善意の矛先

まったくの偶然ながらBSのTBSで放送されたドキュメンタリー番組
「リアルマリオ。~空想と現実のあいだ~」を視聴する。
社会ではダメと認定されているアラフォー男性たちが、
マリオの格好をして脚光を浴びる話だ、とも言える。
おなじアラフォーとして人生いろいろなんだなと身につまされる思いで視聴、
テレビ局製作のドキュメンタリーの好む通俗的映像がある。
傷ついたものによる好意(ボランティア)が、
さらなる弱者たち(この番組の場合は孤児院)に大歓迎で迎えられるという、
和気あいあいとしたシーンのことだ。
あるいは孤児院の子どもたちはその日だけ現われて、
(即興的ボランティアをして)いい気分になる善意の人たちに迷惑しているのではないか。
彼らは善意で来ているのだから、感謝するポーズを見せなければならず、それも億劫だ。
「ありがとう」と言われたいダメ中年たちがわざとらしくコスプレして孤児院を訪問して、
「ありがとう」という手紙ををもらい感動するのはどこまでも嘘っぽくないか(しょっぺえよ)。
まあ、世の中はこういうフィクションでまわっているのだが。

孤児院出身の大作家、井上ひさし氏が
自伝小説とも思える「あくる朝の蝉」でこうお書きになっている。
孤児院の夏休みは毎日のように善意のボランティア団体が来るので、
愛想をよくするのにも「ありがとうございます」と子どもっぽく感謝するのにも疲れる。

「なにしろこれらの善意の人たちは自分たちの施す心づくしが
ぼくらをどれだけ喜ばれているかをとても知りたがっていた。
だからぼくらは心づくしへのお返しに必要以上に嬉しがり、
はしゃぎ、甘えて見せなければならなかった。
そうするよりお返しのしようがなかったわけだが、
これはずいぶん芯の疲れることだった」(P97)


やはり孤児はどうしようもなく屈折してしまうのかもしれない。
井上ひさしの場合はそこで見た現実の裏表が後世劇作として花開いたけれど。
幸いにも孤児ではなく両親のいる家庭に生まれたためか、
こちらはそれほどひねくれていない。
友人に電話で話を聞いてもらえたらサンキュウ・ベリマチだし、
以前ご縁のあった派遣会社から高額の短期バイトを紹介していただいたら
フォーエバー・アプリシエイトである(カタカナの意味は自分でもよくわからん)。
だから、善意は人によりけりなのだろう。
万人に感謝されるような善行はありえない。
そもそも「他人のため」に「いいこと」をすることで、
落ちぶれた「自分のため」のなにものかにしようという打算的根性が嫌いだ。
「他人のため」もいいが、どうしてみんなもっと「自分のため」を重視しないのか。
「自分のため」と完全に割り切って「他人のため」になにかをするならいい
しかし、感謝されたいから、自分の存在意義を確かめたいからという理由で
「他人のために」なにかをする人たちはどこかいやしいような気がしてならない。
恩返しを求めないで「自分のため」に「他人のため」になにかできたら――。
それはなかなかむずかしく、せいぜい微笑くらいかもしれない。
お金をこっそり渡すのもそのたぐいの善行だが、
相手の負担とならないように経済的援助をするのは、
世間をよく知る達人でもときに失敗するほどの難業だと思う。

善人が悪事をするのはむずかしいが、
悪人が善事をするよりも(こちらはその場だけできれいさっぱりしているのでは?)
自称善人が善事をほうぼうに迷惑かけずにするのはけっこうな気苦労かもしれない。
「ありがとう」と言われたがるボランティアはどうだか。
「ありがとう」なんか言わせてたまるかというボランティアがいたら、それは本物だ。
「他人のため」ではなく「自分のため」にしているので、
感謝の言葉も手紙も必要ない。むしろ、あなたたちの存在にこちらが感謝したい。
他人様から「ありがとう」なんて言われると、
恥ずかしくて鳥肌が立ってしまう変な人も世の中にはいるという話でした。
わたしはボランティアをできないようなところがある。
はた迷惑なボランティア行為をされても笑顔で感謝できる大人になりたい。
まったく成熟とは縁がない自分にはいやになる。
しっかし、孤児院にこれ見よがしにその日だけのボランティアに行くのは「善意の暴力」。
その時間分アルバイトでもしたお金をこっそり渡すほうがよほどいい。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4374-76235081