「種種御振舞御書」

「種種御振舞御書」(日蓮/御書講義録刊行会編/聖教文庫)

→決して存世中は成功したとはいえない不遇な仏教革命家の自伝的エッセイ。
日蓮は悪口の天才だったと思うんだ。
日蓮の目標は法華経をひろめることによって多数派になり、
要は偉くなりたかったのである。
とはいえ、いつの世も、とくに鎌倉時代のような身分社会では家柄が重視された。
小坊主の日蓮は、家柄がよく出世した坊主がうらやましくてたまらなかったのである。
どうしてあの坊さんたちはみんなから尊敬されているんだろう?
おそらく一生うだつが上がらないだろう自分と高僧たちとの違いはなんだ?
本当は出世するためには上から気に入られるための処世や裏工作が必要なのだ。
まあ、日蓮ほどサービス業に向いていない男はいないだろうから、
男がそういう難しい人事工作をすることは無理だった。
ふたたび、悩む。どうしてあの坊さんたちは偉いんだろう。
いちおう「正しい」ことを知っているから偉いってことになっているんだろうな。
では、彼ら高僧よりも「正しい」ことを主張してやつらを打ち負かせば、
今度は自分が偉くなれるのではないか?
坊主も勝者と敗者に分かれる。
弟子がいっぱいいてちやほやされる坊さんのほうが勝ちだろう。
論争になったときには「正しい」ほうが勝ちとなる。
ならば、「正しい」ことをひたすら研鑽しようと誓ったのが日蓮だったように思う。

日蓮は他宗の悪口を言いまくったのである。
まあ、最初はだれからも相手にされなかっただろう。
そうしたときに日蓮一派は相手が逃げたと吹聴し、
勝った勝ったと凱歌をあげたと思われる。人間は他人の悪口が大好きなのである。
とくに庶民は人の悪口が三度の飯の代わりになるくらい好きだ。
隣近所の悪口もおもしろいが、高い地位にある人の悪口ほど盛り上がるものはない。
(いまの週刊誌、ワイドショーなんかもそうでしょう?)
日蓮は権威を恐れない(死んでもいいという)「無敵の人」だったから、
どんな高位にある聖職者の悪口も口汚く言いたい放題だったのではないか。
悪口のなにがいいかといったら、悪口を聞いていっしょに笑ったら、
自分までその高い身分にある聖職者よりも偉くなったような気がするじゃないですか?
偉い人を見下した悪口を聞いて笑うのは、優越感が満たされ気分がよくなるのである。
日蓮の信者になったものは、日蓮の命を捨てた悪口ショーに魅せられたのだと思う。
あんな偉い人たちの悪口を言える日蓮って人はすごいんじゃないか、
と信者たちが思い始めたのを見透かして
日蓮も「おれは日本の柱だ」なんてハッタリをかます。
いやあ、本人は本気でそう思っていただろうから正確にはビョーキというべきで、
ハッタリと表現するのは不適切であったので謝罪する。

日蓮のデマを織り交ぜた下世話な他宗批判は、
下級武士や庶民には大いに受けた。
悪口ばかり言って世間を騒がす日蓮の身柄を抑えようと武士集団がやってくる。
(これは当時の警察のようなものと思ってよい=世間的に「正しい」集団)
さすがの日蓮も驚くだろうと思っていたら本人はいっさい動じず、
自信満々に「とのばら[おまえら]但今日本国の柱をたをす」と宣言するのだから、
自分たちが「正しい」と思っていた武士連中もあわてふためいたという。
この人、本物なのか、もしかして本物のあれなのか、
という恐怖感を逆に「正しい」武士団にいだかせてしまうのが日蓮のすごさである。
そこでまた他宗批判の悪口メドレーを日蓮はやったらしいのだが、
「或(あるい)はどっとわらひ(笑い)、或はいかり(怒り)なんど」した模様だ。
悪口で人を「どっとわらひ」の状態にさせることができたのが日蓮の才能だったと思う。
その場では怒り狂ったものも、家に戻って思い出したら、
まことクリティカルな悪口で笑いがとまらなくなったものもいたであろう。
理由はわからないけれど、
この人はすごいと一度対面した人に思わせるカリスマ性を日蓮は持っていたはずである。
思わず拝んでしまいたくなるような風貌が日蓮にはそなわっていたに違いない。
みんながみんな口ではきれいごとを言いながら打算(損得)を考えているなかで、
日蓮は狂人なのかテンネンなのか身の危険を毛ほどもかえりみず、
タブー破りに近いまでの「正しい」悪口をよどみなく威風堂々と話すのだから。

「おれはなんの権威にも屈さない」「死ぬのが怖くない」と口で言うのはかんたんだが、
本心からそう思っていないとすぐに底を見透かされてしまう。
日蓮は正真正銘に自分以外の権威を信じず、
法華経のために命を捨ててもいいと思っていたのではないか?
その存在感はいかほどであったことか。
「和を以て貴しとなす」の国で「正しい」ことを言うと悪目立ちして危険視される。
執行サイドにどれほど計画性があったがわからないけれど、
日蓮は死刑の宣告を受け首切り役人の手に渡される。
おそらく、世間を騒がしたくらいでは公的には死刑にはならないような気がする。
どこか冗談半分の意味合いもあり、
「あの日蓮とかいうクソ坊主は法華経のためなら命を捨てられる」
なんてほざいているが、本当かよ? ちょっと脅してみようぜ。
いざ死刑場に連れていかれたら小便をちびらせて泣きを入れるんじゃないか。
あの偉そうな悪口ばかりの坊さんに土下座させて命乞いさせるのは見ものだなあ。
そんな周囲の邪(よこしま)な期待もあっての、
相手の顔色をうかがうような悪戯めいた死刑執行だったような気がする。

悪口を言ったくらいでは死刑にはならないっしょ。
というか、悪口を言われた高僧とていちおう人格者なのだから、
(日蓮とは異なり)他人の批判を受け入れられる度量を持っているのではないか。
当時、鎌倉で出世していたのが良観(忍性)という坊さんで、
慈善家としてたいへん世間の評判がよかったらしい。
だが、日蓮があることないことでっち上げて良観の悪口デマを流したそうだ。
権力者とつるむためには、きれいごとばかりではいられない。
日蓮に流されたデマのうち真実のものもひとつやふたつあったことだろう。
日蓮サイドはこの暗殺(死刑執行寸劇)を裏で画策したのは良観だと断定している。
さんざん日蓮は良観にひどいことをしているから罪悪感のようなものがあったのだろう。
なんの後ろ盾もない日蓮が、
当時鎌倉仏教界トップの良観に雨乞い勝負を挑んだのである。
いま日蓮は大聖人だが、当時の日蓮はなんの肩書もない独善的なカルト僧である。
良観としては勝負を受けてやりたくても立場としてできなかったと思う。
良観と日蓮ではあまりにも世間的に格(肩書)が違いすぎるのである。
良観は「おもしろい坊さんが出てきたな」とあんがい好意的に思ったかもしれない。
そうしたらその日蓮というやつは、
勝手に雨乞い勝負の日にちを自分に有利なように決めて、
良観が無視しているのに勝手に勝負をしたことにして、
「日蓮は良観に勝ったぞ!」と弟子集団が町でふれまわっている。
世間の裏表を知り尽くした良観は苦笑いしたくらいだったであろうが、
良観の弟子が今度は大騒ぎしたのであろう。あの日蓮グループはいったいなんだ?
勝手に勝負を挑んできて、相手にしなかったら、勝った勝ったとデマを流している。
「あの日蓮とやらをぶち殺してやりましょうよ」という話は良観の弟子から出たと思う。
世の中の酸いも甘いも噛み分けた良観は弟子や周囲の意見におされて、
死刑の真似事くらいならという気持で、
いわゆる「竜の口の法難」をみんなのために演出したのかもしれない。
死刑場におもむくときの日蓮の心中はどうだったか。

(今夜首を切られに行く。この数年ずっと願っていたことはこれである。
この娑婆(しゃば)世界にいったい何度生まれ変わりして、
そうそう――弱いキジとなったときは強いタカにむさぼり喰われ、
弱いネズミとして生まれてきたときには強いネコにもてあそばれ喰われた。
人間として生まれ妻子のために心身をすり減らすだけで没したことは数知れない。
しかし、法華経のために死んだことは一度もなかった。
このため日蓮は貧乏人の子として生まれ、親孝行も十分にできず、
せっかく日本という国にありがたくも生を得たのに恩を返すことはなかった。
いまもいまわが首を法華経にささげて、その功徳を父母に回向(えこう)しよう。
余ったぶんの功徳は弟子や檀那(在家信者)に回してくれ)

「今夜頸(くび)切られへまかるなり。この数年が間願いつる事これなり。
此(こ)の娑婆世界にしてきじ(雉)となりし時はたか(鷹)につかまれ、
ねずみ(鼠)となりし時はねこにくらわれき。
或はめこ(妻子)のかたき(敵)に身を失いし事、大地微塵より多し。
法華経の御ためには一度だも失うことなし。
されば日蓮貧道の身と生れて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。
今度頸(くび)を法華経に奉りて其(そ)の功徳を父母に回向(えこう)せん。
其のあまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べし」(P104)


当時の警察ともいうべき武士集団は、
死刑場に連行したら日蓮が泣いて詫びを入れるとたかをくくっていたのである。
そうしたら死刑直前まで日蓮の態度はじつに威風堂々とした自信あふれたものだった。
もしかしたらこの日蓮というお騒がせ野郎は本物ではないか?
これほど死に際してそれでも堂々としていられるということは、
彼の教えは本当に「正しい」のではないか?
われわれはみんな自分が「正しい」と思っているが、もしかしたらそれは間違いで、
いま法華経のために使命感あふれていさぎよく首を差し出す
肩書ゼロのこのインチキ革命坊主の言うことのほうが「正しい」のではないか?
いったい「正しい」ってどういうことだろう?
そのとき巨大な流星が落ち、深夜にもかかわらずあたりは閃光に照らされたようになる。
敵方はみんながみんなこの共時的現象を目の当たりにして、
日蓮に恐れをなして逃げていったという。
非科学的かもしれないが、人生は科学では解明できないから、
こういう奇跡のようなことが1回きりなら十分に起こりうるのである。
言葉にしても人には信じてもらえないということが起きるのが1回きりの実人生である。
日蓮のこのとき見たものは、言葉にしたら嘘くさいが本当に起ったことなのだと思う。
本当に起きたことは言葉にすると嘘になってしまうことがある。
首切り役人たちは日蓮に恐れをなして、
職務を投げ出しその場からみな逃げ出してしまった。
日蓮が夜が明けたらみっともないから早く殺してくれと主張しているのに、
幕府の役人はひとり残らずその場から逃げ出している。
それほど日蓮はいっしょにいるだけで共時的に「怖い人」であったのだろう。
もはや日蓮を管理するものはだれもいない。
幕府上層部も日蓮の恐ろしさを実際に見聞きして、職務放棄したのだろう。
もはやだれも悪口ばかり言う「正しい」日蓮をどうしたらいいのかわからない。
日蓮としてもどこに行けばいいのでわからないので、
周囲に聞くとこの道を行けばいいと言われる。
お昼にようやく依智(えち)というところの本間六郎左衛門の家にたどり着いた。

(日蓮がそのお宅にお邪魔し、下級武士のために酒を取り寄せて飲ませてやると、
それぞれ帰るということになったらしく、
彼ら下級役人はいままで居丈高だったのとは正反対に低頭して、
さらにいま現代接客サービスでは常識のヘソのうえで手を交差させるポーズをして
偉そうだった公務員が言うことには――。
日蓮大聖人がこれほどの人だとはまったく思ってもいませんでした。
ぼくたちが信じている阿弥陀仏の悪口をおひろめされているとうかがい、
ずっと憎んでおりましたが、こうして目の当たりにお姿を拝見させていただき、
そのもうただただありがたき高貴なご様子に長年信じていた念仏を捨てることにしました、
と火打ち袋から数珠(じゅず)を取りだして捨てるものがいた。
今後はいっさい念仏を唱えないと文面にて誓うものも現われた)

「さけ(酒)とりよせて、もののふどもにの(飲)ませてありしかば、
各かへるとてかうべをうなたれ(低頭)、手をあさ(叉)へて申すやう、
このほどはいかなる人にてやをはすらん、
我等がたのみて候(そうろう)阿弥陀仏をそしらせ給うとうけ給われば、
にくみまいらせて候いつるに、
まのあたりをが(拝)みまいらせ候いつる事どもを見て候へば、
たうとさ(貴さ/尊さ)にとしごろ申しつる念仏はすて候いぬとて、
ひうちぶくろ(火打袋)よりすず(数珠)とりいだしてすつる者あり。
今は念仏申さじとせいじやう(誓状)をたつる者もあり」(P106)


結局、これが本当の布教のような気がしてならない。
布教は言葉や親切で相手を変えようとするものではなく、
自分のたたずまいを見て相手が自然に信仰を変えるのが
本物の折伏(しゃくぶく/宗教勧誘)だろう。
こざかしい末端の折伏なんかよりも、トップのカリスマ性(人間的魅力)が大きい。
池田大作さんも戸田城聖さんも、日蓮大聖人同様にカリスマ的魅力があったのだろう。
それはもう言葉にならない圧倒的なちからを持っているのである。
こればかりは経験してみないとわからない。
わたしがカリスマ性を感じたのは去年引退したプロレスラーの天龍源一郎。
ヨボヨボになった晩年はお愛嬌というもので、
全盛期に業界大手の新日本プロレスに喧嘩を売っているときの輝きはすさまじかった。
天龍をなまで見るだけで鳥肌が立ったものである。
タレントのライブでそういう高揚感を得たことのある人もいよう。
師匠としては、大学時代に出逢った恩師の特殊映画監督、原一男先生にもそれがあった。
おかげで人生を狂わされてしまったが(こちらの勝手な被害妄想だとはわかっている)、
いまは大学教授がすっかり板についた成功者先生にいまさら抗議するつもりはない。
「自分は絶対に正しい」と信じている人から発せられるカリスマ性というものがある。
天龍のように無勢で多勢に立ち向かっていく姿にも人は魅せられるだろう。
いまの創価学会は巨大組織だから、いまもいま日蓮が日本に生まれ変わったら
真っ先に池田名誉会長のことをこき下ろすに違いない。
(そのまえに精神病院に強制入院させられる可能性のほうが高いけれどさ)

で、日蓮はどういうコネかこの依智の本間六郎左衛門宅にしばらく滞在するのだが、
そのあいだに鎌倉でおかしなことがたくさん起こったという。
具体的には、放火や殺人が頻発したとのこと。
日蓮は自分を軽んじたら国が乱れると主張しているでしょう。
そう言っている日蓮を捕まえて、未遂に終わったが首を切ろうとした。
ここで鎌倉で放火や殺人が連続するというのは、なにやら創価学会的でおもしろい。
こんなものだれだって日蓮狂信者による自作自演を疑うわけでしょう?
心酔する師匠の予言を当たらせるために自作自演で鎌倉を荒廃させる。
たとえ捕まったって自分は念仏者ですと申し開きをすればいいのだから。
そうしたらそれは念仏者の犯行になってしまうのである。
いきおい念仏者が日蓮を追いこむために信者をよそおって犯罪行為をしたことになる。
ため息をつきつき思うのは、むかしから日蓮関係はやばかったんだなあ。
創価学会シンパながら念仏ファンであるわたしの個人的な思いでは、
念仏者は信仰のために放火や殺人まではできないような気がする。
念仏グループは弱いからそこまで教祖に思い入れを持てないのではないかと思うのだが。
むかしからなにか(=お経や教祖)を絶対的に「正しい」と信じるということは、
勇気が満ちあふれる楽しいことであると同時に怖ろしいことでもあったのだろう。

このあと日蓮は流罪として佐渡へ行かされる。
日蓮は、これまた悪人の良観を中心とした権力者集団による陰謀だと決めつけている。
わたしのわずかな人生体験や読書体験から思うのは、
良観はそこまで悪くないのではないか?
良観はたまたま家柄もよく師匠にも恵まれ、権力者ともお近づきになった。
なんとかして困った人を救いたいという利他精神から貧民救済事業までした人である。
権力者からしたら、
わあわあうるさいお騒がせ野郎の日蓮を殺すのなどたやすいことだった。
そうしたほうがいいと意見する人も常識から考えれば大勢いたと思われる。
これに反対して日蓮を守ったのが、
ほかならぬ日蓮その人が敵対視していた良観という世俗的意味での善人だと思うのだ。
日蓮は良観のせいで佐渡に流されたというけれど、
あのまま鎌倉に置いておいたら、
あんな物騒な坊主は絶対だれかに殺されていたでしょう?
教祖が狂騒的なのは新興宗教らしくていいのだが、
日蓮関係は弟子も狂信的に自分たちは絶対に「正しい」と言い張るのだから、はあ~。
あんな過激な教えだが、それでも教祖に救われている信者のことを考えると、
あの日蓮を殺すわけにはいかないが、
しかしこのまま鎌倉にいられたら政治も治安もなにもかもメチャクチャになる。
当時は精神病院がないのだから措置入院も無理。
ここでしばらく佐渡にでも行ってもらおうと考えた良観派閥はそこまで悪人なのか?
本書を読むと佐渡に流された日蓮は決して孤独ではなかったという。
他宗派の人々が日蓮のご機嫌を取りに日参していたとのこと。
それが被害妄想過剰な日蓮に言わせると、
みんながグルになって自分を改宗させようとしてきたとなってしまう。
ある無学な念仏者がおずおずお偉い日蓮大聖人さまに進言したという。
念仏の法然は法華経を捨てろとなんか言っていませんよ。
日蓮先生がお好きな法華経はたしかにいいんでしょうが、
われわれ愚民は念仏でないと救われませんので。
自分は絶対に「正しい」と信じている(そこが魅力なのだが)
日蓮は明らかに学のない念仏者を相手にせずけんもほろろに一蹴したという。

日蓮はわずか3年で佐渡流罪から赦免されるが
(身の回りの世話をするお弟子さん付きの労役なし三食昼寝完備の懲役3年!)、
この幕府の寛大な処置にも日蓮が敵視していた良観のちから添えがあったとされる。
雨乞いもできない無能坊主と日蓮がバカにした良観(忍性)こそ、
意外にも日蓮の隠れた恩人であったという歴史書が残っている。
ネットで知ったことだから、どこまで本当かわからないけれど、
仏教界の天皇陛下、中村元博士のご著作にこのような記述があるという。
博士によると、「本朝高僧伝」という歴史書に以下の記載があるそうだ。

「池上の日蓮、しばしば悪言を出して (忍)性[良観]を謗りて以って律国賊と為す。
(忍)性は意に介せず、
其 (=日蓮)の罪に陥るに及んで却って宥[許し]を平師(北条時宗)に乞う」


これが事実かどうかは永遠にだれにもわからぬが、
本書で日蓮ときたら大恩人の良観の首をはねよとさかんに主張していたとのこと。
それどころか良観のいる極楽寺を焼き払えとも言ったとか。
大恩ある良観を地獄に堕ちると決めつけたのがわれらが日蓮大聖人さまである。
こういうことをできる人ってレアだから、やはり日蓮はすごくて「怖い人」なのだと思う。
佐渡に流された日蓮は自己憐憫たっぷりに以下のようなことを書いている。
しかし、ここがいちばんいいのだ。
不幸(マイナス)を幸福(プラス)に代える宿命転換の実相を日蓮は巧みに描写する。
どうして「正しい」ことを言って「正しい」ことをしてきたのに、
(本来ならば幕府中枢で重んじられるべき)自分が
こんなクソ寒い日本の辺境、佐渡ヶ島のあばら家に流れ着いたのか。
いや、この不幸こそ幸福であると日蓮は佐渡で法華経の諸法実相を悟る。

(いま日蓮はこんな時代に生まれて南無妙法蓮華経というオリジナル呪文を
ひろめたせいで、佐渡流罪という困難に遭遇しているのである。
[あまりにも寒いので熱燗を一杯やって」考えてみると、これは不幸だろうか?
めったにないラッキーと考えることもできるのではないか?
あの中国高僧のチギでさえ法華経に書いてあるこの苦境を味わったことがないのだ。
法華経に書かれている本当の困難に向き合ったのは自分だけではないか?
法華経で仏さまがあなたこそ成仏できると名指ししてくれたのは、
まさしくわたくし日蓮ひとりである。
ならば前人未踏の究極の悟りに突入したのは疑いえない。
自分を迫害した北条時宗こそよき指導者であった。
日蓮を死刑寸前まで追い込んだ平左衛門はダイバダッタのようなもので、いわば恩人。
ぶっ殺してやりたいくらい大嫌いだった念仏者もいまでは尊敬できる。
ちまちまうるさいルールばかり主張する坊さんも生きていていいんだ。
みんなみんなそれぞれそのままでいいんだ。
だれも悪くないし、それぞれがそれぞれのカラーで輝いているではないか!
仏さまはいま生きているこの世にたしかにいて、あの人もこの人も仏さまだ!
法華経の肝心かなめは諸法実相という究極智識と言われているが、
それはこのことであったか! 
悪役がいてもよろしい。
あなたは日蓮にとっては悪役だが、あなたにとっては日蓮が悪役なんだね。
いまのままで芝居としてはすべてがうまくいっていたのか!)

「今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘(ひろ)めてかかるせ(責)めにあへり。
仏滅度後二千二百余年が間、
恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず。
数数見擯出の明文は但日蓮一人なり。
一句一偈我皆与授記は我なり。
阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし。
相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。
念仏者は瞿伽利尊者、持斎等は善星比丘なり。
在世は今にあり今は在世なり。
法華経の肝心は諸法実相ととかれて本末究竟等との(宣)べられて候は是なり」(P135)


日本史上、良観も日蓮もいなければならなかったのである。
恵まれた良観もきっと自分に喧嘩を売ってくる日蓮を見て思ったんじゃないかなあ。
おお、この小僧は肩書こそないが自分よりも純粋な本物の信心を持っている。
いったいどうしてやるのが日蓮のためになるのだろう?
佐渡に3年くらい流してやれば人生の理不尽を知り、
そこは自分にはわからない境地だが、さらなる深みある信心に到達するのではないか?
日蓮はいじめられっ子ぶっているが、
みんな日蓮に注目していて大好きだったのかもしれない。
なんか気になる目立つ存在ってかわいがりたくなるよねえって話で。
そして、日蓮がそんなに不遇だったかどうかもわからないのである。
日蓮は佐渡なんかに流しやがってと思ったかもしれないが、
その佐渡には食うや食わずで妻子ともども労働しながら
浄土信仰(極楽往生)だけを頼りに生きていた貧民もたくさんいたはずなのである。
果たして日蓮大聖人はそんな無学な貧民の、
わらにもすがるような阿弥陀仏信仰まで否定する完全正義の人だったのだろうか?

ブログ記事冒頭、日蓮は悪口の天才と書いた。日蓮はさあ、悪口がうまいんだ。
下品な決めつけというか、じつに庶民の心をよくわかっている。
低俗な庶民は、人の死に顔を見たいっていう黒々とした願望があるわけだ。
あの人、生きているあいだはブイブイいわせていたけれど、
晩年はガンで死ぬほど苦しんだらしいわよ(ザマアミロ)みたいな。
いくら成功者になって恵まれた人生を送っても、お嬢さんが交通事故で、
ごにょごにょ、死体はどんなだったのかしら?
ちなみにわたしの母は当方の目のまえで飛び降り自殺。
叔父は昨年、孤独死してぐちゃぐちゃの腐乱死体として発見された。
わたしの行く末も推してはかられようが、
これも謗法の罪を犯したせいだとあきらめている(こんな記事を書いているし、あはっ)。
さて、人の死に顔の善悪をことさら強調した日蓮の浅ましさに打ち震えるところがある。
あいつは現世ではうまいことやっていたけれど、
来世ではどうなんだかねという庶民の怨恨感情をじつに見事に満足させる観点だ。
くっくっく、あいつは成功したそうだけれど、ありゃあ後生が悪いぞ、ザマア!
こういう大衆心理を日蓮大聖人はよく知っていた。
法然が専修念仏を主張するきっかけになったのは中国高僧の善導の言葉である。
日蓮によると、善導は晩年発狂して柳の木から飛び降りて自殺しようとしたらしい。
しかし、死ねずに14日間苦しみに苦しんで絶命したとのことである。
こんなことはデマというほかなく証文はどこにもないのである。
だが、こういうデマを耳にすると念仏者はじつにいやな気分になる。
日蓮はそういうところがうまかったのである。
私見では、善導はもしそうだったとしても感動しながら死んでいったと思う。
浄土信仰があるならば自殺しないほうがおかしいのである(法然、親鸞はインチキ)。
善導は浄土信仰の究極的行為である自殺に気づいて敢行したのがよかった。
にもかかわらず、死ねなかったことにも善導は感激したと思う。
なぜなら人生は自力ではなく他力であることを身をもって
人生の幕引きで悟ることができたのだから。もし日蓮のデマが本当でも、
それは善導の価値をいっさい下落させるものではないとわたしは思う。

日蓮は庶民から慕われている弘法大師(空海)が大嫌いだったようで、
こんな悪口をよく言っていたという。日蓮の悪口でこれがいちばん冴えている。

(弘法大師(空海)の真言密教が「正しい」わけなんかないだろう?
だったらさ、後鳥羽院が承久の乱で負けて隠岐に流されるかって話だ。
空海の手下たちが大勢天皇家の勝利を祈願していたのになんだこのざまは!
弘法大師とか大笑いで泣けてくるぜ。民間人に負ける天皇家って情けねえ。
みんな隠岐に流された後鳥羽院を「隠岐法皇」とからかって言っているが、
あれを最初に言い始めたのはおれさま日蓮なんだなあ。
天皇家でかわいがられていた幼児も首を切られて血だらけになって死んだわけだ。
弘法大師の密教なんか嘘八百の詐欺行為だとまだわからぬのか愚か者よ!)

「日蓮が申すやうは、しばしまて、
弘法大師の悪義まことにて国の御いの(祈)りとなるべくば、
隠岐法皇こそいくさ(軍)にかち給はめ。
をむろ(御室)最愛の児(ちご)せいたか(勢多迦)も頸(くび)をきられざるらん」(P199)


日蓮が「真言亡国」と弘法大師の真言密教を批判しているのは目にしたことがあったが、
創価学会教学部が編集した本書で、そういう解釈もできるかと手をたたいたところがある。
たしかに教学部の言うように、インドで密教(仏教の土着化)が起ってきたころ、
イスラームに攻められて本場では仏教が消滅しているのである。
インドもボロボロになった。「真言亡国」とは日蓮大聖人もよく言ったもんだ。
日蓮はよほど権威的なエリートインテリ密教が嫌いだったのか、
弘法大師(空海)のみならず、
尊敬する伝教大師(最澄)の弟子の慈覚(円仁)のひでえ悪口を書いている。
空海も円仁も死に様が最悪だったというのである。

(みんなが慕っている弘法大師も慈覚大師も悲惨な死に方をしたのだが、
これが情報操作というものか、意外と知られていないので驚くばかりである。
弘法大師も慈覚大師もうめき苦しみながら阿修羅のような形相で息を引き取った。
そうではあるけれども、どちらのケースも大勢いる弟子どもが隠したから、
公家(貴族さま)の知るところにはならなかった。
しかるがゆえに、いまも弘法だ慈覚だのと崇拝する無知な愚か者がいるのだよ。
真実というものは暴露するものがいないと、
未来永劫まで嘘が本当としてまかり通ることになるんだから怖いものだなあ)

「弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、
弟子ども隠せしかば、公家にもしらせ給はず。
末の代は・いよいよあをぐ(仰ぐ)なり。
あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし」(P222)


きっと「正しい」真実というのは最後まで本当のことを隠し通した嘘になるのだろう。
日蓮の御書は悪の教科書とまで言ったら大げさだが、処世の智恵にあふれている。
「正しい」ことを言い張ると迫害されるが、それでも拾う神はいるとか。
「おれは悪くない」で最後まで押し通したら結局それが善になってしまうとか。
日蓮の仏教界における最大の功績は、難解な仏教世界を大衆娯楽化したところだろう。
あいつは善で、あいつは悪。
少数の善が大勢の悪をバッタバッタなぎ倒したら爽快だよね――
みたいに日蓮は仏教を
庶民にわかりやすいエンターテイメント世界に移植した偉人なのだと思う。
映画でもテレビドラマでも大衆小説でも、善が悪を倒すというところだけは変更不可。
悪が勝っちゃうと、人の心におかしなもたれが生じてしまう。
まあ、善が悪を倒すというけれども、
その倒される悪もいちおうは善を自称しているのだが、
そういう複雑な世界観は庶民には受け入れられず、
南無妙法蓮華経で仏敵と勝負しているのがドラマチックで刺激的な生き方なのだろう。
一箇所、日蓮大聖人の名文を読んで(名文がゆえに)おかしな発見をしてしまった。
たとえば、創価学会員さんにはいい人が多くて、
本心から人の役に立とうとしたり、社会の役に立とうとしているよねえ。
わたしのような使えない役立たずには、とてもありがたい存在でお世話になることも多い。
さて、日蓮大聖人はこう言っている(←なーんか学会員っぽいでしょ。違うんだけれど)。

(道理を考えてみたら、鹿は肉がうまいから人に殺され喰われ、
亀は貴重な油を有しているがためにこれまた殺され命を失することになるわけだ。
女性は美人でスタイルがよいほど、おなじ女性から嫉妬されて苦しむ羽目になる。
一見すると恵まれているように思える政治家は、
常に他国からの攻撃を恐れて夜に安心して熟睡する暇(いとま)もないのではないか。
金持や富裕層は財産があるがために命をねらわれることも少なくないだろう。
法華経を信じるものは精神の富裕層のようなもので、かならず成仏する。
このために悪魔が嫉妬して、
成仏決定の法華経の行者をわざわざ選んでいろいろな意地悪を仕掛けてくる)

「されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。
女人はみめ形よければ嫉(ねた)む者多し。
国を治る者は他国の恐れあり。財有る者は命危(あやう)し。
法華経を持つ者は必ず成仏し候(そうろう)。
故に第六天の魔王と申す三界の主、
此(こ)の経を持つ人をば強(あながち)に嫉み候なり」(P241)


もし日蓮の言うことが本当なら法華経なんて信じないほうがいいことにならないか?
というのも、法華経を信じると悪魔から嫉妬されてかならず魔が生じるというのだから。
命をねらわれるくらいなら金持になんかなりたくないという意見も出よう。
おかしな嫉妬をされるくらいならほどほどの容貌の女性のほうがいいことになる。
それでも、にもかかわらず、日蓮がこう教え諭してくれているのに、
われわれは金持になりたいとか、さまざまな邪心をいだくのではあるけれど。
法華経を信じると自分は「正しい」とか思っちゃうから、
周囲と衝突するのは必定といってよい。
しかし、その困難のなかにこそ
生きる味わいがあると日蓮は言いたかったのではなかろうか。
南無妙法蓮華経。おれは絶対に「正しい」から敵はかならずや打ち倒してみせるぜ。
なんちゃって、うっそぴょーん♪

*本文引用は創価学会公式サイトからコピーさせていだだきました。大感謝っす。
ネットCMを見たら、学会も変わろう変わろうとしているみたいですね。
近づいてくる学会員のような親切な人はたくさんいらっしゃるのですが、
だれも座談会に誘ってくれません。役に立たないからなんでしょうけれど。
学会員は大好き。南無妙法蓮華経。

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