「ガイドブック 法華経展」

「ガイドブック 法華経展」(東洋哲学研究所)

→昨年、信濃町の博文堂書店で買ったカラー図録を繰り返し読む。
信濃町の博文堂書店は、ここでしか買えないような学会関連書籍の在庫が豊富でいい。
日蓮の「種種御振舞御書」はいまアマゾンで定価以上の価格がついているが、
博文堂書店ではふつうに平積みされているのが怖いとも凄いとも。
先日も信濃町の博文堂書店に行ったらおもしろかった。
ちょー原稿料が高いと噂される学会機関誌「第三文明」を立ち読みしたら、
最近学会シンパになったらしい柳美里が出ていたのは予想どおりだったが、
去年引退した元プロレスラーの天龍源一郎が
6ページもインタビュー記事に出ていたのは意外だった。
いま創価学会の内部っていったいどうなっているのだろう?

本書はぜいたくな総カラーでわかりやすい解説もつき、
そのうえ価格も手ごろで心底から創価学会グッジョブと言えよう。
法華経のきれいな白いところだけをこれでもかとわかりやすく楽しく解説している。
読めばわかるが(ふつうの人はあんなものをぜんぶ読めないが)、
法華経は根拠のない空疎な自己喧伝や自分勝手な迫害妄想のみならず、
脅迫的な仏罰や堕地獄をちらつかせる黒々としたヤクザキック的なお経。
しかし、「知らぬが仏」の姿勢でいくら白々しいとバカにされようが、
ものごとのプラス面を見るのはそれほど悪いことではないだろう。
本書を何度も読んで法華経の凄さ、怖さに改めて気づかされた。
なーんか、法華経ってフィクションの仏典らしからぬ「本当のこと」が
書かれているような気がする。

以前は思い至らなかった法華経の妙味を紹介したい。
あるものがうまいということは、
そのうまさを発見する人がいないと気づかれないで終わってしまうことがある。
本当はおいしいものでも、だれもその美味に気づかないと宝の持ち腐れだ。
ご存じでしょうが、法華経には七譬(しちひ)といわれる7つのたとえ話がある。
そのいちいちが、もうおっさんになったいまの目で見るとやばいのだ。

「三車火宅」のたとえとかもう狂ってるんじゃないかってくらい怖い。
ほら、あれだよ。家が火事で3人子どもが残っている。
子どもたちは火事に気づかないで楽しく遊んでいる。
で、父親は「火事だ!」と叫ぶが楽しく遊んでいる子どもたちは気がつかない。
まずここで第一の問題があって、本当に火事なのかどうかという謎がある。
ひょっとしたら中庭で楽しくバーベキューをやっていたかもしれないわけだから。
火宅で遊ぶ子どもは、この世で欲望にまみれているわれわれなんでしょ?
そのままでもいいじゃないかという考えもなくはないだろうか?
しかし、子どもを自分の思いどおりに動かしたい父親は一計を案じる。
3人の子どもたちの物欲を利用するのである。
彼らがほしがっていた「羊車」「鹿車」「牛車」をあげると言って家からおびき出す。
そりゃあ、子どもは出てくるわな。しかし、これっていいのかって話だ。
だって、思いっきり物欲で釣っているわけだから、
それは清浄な無欲悟達世界への勧誘ではなく、
煩悩熾盛の世界へのいざないにならないか?
そのうえ父親は子どもたちに約束のものを与えないのである。
このへんの解釈は学者でも分かれるが、
創価学会は立派な「大白牛車」を子どもたちにあげたという説を採択しているようだ。

さて、この話のどこが怖いのか。
「三車火宅」のたとえは、むかしの創価学会そのままのような気がするからだ。
むかしの学会は貧乏人や病人の集まりだったわけでしょう。
庶民の金がほしい、健康になりたい、
そういう欲望につけこんで家から引っ張り出すわけだ。
いい家がほしいだろ、いい車がほしいだろ、いい時計がほしいだろ!
よおし、「いい家をあげよう」「いい車をあげよう」「いい時計をあげよう」――
創価学会はそう大声で言って人を家(伝統仏教)からおびき寄せる。
そうして家も車も時計もあげないで、バリバリ無料で宗教活動させてしまうわけだ。
その無料奉仕こそ「大白牛車」なんだと信じ込まされる。
べつにむかしの創価学会を批判しているわけではなく、これは商売の基本という話。
相手の物欲を刺激して、うまい話だと思わせたうえで、相手のほしいものは与えず、
こちらが相手に売りたいものを買わせるというのは商売(営業)の基本だから。
不動産屋の表に出ている物件って、たいてい客寄せで実際は存在しないっていうじゃん。
スーパーだって特売品でお客を釣るけれど、ほかのものも買ってほしいわけでしょう。
大企業も「やりがい」「ブランドイメージ」「高収入」で大学4年生を釣って、
釣ったあとには企業内で洗脳のようなものをほどこすわけだ。

もうめちゃくちゃを書くと、結婚なんかもそうでしょ?
女子は美貌や優しさで相手を釣るけれど、結婚したらすっぴんのおばさんになる。
で、夫婦というものになっていくわけである。
男子だって金や包容力で女子を釣るけれど、釣った魚に餌をやるバカは少ない(笑)。
「三車火宅」のたとえだけで法華経というのは「本当のこと」を説いた教えだとわかる。
この世っていうものは、「三車火宅」と思っていたほうがいいと。
なにかをプレゼントすると嘘をついて人をだましてもいいと法華経で釈迦が説いている。
人を動かすには物欲を刺激するのがいちばんだよ、と教えてくれる仏典がほかにあるか?
大声で「火事だ~!」と叫ぶことも大事なのかもしれない。
相手をパニックにさせて考える隙を与えず、さらに物欲を直接的に刺激する。
相手のほしいものをうまく読み取るのがマインド・コントロールの初歩になるのだろう。
いやあ、法華経はフィクションだが「本当のこと」が巧みに描かれている。

法華経は、結局は金という人生の真理を何度もしつこいほど繰り返す。
「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」のたとえだって、あれは遺産相続問題でしょう。
ゆがんだ解釈をすれば、金持の父親が
財産のちからで子どもをコントロールしているように思えなくもない。
貧困者が(本当は父とは知らず)富豪に仕えるのは彼の財力ゆえなんだから。
人生ではお金がもっともたいせつだという真理を法華経は説いているのである。
父親も最初から自分が親だとばらしたら、
子どもに怠け癖がつくからと嘘をついている。
この長者(富豪)は嘘をつく汚い大人なんだけれど、
彼が釈迦という話なんだから法華経は――。

「衣裏珠(えりしゅ)」のたとえも生々しい。
あれは貧乏な友人には絶対に金を貸すなって話でしょう。
金を貸したら友人ではなくなってしまう。しかし、友人になにかしてやりたい。
この答えのない問いへのひとつの回答例が、衣服の裏に宝を縫いつけておけ。
貧窮する友人はあるとき衣服の裏を見て、宝を自分で発見するだろう。
これは彼にとっては奇跡のようなものだろう。
道ばたで百万円を拾ったとか、その手のラッキーである。
友人に借金したわけではないから負い目を持たないで済む。
仏さまのようなものに素直にこうべを垂れることができよう。
法華経のなかではそうはいかず、この貧乏人が愚かすぎたのである。
衣服の裏の宝にいつまでも気づかず、
友人に再会して教えてもらうまで苦しみ続けたという。
これも要約しちゃえば、結局は金という話と言えなくもない。
お金というのは貸す(あげる)のも借りる(もらう)のもなかなか難しい。
相手が偶然自分で発見するように仕組んだ釈迦の交友術は巧妙である。
いいおっさんがなにウブなことを言うかって話だが、
「衣裏珠」のたとえに本当の友情のようなものが描かれている気がしてならない。

「髻中明珠(けちゅうみょうしゅ)」のたとえも世間の実相を教えてくれるものだ。
王さまが頭部にしている髪飾りの宝石なんて、
べつに価値があるわけではないでしょ?
しかし、それをほしがる兵隊さんがたくさんいるわけである。
兵隊さんは王さまのために心身をボロボロにしてまで闘い続ける。
で、いちばん功績のあったものが王さまの髪飾りをおしいただくわけだ。
創価学会員が自分の時間を投げ打って活動するのは池田先生のためでしょう?
池田先生や先生の権威を帯びたものからの賞賛を求めて兵隊さんはがんばる。
学会員さんにとっては高い役職が「髻中明珠」になろう。
わたしはかりに入りたいと言ってもたぶん拒絶されるだろうが、
学会に入ったとしても役職にだけは絶対につきたくないと思っている。
ヒラでいい。ヒラがいちばんいい。
兵隊になって先生のために命がけで勝負するなんて無理。
「髻中明珠」は創価学会だけの話ではなく、あらゆる組織に通用するものだろう。
「社長賞」とかその会社の内部の人はみんなあこがれるんだろうけれど、
外部の人にとってはそんな「社長賞」なんて大した興味がないわけでしょう?
「社長賞」よりも現金10万円のほうが嬉しいって話で。
しかし、組織に入ると人は「髻中明珠(社長賞)」を求めて兵隊になってしまう。
たくさんいた仏弟子とかだって、絶対みんな仲良かったわけがないんだから。
あいつがトップ(釈迦)にほめられたと聞けば、嫉妬するのが人間というもの。
そういう集団心理をうまく操作して競争させ利益を上げるのが経営者の手腕だ。
棒グラフのノルマ達成とか、学会一部ではまだやっているらしいけれど、法華経だなあ。
「髻中明珠」はオヤジの頭皮脂分がしみ込んでいそうで汚いから不要。それゴミじゃん。
このように部下の兵隊に思われないようにするのが重要と釈迦は法華経で説く。
「人間・池田大作」は新しく創造された価値(権威)で(東大は旧権威の象徴)、
外部の人には池田先生直筆の色紙とかゴミになってしまうところがおもしろい。
いや、宝はゴミで、ゴミは宝というのが法華経の世界観だから、
池田名誉会長の色紙が所持者当人にとっては1千万以上の価値があるというのも、
絶対的に「正しい」ところの法華経的真理のひとつとなろう。
東大と創価大がどちらが「上」かなんて人それぞれでしょう?
わたしは出身大学の野暮ったい校歌は大嫌いで覚えてもおらず、
いっぽう創価大学の校歌は大好きである(たまにYouTubeで聞くもん)。

「三木二草(さんもくにそう)」のたとえも世の中の真実を暴露している。
法華経の釈迦は「人間は平等」とは言っていないわけである。
釈迦の教えは天から降る雨のように平等に「三木二草」の民草をうるおす。
教えは平等に与えられるが、教えを受けるほうは「三木二草」とさまざまである。
これは身もふたもない人間の能力差をテーマとしていると言えなくもない。
人間は「三木二草」で容姿も身体能力も知力もまったくもって不平等、不公平だ。
だが、釈迦の教えはそれぞれの上にかならず降りかかるから、それぞれ伸びていけ。
とはいえ、雑草は桜やバラになろうと思ってもなれないという真理を説いている。
無理なものは無理。夢はあきらめなければかならずかなうは嘘。
いくら南無妙法蓮華経と唱えても、能力差があるから全員大勝利はできない。
可能なのは、それぞれが能力の範囲内でそれぞれの伸びを見せるくらいだ。
人間には能力差がれっきとして存在するという事実は、
なにやらむごたらしくて目をそむけたくなるが、それでも真理であろう。
後世の大乗仏教徒による創作である、いわば釈迦の嘘の教えである法華経は、
にもかかわらず「本当のこと」を説いている。

「化城宝処(けじょうほうしょ)」のたとえは人生の真理を描いているとさえ思える。
宝を求めて旅をする隊商の群れがいる。
険しい旅路にみんな疲労困憊している。
いったいどこに宝があるのか、そもそもなにが宝なのかもわからなくなっている。
そこで指導者が神通力で蜃気楼(しんきろう)のようなお城を創り出す。
とりあえず、あそこまで行って一息つくのを目標にしようじゃないかと仲間を励ます。
仮の(嘘の)お城(目的地)でしばらく休息したら隊商はまた宝を求めて旅に出る。
このたとえって人生そのものを描いていると思いませんか?
本当のところわれわれの人生航路の行くところは決まっていて、それは死である。
しかし、われわれは一般的に「自分の死」というものをあまり意識したくない。
このため「化城宝処(仮の目的地)」を常に必要としている。
いい学校という「化城宝処」。いい会社という「化城宝処」。独立起業という「化城宝処」。
結婚という「化城宝処」。子育てという「化城宝処」。世界平和という「化城宝処」。
ある種の群盲にとってはなにもしないで立ちどまっているのは耐えきれないのだろう。
なにか目標のようなものがないと無意識から死への不安が立ち込めてくる。
常に世間マスコミから与えられた目標を目指していないと落ち着かない人たちがいる。
なにかしないではいられない人たちにとってノルマを与えられる新興宗教は天国だろう。

広宣流布(こうせんるふ/布教)は限りがないから永遠の「化城宝処」として存在しうる。
人間はたとえいい会社に入っても、いい女と結婚しても、
それで満足するということがない。
どうせ死んでしまうのだが、そこは見ずに、
いやむしろ見ないようにするために「化城宝処」を求める。
自分で「化城宝処」を創造しているつもりの人も、
じつは指導者が神通力で描き出しただけの蜃気楼を夢見ているところがおもしろい。
就職、出世、結婚、健康といった世間的に評価されるものが「化城宝処」たりうる。
人間ってまったく本当に死ぬまで「化城宝処」を追い求めるものなのだろう。
「本当のこと」である死を見ないために嘘の宝物、嘘の目的地、嘘の夢を求める。
きっと人それぞれの「正義」なんかもそれぞれの「化城宝処」なのだろう。
変わるのが正義の人もいようし、人のために役立つことが正義の人もいよう。
「化城宝処」のようなものがないと、
酒びたりのアル中になってしまうような弱さが人間にはそなわっている。
たえずいまの状態では満足できず、
目的依存症の人たちに法華経が示す「化城宝処」は弘教(広宣流布)である。
どこまでも世界の嘘を見破った人たちが法華経で「本当のこと」ことを説いている。
法華経では、この世の中などどこまでも嘘(化城宝処)にすぎない、
と偽物の釈迦が「本当のこと」を説いているのだから矛盾しているとも言えるが、
この矛盾構造を持つがゆえに法華経は「正しい」のであろう。

有名な「良医病子(りょういびょうし)」のたとえも危ない問題を内包している。
帰宅した父親は子どもたちが毒を飲んで狂っていると判断するが、
子どもたちには病識(病気という自覚)がない。
これは精神病の問題とも相通じるのではないだろうか?
この場合、子どもたちは複数で父親はひとりだから、
世間の論理ではおかしいのは父のほうで精神病薬を飲むべきなのは父だ。
無宗教の人たちにとっては、
新興宗教に夢中になっている信者は狂っているとしか思えない。
反対にたとえば学会員さんからしてみたら、
こんないい薬(法華経)を毒だと思って飲まない一般人はおかしいと思うだろう。
法華経は毒にも薬にもなりうる副作用たっぷりの危ない麻薬と言えよう。
法華経では、父が外国に行き、自分が死んだという嘘の電報を打つ。
死んだらなぜか嫌いだった人も偲ばれてくるのが人情というもの。
その人情にほだされて父がすすめていた毒薬を飲んで、
子どもたちは父親の期待するような「いい子」になる。
どんな嘘をついてもいいから人情を刺激しろというのが法華経の教えであろう。
ボーダーライン人格障害のような迷惑な人間がいたとしよう。
そういう人はある種の魅力があるから自殺したら悲しむ人も少なからずいよう。
しかし、悲しんでいる最中に当人が息を吹き返したら一瞬「うげっ」と思わないだろうか?
いや、釈迦くらいになったらそんなことはないのだろう。
創価学会の池田先生の死が公開されたら悲しむ人が多いだろうけれど、
かえってこのとき「良医病子」のたとえの「正しい」ことが証明され、
いままで無宗教だった人たちも故人がすすめていた法華経という薬を服用し、
予想に反して創価学会という組織が再活性化してしまう可能性もゼロではないだろう。
そこで池田先生がよみがえったら、ふざけんな! と袋叩きにされるだろうが。
あんがい池田大作氏の死は巨大利権団体が新しくよみがえる好機なのかもしれない。
法華経の教えは「嘘も方便」である。
医者はいかにうまく嘘をついて患者を「知らぬが仏」にさせるかが腕の見せどころ。
宗教者はたましいの医者なのだからどのくらいの嘘をつけるかで器が決まろう。
自分が死んだという倫理的にはギリギリの嘘をついた法華経の仏は大物である。
これはまあ、結果がよければ方便(手段)は問わない(嘘でもいい)という
法華経の実利主義の現われとも言えよう。

いい本だったので、ほかにも思ったことをつらつら。
法華経を訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)関係で西安の草堂寺の写真が掲載されていた。
行ったことがあるので懐かしいと胸にこみ上げてくるものがあった。
思い返してみたら、あれは9年もまえのことなんだなあ。
まさかここまで仏教を勉強するようになるとは当時思わなかったが、
あるいは決められた道を歩んでいるだけなのかもしれない。
本書で敦煌莫高窟のわかりやすい解説があるけれど、
現地で見るよりもこういうガイドブックで見るほうがよほどおもしろいと思う。
そういえば敦煌に池田大作氏の石碑みたいのがあって、
日本人としてなにかやましいような気まずい思いをした記憶がある。
敦煌の宝物の発見者は、その価値がわからず西洋人に安く買いたたかれたとか。
そういう白人に比べたら敦煌に膨大な資金提供している池田先生は
どこも恥ずかしいところはないのだが、
なぜか金ぴかの池田先生は恥ずかしいというのが海外に出た日本人に
かなりのところ共通する心象のような気がしてならない。
しかし、ものの価値を知らないと安く買いたたかれてしまうのは残酷な現実である。
あなたの本当の価値は自分にしかわからないというのが恋愛感情らしいが、
学会員による池田名誉会長への心酔と恋愛感情はどのような関係にあるのか。
女子部の活動家は結婚できない、とか言われているらしいが。
本書の平家納経(平氏が奉納した法華経)は美しくてとてもよかったけれど、
このあとに平家が滅亡していることを考えると法華経の功徳が怪しまれてならない。
もっとも阿弥陀経も般若心経も納経したらしいから、
そのせいだと言い張ることもできよう。
さて、なんのために長々と法華経の紹介をしたかといえば、
わたしの場合は(学会員とは異なり)人のためではなく、
どこまでも自分の現世利益のためである。
これだけ法華経の危なさ怪しさを饒舌に語り尽くしたのだから、
明日以降どんなプラスの現証が泉のように噴き出してくるか楽しみでならない(笑)。

(関連記事)
「法華経現代語訳(上中下)」(三枝充悳/レグルス文庫/第三文明社)

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