「佐渡御書」

「佐渡御書」(日蓮/池田大作監修/聖教文庫)

→御書(ごしょ)とは日蓮が信者に送った手紙のこと。
本書は表題の「佐渡御書」以外にも「祈祷抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」を収録。
気が狂うほど繰り返し読んだ結果、もうなんだか吹っ切れてしまい、
いまから安酒をかっくらいながら思ったことを好き勝手に書かせてもらう。
文句があるならいくらでも論争してやるから、
匿名でこそこそコメント欄に書き込むような卑怯なことはせず直接逢いに来やがれ。
ただし一対一だからな。多勢に無勢のだまし討ちはごめんこうむる。
このたび日蓮大聖人の御書をボロボロになるまで読んで、
自分が絶対に「正しい」ことに気づいた。

日蓮はあらゆる仏僧のなかでもっとも「正しい」という結論に行き着いた。
いったい「正しい」とはなにか?
なぜセンター試験には「正しい」答えがあるのか?
その「正しい」理由はなにか? 答えは、権威である。
多くの大学教授がその答えを「正しい」と支持しているから、その選択肢は「正しい」。
あるときまでは地球が自転しているのは間違いであった。
なぜならキリスト教の権威者の言うことが「正しい」ことになっていたからだ。
あらゆる「正しい」ことは既存の権威によっている。
日本でいちばんの大学は東大だから、かの大学の教授の発言は「正しい」。
庶民の意見と東大教授の意見が食い違ったら「正しい」のは教授になる。
末端のおまわりさんのどこが「正しい」のかは一見わかりにくいが、
彼は国家権力たる警察に所属しており、
この集団のトップには東大が大勢いるため、その威光で彼もまた「正しい」。
「正しい」とは権威でありブランドである。
仏教の開祖とされる釈迦が「正しい」理由は権威があるからだ。
古今多くの権力者(権威者)が釈迦を「正しい」とみなしたから彼は「正しい」。

けどさ、みんな薄々は気づいているだろうけれどブランド(権威)ってうさんくさい。
いま奮発して高価なイタリア直輸入の生ハム三種を食べている(半額購入)。
なんかパサパサしていてまずいのよ。
よほど昨日定価で買った国産のビアハムのほうがうまかったと思う。
(ちなみにイタリアハムは半額でも400円、国産ビアハムは定価で200円)
おそらく「正しい」味覚は、本場のイタリア産生ハムをうまいと感じる舌であろう。
ここで二派に分かれる。イタリアのブランドに屈するものと、わが舌を信じるものと。
大半の庶民階層は自分の舌を信じられないのである。
ブランドが上のほうのものを「正しい」「おいしい」「価値がある」と思ってしまう。
グルメのみならず人生全般でブランド(権威)に右往左往し死んでいくのが庶民だ。
どうして自分の感覚を「正しい」と思えないかというと自信がないためである。
自分に大したブランドがない庶民は自信を持って自分が本当に思ったことを言えない。
自分のことを自信を持って「正しい」と思えない。
どうしても世間の目を気にしてしまう。主君にはヘイコラしてしまう。

しかし、日蓮はそうではなかった。日蓮は自分こそ「正しい」ことを知っていた。
「正しい」というのは権威でも多数決でもなく自己の主観のなかにある。
自分が「正しい」と思ったことが「正しい」。
どれだけそれを「正しい」と信じることができるかが「正しい」ことの証明になる。
日蓮の論理はこうである。日蓮は絶対に「正しい」。
なぜならもっとも「正しい」法華経を信仰しているからである。
なにゆえ法華経がもっとも「正しい」のかというと法華経にそう書いてあるからである。
釈迦はいろいろな時期にさまざまな教えを説き、それがお経となって残っているが、
最晩年の8年に説いた法華経が優劣でいえばもっとも勝っている。
というのも、釈迦自身が法華経のなかでそう説いているからである。
だから、南無妙法蓮華経こそ絶対に「正しい」。

とはいえ、である。日蓮の師匠は念仏者で、
日蓮も南無阿弥陀仏を唱えていた時期があったのである。

(日蓮もむかしはバカ者で正しい仏法を批判するようなことをしたもんだ。
若かりしころは師匠から教わった南無阿弥陀仏を信じていて、
「師弟不二(していふに)」は絶対だと自分のあたまで考えようとせず、
法華経を信じているものを見かけたら、念仏者の仲間と群れながら
「あいつらは絶対に成仏できねえよ」などとせせら笑っていた。
ところがいま謗法(ほうぼう/正法批判)の酔いからさめてみたら、
まるでさながら酔っぱらいが恩義ある両親をぶん殴って喜んでいたが、
酔いがさめたあとに後悔して嘆いているようなものである)

「日蓮も過去の種子、已(すで)に謗法(ほうぼう)の者なれば、
今生に念仏者にて数年が間、
法華経の行者を見ては「未有一人得者・千中無一」等と笑しなり。
今謗法(ほうぼう)の酔(よい)さめて見れば、
酒に酔える者父母を打ちて悦びしが、
酔さめて後(のち)歎きしが如し」(P16「佐渡御書」)


この日蓮が書き残したとされる一節はいろいろ意味深い問題をはらんでいる。
日蓮は念仏者の師匠を裏切ったことになるがこれはいいのだろうか?
日蓮系仏教利権団体、創価学会では「師弟不二」をことさら重んじている。
「師弟不二」とは師匠は弟子のことを心配して、弟子は弟子で師匠を敬えという、
美しい師弟愛を推奨するスローガンといえようか。
だが、親分の日蓮がさらさら「師弟不二」の観念を持っていないのである。
もうひとつの問題は、人間の変化に関することだ。
日蓮は既成の南無阿弥陀仏を完全否定して(念仏者は地獄に堕ちる!)、
オリジナルの南無妙法蓮華経こそ「正しい」という姿勢に転向した。
日蓮が開眼したのは32歳だったとされているが、
ということは31歳の日蓮は南無阿弥陀仏を「正しい」と思っていたということだ。
これはどうしてかというと、人間は変化(成長/老化)するからだろう。
そうだとしたら、ならば、さらに日蓮は変化する可能性もなくはないことになる。
もしかしたら弟子が隠しているだけで、
死期が迫った日蓮は病床で念仏もまた「正しい」と言ったかもしれないのだ。
「正しい」ことは変わりうることを身をもって知ったのが日蓮ではなかったか。
それなのにどうして南無妙法蓮華経こそ絶対正義と言い放つことができたのだろう。

歴史的には否定されている五時八教という中国高僧のチギが唱えた説がある。
釈迦は最初に悟ったときに華厳経を説いたがだれにも理解できなかったので、
はじめは小乗仏教から説いていったという物語である。
華厳経や法華経は後世の創作だから
このフィクションを批判するのはおかしいのかもしれないが、
釈迦が35歳ですべてを悟ったと考えるところが間違いなのではないか。
釈迦も生きているうちに少しずつ思想が深まっていき、
布教内容も年ごとに変わっていったのではないか。
で、般若経や浄土教典、法華経などを順次説いていったと考えたらどうか。
そもそも大乗仏典は釈迦とは無関係の後世の創作だが、しかしである。

日蓮の言葉に戻ろう。
日蓮は信心(信仰)を酒の酔いにたとえているが、これは本当におもしろい。
このたとえができるということは日蓮は泥酔した経験があったはずだ。
人が酒を飲んでおかしなことをしてしまうのは善悪や損得の観念がゆるむからである。
そして、酔っぱらいの特徴は自分はまだ酔っていないと言い張るところだ。
酒に酔っているかどうかは当人にはなかなか自覚できない。
「おれは酔っていない」なんて言い始めたらかなりの泥酔状態なんてことはよくある。
日蓮もむかしは念仏者で法華経の行者を軽んじてあざ笑いさえした。
しかし、あれは酔っぱらっての行動だったといまは嘆いているのである。
酔いからさめたいまのあたまで考えたら、とんでもないことをしてしまった。
だが、どうしていまの日蓮が酔いからさめているという証拠があろうか。
日蓮の酔いはさらに深まり、いまは泣き上戸(じょうご)になっているとは考えられないか。
過去の小さな失敗を大失敗をしたと思い込んでくよくよ嘆くのが泣き上戸である。
人を狂わせるという意味で、宗教はまったく酒のようなものという日蓮の指摘は「正しい」。
人はなぜ酒を飲み酔おうとするのか? そのほうが楽しいからである。
精神的にも身体的にも酔っぱらうのは快楽である。
新興宗教に夢中になるのは常時軽躁状態でいられるようなものでとても心地よい。
酔い心地のまま人生を終わられたら幸(さいわ)いなのだが、
あるとき酔いがさめてしまうとおのれが巻き起こした災(わざわ)いに卒倒してしまう。
おそらく日蓮の好きな言葉ベスト3に入るのが「地獄に堕ちるぞ」だから、
生まれたときから創価(洗脳)教育を受けて育った二世や三世はいいときはいいが、
あるとき創価学会に疑いを持ってしまったら真の地獄が始まるだろう。
わたしは外部だからか地獄への恐怖感というのがいまいちわからない。

さて、日蓮の主張というのは「おれは絶対に正しい!」である。
だから、幕府(権力者)は「おれを重んじよ」「おれの言うことを聞け」――。
「おれに逆らったら大難が来るから覚えとけ」とまで日蓮は言っているのである。
果たしてこれは素面(しらふ)の人の発言か、それとも泥酔者の暴言か。
日蓮自身は「いま自分はようやく酔いからさめた」と言っているのである。
いままで日蓮のことがどうしても好きになれなかった。
なんなんだ、こいつ、というような意味不明なものへの不快感さえあった。
こうしてブログ記事を書きながらいま気づいたが、日蓮は大酔人なのではないか!
日蓮は大聖人であるが、同時に大酔人(大虎/おおとら/泥酔者)でもあられる。
いやいや、大酔人(大虎)であるからこそ大聖人であられる。
酔っぱらうとみなさん、本音が出るでしょう。
人格円満な平凡な会社員が酒席で叫ぶじゃありませんか。
「おれは間違っていない(=正しい)」
「今度会ったら(その場にはいない)社長をぶん殴ってやる」とかさ。
自分の話をしないといけないなあ。
わたしもさ、素面のときにはかなりさばけた常識人に近づいているわけ。
悪い人はいない。みんなそれぞれの立場というものがある。
人の欠点をどうこういうよりも、自分にも悪質な点が多分にあることを認めよう。
いまでは天敵のシナリオ・センターのほうが善であったと反省しているくらいだ。
でもさ、あはっ、酔っぱらうと話は別よ。「おれは悪くない」モードに入る(笑)。
自分は「正しい」という信念が込みあげてきて、
むかしちょっと意地悪をされたくらいのことを
被害妄想過剰にも針小棒大に拡大化して、この恨みをいつ晴らしてやろうか、
などとウキウキしながら邪(よこしま)で
どこまでも自分勝手な正義心を奮い立たせる(おお、こわっ!)。
いままで日蓮が嫌いだった理由がようやくわかった。
日蓮はまるで自分のようだから自己嫌悪のようにかの大聖人、大酔人を敬遠していた。
わたしはふつうの人よりも日蓮と同質性が高いから同族嫌悪していただけだったのか。

ぶっちゃけ、日蓮のようなハチャメチャをできる人なんていないっしょ?
生まれも大してよくなく、師匠は田舎寺の風見鶏の無能念仏坊主に過ぎなかった。
日蓮なんかどう客観的に見たところで歴史上に名を残すような器ではなかったのである。
いまもむかしも生まれの貴賤がいちばんたいせつというのは変わらない。
みんな本当のことを言わないけれど、
「人生は親で決まる」はかなり真実に近いといってよい。
ところが、日蓮はやらかしたのである。
家柄もよくなく師匠にも恵まれず、
このためまったく世間というものからさらさら評価されていなかった日蓮がなにをしたか。
「自分は絶対に正しい」と主張して既存の権力者を批判しまくったのである。
悪口を言うだけではなく、南無阿弥陀仏の改良版ともいうべき、
いままで世界でだれも口にしたことがない最新の南無妙法蓮華経を声高らかに唱えた。
南無阿弥陀仏は法然が創った言葉ではなくむかしからあった発想である。
いっぽうで南無妙法蓮華経は完全に日蓮が新しく創り価値を与えた言葉である。
それまで世界のどこにもなかった南無妙法蓮華経という言葉(=世界)を日蓮は創った。
新しい言葉ができるごとに新しい世界(体験)は生まれるのである。
底辺坊主に過ぎなかった日蓮が
すべての既存権威を否定して南無妙法蓮華経を創価した。
既存の権威のどれほどが「正しい」というのか?
しょせん「正しい」ことなど客観的な基準はなく、主観オンリーだろう?
主観とは信仰、信念、信心のことである。
あなたが「正しい」と思ったことは絶対に「正しい」。
わたしが「正しい」ことは客観的に評価されるべきことではなく、自分が決めることだ。
自分が「正しい」とゆるぎなく信じているものは、その信心のぶんだけ「正しい」。
日蓮が依拠したのは法華経の正統性(正しさ)である。
世間ではどっちが「正しい」かで裁判沙汰や夫婦喧嘩、対人トラブルが日々起こっている。
しかしと日蓮は言う。本当に絶対的に「正しい」のは法華経である。

(世間でもひとたび人様からご恩を受けたら命がけで返せと言われている。
実際、主君のために命を捨てる人は、少ないようでその実数はかなり多い。
男は生き恥をさらすまいと命を捨て、女は惚れた男のために命を捨てるもの。
人ならぬ畜生はどうかといえば、
魚は命を惜しむがゆえに池の浅さを嘆き、さらには池の底に穴を掘るものもいる。
そうまでしても釣り人の餌(えさ)にばかされて命を失ってしまう。
鳥は木に住んでいる。
木が低いことにおびえて、少しでも木の上に住みかをつくろうとする。
にもかかわらず、人にだまされて網にかかってしまい食われるのが鳥というもの。
人間もまたおなじようなものである。
世間の浅いこと、つまり損得や惚れた腫れた捨てられた程度で命を台なしにするが、
いちばん重要な真実である「正しい」法華経のために命をみずから捨てるものはいない。
このため仏になるものもいないのである)

「世間の法にも重恩(じゅうおん)をば命を捨て報ずるなるべし。
又主君の為に命を捨つる人は、すくなきやうなれども其(そ)の数多し。
男子ははぢ(恥)に命をすて女人は男の為に命をすつ。
魚は命を惜しむ故に、池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。
しかれどもゑ(餌)にばかされて釣(つりばり)をのむ。
鳥は木にすむ。木のひき(低)き事をおじて、木の上枝(ほつえ)にすむ。
しかれどもゑにばかされて網にかかる。
人も又是(か)くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、
大事の仏法なんどには捨つる事難(かた)し。
故に仏になる人もなかるべし」(P9「佐渡御書」)


日蓮が「正しい」理由は法華経が「正しい」からである。
正確には、日蓮が「正しい」のは彼が法華経を絶対的に「正しい」と信じていたから。
どのくらい「正しい」かと信心していたかといえば、
そのために(法華経のため)に命を捨ててもいいと思っていたくらいである。
わが命というのはおそらく人間にとってかなり重要度の高いものだろう。
それを法華経のためにあえて捨てたいと思っていたのが大酔人の日蓮である。
実際、いわゆる「竜の口の法難」で
日蓮は法華経のために死んでもいいと思ったわけでしょ?
むしろ法華経(=真実、正しいこと)のために死ぬことを喜びとさえ感じていた。
自分の命よりも法華経は「正しい」と日蓮は信じていたから法華経は「正しい」。
しかるがゆえに法華経を信仰する日蓮もまた絶対的に「正しい」。
本当に「正しい」ことのためになら命を捨てられる、つまり自殺できるのである。
絶対に「正しい」ことの証明は命を捨てる――
自殺でしかできない面があるのかもしれない。
日蓮が「正しい」のは、
命を捨てられるほど(自殺できるほど)「法華経」を「正しい」と信じていたからだ。
南無妙法蓮華経と言えば死刑、
言わなければ延命という二者択一であえて唱題するのは自殺といっていいと思う。
あえて命を捨ててまでも日蓮は南無妙法蓮華経と言ってやる!
おれが信じたものが「正しい」ならば命を捨てても構わねえ!
ここまで信心が定まったからこそ、日蓮死刑執行直前に奇跡が起こったのだろう。
死刑直前に流星が落ちてきたかというあれである。
わたしはあの奇跡は実際に起こったことだとわが人生経験から信じられる。
あれは「時の一致」の問題で一回しか起きないことだが、一回はかならず起こるのである。
創価学会の宮本輝という骨董品や美食を好む大御所富裕作家が
人は自殺をすると地獄に堕ちると得意げに書いていたが(「錦繍」)、
日蓮大聖人のこの自殺志向には気づかなかったのだろうか?
昭和には親鸞という田舎坊主がインテリには人気があった模様だが、
親鸞なんて「死にたくねえ」とぼやいていた俗物だって弟子にばらされているんだがなあ。
わが身命ほど大事なものはないと90近くまで生きた親鸞なんかクソだろ。
いまこの瞬間に死んでもいいと思っていたのは日蓮と踊り念仏の一遍である。
こういう怖い人が「正しい」ことは対面した瞬間にみんな気づくのである。

日蓮は自分が絶対的に「正しい」と信じていたから「正しい」のであって、
こまごまとしたミスをあげつらっても意味がないとわかっている。
これから書くことは日蓮のチョイミスだが、
そのようなミスをする人は人間味があっていいではないか。
怖いことを書くと、このミスが日蓮の信心の要(かなめ)かもしれないのだが。
もしかしたらこの誤りを指摘したら日蓮は崩れていたかもしれない。
日蓮が「正しい」根拠は法華経が「正しい」ゆえだと書いた。
法華経が「正しい」ゆえんは法華経にそう書いてあるから。
「正しいから正しい」が「正しい」の理由なのだが、
日蓮のみならず現代人でさえ、あることが「正しい」ことの絶対的証明はできない。
ある人が当人が「自分は絶対に正しい」と主張していることが、
彼の「正しい」ことの証明になるというのは、世間常識的にはおかしな論理なわけで。

日蓮の「祈祷抄」に法華経が「正しい」理由は
涅槃経にもそう書いてあるからというくだりがある。
絶対正義を叫ぶひとりの証人を信じていいかの問題に日蓮も行き着いたのだろう。
そこで涅槃経にも法華経こそ最勝と記載されていると主張した。
一般人はここで降参する。なぜなら涅槃経など読んだことがないからである。
書いてあると言われたら、そうなのか、そうかそうかと思うしかない。
大乗仏典の涅槃経はかなり長いお経だから、
かりに既読だとしても一言一句記憶しているものはいないだろう。
日蓮のような自信家から、
涅槃経も法華経最勝を認めていると断言されると、そうかそうかと思ってしまう。
こちらは涅槃経には興味があり読んだけれど抄訳で、
絶対に涅槃経には法華経への言及がないとは言い切れない。
ところが「祈祷抄」には涅槃経のことが二度書かれているが、
弘法大師(空海)批判の箇所で日蓮のミスに気づく。
ねえねえ、みなさん、日蓮が庶民から慕われている弘法大師(空海)を
口汚くののしっていたというのはご存じでしたか?
恥ずかしながら、わたくしめはこの本ではじめて知りました。
日蓮は当時の仏教界の天皇陛下とも池田名誉会長ともおぼしき弘法大師を
めったくそにけちょんけちょんに批判しているんだ。
当時の弘法大師といったら、いまの池田名誉会長以上の権威があったことだろう。
池田先生を批判したら創価学会から仏罰をくだされ、
たとえ自殺に見せかけられて殺されても文句は言えないが(「創価学会ドラキュラ論」)、
当時の空海を批判しようものなら
一族郎党皆殺しにあってもおかしくなかったのではないか?
貴賤問わずみんなが信じて畏敬している対象である弘法大師を
日蓮はやっつけたのである。

貧乏人のせがれに過ぎない低学歴の日蓮が
どのようにして国民的偉人である弘法大師(空海)をやっつけたのか。
こういうことをしたから日蓮は庶民の支持を得たのだと思う。
空海なんて底辺の庶民からしたら恵まれたインテリに過ぎないわけで。
中国語が話せるというだけで、恐れ多いというか、ごめんなさいというか。
しかし、おなじ底辺階層出身を自称する日蓮が空海をやっつけてくれたのである。
こんなに気分のいいことはないではないか!
しかし、その空海批判でミスをしてしまう日蓮の脇の甘さはいったいなにゆえか。
日蓮の空海批判の根拠は、
弘法大師が「1.大日経、2.華厳経、3.法華経」と書いていたことである。
いんや、それは違うだろう、ナンバー1は法華経に決まっておるがや。
なにせ法華経にそう書いてあるし、涅槃経にも法華経は醍醐(だいご)と書いてある。
ここで日蓮のミスに気づいてしまった。
そもそもミスの指摘以前に、そもそもからして子どもっぽい喧嘩でしょう?
法華経よりも華厳経や大日経が勝っているというのは間違えているって、
どんなお子さま? 勝つとか負けるとかお経にも偏差値や年収みたいのがあるんでっか?
まるでさながら巨人ファンと阪神ファンの論争みたいではありませんか?
無関心な人には、
どっちだっていいと言うしかないようなみみっちい正誤を日蓮は問題にした。
で、涅槃経に法華経こそ
醍醐(だいご/究極のヨーグルト、妙味美味)と書いてあると論戦を張った。
ここなら記憶しており、読書感想文も書いている。
この記載は「大般涅槃経」の「聖行品第七、巻十四」のことだ。
要約すると、最高級ヨーグルト(醍醐)は
さかのぼれば牛の乳からつくられるが(釈迦の教え)、いろいろ加工していくことで
味が精練(せいれん)されたものになっていく(初期仏教→大乗仏教)。
このため、もっとも「正しい」のは法華経――
とは日蓮の記憶違いで涅槃経には書いていないのである。
醍醐(だいご/ヨーグルト)の例からわかるように、
もっともおいしくそして「正しい」のはわが涅槃経である、と大般涅槃経に書いてある。
涅槃経は法華経よりもかなり成立したのが遅いとされる後期大乗仏典だ。
ここを日蓮は読み間違えて法華経や自分は絶対に「正しい」と思い込んだのだろう。

とはいえ、こんな記憶ミスを指摘したところで日蓮が「正しい」ことはゆるがない。
その人が「正しい」と信じていることこそ「正しい」ことなのである。
生まれも学歴もさほどではない日蓮は、
にもかかわらずわずかなコネともいうべき師匠を裏切り、
ひとりでオリジナルブランドの南無妙法蓮華経を創価(=価値創造)した。
酔っぱらって「おれは間違っちゃいない」と吠えている人にはだれもかなわないのである。
いいか、「おれは絶対に正しい」――。

(せっかく日本の棟梁(とうりょう/親分)であるわたくし日蓮を信じるようになったものが、
日蓮が国家権力に嫌われ佐渡に流されたからといって、
ほうら現証が出た(仏罰が当たった)とせせら笑い正義の法華経を捨てるのみならず、
それどころかあろうことか生意気千番、
いまの日蓮は負け犬だからなんとでも言えると偉そうに説教してくるバカども、
えせ人生指導者連中はかならず地獄に堕ちるからいまに見ていろ!)

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、
日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず、
かへりて日蓮を教訓して我賢(かしこ)しと思はん僻人(びゃくにん)等が、
念仏者よりも久く阿鼻(あび)地獄にあらん事、
不便とも申す計(ばか)りなし」(P22「佐渡御書」)


おれが間違っている? 悪いのはおまえのほうだ!

(わたくしの言葉はめくらには傲慢な大言壮語に見えるだろうけれど、
これは仏さまの教説にかなっており「本当のこと」を暴露するためなのだからやむをえぬ。
我輩だっていくらでも謙虚ぶることならできるが、
いまの日本で日蓮以外に真実、法華経のために命を捨てられるものがいようか?
おまえが日蓮の悪口を言うってことは、仏さまの顔に泥を塗っているようなもの。
おれを批判するおまえこそ稀代の大悪人でかならず地獄に堕ちるから覚えておけ!)

「我が言(ことば)は大慢(だいまん)に似たれども、
仏記を扶(たす)け如来の実語を顕(あらわ)さんが為なり。
然(しか)りと雖(いえど)も日本国中に日蓮を除いては
誰人を取出(とりいだ)して法華経の行者と為(な)さん。
汝(なんじ)日蓮を謗(そし)らんとして仏記を虚妄(こもう)にす。
豈(あに)大悪人に非(あら)ずや」(P84「顕仏未来記」)


創価学会では教えてくれない日蓮の本当の教えを以下にまとめてみる。
1.自分は絶対に「正しい」。「正しい」から「正しい」。自分を信じよう。
2.既存権力に逆らえ! 師匠への裏切りが新たな第一歩! 「師弟不二」は虚偽。
3.オリジナルブランドを創れ! 新しい価値を創造せよ! ひとりで創価しよう!

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