼雄さんも矛盾しているよなあ。
好きなことをしている人生は幸福とか言いながら、
べつのところでは奉公、犠牲、献身こそ自己実現と言い放つ。
これは矛盾しているが、矛盾しているから、一貫していないから「正しい」。
意見が一貫しているほうがおかしいというのは河合隼雄から学んだことのひとつ。
というのも、人間というのはさしたる理由もなく年々どころか日々変わるじゃないですか?
むかし嫌いだった食べ物が好きになることなんてよくあることで、
ずっとおなじものばかりを好きで食べているなんてほうが精神異常者になるのでは?
転向したり退転するのは敗北ではなく、その自己矛盾こそが人間味であり、
人情とはこの自己矛盾によってもたらされる人間のふるさとのような気がする。
人情というのは、正規には矛盾したことをあえて受け入れるときにいだく人間の優しさだ。
Aも「正しい」しBも「正しい」し、
どちらも「正しい」から困っちゃう……とその場の気分まかせで行動するのが人情だ。
西欧人には「正しい」親切や「正しい」微笑があるだろう。
しかし、日本人固有の矛盾に対したときの人情やはにかみはないような気がする。
本当はダメなんだよ、と言いながら矛盾を許すのが日本人の人情ではないか。
それはルール上は間違っているのだが、その矛盾を人情で許してしまう。
この人情を、キリスト教国の人民が持ち合わせぬ日本人の美徳だと河合隼雄は語る。
一国や一人民の正義のために世界と喧嘩をするのもいいが、
だれかが世界とうまく付き合わなくてはいけないのではないか。

「どうしても世界と付き合わないと、しようがない。
だから、ダブルスタンダードというかね。それこそ心の問題も関係してくるけど、
これからの人間というのは、自分の内部に矛盾があることをはっきり認めることです。
矛盾のないシステムというと、一神教の世界は矛盾なしで、
それが明確な都市文明の考え方ですね。
それに対抗するためには、われわれは、
人間が生きているということは矛盾してるんだ、
という考え方をしていったほうがいいんじゃないかと思ってるんですけどね」(P168)


戦争というのは敵と味方に分かれてするわけでしょう?
しかし、その敵と味方という区分をやめないかと河合隼雄は言っているのだと思う。
あの人は敵でも味方でもない。あの人は敵でもあり、味方でもある。
こういう主張は矛盾しているけれど、日本人の人情はそもそもこういうものだ。
どうしてある種の人は他人を「敵/味方」と区分したがるのだろう?
ブログ読者さまのなかには当方を敵と思っている方も味方と認識しておられる方もいよう。
だが、わたしは敵でも味方でもなく、土屋顕史という名前を持つひとりの日本人男性だ。
同様に考えたらどうだろう。
あの人は経営者だから労働者を搾取している敵と見るのも、
気前がいいから味方と見るのも、どちらも偏(かたよ)っているとは考えられないか?
ある人は敵でも味方でもなく、
ある名前を持った世界にひとりしかいないその人でしかない。
自己実現はわたしはこんなわたしでしかないと認めることだが、
相手を「敵/味方」と区分せず、なるべくそのまま見ようとするのが、
造語だが他者実現(相手を伸ばすこと)になるような気がしてならない。
他人は善人でも悪人でも敵でも味方でもなく、
ある名前を持ったかけがえのない(代替のきかない)ひとりの人間である。
名前を覚えるのが肝心だと河合隼雄は語る。

「暴れている子に言わせると、せっかく中学に入ったのに
誰も名前を覚えてくれないし、いつも馬鹿とかコラとか言われるだけだと。
つまり、個人として認めろと言っているのです。
ですから名前で呼ぶだけで暴れる子は減ります。
さきほどの学校でも、校長先生に
「◯◯君、廊下を自転車で走ってはだめだ」と言われれば、やめますよ。
これは僕自身の経験から言えることです。
僕が京大の教授をしていた当時は学生運動が盛んな時代でした。
そこで、僕はリーダー格の学生の名前を全部覚えました。
そして彼らが何かを言うたびに名前を呼び、個人的に接していると、
だんだんと彼らの態度が変わっていきました。
はじめは「河合、貴様」と言っていた学生たちが、
最後には「河合先生、そうおっしゃいますが」などと、
自発的に全員が敬語を使うようになったのです。
つまり、人間と人間が名前を知って個人的につながっていると、
そんなに馬鹿なことはできないものです」(P124)


わたしは新しい職場に入ったらなにより全力で同僚の名前を覚えるけれど、
あまりいじめのようなことを経験しないのは、そのおかげなのかどうか。
名前を覚えても、なかなかその人を名前で呼ぶのには勇気が必要なのである。
名前を知っていても、一度も名前で呼べなかった人などいくらでもいる。
けれど、名前を知っているかどうかで気分の安定が変わるのだ。
あの人は意地悪な派遣社員Aはなく、
◯◯さんだとわかっていれば、こちらも安心するところがたぶんにあるのである。
敵とか味方とか、中国人とか韓国人とか、分類するまえに、
◯◯さんという世界でひとりしかいない人と思って、
相手と対話をすることで拓(ひら)けてくる世界もあろう。
それが河合隼雄の心理療法だったのだろう。
あなたはあなたなんだから、あなたなりの生き方をしたらいいのではないでしょうか?
あなたではないからあなたのあなたらしい生き方がなにかはわかりませんが、
あなたにはあなたらしい生き方があることを当方は確信している。
これが河合隼雄のカウンセリングであったような気がしてならない。
結果としてクライアント(相談者)がたとえば創価学会に入り、
「奉公、犠牲、献身」の人生をいっときは歩み始めたとしても、
それはそのときその場ではいちばん「正しい」ことだと河合隼雄は思ったことだろう。
わたしがわたしでしかないように、あなたはあなたでしかない。
しかし、あなたはわたしになれないのだから、わたしもまたそこまで悪いものではない。
わたしはあなたには絶対になれないのだから、あなたはあなたとして価値がある。
これが晩年の河合隼雄の考える自己実現ではなかったかと思う。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4423-bcbee190